嫌なことは重なるもの(1)
人間、生きていれば現実逃避したくなる瞬間は一度くらいあるだろう。考えることを放棄して、どこか知らない遠くへ行って…。でも自分にはそんな大胆な行動はできなくて、文字通り瞬間で現実に戻ってくる。そしてまた小さな悩みを鬱々と考えてはその日その日をやり過ごす。
他人様に迷惑をかけることなく真面目にコツコツ生きていても、三十路が間近に迫る歳になれば小さな悩みが積もり溜まっていき、気分転換にと大型有名テーマパークに行ったところで時々現実がちらついてトリップしきれない。
幼い頃はどっぷりトリップできていたと思う。それがいつしか考えても頑張っても、自分ではどうにもならないことが世の中にはあると気づいた時、人気キャラクターがチープなモンスターに、パレードのイルミネーションがただの電球の塊に感じられるようになったのだから、今の私は相当擦れてしまったのだろう。
私は現実逃避したいと思っていた。
確かに思っていた。
テーマパークでトリップしきれない自分を悲しく感じてはいた。
でもどっぷり浸かるどころか、溺れて抜け出せなくなるほどトリップすることはないじゃない?
目が開かない。
春の歓送迎会でついつい飲みすぎた翌日の朝みたいに瞼が重い。それもそうだ。昨日仕事が上手くいかなくて落ち込んでる時に、自然消滅しかかってた彼氏から念押しの別れメールが届いたんだっけ。で、こんなタイミングに言うことないじゃないと愚痴りながら家で自棄酒飲んだんだった。瞼も重いはずだ。
それにしても背中が寒いし痛い。
無駄に強い肝臓のおかげで、かわいくないことに私は飲んでも記憶はハッキリしてるし、寝込むこともない。ただ朝起きるときがだるいだけだ。
昨日、というか明け方前にはちゃんとベッドに入ったはず。それなのに何故床の上に寝転がってるような感覚がするのだろう。
頭の中で色々考えている内に、複数の声が聞こえだした。何を言っているのかはわからない。どうやら外国の言葉のようだ。仕事も生活上も外国とは無縁だったものだから、学生時代に見に付けたヒヤリングスキルなんてかけらも残っていない。だから英語じゃないような気がする、といった感じにしかわからない。でもここは私の家の中のはず。ということはもしかして、家に外国人の強盗が入ってきて、金目の物がろくにないからって腹いせに私をベッドから蹴り落とした挙句、臓器でも売っ払う相談でもしているのか。
多少歳食ってるとはいえ、全く女扱いされていない想像しかできないことに少し悲しくなりながらも、とりあえず目を開けて状況を確認しないといけない。私は思い切って瞼を持ち上げた。
「******!」
ぼやけた視界に目を凝らしていると、強盗らしき外国人の一人が何か叫んだ。
「***?」
「****!**?」
一人が叫んだのを皮切りに、他も一斉に何か言い始めた。
焦点が合ってきて最初に目に入ったのは石の天井だった。そして寝転んだまま周りを見ると、やっぱり外国人が5、6人ほどいて、しきりにこちらへ話しかけている。今私の寝ている場所は、慣れ親しんだ家ではないことはわかった。
強盗団のアジトへ連れ去られたのかと一瞬思ったが、彼らの表情は「さあ金を出せ!」「金がないなら殺して臓器を…」と言っているような感じではない。どちらかというと、「大丈夫か?」とか「目が覚めて良かった」と心配しているようにも安堵しているようにも見える。
何が何だかわからなくて、一気に身体を起こした。すると更に彼らは騒ぎ出し、私の方へ寄ってきた。知らない言葉でいっぺんに喋りかけられても困るし、寄ってこられたら警戒してしまう。自分の置かれた状況に苛付いて、私は思わず怒鳴ってしまった。
「一度に喋られてもわからない!その前にあんた達の言葉がわかんない!ついでにここはどこ?!」
周りが一斉に静まり返る。
怒鳴った後で少し後悔した。まだこの人たちが強盗犯とか臓器売買の犯罪組織なのかわからないのに、つい感情的になってしまった。犯罪者なら下手に刺激すべきじゃないし、善良な一般市民なら何か事件に巻き込まれたところを偶然助けてくれたのかもしれないから失礼になってしまう。
「あの…」
冷静に状況を聞こうともう一度口を開くと、一人が私の目の前に手のひらを突き出し、少し待てというようなジェスチャーをした。そしてどこからか小さな赤い石の付いたものを取り出すと、私の耳たぶにいきなり刺した。
「いっっ……たぁ!!」
どうやらそれはピアスだったようだが、私は穴を開けたことがなかったから、そのままピアスの針で刺し通されたらしい。小さいものだから血がダラダラ流れるようなことはなかったが、ジンジンと初めて感じる種類の痛みといきなり刺された驚きで、目の前の暴挙に出た人物に対して怒ることを忘れた。
「これで言葉がわかるか?」
更に驚いた。ピアスを刺した外国人の言葉がわかる。
「………わ…かる…」
どうにかそれだけの言葉を搾り出すことに成功したが、頭はちっとも追いつかない。いったいどういう仕組みで言葉が通じるようになったのか。ピアスのせいなのか。
「わかるなら良かった。痛かっただろう、すまない」
相手は申し訳なさそうな顔でそう言った。
とりあえず、雰囲気からして臓器は売られない?根拠もなくそう思った。