38、チェンバロ
また、私が一人でチェンバロを弾いてる時にふらふら猫サンがやったきた。これはぜひ教えてやらねばなるまい。
「クレマンティーヌって楽器、弾けたんだな」
そう、弾けたんです。もっとも前世弾いてたのはピアノ。
音大出たのに全然関係ない職に就いて、たっかい学費を出してくれた両親には申し訳なかったけど。
「サイモンも弾いてみる?」
「いや、オレは……」
「指とか関係ない、簡単なのを教えてあげるわ。はじめは見ててちょうだいね」
「……話、聞けよ」
ぶつくさ言ってたけどさ。
「猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、猫ふんじゃ~ふんじゃ~、ふんじゃった」
「ブッ! なんだそりゃ」
「だって、こういう曲なんですもの。ほら、続きいますよっ」
「ぶひゃひゃ……」
変な笑い声を上げながらも若い頭は柔らかく、サイモンは一回で覚えてしまった。
音楽は確実に人の気分を高揚させる。
うながせば思いのほか素直に隣に座って連弾。
「もっと早く!」
「くっ、負けん!」
次いでスピード勝負をしてたから、ノックの音はもちろん、人が入って来たって気付くわけがない。
「二人ともなかなか見事に弾くではないか」
弾かれたように立ち上がったサイモンは逃げの姿勢だけど、相手が父親だからちょっと躊躇して逃げそびれたんだろうね。
マックスとしては忙しい中でも家族団欒をと思ったのだろうし、それ自体はわるくないのだけど、私の感覚ではまたちょっと早い。
「親玉がきたぞ、にっげろ~い」
戸惑う少年の袖を引っぱってダッシュ!
まあ、深窓の御令嬢だから足は速くないけど。気分だ、気分。
「クレマンティーヌ?」
旦那の声は置き去りだ。
中庭まで走って、息を切らせてる私とは対照的に、あきれたようにこちらを見ている少年。
「何やっての。アホだろ」
「おっ、喧嘩うってんのかしら?」
シュッシュッっとシャドウボクシングをして見せると、がくりとうなだれる。
なんかうなだれ方までそっくりだね。
「……なにもクレマンティーヌまで逃げることなかったじゃん」
「だって、せっかく楽しくしてたことについて、あれこれ言われたくないじゃない」
「……うん。なんか、わかる」
「ねー」
さわさわ風に揺れる梢をながめて休憩してると、サイモンにうながされる。
「親父がかわいそうだから、戻ってやれよ」
まあ、なんていい子だろう。
「サイモンが言うなら、しぶしぶ」
「ブハッ、自分でしぶしぶ言うやつがいるかよ」
「ここにいまーす。じゃあね、サイモン」
「おう、またな」
おおっ、またな、いただきました!
感動に包まれたまま音楽室に戻ると、夫が憮然と立っていた。
私は楚々とチェンバロの前に座る。
「お褒めに与かり恐縮です」
「何事もなかったかのように、そこからか」
いや、愛情はあっても殻にこもる息子をあつかいかねて、父親として悩んでるのも察しられるけどさ。
いまはサイモン優先さ。
私だってまだ撫でさせてもらってないし、ここでやたらな発言をするとうっすら生まれかけてる彼の信頼を失いそうだもの。
「旦那様に一曲捧げたく存じますので、どうぞそちらにお掛けになって」
私は妻と子に逃げられて傷心の旦那サマのために、悲愴を引いて差し上げた。
これで少しでも癒されてくれるといいな。




