37、逃げ足
「あの……」
だから、向こうから話しかけられた時は感動もひとしおだ。
私は何食わぬ顔をして刺繍の手を止め、彼に向き直る。
「あら、どうしたの?」
はくはくと口を開け閉めしてから、意を決したように胸を張る。
「あいさつ、遅くなったから」
「ああ、私も自己紹介もしてなかったから、おあいこね。クレマンティーヌ・ジェシー・グリムよ」
「……サイモン・ウエイン・グリム」
「なんて呼んだらいいかしら」
「サイモン……えっと」
「クレマンティーヌでいいわよ。ちょっと略しようがなくて長いけど、がんばってみてちょうだい」
「……か、ん、いい」
「そう?」
無理強いはせず、刺繍の続きに戻る。
我が夫と同じ色目を持つ猫サンは、居心地悪そうに体を揺らしてたけど、突然勢いよく歩き出して同じ長椅子の端にボスンと座った。
「母さんって呼ばなくていいのか?」
「呼びたかったら呼んでいいわよ」
「……なんか、変だからやめとく。オレの母さんは一人だけだし」
「そう思うなら、そうなさい」
「うん」
どうやら目を見ない方が話せるらしい。
私は針を繰りながら、耳だけはダンボだ。
「……クレマンティーヌ」
「なに?」
「クレマンティーヌは、オレにちゃんと話せってなんで言わない?」
「ちゃんと話せてるからよ。あなたの言ってること、その意味、ちゃんと私に通じてるわよ」
「そうじゃなくて!」
「フフッ。わかってるわ、貴族的にってことでしょう」
「わかってるんじゃねぇか」
上気した頬をふくらませているのが目に見えるようだ。
「私がそういうことを言わないのは面倒だからでも、あなたのことがどうでもいいからでも、甘やかしているからでも、機嫌をとりたいからでもないわ」
「……ほんとかなぁ」
ひねくれてるけど、賢いひねくれ方だなぁ。
「フフフッ。サイモン、こんなものはね、その気になればすぐできるようになるわ。でも、その気もないのにやれって言われたらムカつくでしょ」
「……うん」
「私、自分がされて嫌なことはなるべく人にはしない主義なの」
「なるべくなんだ」
「サイモンは家族だから、もっとなるべくしないようにするわ」
「ハハッ、変なしゃべり方だ」
「そうね。我ながらおかしな言い回しだったわ」
「……ほんと、変」
それからは何も言わずまったりしてたようだけど。
メイドの足音を聞いたとたん、ピューッとどこかへ行ってしまった。
本当に猫みたいだ。




