第1話 そのあくびは致死量
重い。とにかく体が重い。まるで鉛の塊を全身に巻きつけて深海を歩いているような感覚だ。蓬カナタにとって、朝起きてから夜眠るまでのすべての時間は、ただひたすらに「耐える」ための苦行でしかなかった。
視界がわずかに霞む。脳の奥芯が熱を持ち、思考が油の切れた歯車のように軋む音が聞こえる気がした。
「……あー、ねむ」
口から漏れたのは、緊張感のかけらもない独り言だ。カナタは大きくあくびを噛み殺しながら、薄暗い洞窟の壁に背中を預けた。ひんやりとした岩肌の感触だけが、かろうじて意識を現実に繋ぎ止めてくれる。
ここは東京都心に発生した「新宿御苑ダンジョン」。その浅層エリアだ。本来なら、週末のハイキング気分で訪れる初心者探索者や、小遣い稼ぎの学生たちで賑わっているはずの場所だった。
だが、今のカナタの周囲には誰一人としていない。静寂だけが支配するこの空間は、彼にとって唯一の安息の地と言えた。なぜなら、ここには「人間」がいないからだ。人間がいなければ、気を使う必要もない。気を使わなければ、脳のリソースを少しだけ節約できる。
そのわずかな節約が、カナタにとっては至福の睡眠時間への切符となるのだ。
「サボりじゃ、ないんだけどな……」
誰に言い訳するでもなく、カナタは呟いた。彼の手には、安っぽい樹脂製の杖が握られている。ホームセンターで千円程度で売られている、護身用のおもちゃみたいな代物だ。
腰には擦り切れたポーチ。中に入っているのは、特売のカップラーメンと水筒だけ。装備だけを見れば、彼はどこからどう見ても「Fランク探索者」そのものだった。
Fランク。それは、探索者協会が定めた最低の等級である。魔力値、身体能力、実戦経験。すべてにおいて基準値を下回る「一般人以下の落伍者」。それが世間のFランクに対する認識だった。
そして、カナタの探索者ライセンスに記載された魔力値は、驚くべきことに「2」である。一般成人男性の平均魔力値がおよそ50前後。魔法を扱える探索者の最低ラインが100。プロとして活躍するCランク以上になれば、500から1000の値が当たり前とされる世界だ。
そんな中で「2」という数値は、もはや誤差レベルですらない。幼児よりも低い。植物や昆虫の方がまだマシな魔力反応を示すかもしれない。当然、どのパーティにも入れてもらえず、ソロで活動するしかない。
仕事といえば、ダンジョンの浅層で薬草を摘んだり、ゴミ拾いをしたりする程度の雑用ばかり。今日もカナタは、ギルドから押し付けられた「浅層エリアの環境調査(という名のゴミ拾い)」のために、こうしてダンジョンに潜っていた。
「……帰りたい」
本音が漏れる。だが、帰って狭いアパートの布団に潜り込むには、まだ日が高すぎる。それに、今日は少しだけ事情が違った。どういうわけか、浅層エリアにモンスターの気配がまったくないのだ。
いつもならスライムやゴブリンといった雑魚モンスターがうろついているはずの通路が、不気味なほどに静まり返っている。そのおかげで、カナタは誰にも邪魔されずに、こうして壁にもたれて休憩することができていた。
瞼が重い。意識が泥の中に沈んでいくようだ。カナタの体内で、異常な事態が起きていることを知る者はいない。彼の魔力回路は、生まれつき壊れていた。「欠損」という生易しい言葉では表現できない。それは、底の抜けたバケツであり、蛇口の壊れたダムだった。
カナタの身体は、呼吸をするだけで膨大な魔力を生成し続けている。その出力は、現代科学の粋を集めた核融合炉に匹敵するエネルギー量だ。だが、彼にはその魔力を制御するための「蓋」がなかった。
生成された魔力は、体内に留まることなく、常に外部へと垂れ流しになる。もしそのまま放置すれば、カナタの周囲半径数キロメートルは、高濃度の魔力汚染によって更地と化すだろう。
だからカナタは、無意識のうちに脳の機能の90パーセント以上を「魔力を無理やり体内に留めること」に費やしていた。
全身の毛穴という毛穴を締め上げ、精神の壁を何重にも張り巡らせ、荒れ狂うエネルギーの奔流を肉体の内側に押し込める。それは、決壊寸前のダムの壁を、素手で押さえ続けているようなものだ。24時間365日、一瞬の休みもなく続くその作業は、カナタから全ての活力を奪い去っていた。
常に極度の寝不足。慢性的な倦怠感。思考は鈍り、動作は緩慢になり、表情からは生気が失われる。測定器が弾き出す「2」という数値は、決して彼が微弱な魔力しか持っていないことを意味するものではない。
測定限界である「9999」という数値を、カナタの魔力は一瞬で振り切ってしまうのだ。あまりにも高速でカウンターが周回し続けているために、機械が処理落ちを起こし、たまたま止まった瞬間の数字が「2」と表示されているに過ぎない。いわゆる「オーバーフロー(桁あふれ)」のエラー表示。それが、Fランク探索者・蓬カナタの正体だった。
「……ん?」
微睡みかけていたカナタの耳に、重苦しい足音が響いた。ズシン、ズシン、と地面が揺れる。心臓の鼓動と共鳴するような、低く、腹に響く振動。
カナタは重い瞼をこじ開け、通路の奥へと視線を向けた。暗闇の中から、二つの赤い光が浮かび上がる。鼻をつく獣臭。現れたのは、身の丈3メートルを超える巨躯だった。
隆起した筋肉の鎧。牛の頭部に、巨大な戦斧を携えた人型の怪物。ミノタウロス。本来ならば、この新宿御苑ダンジョンの最下層、あるいは中層のボス部屋に鎮座しているはずの強力なモンスターだ。
Bランク相当の指定災害生物。熟練の探索者パーティが、綿密な作戦を立ててようやく討伐できるかどうかの強敵である。それがなぜ、こんな浅層エリアをうろついているのか。
理由は単純だった。「スタンピード(魔物暴走)」の前兆だ。ダンジョン深部の魔力濃度が高まりすぎると、あふれ出したモンスターたちが浅層へと押し出されてくることがある。
先ほどまで雑魚モンスターの姿が見えなかったのは、このミノタウロスの強烈な威圧感に怯えて逃げ出したからだろう。Fランクのカナタが遭遇していい相手ではない。
常識的に考えれば、即座に逃走を選択すべき場面だ。いや、逃走すら間に合わずにミンチにされるのがオチだろう。
「……あー」
しかし、カナタの反応は鈍かった。恐怖がないわけではない。ただ、それ以上に「眠い」のだ。脳のリソースが枯渇している彼にとって、目の前の危機を認識し、恐怖という感情を生成し、回避行動という命令を運動神経に伝達するまでのプロセスは、あまりにも遠くて面倒な作業だった。
(でかいな……牛か……)
ぼんやりとした思考で、カナタは牛頭の巨人を観察した。
ミノタウロスが鼻息を荒く吹き出す。獲物を見つけた喜悦に、その醜悪な顔が歪んだ。圧倒的な捕食者としての余裕。目の前のひ弱な人間など、指先一つでひねり潰せると確信している動きだ。
ミノタウロスが巨大な戦斧を振り上げた。空気が爆ぜるような音がする。あの一撃を受ければ、カナタの身体などトマトのように弾け飛ぶだろう。だが、カナタは動かなかった。
動けなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。極限の眠気が、彼の思考を泥沼に引きずり込んでいた。
(あ、だめだ。これ、寝るわ)
限界だった。カナタの生存本能は、敵の攻撃を避けることよりも、脳の休息を優先させてしまった。
視界が暗転しかける。その瞬間、生理現象がカナタを襲った。
「ふあぁぁ……」
あくびだ。それも、顎が外れそうなほど大きな、心の底からのあくび。緊張感のかけらもない、無防備極まりないその行為。だが、その瞬間。
カナタの集中力が途切れた。脳の90パーセントを使って維持していた「蓋」が、あくびによって一瞬だけ緩んだのだ。
圧縮され、極限まで高められていた魔力の奔流が、行き場を求めて逆流する。出口は、無防備に開けられた口腔。
「……っ!」
音はなかった。あるいは、あまりの衝撃に、音が置き去りにされたのかもしれない。カナタの口から放たれたのは、可視化すらできないほどの純粋な魔力の塊だった。それは熱線でもなければ、衝撃波でもない。
ただひたすらに重く、濃密な「エネルギーの暴力」。空間そのものが歪み、大気が悲鳴を上げる。振り下ろされようとしていた戦斧が、飴細工のように捻じ曲がった。続いて、ミノタウロスの鋼鉄のような筋肉が、瞬時に蒸発する。
抵抗など無意味だった。細胞の一つ一つが、魔力の奔流に飲み込まれ、素粒子レベルまで分解されていく。断末魔の叫びを上げる暇すらなかった。光が収束したとき、そこには何も残っていなかった。
ミノタウロスが立っていた場所には、直径数メートルに及ぶ半円形のクレーターが穿たれ、ダンジョンの壁ごと空間が抉り取られている。天井まで続く巨大な空洞からは、さらさらと砂になった岩盤が崩れ落ちていた。
「……うっぷ」
カナタは涙目で口を閉じた。あくびの最後で少しむせたような、間の抜けた音が響く。少しスッキリした。体内に溜まっていた澱のようなものが吐き出され、頭が少しだけ軽くなった気がする。
(あれ? 牛は?)
目をこする。さっきまで目の前にいたはずの巨大な怪物の姿がない。逃げたのだろうか。それとも、夢でも見ていたのだろうか。
「ま、いっか……」
深く考えるのはやめた。どうせろくなことにはならない。カナタはよろよろと立ち上がると、埃を払った。早く帰ろう。帰って、あのお気に入りの海鮮味のカップラーメンを食べて、泥のように眠るのだ。
その一心だけで、カナタは出口へと向かって歩き出した。背後のクレーターから立ち上る硝煙と、空間断裂の余波が放つ不気味な火花には気づかないまま。
だが、カナタは知らなかった。この一連の出来事が、世界中にリアルタイムで配信されていたことを。クレーターの瓦礫の陰。そこに、一台の小型ドローンが転がっていた。
掌サイズの球体型ドローン。それは、人気配信者グループが先日このエリアで紛失し、そのまま放置されていた高性能カメラだった。衝撃で作動したのか、あるいは最初から動いていたのか。
そのカメラレンズは、しっかりと捉えていたのだ。あくび一つでBランクモンスターを消滅させた、Fランク探索者の姿を。そして、その映像は今この瞬間も、大手動画配信サイトの「ダンジョン探索チャンネル」のトップページで、緊急速報として拡散され続けていた。
『【悲報】迷子の配信ドローン、とんでもないものを映してしまう』
『Fランク詐欺乙』
『今の何? 特撮?』
『あくびでミノタウロス溶けたwwwww』
『俺の知ってるあくびと違う』
『衝撃波のエフェクトやばすぎ』
『これCGだろ? さすがにネタだと言ってくれ』
『座標特定した。新宿御苑エリア3。誰か確認してこい』
『この顔、万年寝不足の蓬カナタじゃね? 有名なFランクの』
『魔力値2って嘘だろwww測定器壊れてんぞ』
コメント欄は滝のように流れ、視聴者数は秒単位で数万ずつ跳ね上がっていく。「あくびの悪魔」「眠れる破壊神」「Fランクの皮を被った魔王」そんな物騒な二つ名が、ネットの海で爆発的に広まりつつあることなど、当の本人は知る由もない。カナタはただ、重い足を引きずりながら、改札口へと向かって歩きていた。
駅前のコンビニで新作のスイーツを買うかどうか、という極めて平和な悩みを抱えながら。世界が彼を放っておかなくなるまで、あと数時間。カナタの平穏な、そして退屈な「Fランク生活」は、このあくび一つで終わりを告げようとしていた。
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