70、夏の虫
さて、どういった手順で話を持っていったものかと夫婦して頭を悩ませていたところ。
間抜けな羽虫が向こうから飛び込んできた。
その日、造船所長のバトリーが珍しく慌てた様子で男爵邸にやってきた。
なんでも造船所の前で騒いでる男がいるという。
通常であれば拳にものをいわせて簡単に排除するのだけど。
その男は自分を貴族と言い、服装や態度も確かに偉そうなので、とりあえず屈強な船大工たちがまわりを囲むだけ囲んで、しかし、どうにも手を出しかねてるらしい。
「まあ腹の立つ奴だが、グリムの旦那に迷惑がかかるといかんでな」
彼らは頑なに自分たちの頭を男爵と呼ばないけど、ちゃんとその立場を慮ってくれてるんだよね。
「知らせてくれてよかったわ」
しかし、タイミングの悪いことに、夫はさらに手を加えた船を試すために沖に出ている。
常に現状を改善しようと努力するところを私は尊敬してるけど。
まあ、そんな現状だからこそ、私にお鉢が回ってきたわけで。
深窓の御令嬢……いまは夫人だけど、そんなものを気取ってる場合じゃない。
もっとも、私が普段めったやたらに街に下りないのは、もめごとを避けるためだ。
どうやらこの街の住人はその多くが私に好意的らしいけど、偶発的に何かが起こらないという保証はどこにもない。
たとえば私の乗る馬車の前に子供が飛び出したり、造船所を見学中、故意でなく誰かが触れた木材が私に倒れ掛かってきたら、割りをくうのは平民たちだ。
このほどさように貴族は大きな力を持ち、当然それには同等の責任が伴う。
にもかかわらず、この男は何なんだろうね。
見たところ年の頃は二十歳前後。確かに髪や肌のつや、服装は貴族の子弟だ。
しかし、共を連れてる様子はなく、ただひたすら造船所の中を見せろと喚いてる。
あとは「俺を誰だと思ってるんだ」って、知らんがな。
造船所には言うまでもなくグリム男爵領の機密がつまってる。
グリム男爵の直属の部下だって許可のない者は入れない。
私に気付いた船大工たちが、私が通れる分の透き間をあけた。
それでも、このわけのわからない男、まあ青年と言っていいか、それが私に危害を加える素振りを見せれば即、取り押さえられるように身構えてる。
一応つれてきた、屋敷付きの護衛は所在なさそうに私の後ろに控えてる。
皆、腕っぷし強いからなぁ……




