第三話 聖堂騎士
あれからアドス邸で数日ほど経ったが、特に変わったところはなかった。夜伽に呼ばれることはなく、夜這いをかけられることもない。他のメイドもそのようなことが行われている様子はない。
案外紳士的なのかと考えたが、奴隷を乗り物のように扱っている人間がそんなわけがない。
今日、リィーンが目を覚ましたとき、何やら騒々しかった。廊下のほうが騒がしいので顔を出すと、朝支度を終えたメイドたちが早足でどこかに向かっている。
「あー、よかった。起きたのね」
少し嗄れた声。抑揚のないしゃべり方はメイド長のものだ。
「騎士様が訪問するから、朝支度を早めに終わらせなさい」
「急ですね」
「さっき決まったのよ。同室の狐にも伝えておいて」
それだけ言うと、彼女は足早に別の部屋へ向かった。
騎士とは簡単に説明すると、エリートの兵士たちだ。王国に仕える王国騎士と教会に仕える聖堂騎士に分かれている。
王国騎士は主に貴族や騎士学校の卒業生で構成されており、兵士や冒険者だけでは対処できなくなった王国の危機を扱っている。常日頃から訓練をしており、技の研鑽には余念がない。
聖堂騎士は教会に長く従事したものや第二の女神レヴィに身も心も捧げたものなどが多く所属している。活躍の場はほぼ同じなのだが、二つの組織はあまり仲がいいとは言えない。
一般人からすればどちらとも関わりたくないが、後者のほうがより関わりになりたくないだろう。
さて、問題になってくるのは、どちらにせよ騎士が関わる重要なことが起こっているということだ。まかり間違っても、アドスが騎士団に入団するといったことではないだろう。
良い予感など一ミリたりともしない。
「ハナビ、起きて」
声を掛けると、ハナビがモゾモゾと動く。掛かっている毛布の隙間から尻尾が飛び出してからへなりと倒れる。しばらくモゾモゾしていたと思えば、ゆっくりと体を起こした。耳が垂れて大きなあくびをする様は、いまだに眠そうである。
「ん……まだ始業の時間には早いのです」
「騎士が訪ねてくるから、早めに用意してだって」
「騎士様が〜? ……なにゆえ〜?」
「知らない」
まだしばらくモゾモゾしているハナビを尻目に、メイド服に着替える。部屋の鏡の前で服の乱れを整えた。
最初は自身のメイド服姿に見慣れなかったが、数日経てば似合っていると錯覚するようになるから不思議だ。金色のボブカットの髪を整えて、緩いウェーブを維持する。
貴族時代はコルセットだの化粧だの髪の手入れだので用意が数時間かかっていた。しかし今やその時間は大分短縮された。
ハナビのほうを見ると、のそりのそりと着替えていた。いまだに頭が起きていないのか、体が揺れている。
そんな彼女が準備を終えるまで、適当に待つことにした。
ここ数日の豚貴族の特徴として、機嫌の良い時と悪い時の差異がはっきりしていることが分かった。
機嫌が良いときは、彼自ら客人の出迎えなどしている。初日に使用人を一人雇うのに彼が顔を出したのは、あの日は機嫌がとても良かったからだと言えるだろう。悪いときは部屋から出てくること自体少なく、大声も飛び交う。
さて、今日の機嫌はどうだろうかと、玄関前で使用人たちと並びながら考えていた。
どちらの騎士が来るにしても、一大事に違いない。ちょっとしたことで大騒動になりかねない。そんな日に機嫌が悪ければどうなるかは目に見えている。
使用人たちが並ぶ中、一歩前に出たマーモンは静かに佇んでいた。“左手を前に右手を後ろ腰に”添えている姿は、相変わらず執事としての貫禄が出ている。
しばらくすると、馬に乗った騎士が一人遠くから向かってくる。後方には馬車が一乗ついてきていた。
輝く鎧は青色を基調として作られている。肩に描かれた逆さ十字の前に剣と盾が描かれた紋章は、聖堂騎士のものであった。
金色の短髪は太陽光が反射して輝いている。切れ長の目の奥には青い瞳があり、並ぶ使用人たちを見下ろしていた。第一印象は顔は整っている。第二の印象は、いけ好かない。そんな騎士だった。
彼は目の前まで来て馬を止める。騎士が止まったのを合図に、後ろの馬車も止まった。馬車を操っているのは見る限り普通の御者のようだ。
「お集まりで何よりさ」
馬から降りた騎士が、仰々しい仕草とわざとらしい声色で話す。
「これはセドリック様、わざわざお越しいただきありがとうございます」
応えたのは執事長のマーモンだ。深々と頭を下げ、敬意を表する。だが、顔を上げたときに見えた瞳は、どこか怪訝そうな色が見えた。
「しかしながら、急な訪問は出来れば控えていただきたく。こちらもおもてなしのご用意があります故」
「悪いね。僕たちのほうでも急な出来事だったもんでね。ところで、アドスは元気かな? ここには見えないけど」
「ご主人様は手が離せません。ご要件は私めが承ります」
「ほう? わざわざ聖堂騎士が足を運んできたというのに、挨拶の一つもないとは偉くなったものだね」
「勘違いしているところ申し訳ないのですが、ご主人様が支持しているのは王国であって教会ではありません」
「今の言葉、教会に喧嘩を売ったと捉えても良いかい?」
「そのような戯言を申されるのでしたらお引き取り願います。こちらも暇ではありませんので」
「良いだろう。こんなチンケな家なんて僕の一言で──」
「やめろセドリック」
二人の口論を止めたのは、馬車の中から聞こえてきた女性の声だった。少し低音の凛とした声は、周囲を張りつめさせるのに充分である。
「イローネさん。しかし、礼儀がなってないものを叱るのも聖堂騎士の役目じゃないですか」
慌てて馬車のほうを振り返るセドリック。その動きに合わせて、ドアが開いた。
現れたのは、騎士の鎧を身に着けた背の高い女性であった。黒色の長い髪は艶があり、風に靡いている。鼻筋の通った顔に少しきつめな目。翠色の瞳は吸い込まれそうなほど不思議な輝きを放っている。
凛とした立ち居振る舞いは、周りの目を嫌でも引きつけてしまうだろう。
「礼儀がなってないのはお前だ。口実があるとは言え、急な頼みごとをするのはこっちだと忘れるな」
イローネの気迫に押され、セドリックは押し黙った。不服そうな顔のまま、馬に跨り直す。
「部下が失礼した」
「いえ、こちらもつい熱くなりすぎました。それでは客間にご案内いたしましょう」
「いや、すぐに済むからここで良い」
そう言うとイローネはハナビの前まで歩み寄った。
「この娘を貸していただきたい」
唐突に言われたハナビは目をパチクリさせ、マーモンのほうへと顔を向ける。
「貸してと言われましても、ハナビはうちの大事な使用人。そう易々と貸せるものではありません。それなりの事情を説明して頂けなければ、こちらとしても困ります」
「どうしても狐の獣人が必要でな。できれば、健康なものが。分かるだろう?」
その言葉の意味は理解できる。狐の獣人は個体数が少ない上に忌むべき対象である。行き場のなくなった多くのものは迫害を受け、または慰めの奴隷として生きているのもやっとの生活を送っている。
この大きな街であっても、ハナビほどのものを見つけるのは容易くない。
「しかし、それでも」
渋るマーモンに、イローネは詰め寄った。
「街中でポーションの流通を滞らせていることを、詰問してもいいが?」
「…………分かりました。ただし、ハナビに何かあれば」
「善処する。それでは借り受けるぞ」
当事者の了承を得ることもないまま話は進んでいく。何か言いたげな彼女だが、圧に負けて押し黙ってしまう。
もしここで小説の主人公なら、自分も行くと立候補していたところだろう。しかし、リィーン自身はそんな気は毛頭ない。眼前で気に入らないことがあれば介入するが、できれば自身の手間をかけたくないのが信条である。コネを作るにしても、今回の件に関しては難しいと判断した。
ならば、アドス邸で情報収集がてら様子を見ていたほうがいい。
しかし──
「この者も借り受けて良いだろうか」
イローネはこちらを見つめていた。気の所為ではない。
何故リィーンのことを選んだのだろうか。
聖堂騎士に知り合いはいないし、今回の件も関係あるとは思えない。もしかしたら自分の正体がバレたと思ったがそれはない。誰もがリィーンはあの事件で死んだものだと思っているはずだ。もしかすれば、己が思っているよりも顔は知れ渡っているのか。
一つ一つの可能性を頭の中で反芻して潰していく。その最中、イローネは耳元に顔を近づけてきた。
「お前、変な加護を受けてるな?」
その心のうちに浸透するような声は、どこかリィーンの鼓動を大きくするものがある。
「別に取って食おうというわけじゃない。私はお前に興味が湧いた。それだけだ」
「だったら、私が行く理由はないんじゃないでしょうか?」
「そうだな、お前とは直接関係ない。だけど、不審な気配のするものが民衆にとって是か非か見極めるのも、騎士の務めであろう?」
「職権濫用ですね」
「勤勉と言って欲しい」
断る理由と材料をリィーンは有してはいない。アドス邸の人間においても、リィーンを庇う理由はない。
言うこと聞かなければ、審問にかけるぞという圧力はヒシヒシと感じられた。
「分かりました」
ここで捕まって動きにくくなれば本末転倒だ。肯定するしかない。
「それでは、この娘も借り受ける」
イローネが宣言すると、アーモンが分かりましたと頭を下げた。
「安心しろ、必ず二人とも無事に返すと約束する」
「そうしていただけますと、ありがたいです」
二人が話している中、いつの間にかハナビが隣に立っていた。尻尾をゆったりと振り、笑顔でこちらを見上げている。
「ありがとうなのです。私のために、ロゼリアさんまで来てくれて」
「あー……」
完全に勘違いされている。嬉しそうな笑顔が眩しくて、彼女から目を逸らしてしまった。
「それではお二人。馬車で案内しよう」
リィーンたちはイローネに促されるまま、馬車に乗り込むのだった。