ハンナに
ハンナに
ハンナと暮らしたいといつも願っていた。
鳶色の瞳。柔らかな銀色の髪。ほっそりとした体と、しなやかな指先。
一瞬でハンナは僕の心を奪った。
14歳から15歳になる一年間は、それまで寝ても覚めでもバスケットばかりだった生活のつけが一気にやってきたかのような毎日だった。
来る日も来る日も机に向かって勉強をするだけの日々。とにかくやらなければ。息抜きなんて考えられない。
周りはみな敵となって、友達や恋人を含めて楽しいことの大半とは、手をきった味気ない時間の連続のあと、どうにかこうにか新しい暮らしになった。
満開の桜が散り始めた頃に、新しい学校への通学手段として、僕はバス通学を選んだ。
見慣れた道であってもバス通学となると見える景色が少し変わった。
そんな時、僕はハンナとであった。
偶然信号待ちで止まったバスから彼女が見えた。
反対車線の小さな一角に立ちすくむ彼女がいた。
鳶色の瞳がうつむく度、黒々とした睫毛が彼女の輪郭までを淡く彩るような気がした。
いつもどこか遠くを眺めている彼女の視線の行方、何かを待つように、誰かを待つようにどこかをいつも見つめているハンナ。
ハンナの視線の先には、いつもは見過ごしてしまう何かがあった。
春のある日、彼女の視線を追うと僕のいる車線の垣根に、小さいお日様が鈴なりになって咲いているようなミモザの花が揺れていた。
また別の日のハンナの視線の先には、薄紅の桜がぼんやりとした陽射しの中で微かに揺れていた。
蝉時雨のあいだに見えたのは、その中にお城を隠しているような入道雲の群れ。
秋には、ハンナの見上げた空の高い所で、ほうきではいたような雲がたなびいていた。
樹から旅立ったばかりの金色の銀杏が小鳥のように飛び交っていたりした。
誰も気にとめないものばかりがそこにあった。
ハンナと一緒に暮らしたいという思いは、日増しに募った。
実は一度だけ勇気を出してハンナのいるバス停で降りたことがある。
けれど、それだけ。
向こう側のハンナのそばにいくことも話しかけることもせず、ハンナを遠巻きに見つめるだけだった。
ハンナは何も気にとめなかった。
僕は、ハンナの視界に入りたいと思うことはあっても、実際にそれを実行する勇気は出なかった。
ハンナ以外には、何も目に入らなかったというのに。
翌年の秋。
ハンナが初めて、誰かと一緒にいるのを見た。
ハンナがあんなに嬉しそうにしているのも初めてだった。
黒くて艶のある髪。ところどころ茶色の髪が混じっているのも、おしゃれに見えた。
闇夜のような瞳。たわいもないことでもハンナを楽しませる快活な若者にみえた。
鼻筋の通った顔立ちの彼に、ハンナは寄り添っていた。
お互いを慈しむように見つめ合う姿を目にしたとき、もう引き離せないとはっきり感じた。
ハンナを先に見ていたのは僕なのに。彼らの間に入り込む余地はない。
その日から、かれらはいつも一緒だった。
大風が吹き、激しい雨が降る日には、お互いが濡れないように、いつも以上に寄り添い眠っていた。
僕は複雑な気持ちだった。
幸せそうなハンナを見るのは安心する。
その反面、僕はもう絶対ハンナと暮らせないと思い、知らされる。
なかのよいかれらを見るのが辛くて、帰りのバスをやめた。
親には気分転換とうそぶいて、自転車で通学を始めた。
しばらくして、ふと、ハンナはどうしているだろうと思い立った。
かれらが座っていた小屋は相変わらずあったけれど、そこに誰かが暮らしているとは考えられないくらい、荒れ果てていた。
僕が自転車から降りて長いあいだ彼らの小屋の前で佇んでいたせいか、かれらのそばで度々見かけた人が話しかけてきた。
「ここにいた白い犬は・・・?」
「ああ。ハンナですか?」
僕が初めて君の名前を知った瞬間だった。
「ハンナは・・・」
と続けようとする人を遮るようにして僕はそれ以上を聞くのをやめた。
ハンナがもう戻ってこないとその人の様子を見てわかったからだ。
ぼくは自転車をこぎながら涙が溢れ出した。
悲しいことなど、何一つありはしないのに。
ぼくは、ハンナと何度も名前をつぶやき、長い坂道を立ちこぎでこいでいった。