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星空の紡ぎ手  作者: ワタリ煤々
第一章
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4月10日

4月10日

フレスワイル中央学院・入学式、始業式


 薄紅色の花弁が舞い散る正門を、新品の制服に身を包んだ初々しい様子の生徒たちが次々とくぐっていく。期待に胸を膨らませる者、緊張で顔が強張っている者など、それぞれが違った面持ちを浮かべている。

 自身が生まれ育った国『フクジュ』とは少し違う花の香りを嗅ぎながら、チシャレット・オルドーは学院の敷地内に足を踏み入れた。深藍(しんらん)の髪がふわりと風に揺れ、榛色の瞳はいきいきと自身の学び舎を見つめている。

 保護者を付随している生徒は、ざっと見たところ半分ほどだ。『あの人』も、もしかしたら今日くらいは父親らしく振舞ってくれるのでは、とチシャレットは淡い期待を抱いていたのだが、「そんな無駄な行事に付き合う暇はありません」と、にべもなく断られてしまった。

 それも仕方がないことなのだけど、とチシャレットは諦めのため息を零す。立場的にも年齢的にも、彼では入学式で浮いてしまうことは想像にかたくないからだ。

 念願のフレスワイル中央学院に入学を果たせたのだから、もっと明るい気持ちで臨まなければ。そう思い直して、円形に整えられた花壇の隣をゆっくりと進む。咲き誇る花々を間近で眺めていると、すぐ真横を誰かが慌てたように通り過ぎた。風で制服がわずかに揺れ、小さな花弁が目の前に舞い上がる。

「ごめん、ちょっと急いでて!」

「いえ、こちらこそごめんなさい」

 どうやら男子生徒とあわや接触しそうだったようだ。しかし彼は言葉通り急ぎの用事があるらしく、謝罪を述べるとそのまま走り去ってしまった。

「待ってくれ」と遠くにいる誰かを呼ぶ少年の背中が、次第に遠くなっていく。『あ』とチシャレットは声にならない声を漏らし、口元を押さえた。聞き覚えのある声と見覚えのある後ろ姿を把握して、チシャレットはカッと目を見開き、心の中で叫ぶ。

 入学早々に、『原作主人公とニアミスした!』――と。


 チシャレット・オルドーが、この世界は紛れもない現実であると認識したのは、9年ほど前の事だ。

 現代日本で大学生として生活していた彼女は、気が付けば埃臭くて薄暗い部屋に閉じ込められていた。

身体はどう見ても幼子のもので、周囲には泣きわめく同じ年ごろの子供たちがいる。部屋の入口には屈強な男が二人立っていて、髪を結いあげた目つきの鋭い女性が値踏みするように子供たちを見定めていた。

 随分と陰気な夢だなあ、とチシャレットは眠りに落ちた自覚が無いことに不思議に思いつつ、夢の中の生活に興じる。

 以降、チシャレットはその店『桃華楼(とうかろう)』で歌の才を見出され『歌う人形』として扱われ、日々を過ごすことになった。

 チシャレットが桃華楼(とうかろう)に来ることになった経緯は単純明快で、親に売られたらしい。どうやらこの夢の世界観ではそう珍しいことではないらしい、と周囲から情報を得たチシャレットは、夢とはいえ死ぬのは気が進まないからとにかく死なないように立ち回ろう、と仕事に従事していた。

 しかし、そんな彼女に転機は唐突に訪れる。ある日、見覚えのある男が店にやってきたのだ。

 だが、それは彼女を酷く混乱させた。だってその男は、彼女の記憶の中よりも幾分か若く見えた上に、『星空のしおり』というロールプレイングゲームに出てくる、サブキャラクターだったからだ。


 その店でチシャレットは、満足な教育を受けていなかった。店の女たちが気まぐれに貸してくれる

古びた書物や、飲み物を零して汚れた新聞などが、唯一の情報源だった。

 ここがフクジュ帝国の帝都リュウランである、という事実にはどこかで触れていたものの、夢の中だと思い込んでいる彼女には、自分が知っているゲームの世界であるという事までは結び付けられなかったのだ。

 けれど、男の登場でチシャレットは理解した。どうして自分がここにいるのかはわからないが、自分が『星空のしおり』の世界にいること、チシャレット・オルドーとしてその世界で生きていることを、認めざるを得なかった。

 紫雲と名乗った男は、チシャレットを店から引き取った。そうして紫雲の家業を手伝うことで新たな生き方を見つけたチシャレットは、今年で17歳になる。

 紫雲が大陸中央部の歴史ある大国、フレスワイルの学院都市に小さな店を構えることになり、共にフクジュ帝国から越してきた彼女は、本日めでたくフレスワイル中央学院に入学することと相成ったわけだ。

 年齢を考えれば一年前に入学するのが通例であるのだが、チシャレットには入学を一年遅らせるだけの理由があった。

 入学式で早速、主人公のルクスとすれ違うなんて幸先が良い――。

 思わず頬が緩み、チシャレットの足取りは軽くなる。そう、全ては『星空のしおり』の主人公ルクスやその友人たちと、同級生になりたいが為だった。


 別に、彼らと親しくなろうとまではチシャレットは思っていない。なぜなら自分はこの世界にとっての異物で、本来ならばいない存在だからだ。

 チシャレットは、浮足立った気持ちをなだめすかせるように、そう自分に言い聞かせる。チシャレットにとって、一番大事なことは原作の物語を守ることだ。自分が関わることで物語の未来を変えたくないし、なるべくならば遠くから彼らを見守っていたい。

 もしも自分が『星空のしおり』の物語を結末まで知っていたなら、ある程度のかかわりを持っても

よかったのかもしれない――と、今更どうにもならない事を悔やむ。

 チシャレットは、『星空のしおり』の物語を途中までしか知らない。なぜなら、『星空のしおり』は次作に続く、と続編を示唆したはいいものの、開発の事情で続編が発売されなかったからだ。

 当然、『星空のしおり』ファンは荒れた。チシャレットも、中学生という多感な時期に熱中した作品だっただけに、せめて続編でどう物語が展開される予定だったのか、シナリオの一部だけでも公開してもらえないかとSNSで心情を吐露したこともある。

 しかし大人の事情が絡むのか、それは叶わなかった。結局チシャレットが知っているのは、次作へ続く、で区切られてしまった夏期休暇の始めまでに描かれた出来事だけなのだ。

 あと4ヶ月もすれば、チシャレットも全く知らない未来が訪れる。この物語がハッピーエンドを迎える確証もないのに、うかつに主人公たちに接触して未来を変えるような危険な真似はできないのだ。

 先ほどのニアミスくらいならば問題はないだろうと浮かれていたが、今後の為にも気を引き締めねばとチシャレットは背筋を正す。

 清く正しい、主人公たちを遠巻きに見守る一般生徒として青春を謳歌する。改めてそう心に誓ったチシャレットは、力強く一歩を踏み出した。


『まだこの大陸に国という概念がなかったころ、星と空は一つでした』

 創世学を語る上では外せない一文を、学院長はゆっくりと噛みしめる様に読み上げる。そんなおとぎ話を今更聞かされるのか、と言わんばかりに、チシャレットの隣の生徒は肩を落としていた。

 始まったばかりの入学式だが、早くも生徒の反応には違いが出ていた。この世界では現代と違って義務教育が存在せず、教育機関もそう多くはない。

 フレスワイル中央学院はいわゆる高等教育が受けられる機関で、16歳以上であれば、試験に合格すれば誰でも入学が認められている。

 しかし、それまでの教育方針は生まれ持った家庭によってかなり差があると言わざるを得ず、現代では義務教育で身に着けるような、基本的な集団生活を苦手とする生徒もいる。

 チシャレットは元々、現代を生きていた。まだ成人こそしていなかったものの、その時の経験や記憶を合算すれば、精神年齢ではそろそろ40歳に差し掛かろうとしている。

 精神的に二回りは離れている彼らを、どこか親のような目線で眺めてしまう自分に気が付き、チシャレットは気持ちをぱちぱちと瞬きをして気持ちを切り替える。この世界ではまだ16歳なのだからそれらしく振る舞わねばおかしな人間だと思われるな、と緩みかけていた口元を引き結んで、壇上を見つめた。

 学院長の話はそう長くはなく、フレスワイルの建国の歴史を簡単に述べた後、学院での三年間を有意義に、楽しく過ごして欲しいと祝辞を締めくくった。

 その後も貴賓席から数名が登壇し、入学式は滞りなく進行する。式の終わりが告げられた後、大講堂には新入生とその保護者が残っていた。

 これから教科書や資料集を配布するので、それぞれ受講科目を確認して受け取りに来るようにと

教員の声が響く。

 フレスワイル中央学院は生徒自身が受講する科目をある程度選べる学年制だ。だがクラス分けはされておらず、固定の教室なども存在しない。

 それが、チシャレットが原作キャラに関わりたくないにも関わらず、この学院に進学すると決意した理由の一つである。

 関わろうと思わなければ、関わらなくてもすむ環境なのだ。毎日同じ教室で過ごしていれば、嫌でもかかわりを持ってしまう。それぞれが受講している講義ごとに教室を移動するこの学院の方式ならば、一般的な学年制の学校よりも周囲との交友時間は短くなる。

 見守りたいが近くに行き過ぎるのはご法度、というチシャレットの、理想通りの環境なのである。

 もちろん、同じ新入生である主人公ルクスたちとはあまり講義が被らないように、必修以外のメジャーな科目はあえて外してある。残念ながら作中では彼らの詳細な受講科目までは把握できなかったが、やれることはやった、とチシャレットは自分の受講する科目の教材を受け取る為に席を立った。

 端から順に並んでいけば列の混乱も少ないかと思ったが、どうやらこういった機会に慣れていない生徒も多いらしく、教材の配布所は人でごった返していた。

 中にはどこかの使用人らしき人物が、生徒の代わりに教科書や資料集を抱えている。なるほど、貴族の中にはこういう事をさせる為にわざわざ使用人を呼んでいる者もいるのか、とチシャレットは感心した。

 フレスワイル中央学院は基本的に寮制だ。大陸の各所から生徒が集う為、そのほとんどが学院敷地内の寮に入ることになる。

 チシャレットは保護者である紫雲が市内に店を構えているためそこから通っているが、貴族たちにとっては使用人がいない生活というのは窮屈なものだろう。

 果たして教材を受け取る時すら使用人任せでこれからやっていけるのか、と謎の保護者目線に入りかけていた頭を軽く振って、チシャレットは列選びに戻る。

 少し辺りを見回すが、どこもそれなりの行列だ。しかし受講者が少ないのか、霊障の教材配布列だけやけに空いている。

 まずはここからいこう、とチシャレットが列に並ぶと、斜め後ろで何かを取り落としたような音が響いた。

「おい、落としたぞ」

 振り返るよりも先に、真後ろの誰かがそれを拾い上げたことを知る。

「あ、ありがとうございます」

 そして落とし主がそれを受け取り、姿もうかがい知れぬ二人の会話はそこで終わった。だが、振り返らずともチシャレットには理解できた。

 何かを落としたのは薄桃色の髪をしたおっとりした気弱な少女で、何かを拾ったのは褐色の肌にランプブラックの髪をなびかせる、グラスグリーンの双眸を持った背の高い――

 フレスワイル中央学院への進学の決め手となった最大の理由……チシャレットの推しキャラ、ニザール・ハヌマーンだからだ。


 推しの声を聴き間違えるはずがない、とチシャレットは全神経を耳に集中させる。

 ついにこの瞬間が訪れた。でも振り返ってはいけない、と必死に誘惑に抗う。

 見たい、それはもう、まじまじと見つめたい。星空のしおりの世界に居るとわかってから、チシャレットがくじけずに毎日を過ごしてこれたのは、彼の存在がとても大きかったのだ。

 フレスワイル王国から西方の、エアジャムタル公国からの留学生である彼は、同じ学年の生徒たちよりも寡黙で大人びている。

 あまり他者と関わらないが、よく水辺にいて、何か深い事情を秘めていそうな雰囲気を纏っている。……というのが、作中で示されたニザールの大まかな描写である。

 しかし物語が途中で打ち切られてしまった為、自身のことを語らないニザールについてチシャレットが知っているのはそれくらいだ。

 あとはゲームキャラクターとしての性能や得意とする魔導属性などの情報くらいであるが、ともあれチシャレットは彼が好きだった。

 一見すると冷たい印象を受けがちだが、その心には温かな色が輝いているのだと、チシャレットはそう感じている。

 何かを落とした少女の方は、おそらく二次創作でニザールとカップリングされる事のあるミモザ・スタットだろうとチシャレットは推理した。

 彼女は武芸の講義を受講しておらず、パーティーメンバーとして戦闘に参加することはない、いわゆるサブキャラだ。しかし作中でニザールと少々かかわりがあった事から、一部の界隈ではニザミモがアツいのだという。

 確かにニザールが一番関わっている女子は主人公ルクスの妹のステラか、ミモザだよな、と今更になって、チシャレットはニザミモは王道だったのではないかと思い始めた。

 もしかして歴史的な瞬間に居合わせたのかもしれない、とチシャレットの身体は感動にうずきだす。現代では『星空のしおり』の二次創作小説をSNSで投稿していた身でもあるので、そういった妄想に入りだすとなかなか止まらないのである。

 結局すべての受講科目の教材を受け取り終わるまで、チシャレットはニザミモ推せる、と果ての無い妄想にいそしんでいた。


 嵩む教材で膨れ上がった鞄を揺らしながら、チシャレットは笑顔で帰宅した。『芸術用品店・南天』という看板が掲げられた正面の扉からではなく、建物の裏手にある勝手口から出入りする。

 ほのかに香ってくる珈琲の匂いで、彼女は自分の保護者が食卓机についていることを察した。

「紫雲さん、ただいま戻りました!」

「そうですか。さっさと荷物を置いて来なさい」

 いつもと変わらない、淡々とした言葉が返ってくる。それに元気よく「はい!」と答え、チシャレットは自分の寝室である屋根裏部屋に繋がる、収納式階段の取手

 降りてきた階段を足早に駆けあがって、重い鞄を置いて手早く着替える。折角の制服だが、週明けまでまたお預けだ。そんな事よりも、今のチシャレットにはやる事がある。

 階段を駆け下りると、すぐさま取手を回し直して階段を元通りに収納した。そして洗面所で手を洗い、

干してあった前掛けを着用すると駆け足で台所に滑り込む。

 振り子時計が12時を示すと同時に、チシャレットは袖を捲った。

「今日のお昼はきつねうどんと肉そぼろ、大根サラダに杏仁豆腐です!」

 献立を高らかに口にすると、新聞を広げていた男――紫雲がゆっくりと顔を上げる。

 古代紫色の前髪の間から覗く深藍しんらんは、チシャレットの髪と同じ色をしている。しかしその瞳はじろりと彼女を見据え、表情は不満をあらわにしていた。

 目じりは少し吊っているが、全体的に整った容姿をしている。今年で29歳を迎えるという話だが、正直20歳そこそこにしか見えない、とチシャレットは自らの保護者にそんな印象を抱いていた。

「月見にしてください」

「月見きつねうどんですか?」

 単純に卵を足してくれという事かと思い、チシャレットはそう問いかける。

「油揚げは要りません。……先日飽きるほど食べさせられましたから」

 ため息交じりに吐かれた言葉だったが、心の底から呆れているという程の落胆でもない。彼がそう語るに至った原因を思い起こし、チシャレットはうーん、と悩ましいそぶりを見せる。

「でもよくできてましたよ、裏芯(りしん)さんの渾身の油揚げ」

「いくら美味くても短期間にあれだけ食べれば身体が拒否反応を示すんですよ。いいですか、これから学生になるとはいえお前の本文は勉強ではなく仕事です。それにはこの店での家事も当然含まれているのですから、忙しいからといってむやみに裏芯(りしん)に食事の支度をさせないように」

 言い含めるようにそう語ると、紫雲は再び新聞に視線を落とす。フクジュから独自ルートで取り寄せてはいるが、どうしても到着は昼前になってしまう。そんな事情からお昼時は、おさんどんで忙しいチシャレットとフクジュの情勢把握で忙しい紫雲の間での会話は、少なくなりがちだ。

 しかし、店と居住空間を仕切っている暖簾をくぐってきた男に対し、二人が同時に声を上げる。

裏芯(りしん)さん、お疲れ様です」

裏芯(りしん)、札は掛けてきましたね?」

 黒髪の中に白髪が混じる初老の男は、ダイニングに入るなりかけられた二つの声に、こくりと頷いた。

「休憩中の札をかけてまいりました。……では、昼食が出来上がるまでの間に」

 元より細い裏芯の目が、席についたとたんに一際その鋭さを増す。

「ええ、本日の定例会議といきましょう。議題は勿論……」

 紫雲が一息入れる合間に、チシャレットは作り置きしてあった肉そぼろを冷暗所から取り出す。作業台の上に器をコトリと置いた直後、紫雲が言葉の続きを発した。

片喰(かたばみ)家が我が(いちい)家の傘下に入ることを、毒鳴伎団(どくめいきだん)本部に正式に通達したことです」


 それは、彼ら三人にとっては当たり前の、日常的な風景の一つだった。

 貯水槽の蛇口を開いて、チシャレットは鍋に水を張っていく。チシャレットが昼食の準備をしている中で、フクジュから届いた新聞に目を通した紫雲が、右腕である裏芯(りしん)と、本国の動きについて語らう。

 芸術用品店・南天で彼らが暮らすようになってからのいつもの光景であるのだが、いささか――常人の昼食風景とは違う点があった。

「あそこの跡取りはうちを認めていなかったはずでは?」

「ええ、敵対的な若い衆や一部の古株を集めて、何やらカチコミ紛いのことまでやろうとしていたらしいですよ? 流石に、父親であり家長の照映殿にたしなめられたようですが」

 フレスワイルの東方、大陸でも有数の実力主義国家、フクジュ帝国の裏社会に籍を置く、いわゆる反社会組織・毒鳴伎団(どくめいきだん)

 チシャレットは、毒鳴伎団(どくめいきだん)の幹部の一人でもあり(いちい)家をまとめる家長、(いちい)紫雲の養子だった。

 これが、彼女が主人公ルクスや推しであるニザールたちとお近づきになろうとは思わない、最後の理由だ。

 紫雲と裏芯(りしん)の話を耳に入れながら、チシャレットは昼食の準備を進めていく。

「……それは、何とも若いですな。やはり、(いちい)を侮っているという事ですか」

「でしょうね。うちは『本部が試験的に導入した、資産運用に重きを置いた例外的な事務所であって、実力で立ち上げたのではなく、所詮お飾りだ』と言いたいのでしょう」

 彼の言わんとすることも理解はできる、と紫雲は片喰(かたばみ)の跡取りの感情を一部くみ取る。

「しかし、実力の伴っている跡取りがそれを言うのであればともかくとして、彼はまだ片喰(かたばみ)の名を背負うには未熟が過ぎますからね。家長の照映(しょうえい)殿も、手を焼いているようですよ」

「ふむ……」

 (いちい)の傘下に入ることを片喰(かたばみ)の家長が決定し、本部にも通達した。にも関わらず、跡取りである息子が反発しているのか、とチシャレットはどことなく他人事のように聞いていた。

 片喰(かたばみ)の事務所には、紫雲や裏芯(りしん)と共に訪れたことがある。しかしチシャレットは事情に精通していない人間からは紫雲の娘ではなく小間使いとして見られがちなので、おそらく相手方のほとんどはチシャレットの事を下位構成員だとしか認識していないだろう。

 件の跡取り息子の顔も、あまりはっきりとは思い出せない。まあ自分にはあまり縁の無さそうな話題だな、とチシャレットはフクジュから取り寄せた乾麺を取り出し、作業台の上に置いた。

 湯が沸くまではもう少し時間がかかる。その間に薬味を刻もうと、まな板と包丁に手を伸ばした。

「やはり、武闘派の構成員を増やすべきでは? 紫雲様の信頼に足る面子を集めるのは大変なことだと、承知してはおるのですが……」

 (いちい)はけして大きい事務所ではない。8歳の頃から紫雲の傍で彼の仕事を手伝ってきたチシャレットは、雑用ばかりしてきたとはいえ、毒鳴伎団(どくめいきだん)における(いちい)の立ち位置と、その規模を把握している。

 裏芯(りしん)の心配は最もなのだ。経済活動や資産運用で主に生計を立てている(いちい)は、毒鳴伎団(どくめいきだん)の中では異質と言える。そんな事務所が求めるのは当然そろばんを弾くのが得意な人間であって、(いちい)が保有する戦力は組織内でもかなり少ないと言わざるを得ない。

 だからこそ、傘下に入ると家長が明言したことに、片喰(かたばみ)の跡取りや一部の人間が真っ向から反発の意思を見せたのだろう。自分たちよりも弱いものにどうして頭を垂れなければいけないのか、と憤っているのだ。

「まあ、お前くらい戦える者があと一人くらいいれば、馬鹿がカチコんで来た所で余裕が出るのですがね。殴り合いしか能がない輩に(いちい)の家名を与えるつもりはありませんから、お前もそのつもりで居て下さい」

 つまり、良い人材が降ってわいてくるまでは現状維持という事だ。裏芯(りしん)はそれ以上何も言わず、紫雲の言葉を静かに受け入れた。

 家名か、とチシャレットは沸騰した湯に乾麺を投入しながらぼんやりと考える。

 チシャレットは(いちい)の名前を拝受していない。だから彼女は、正式な(いちい)の人間ではないとも言える。ただ紫雲の養子であるという事実のみが、彼女を裏社会の一員たらしめている。

 チシャレット自身は、(いちい)の名前に拘ってはいない。けれど、どこか疎外感を覚えてしまうのは事実だった。

 要するに、認められていないのだ。チシャレット・オルドーは紫雲にとって、家名を与えるほどの人材では無いのだろう。

 紫雲がチシャレットを引きとってからしばらく経ったある日、彼はチシャレットを自分の養子にした事と、(いちい)の家名は与えないでおくことを告げ、後者については追々再判断をすると話していた。

 それから時は流れたが、チシャレットは相変わらずチシャレットのままで、家名を与えることを検討しているような素振りを、紫雲は全く見せてこなかったのだ。

 毒鳴伎団(どくめいきだん)における家名とはもともとの苗字ではなく、幹部として、独立した事務所を持つことを許された家長に贈られる、一種の称号だ。だから紫雲は元々(いちい)という姓であったわけではなく、表社会での彼には根占(ねじめ)、という姓がある。

 しかしそれを名乗るのは一般人を装う時くらいで、チシャレットの保護者としてフレスワイル中央学院の諸手続きをする際に用いたのが最後だろう。

「……やっぱり根占(ねじめ)姓で入学すればよかったかなあ」

 せめて表社会では紫雲とのつながりを感じたい、とチシャレットはぽつりと本音を吐露する。しかし、それを耳敏く聞きつけた紫雲は、眉を吊り上げて「は?」と切り捨てた。

「語呂が悪すぎます。根占(ねじめ)・チシャレットもチシャレット・ネジメも腹が痛くなるような語感じゃないですか。断固拒否します、絶対に認めません」

 そんな理由なら別にいいのでは、とチシャレットのみならず裏芯(りしん)も思っていたが、彼がそうと決めたらなかなか意見を変えないのは承知済なので、二人して押し黙る。

「しかし、急にどうしたのだチシャレット。東部風の容姿と中央風の名前ということで、深入りしてくるような輩でもいたか?」

 裏芯(りしん)がチシャレットの唐突な発言に、疑問を投げかけてくる。彼女は3歳頃にフクジュ帝国の桃華楼(とうかろう)に売られ、その際に両親と思われる男女が唯一残していったのが、その名前だったのだ。

 容姿に東部の系譜を色濃く継いでいるチシャレットは東部人の両親から生まれたと推察できるが、名前が中央風なのは単なる偽装工作だろうな、とチシャレットは考えている。

 本当は東部人らしい名前を持っていたのに、娘を売ったと万が一にも周囲に悟られない為に、嘘をついた。要するに、足がつかないように両親が適当な名前をつけた、というのがチシャレットの想像だ。

 実際の所どうだったのかはわからないけれど、ともあれ名前が中央風だったおかげで少々ややこしい事になっているのは事実だ。

「いえ、今日は簡単な説明と教材を受け取るだけだったので、他の生徒と話をするような機会はありませんでした。……そろそろ茹で上がりますよ」


 うどんの完成が間近な事を告げると、紫雲は広げていた新聞を閉じる。

「そうそう、わかっているとは思いますが先方からの依頼の期限が迫っています。問題なく、作業は進んでいるでしょうね?」

「はい、二、三日中には完成します。……あ、うどんの方はちょっと待って下さい、卵が切れてました」

 そういえば朝食で使い切っちゃったな、とチシャレットは冷や汗をかく。帰りに市場で買い足そうと思っていたのに、原作キャラクターたちとの邂逅に浮かれて失念してしまっていた。

 紫雲は何も言わないが、その視線には明らかに不機嫌の色が滲んでいる。フクジュ帝国では卵は生食を前提として生産されているため火を通さなくても安全に食せるが、フレスワイルでは加熱が前提だ。

 しかし極一部の養鶏場では生食用卵を市場に卸しており、市内に住む東部系の人間からは、大変重宝されている。

「今行けばまだ残ってるかも……! ひとっ走り行ってきます!」

 前掛けを剥ぎ取るようにして取り外し、チシャレットはダイニングの引き出しの中に手を突っ込んで

がま口の財布を握る。慌ただしく彼女が飛び出していき、無人になった台所を見て紫雲は「はあ」と一つため息を零した。

「あくびが出そうなほどいつも通りですね。裏芯(りしん)、『御前(ごぜん)』の様子はどうですか?」

「はい、特筆すべき事はございませぬな。あの方も本日、入学式であったはずですが……」

 コーヒーカップを傾ける紫雲に、裏芯(りしん)が淡々と答える。

「紫雲様、チシャレットに御前の話はされなくてよろしいのですか?」

「必要ないでしょう。あれを、御前との契約に関わらせるつもりはありません。……万が一にでも、あれの価値に気づかれたら面倒ですから」

 紫雲の瞳が、わずかに剣呑さを帯びる。

「あれは、私がしかるべき立場へ上り詰める為の道具です。本人にも再三言い含めていますが、あれが壊れるような事があれば、これまで投資してきた時間や資金が水の泡になるのですから。それに、あれに情報収集は向いていないでしょう」

 能力の問題ではなく性格が、と紫雲は付け加える。それに、裏芯(りしん)はふむ、と静かに頷いた。

 裏社会において情報は絶対だ。彼女には情報を集めようと思えばそれを成せる力があるが、紫雲が止めている。

 力があれば顔が売れる。そうなれば、毒鳴伎団(どくめいきだん)本部にも彼女の有用性が知られてしまう。知られれば当然、奪われるのだ。それが実力主義国家フクジュの、絶対的な法である。

 それはいけない。だって彼女を最初に見つけたのは、紫雲だからだ。若くして独立した事務所を構えるまでになった紫雲だが、毒鳴伎団(どくめいきだん)での立場はまだ盤石とは言い難い。

 もっと地力をつけて、横やりを入れられても揺るがない、強固な周囲環境を整えて。いずれ、実力にふさわしい立場を得る。毒鳴伎団(どくめいきだん)を自らの手で、時代遅れで血なまぐさいだけの犯罪集団だけではなくさせる。

 そうした展望の元、彼は今日まで生きてきたのだ。

 そんな紫雲が最近新しく契約した若者は、何やら探し物をしているらしい。わざわざ外国の反社会組織である(いちい)の手を借りてまで探し物の情報を得たいというだけあって、中々侮れない、気骨のある人物だと紫雲は感じていた。

 ただ、偶然とはいえその人物がチシャレットと同じ学院に、同じ学年の生徒として入学したことは、少々気にかかる。現時点で二人の接触はないようだが、今後の学院生活で何かしらの接点が生まれることもあるだろう。

 あらかじめ契約相手の情報をチシャレットに渡してしまうと、あのお人よしの事だから何とか力になれないかと無駄に深入りするに決まっている、と紫雲は予想している。

 そうなれば、相手がチシャレットの能力に気づいてしまうかもしれない。できるだけチシャレットを無能に思わせておきたい紫雲にとっては、よろしくない展開だ。

「しかし本国の学校とは違い、フレスワイル中央学院は随分と緩い校風のようですから、紫雲様が心配されるような、チシャレットが力を使わざるを得ない状況に陥るような事態は起こりえないのではありませぬか?」

「私もそう思いたいのですがね。……どうも、あれは並々ならぬ天運の元に生まれています。いずれ、何かやらかすでしょう」

 白磁のコーヒーカップをソーサーの上に置き、紫雲は今頃中央通りを駆け抜けているであろう少女の姿を思い浮かべる。

 窓から覗く空の色が彼女の行く末を案じているような気がして、紫雲はゆっくりと本日何度目になるかわからないため息を零した。

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