表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説(異世界恋愛)

捨てられた令嬢は、竜の君と讃えられた

『イリス、私、ダメだったわ』


 真っ暗な空間の中で、コゼットは青年の胸に背中を預け、その膝の上に座っていた。


『初めから無理だって思ってたから、予想通りの結果ではあるけれど……。やっぱり私じゃ、王太子様の婚約者にはふさわしくないのよ』


 コゼットは自分の着ているものに目をやる。


 ずっと物置にでも仕舞い込まれていたようにカビの臭いのするドレスはかなりの年代物で、とっくに流行遅れになっている品だった。


 髪もただ頭の上で団子状に結っているだけで、特に飾りもつけていない。


 コゼットが先ほどまで参加していた舞踏会には、これでもかというほどに着飾った令嬢たちがたくさんいた。国中から集められた王太子の婚約者候補だ。

 

 そんな中でみすぼらしい身なりのコゼットは、ひどく浮いていたことだろう。


『しかも私って小柄で見た目も幼いっていうか……。どう考えても王太子様の守備範囲外よね』


『そんなに気に病まないでください、我が主』


 背後で青年――イリスが身じろぎし、頭を撫でてくれる。


『王太子などでは、あなた様の相手は務まりません。こちらから願い下げです』

『もう、イリスったら』


 コゼットは笑ってしまう。実のところ、そこまで落ち込んではいないのだ。何故なら、コゼットの好きな相手は他にいたからだ。


『それにしても、王太子は何を考えているのでしょう。こんなにもお美しいコゼット様に見向きもしないなど、許しがたい』


 婚約に反対するなどと言っておいて、イリスは理不尽に王太子を責めている。しまいには、『コゼット様、愛しています!』と言いながら、きつく抱きしめてきた。


 もう何度も聞いている愛の告白だが、コゼットの胸は高鳴る。


 イリスはコゼットと同じ歳の青年だ。こうして抱擁されていると、小作りなコゼットの体などすっぽりと覆ってしまえるような長身で、冴えた美貌の持ち主である。


 そんな彼の印象を一言で現わすなら『白』だろう。なにせ、肌の色から着ている重厚な衣、腰の辺りまで伸びた長い髪まで皆白色なのだから。


 けれど、それでなくてもイリスは不思議な雰囲気の持ち主だった。


 風もないのに髪も服も常にふわふわと揺れているし、頭からはサンゴ礁に似た枝分かれした白い角が生えている。それに、後光が差すように虹色のオーラをまとっているのだ。


『……イリス、ありがとう』


 コゼットはイリスの体温を感じながら体の力を抜く。


『多分、後でおばあ様にお仕置きをされるだろうけど……。あなたがいてくれるなら、何も怖くないわ』


 コゼットが好きな相手とは、イリスのことだった。そして、イリスもコゼットを愛してくれている。きっと、こういう状態を相思相愛と呼ぶのだろう。


 それでも、二人の関係は友だち以上恋人未満に留まっていた。正直に愛の言葉を口にするイリスに対して、コゼットは一度も自分の気持ちを伝えたことがなかったからだ。


(やっぱり、私っておかしいのかしら。イリスを心の支えにしたり、恋をしたりするなんて……。だって彼は、私の夢の中にしかいないんだから……)


「コゼット! 何を寝てるんだい!」


 揺さぶられ、コゼットはハッとなる。一晩中続いた舞踏会の疲れで、王宮の廊下の壁に寄りかかりながら、ついうたた寝をしていたようだった。


「まったく、だらしない子だねぇ。さすがはあの泥棒猫の娘だよ!」


 コゼットを起こしたのは祖母だった。痩せ細って骨と皮ばかりが目立つ、枯れ枝のような老女だ。


「ごめんなさい、おばあ様」


 コゼットは慌てて姿勢を正した。


「帰るんですよね? すぐに馬車乗り場へ……」

「帰るだって?」


 コゼットの言葉に、祖母は眉を吊り上げた。


「あんたまさか、まだ自分に帰る家があると思ってるんじゃないだろうね? もうアタシは、あんたみたいな役立たずの面倒は見きれないよ」


「……え?」


「分からないのかい? どこへなりとも行っておしまい、と言っているのさ」


 コゼットは呆けてしまった。何か罰を受けることは覚悟していたが、まさか勘当を言い渡されるなんて思ってもみなかったのだ。


「お、おばあ様……」


「アタシはあんたを王太子様の婚約者にするために引き取ったんだ。それなのにあんたときたら……。もう顔も見たくないよ」


 それだけ言うと、祖母はさっさと立ち去ってしまった。後に残されたコゼットは、衝撃を覚えながらその背を見ていることしかできない。



 ****



――あんたは大きくなったら王太子様の婚約者になるんだよ。


 両親と死に別れた幼いコゼットを引き取った祖母は、初めて会った日から、口癖のようにそう言っていた。


――それがあんたの唯一の価値さ。そうじゃなかったら、誰があんたなんかもらってやるものかね。


 祖母はコゼットが嫌いだったのだろう。きっと、息子が卑しい身分の女性と駆け落ちして作った子どもだったからだ。しかも祖母に言わせれば、その女性というのは魔女だったらしい。


 それでもコゼットが王太子と歳が近いことを知ると、こんな機会は滅多にないとばかりに、コゼットを利用することに決めたのである。


 貧乏貴族の祖母は、コゼットと王太子が将来婚約を結べば、裕福な暮らしができるようになると踏んだのだ。


 強欲な祖母はコゼットを王太子の妻とするべく、厳しくしつけた。そして、コゼットが少しでも自分の期待に外れた行動に出ると、怒鳴りつけ、折檻するのだ。


 その暮らしはとても辛いものだったけれど、コゼットは耐えるしかなかった。祖母がいつも言っていたのだ。「あんたみたいなグズは、他に行くところなんかないんだからね」と。そして、コゼットもその通りだと思っていたからだ。


 だというのに、こんな形で放り出されてしまうなんて……。


(これからどうしよう……)


 王宮の外に出たコゼットは祖母の後を追うこともできずに、途方に暮れながら町を歩いていた。


 祖母以外に親族はいないし、他に頼れそうな人も思い当たらなかった。一人きりになったコゼットは、先のことを考えて心細くなる。帰る場所も行く当てもない。自分は根無し草になってしまったのだ。


(こんな時……助けてくれるのはイリスだけだわ)


 思わず絶望しそうになったコゼットだったが、慌てて頭を振って気持ちを切り替えた。近くに放置された木箱があるのに気付き、その上に座って目を閉じる。


 イリスがコゼットの前に現われたのは、ずっと昔のことだ。気付けば、彼はコゼットの夢の中に出現するようになっていたのである。


――わたくしは我が主のために生まれた存在。そして、我が主と共に生きる者。


 いつか、イリスがそんなふうに言ったことがある。その言葉の通り、初めは少年だったイリスも、コゼットの成長に合わせて今では青年の姿になっていた。


 昔から、イリスはコゼットにとって頼もしい存在だった。


 ただ一緒にいてくれるだけではなく、悩みも聞いてくれるし、心強い言葉もかけてくれる。夢の中にしかいないと分かってはいても、優しい彼に孤独なコゼットが心を寄せることになったのは自然な流れだっただろう。


 そんな最高の隣人に、『イリス』という名前を付けてあげたのもコゼットだ。その時の彼の感激ぶりを、コゼットは今でもはっきりと思い出すことができた。


(ああ……イリス。早く来て……)


 先ほど王宮で眠ってしまったからなのか、目を閉じたはいいが、コゼットは中々寝付くことができなかった。そのせいで気ばかりが急いて、余計に眠れなくなってしまう。


(イリス……いつもみたいに私の話を聞いて。それで、『大丈夫です。何も心配いりません』って言ってちょうだい……)


 夢の中でしか会えない大切な人の顔が早く見たくて、コゼットはさらに目を固く瞑り深呼吸した。悩みを忘れたくて、少しでも楽しいことを考えようとする。


(イリスに会ったら……そうだわ。また竜の姿になってもらいましょう。それで、背中に乗せてもらうのよ)


 コゼットは、小さい頃からのお気に入りの遊びのことを思い浮かべた。


 普段のイリスは、「手がなくてはコゼット様を抱き締められませんから」と言って人の姿を取っているが、竜に変身することもできるのだ。


 コゼットは竜になったイリスに乗るのが好きだった。彼の背に乗って、夢の中の何もない空間を飛び回るのだ。


 そうしている間だけは、コゼットは自由になれた気がしていた。現実の自分は祖母に虐げられ、どこにも行くことはできないけれど、夢の中でイリスに乗っている時だけは、あらゆるしがらみから解放されたように感じていたのだ。


「よう、お嬢ちゃん。いい服着てるじゃねえか」


 やっとウトウトしかけてきたコゼットだったが、そこにタイミング悪く声が掛かる。近くに薄汚れた身なりの、見知らぬ男性が立っていた。


「……何ですか?」


 コゼットは思わず体を強ばらせる。


 どうやらぼんやりと歩いている内に、裏通りまで来てしまったらしい。


 王都の裏通りは犯罪者や貧しい者たちが住む場所だった。コゼットの古めかしいドレスを『いい服』と表現し、値踏みするような目でこちらを見てくるくらいだから、この男もきっとそういう類いの人間なのだろう。


 コゼットは彼とはこれ以上関わらない方がいいと判断し、慌てて木箱から立ち上がった。


「私、急いでいるので……」


 コゼットは踵を返そうとした。けれど、男性は「待てよ」とコゼットの腕を取る。


 そのあまりの力の強さにコゼットは恐怖を覚えた。「やめて!」と言いながら、全力で逃げようとする。結んでいた髪が解けて、焦げ茶色の巻き毛が顔にかかった。


 それでも男はコゼットを離そうとしない。もう一本の腕が伸びてきて服の胸元を乱暴に掴まれる。その拍子にドレスが裂け、隠れていた白い肌が露わになった。


「へえ……」


 現れ出たコゼットの深い谷間を見た男が舌なめずりをした。


「ガキかと思ったら、いいもん持ってんじゃねえか。こいつは身ぐるみ剥ぐだけじゃもったいねえな……」


 男性に突き飛ばされ、コゼットは石畳に倒れ伏す。そのまま体をまさぐられそうになって、コゼットは掠れた声を出した。


「だ、誰か……!」

「誰も来ねえよ」


 薄く笑う男性を見て、コゼットは頭が真っ白になった。


(私の人生……一体何だったの……?)


 意地悪な祖母に酷使され、挙げ句の果てに捨てられて……。それだけでも最悪なのに、こんな野蛮な男の慰みものにまでなってしまうなんて。


(何もいいことなんかなかった。何も……)


『我が主』


 けれど、抵抗する気力すらも消えかけていたコゼットの耳に、懐かしい声が響く。我に返ったコゼットは目を見開いた。


(イリス……)


 いつも自分に寄り添ってくれていた大好きな人。きっと彼は今も傍にいてくれる。自分を見てくれている。


 そう直感したコゼットは、拳を強く握った。


「助けて、イリス!」


 コゼットは初めて現実の世界でイリスに話しかけた。というよりも、声の限りに叫んだ。


「何だ、急に」


 いきなり大声を出したコゼットに、男は怯んだようだった。その口を塞ごうとする。


 けれど、男の手を掴んで制止させた者がいた。


「狼藉者が……」


 ふわりと空から舞い降りるようにその場に現われたイリスだった。コゼットは目を見張る。


「な、何だ、てめぇ」

「黙れ」


 イリスは無表情で低く呟いた。ボキリと嫌な音がして、男が絶叫する。掴まれていた腕が折れてしまったらしく、肘から先が明後日の方向に曲がっていた。


「よ、よくも……」

「うるさいと言っているだろう」


 イリスは片手で男の首を締め上げた。細身なのにどこにそんな力があるのか、男のつま先が宙に浮く。


「ぐ……うう……」


 顔を真っ赤にしながら男は足をジタバタさせている。コゼットはそっとイリスに駆け寄った。


「イリス……?」

「ああ! 我が主!」


 イリスは急に男のことなどどうでも良くなったかのように、彼の体を遠くへ放り投げた。民家の壁に激突した男は、そのまま伸びてしまう。


「なんとおいたわしいお姿……。わたくしがついていれば、このような事態は決して引き起こさなかったと申しますのに……」


 髪が乱れ、ぼろ切れのようになったドレスを纏うコゼットを見て、イリスはまっ青になっている。とても、先ほど眉一つ動かさずに大の大人の腕をへし折ってしまった青年と同一人物とは思えない。


 けれど、それ以外はいつものイリスだった。美しい顔立ちと頭の角、白い服と髪、虹色のオーラ。こちらを気遣う表情まで、夢の中の彼と同じだ。


「コゼット様、我が主……」


 イリスはコゼットを後ろから抱きしめて頬ずりしている。コゼットは困惑しつつも、「びっくりしたわ」と言った。


「まさか、本当に来てくれるなんて……」


 もちろん、助けて欲しいから呼んだのだ。けれど、現実の世界に彼がいるということに、今ひとつ実感が湧かない。


 だって、イリスはずっとコゼットの夢の中にしかいない存在だったのだから。


「そろそろ、きちんと話しておくべきですね」


 真面目な口調になり、イリスはゆっくりとコゼットから離れた。そして跪き、コゼットの手を取る。


「改めまして自己紹介を。わたくしは我が主のために生まれた存在。そして、我が主と共に生きる者。……あなた様の使い魔です」


「使い魔……?」


 思ってもみなかった言葉に、コゼットは口を開ける。


 使い魔というのは、魔法使いや魔女と主従関係にある生き物のことだったはずだ。


「っていうことは、私、魔女なの……?」


 信じられない気持ちで呟いてはみたけれど、コゼットには心当たりがあった。祖母が言っていたではないか。コゼットの母親は魔女だった、と。


 コゼットは、そんなの嘘だと思っていた。祖母が息子を奪った憎い女を蔑んでいるだけなのだ、と。


 けれど、間違っていたのはコゼットの方だったというのか。


 しかし、そう考えてみたところで疑問が一つ残る。


「でも私、魔法なんか使えないわ」


 もし自分にそんな不思議な力があったのなら、祖母に辛い思いをさせられることもなかったはずだ。


 しかし、イリスは「そんなことはありません」と言う。


「あなた様は魔法をお使いになられました。わたくしを召喚なさったでしょう?」

「召喚……」


 もしかして、イリスを現実の世界に呼び寄せたことだろうか。


「それに、あなた様はわたくしに『イリス』という名を付けました。それもまた魔法の一種です。使い魔と正式に契約を結ぶには、相手に名を与えなければならないのですよ」


「……私……本当に魔女なのね」


 イリスを心の底から信頼しているコゼットには、彼の言葉をいつまでも疑っているという選択肢はなかった。急展開の連続で目眩がしてくるが、自分はただの人間ではないということは認めなければならないようだと思えてくる。


「……どうして教えてくれなかったの? イリスは知っていたんでしょう?」


「使い魔には使い魔の領分というものがあるのですよ。それに、こういうことは自分で気付かなければいけないと決まっているのです。とは言え、普通の魔女は身近な人を参考にするのですが……」


 それならコゼットには無理な話だ。何せ魔女であった母親は、コゼットがごく幼い頃には死んでいたのだから。


「……イリスはこれからどうするの?」

「どうもいたしません。変わらずに、コゼット様にお仕えするだけです」


 イリスはコゼットの手の甲に口付けた。そして、「コゼット様こそ、どうなさるのですか?」と聞いてくる。


「私は……」


 質問を返されたコゼットは戸惑った。だって、先のことなんか何も考えていなかったのだから。


「分からないわ。……どうすればいいかしら?」


 そう言えば、行く当てもなくて困り切った末にイリスと話したいと考えていたのだった。コゼットは密かにため息を吐く。


「私、自分の正体を知っても、結局は追い出された時と何も変わってないわね。相変わらず行くところもないし、帰る場所もないんだから」


 これならもっと昔に魔法を使えると知ったところで、何にもできなかったに違いない。どこまでも自分の無力さを思い知らされたような気分だ。


「……我が主、何故あなた様がご自身のお力に気付けなかったのかお分かりですか?」


 振り出しに戻ったような心許ない心地になっていると、イリスが声をかけてくる。


「我が主は何でも素直に受け止めすぎなのです。『現実は辛いけどどうにもならない』とか、『イリスとは夢以外では会えない』とか。その思い込みを破ってみたらどうなるのか、気にはならないのですか?」


「思い込みって……。だってそれは事実……」


 言いかけて固まった。『事実』ではない。だって、イリスは『夢の中だけの存在』ではなくなったのだから。


 コゼットはまじまじとイリスを見つめた。


「じゃあ……『現実は辛いけどどうにもならない』も、『事実』じゃなくなるってこと?」


「我が主、魔法というのは不可能を可能にするすべのことです。あなた様が信じれば、できないことなど何一つとしてありません」


 やりたいと思えば何でもできた。叶えたいと願えば、それを現実にできた。他でもない、目の前にいるイリスがその証拠だ。


 彼と話している内に、コゼットの中から諦めの気持ちが消えていく。代わりに湧き出てきたのは、『魔女としての自信』だった。


「……今の私は自由だわ」


 コゼットは乱れていた髪を掻き上げ、汚れてしまったスカートを破いた。露出した膝から下に風が吹き込む。コゼットは目を細めた。こんな解放感を現実で味わえるとは思わなかった。けれど、自分にはできたのだ。


「行く必要のある場所もないし、帰らないといけない家もない。それってつまり、どこにでも行けるってことよ」


 コゼットは、地面に膝をついているイリスの右頬に手を宛てがう。


「あなたもついて来てくれるわよね?」

「もちろん、どこまでもお供しますよ、我が愛しのコゼット様」


 コゼットが頬に当てている手を、イリスは自分の手で上から包み込んだ。


 そして、まるでずっと前からコゼットがそう選択することを知っていたかのように、穏やかに笑ったのだった。



 ****



「おやまあ、コゼットじゃないかい」


 無遠慮に室内へ入ってきた孫を見て、自宅の玄関ホールにいた老女は目を丸くした。


「何だろうね、ノックもなしに。それに、あんたはもう、うちの子じゃないっていうのに……」


「分かっています、おばあ様」


 まだまだ続きそうな文句を遮って、コゼットは首を縦に振った。


「ただ、お別れを言っていなかった、と思い出したので」

「お別れだって?」

「……おばあ様、私、この家を出ていきます」

「何を言ってるんだい、今さら」


 コゼットの宣言に、祖母は怪訝な顔になった。


「そんなこと知ってるよ。アタシが出てけって言ったら、あんたにはそれに逆らう資格なんてないんだからね」


「……やっぱり分かっていなかったんですね」


 意地の悪そうな目つきになる祖母に、コゼットは半ば哀れみに近い感情を覚える。


「私は追い出されるのではなく、自分の意思で出て行くんですよ。……イリス」


 言いたいことだけ言ったコゼットは、天井に向けて声をかけた。すると、大きな衝撃音と共に家全体が大きく揺れる。何が起きているのか分からない祖母は尻餅をつき、頬を強ばらせた。


「な、何だい!? 地震かい!?」

「私の大切な人が迎えに来てくれただけです」


 コゼットは手を掲げた。目を瞑り、呟く。


「さあ、来て」


 天井に大きな亀裂が走る。そこから崩壊が始まった。


 バラバラと大小の欠片が落ちてくる。祖母は「ぎゃああ!」と悲鳴を上げながら、逃げる間もなく落下してくる木材や石材の狭間に姿を消した。


 空がすっかり見えるようになると、そこから真珠のような光沢のある鱗を持つ生き物が中に入り込んでくる。竜になったイリスだ。


「随分と散らかった部屋ですね」


 室内の惨状を見ながらイリスが言った。コゼットは身を守っていた障壁を解除して、「むさ苦しいところでごめんなさい」と笑う。


「でも、もうこことはお別れだから」


 コゼットはイリスの上に乗った。


 天井の穴からイリスが飛び立つ。すっかり崩れてしまった屋敷が、どんどん小さくなっていった。


「私、海が見てみたいわ」


 イリスの背を撫でながらコゼットが言った。


「その後は山へ行くの。あなたなら一っ飛びよね?」

「もちろんです」


 誇らしげにイリスは返事し、翼をはためかせる。その航跡には、彼の鱗から溶け出したような煌めく虹が線状になって残っていた。


 その光景を見つめながら、コゼットは囁く。


「ねえ、イリス。私……あなたのこと、大好きよ」


 夢の中にしかいない相手を好きになるなんておかしいと思って封じていた気持ち。けれど、今ならそれをはっきりと口にすることができる。


「コ、コゼット様……!」


 いきなりイリスの体がガクンと下がって、コゼットはその背中から転がり落ちそうになった。だが、イリスは主人の危機にも気付かないくらい動揺しているようだ。


「そ、そのような、わたくしの身に余るお言葉を賜るとは……。このまま地面に墜落してしまいそうです……」


「……バカなこと言わないでよ」


 いつも通りのイリスに、コゼットは苦笑いする。


「私たち、これからも二人で生きていくんだから」

「コゼット様……」


 感極まったイリスが飛行速度を上げる。


「わたくしも……あなた様を愛しています。初めてお会いした時から、ずっと……」


「分かってるわ」


 コゼットは腹ばいになって、鱗に覆われたイリスの背に頬を寄せる。


「私だって、きっとそうだったんだから」


 もはや何の憂いもなく愛の言葉を口にできることに喜びを感じながら、コゼットはそう付け足した。



 ****



 その日、王都の空に現れた大きな虹は、町中の住人の目撃するところとなる。人々は、「あの虹の先には竜と、それを使役する乙女が住んでいるのだ」と噂し合った。


 いつしかその乙女は『竜の君』と呼ばれるようになる。そして、彼女と竜が作り出した幻想的な虹の伝承は、後の世まで語り継がれることとなったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 好きなやつ~。 コゼットー! イリスー! ( ;∀;)
[良い点]  言われ続けた言葉と態度はいつの間にか本人にとっても『そうで当然』になってしまう。その怖さを垣間見た気持ちです。  コゼットにとってのイリスの存在がどれほど大きなものだったのか。祖母との…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ