第5話 経済のジレンマと聖女の誤解
新宿御苑ダンジョン、地下20階層。かつて死と絶望が支配していたボス部屋は、今や極上のリラクゼーション空間「ダンジョン・スパ・リゾート」へと変貌を遂げていた。
乳白色の湯気が立ち込める大浴場。BGMは、鍾乳洞の水滴が奏でるヒーリング・ミュージック。従業員たちは、甲斐甲斐しくタオルを運び、客(主に政府高官や富裕層の探索者)をもてなしている。
「……最高だ」
蓬カナタは、源泉かけ流しの岩風呂に首まで浸かり、うわ言のように呟いた。ここには、彼を煩わせるものは何もない。世間の喧騒も、ネットの炎上も、携帯の通知音も(ナビがブロックしている)、ここまでは届かない。
温かいお湯が、常に張り詰めている精神の緊張(魔力制御)を優しく解きほぐしてくれる。このまま溶けてしまいたい。いっそスライムになりたい。
「カナタ殿、背中はよろしいでごわすか?」
隣では、岩鉄ゲンゾウが巨大なブラシを手にニコニコしている。彼はすっかりこのスパの番頭気取りだった。強面のマッチョが腰に手ぬぐいを下げ、風呂桶を抱えている姿はシュールだが、本人にとっては天職らしい。
「いや、大丈夫です。……それより、なんだか騒がしくないですか?」
カナタが重い瞼を少しだけ開ける。脱衣所の方が騒がしい。怒声と、何かを制止するような声が響いている。
「また毒島か……?」
カナタの予感は的中した。更衣室ののれんを乱暴にかき分け、スーツ姿の男たちが雪崩れ込んできたのだ。先頭に立つのは、資源管理局局長、毒島。
彼は湯気で眼鏡を曇らせながら、手に持ったタブレットをカナタたちの目の前に突きつけた。
「いいご身分だな、英雄気取りの諸君! 君たちが呑気に湯に浸かっている間に、地上の経済がどうなっているか知っているのか!」
毒島は唾を飛ばしながら喚いた。
「見ろ、このグラフを! 魔石の供給量が先週比で40%ダウンだ! 東京の工場地帯では、すでに稼働停止が出始めている!」
「……だから、魔力パウダーを提供してるじゃないですか」
カナタは面倒くさそうに答えた。モンスターをブラッシングして採れる粉末。あれは高純度のエネルギー源として機能するはずだ。
「あれではダメなんだ! 既存の炉は固形燃料(魔石)に合わせて設計されている! パウダーに対応するには設備の改修に数年はかかる! 今すぐ必要なのは、従来の魔石なのだよ!」
毒島は正論を振りかざした。確かに、エネルギー革命は一朝一夕にはいかない。平和的な新エネルギーが見つかったとしても、社会インフラがそれに追いつくまでの過渡期には、どうしても旧来の資源が必要になる。これが経済のジレンマだ。
「即刻、このふざけたスパを閉鎖し、モンスターを処分しろ! 国家の血流を止める気か!」
「そ、そんな殺生な……!」
ゲンゾウが悲痛な声を上げる。彼は背後に隠れていた小柄なゴブリン従業員を庇うように立ち上がった。
「彼らはもう、わしらの仲間でごわす! 殺すことなどできぬ!」
「黙れ、デクの坊! 感情論で国家が回るか!」
毒島が合図を送ると、武装した護衛たちが銃口を向けた。一触即発の空気。湯けむりが殺気に変わろうとした、その時だった。
「――控えなさい。神聖な場所で、何という無粋な真似を」
凛とした、鈴を転がすような声が響き渡った。その場の空気が一瞬で浄化されるような、透明感のある声。入り口に立っていたのは、純白の法衣に身を包んだ少女だった。
透き通るような金髪に、宝石のような青い瞳。背後には、教会騎士団と思われる武装集団を従えている。彼女の名はアリス。西方聖教会から派遣された聖女であり、世界中のダンジョンを巡礼する観測者だ。
「せ、聖女様!? なぜこのような辺境の支部に……」
毒島が狼狽える。聖教会は、国家権力すら及ばぬ超法規的組織だ。その象徴である聖女の登場は、完全に想定外だった。
「このダンジョンから奇跡の波動が観測されたと聞き、急遽参じました。……ああ、なんと素晴らしい」
アリスは毒島たちを無視し、大浴場の中へと進み出た。彼女は恍惚とした表情で、湯船の中央を見つめている。正確には、湯に浸かって死んだように動かない、蓬カナタを。
「見つけました……。東方の地に降り立った、生ける御使い様……」
「……は?」
カナタは呆然とした。アリスは濡れるのも構わず、法衣のままお湯の中に入ってくる。そして、カナタの目の前で膝をつき、祈るように手を組んだ。
「そのお姿……。世界の理から外れた、圧倒的な質量。そして、それを内側に留めるための、崇高なる忍耐……!」
アリスには視えていた。カナタの体から噴き出す、測定限界を突破した魔力の奔流が。そして、それを脳の9割を使って必死に押し留めている、カナタの苦悶(ただの寝不足)が。
彼女の聖なる瞳には、その姿がこう映っていたのだ。「世界を滅ぼしかねない強大なエネルギーを、己が身一つに封じ込め、その苦しみに耐え忍びながら瞑想する聖人」であると。
「……あー、いや、俺はただ……」
カナタが否定しようと口を開く。
「喋らないでください! その一言を発するだけでも、貴方様は魂を削っておられるのでしょう!?」
アリスは勝手に感動し、涙を流し始めた。
「わかります。その気だるげな表情……それは高次元の瞑想に入っておられる証。凡人には理解できぬ重圧と戦っておられるのですね!」
(ただ眠いだけなんだけど……)
「おぉ……なんと尊い……! 私には見えます、貴方様の背後に後光が!」
(それはナビがライトアップしてるだけだろ)
カナタのポケットの中で、スマホがチカチカと点滅している。ナビが面白がって、演出用の照明効果を強めているのだ。
「待ってください、聖女様!」
毒島がたまらず割って入った。
「騙されてはいけません! こいつはただのFランク探索者、蓬カナタです! サボり癖のある、社会の底辺ですぞ!」
「お黙りなさい、俗物」
アリスが冷徹な視線を毒島に向けた。先ほどまでの陶酔した表情とは別人のような、絶対零度の眼差しだ。
「貴方には、この方の魔力値2という数字の真実が見えないのですか? あれは少なすぎるのではありません。多すぎて、測定器が0に戻るのを繰り返しているだけ。……無限の循環。まさに神の領域です」
「なっ、馬鹿な……!?」
毒島は絶句した。確かに、魔力測定のオーバーフロー説は一部の学者の間で囁かれていたが、それを公式に認めるわけにはいかない。
「この場所は、聖域と認定します」
アリスが高らかに宣言した。
「このダンジョン・スパは、御使い様が、その荒ぶる力を鎮め、世界を崩壊から守るために必要な儀式の場です。ここを破壊し、御使い様の瞑想(二度寝)を妨げる者は、この聖女アリスが許しません!」
ジャキッ! 聖女の言葉に呼応して、教会騎士団が一斉に剣を抜いた。毒島の私兵たちと、教会騎士団が睨み合う。状況はカオスを極めていた。
湯船の中央で呆然とするカナタ。感動して「ありがたや……」と拝み始めるゲンゾウ(彼は雰囲気に流されやすい)。そして、青ざめる毒島。
「くっ……! 聖教会を敵に回しては、予算委員会が持たん……!」
毒島は唇を噛み締めた。経済的合理性を盾に攻め込んできたが、宗教的権威という最強のジョーカーを切られては撤退せざるを得ない。
「……よかろう。今日は引き上げる」
毒島は憎々しげにカナタを睨みつけた。
「だが、忘れるな。現実は数字で動いている。魔石が不足し、市民生活に影響が出れば、世論は必ず私を支持する。聖女の威光など、停電した東京の前では無力だということを思い知らせてやる……!」
毒島は部下を引き連れ、足音荒く去っていった。嵐が去り、再び静寂が戻る。
「……ふぅ。助かったのか?」
カナタがため息をつくと、アリスが顔を輝かせて迫ってきた。
「もちろんです、御使い様! さあ、私にもその儀式をご教授ください! まずは背中をお流しすればよろしいですか!? それとも、共に混浴を!?」
「いや、近い。近いから」
アリスの目は完全にいっていた。狂信者の目だ。ゲンゾウがオロオロしながら割って入る。
「あ、あの、聖女様? 混浴は風紀上よろしくないかと……」
「黙りなさい、筋肉。貴方は御使い様の依代ですね? 貴方のその頑丈な肉体もまた、御使い様の威光を受け止めるための聖なる器……。ええ、素晴らしいです!」
「ほ、褒められたでごわす……?」
ゲンゾウはまんざらでもない顔をしている。チョロい。このチームは男たちがチョロすぎる。
「やれやれ。厄介なのが増えたわね」
ナビがカナタの脳内に直接通信してくる。
「でも、利用価値はあるわ。彼女がいる限り、管理局もうかつには手を出せない。……ただし」
ナビの声が少しだけ真剣味を帯びる。
「毒島の捨て台詞、気にかかるわね。奴は世論と言った。……物理攻撃がダメなら、次は社会的な攻撃を仕掛けてくるはずよ」
カナタは遠い目をした。安眠への道は、なぜこうも遠いのか。目の前では聖女が「このお湯を持ち帰って聖水として販売しましょう!」とはしゃぎ、ゲンゾウが「それはいいアイデアでごわす!」と乗っかっている。
「……もう、寝ていいかな」
カナタは深くお湯に潜り、ブクブクと泡を吐いた。これが現実逃避という名の、彼なりの瞑想だった。
一方、地上に戻った毒島は、暗い執務室で電話をかけていた。相手は、裏社会に通じるハッカー集団のリーダーだ。
「……ああ、私だ。プランBを実行する。……そうだ。ダンジョンの制御システムを外部から焼き切る。……事故に見せかけてな。市民をパニックに陥れれば、聖女もリゾートも吹き飛ぶ」
毒島の顔に、昏い笑みが張り付いていた。
「24時間後だ。東京中の機能を麻痺させ、彼らを戦犯に仕立て上げる。……楽しみにしていろよ、Fランク」
リゾート化による平和な時間の裏で、最悪のカウントダウンが始まろうとしていた。
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