第五十九話 日独友情の原爆落とし投げ‼の巻
遅れてもうしわけありません。
次回は11月25日に更新する予定です。
印度華麗の顎の真下を、光太郎の張り手が当たった。
その瞬間、印度華麗の口が歪な形に変化していたことに気がついたのは果たして光太郎の見た幻覚か。
光太郎は迷いをふり切ってそのまま印度華麗の身体を前方に吹き飛ばした。
悪くない、だが決して良くはない初手だった。
短所を挙げるならば、光太郎の力士としての器量を計るには十分すぎる攻撃だったというところだろう。
印度華麗は当初から光太郎は父である英樹、兄である翔平と同じく速攻型の力士であると考えていた。
(このルールには不向きなスタイルだな。実に惜しい)
印度華麗は土俵の外を仕切る綱の近くに仰向けに倒れた。
国際大会の試合としては決して多くは無いが観衆の声援が湧いた。
光太郎はあまりの呆気の無さに驚いたが、審判のかけ声を聞いて正気に戻った。
「海星光太郎、ファーストポイントッ‼」
行司は日本の国旗が描かれた旗をばっと光太郎の側に向けた。
日本側の観客席からさらに歓声を上がった。
光太郎は一瞬、首をひねりかけたところで違和感の原因に気がついた。
今現在スモーオリンピックは日本式の相撲の大会ではないということだった。
「若、落ち着いて行ってください。残りもう二ポイント取らないと勝ちではありませんよ」
国際基準の相撲大会は三ポイント先取の勝負となる。
印度華麗は土俵に敷かれたカレー粉を掬って口の中に入れた。
(実に美味い。私のような生粋のインド人にとっては物足りぬ辛さだが、…そそる。この勝負、最初から負けてやってもいいと思っていたが…)
カレーのアロマが、スパイスが印度華麗を土俵の中に戻した。
受けたダメージは見事に回復して、試合前よりも増して闘志を燃やしている。
これは、カレーマジックというべきものか。
操り人形のように立ち上がり、軽やかな動作で土俵中央に到達する。
「レフェリー。試合の続行をお願いします。ああ、そうだ。キン星山殿…、棄権するなら今のうちに済ませておきなさい。次はこうはいきませんぞ?」
印度華麗は口元でチッチッチと指を振って見せた。
凡庸な力士ならば、挑発に乗って奇襲を仕掛けたのだろう。
だが光太郎は今の印度華麗に違和感というかある種の不気味さを覚えていた。
印度華麗の苦行僧のような徹底して”肉”を削ぎ落したようなそれは膨張し、熱を帯び、鋼の肉体と化していた。
光太郎は咄嗟に美伊東君と羽合庵の姿を見た。
二人とも呆気に取られていた。
試合前までは軽量級の肉体しか持ち得ぬ力士が、わずかな時間で中量級になっていたのである。
驚くなという方が無理だろう。
「キン星山、早く中央に戻って下さい」
行司の声で光太郎は自我を取り戻した。
印度華麗の肉体はやはり中量級のままだった。
動揺を隠せぬ光太郎を見た印度華麗はまたニヤリと笑った。
光太郎はいつの間にか生じた迷いと恐れを吹っ切る為に両手で己の頬を叩いた。
痛みと熱さが、光太郎の正気を肉体に呼び戻す。
印度華麗は既に中腰の構えで光太郎の前に立っていた。
(今の印度華麗に、奇襲は通じないでごわす。されど身体の大きさはおいどんの方が勝っている。残り二ポイント、力で押し切って勝負を極めてやるでごわす‼)
光太郎は行司のかけ声を聞いた途端、相手に向かって突進する。
印度華麗の上から覆いかぶさるように取っ組んで、力任せに横に振って投げる。
吹き上がる土煙。力と技の電光石火の攻防。
光太郎は上手を、印度華麗の下手を取った。
結果、光太郎は予定通りに印度華麗のまわしを取ることに成功した。
しかし、動かなかった。
印度華麗の肉体が行く道を遮る巨岩のように見えた。
「勝負を焦ったな、光太郎…。それは悪手というものだ」
羽合庵は印度華麗によって下から持ち上げられている光太郎の姿を見ながら、悔しそうに言った。
印度華麗の肉体の変化は微々たるものでしかない。
相手のいかなる攻撃に対処しようとする、戦法の変化にこそ気を配るべきだったのだ。
印度華麗は頃合いを計ってから、光太郎の肉体を一度地面に下ろした。
行動の自由を取り戻した光太郎は反射的に印度華麗のまわしを取って予定通り横に投げようとする。
だが、それこそが印度華麗の真の狙いだった。
「いけません、若‼”へのへのもへじ投げ”の特訓を思い出してください‼」
美伊東君の声を聞いた光太郎はすぐにブロッケン山との特訓の事を思い出した。
ブロッケン山は”最良の状態にこそ最悪の危険が潜んでいる”と言っていた。
(今のおいどんの反撃は、印度華麗によって仕組まれたもの。だとすれば…)
光太郎は印度華麗の足を見た。
投げを仕掛けに行ったはずの光太郎の脚が逆に印度華麗によって今にも転ばされようとしていた。
だが光太郎はすぐにこれが罠であるということに気がついた。
なぜならば印度華麗の最大の武器は腕の力、勝負を決める時にも腕力だけで雌雄を決しようとするだろう。
光太郎は印度華麗の左腕を掴み、そのまま引っ張った。
「あんさんの動きは読ませてもらったでごわす。ここは強気の一番、先にぶん投げさせてもらうでごわすよ‼」
光太郎は思い切ってブロッケン山を破った必殺技”カツオの一本釣り投げ”を仕掛けた。
相手の片腕を取って、釣り竿を振り上げる要領で後方に投げ飛ばす豪快な荒技である。
(この私をこんな弱そうな力士が投げるだと⁉馬鹿な‼…断じて許さん‼)
次の瞬間、印度華麗は憤怒の形相に変化した。印度華麗は動作の途中の光太郎の右手首を掴んで強引に投げを崩した。
そのまま両者の立ち位置は入れ替わり光太郎は印度華麗に無防備な背中を晒すことになる。
光太郎は印度華麗に背を向ける格好となってしまった。
光太郎は振り向いて印度華麗から逃れようとするが、それを許す印度華麗ではない。
印度華麗は背後から光太郎を捕まえて背中を反らして裏投げを極めようとした。
印度華麗の腕力の凄まじさに光太郎は苦悶の表情を浮かべる。
「キン星山殿、貴方の脳天を砕いてさしあげましょう。安心してください。死んでしまえば、苦しむ必要はありませんから」
その時、印度華麗は違和感を覚えていた。
果たしてこのレベルの試合で、対戦相手が容易く投げられるような事があるのだろうか。
(これは身体が軽いのではなく自分から投げられにきたのか⁉)
光太郎は足を前に振って、印度華麗よりも先に着地した。
そして印度華麗の背後から両手で捕まえ、今度は光太郎が印度華麗に裏投げを仕掛けた。
「印度華麗殿、あんさんが本当に優秀な力士で助かったでごわすよ。凡庸な力士が相手ならこの仕掛けには絶対に引っかからなかった」
印度華麗は光太郎の掴みから逃れようと全身に力を込める。
しかし、光太郎の新たなる必殺技”へのへのもへじ投げ”は決して印度華麗を逃がさない。
印度華麗が次に力を込める方向に先回りして、力そのものを分散しているのだ。
この時、印度華麗は実力を出し渋った事を後悔した。
「これは…ッ‼おのれ、そういう事かッ‼ブロッケン山ッ‼」
光太郎は無力化した印度華麗の肉体を後ろに向けて投げた。
「これがおいどんとブロッケン山殿の血と汗の結晶…、日独共闘原爆落とし投げでごわす‼」
ズガンッ‼
大きなアーチを描きながら、光太郎は印度華麗を脳天から土俵に叩きつけた。
行司は軍配を光太郎の側に向けた。
予想外の二本先取。
しかし、ここからが印度華麗との戦いが本格化した合図でもあった。