第五十七話 並び立つ両雄‼対印度華麗戦、開始‼の巻
次回は11月12日に投稿する予定でごわす。
「まあ、こんなところじゃねえか?」
ブロッケン山の右頬には赤い痣が出来ていた。
光太郎は何度か止めたが怒れる説教中の羽合庵に口答えをしたのだ。パーではなく、グーで殴られていた。
本大会が明日に迫っているというのにこんな事でいいのだろうか、とも光太郎は考えたがブロッケン山と羽合庵のつき合いはこういうものだったらしい。
ブロッケン山は片目を閉じて愛嬌を振るまって見せる。
しかし。
「痛ッ」と短い悲鳴が聞こえる。
ブロッケン山は自分の後ろで怖い顔をしている鈴赤にまた脛を蹴られていた。
鈴赤もまたブロッケン山の喫煙癖に手を焼いている人間の一人だった。
ブロッケン山は鈴赤にせっつかれながら綿津海部屋に背を向ける。
この後、スモーオリンピック大会の中央委員会に行って参加の手続きを正式にしてくる予定らしい。
光太郎は去り行く老兵の背中に声をかけた。
「ブロッケン山殿。あんさんにはまだやる事がたくさんあるでごわす。お忘れなきよう」
光太郎にしては気の利いたまともな挨拶だった。
ブロッケン山は頭をポリポリと掻いてから、気まずそうに返事をした。
今朝方まで続いた稽古で、引退を決意した反面光太郎と本気で試合ってみたいという気持ちになってしまったのだ。
ブロッケン山はやはりどこまでも力士だった。
光太郎をずいと押しのけて羽合庵が姿を現した。
この褐色の肌を持つ古参の力士は、普段からあまり表情を外に出さない事で有名なのだが今は噴火直前の火山のように顔を赤くしている。
「ブロッケン山よ。光太郎に”へのへのもへじ投げ”の奥義を教授してくれた事には感謝しよう。しかし仮にも国を代表する力士ともあろう者が神聖な決闘場たる土俵の上で喫煙行為など許されるべき行為ではないのではないか?」
静かなる男はいまだに目を三角にして怒っていた。
ブロッケン山は羽合庵を目の前かた強引に除けた後、羽合庵と光太郎に最後の挨拶をした。
「だから謝っているだろう。羽合庵、お前もしつこいね。これ以上俺にケガをさせると国のお偉いさんへの言いわけが足りなくなっちまうって。最後に光太郎いやキン星山、印度華麗戦の切り札は”へのへのもへじ投げ”ではない、あくまで”思考の死角”だ。多分奴さんもやれることは全てやってきているだろうよ。…健闘を祈っているぜ?」
光太郎は去り行くブロッケン山は背中を見ながら”思考の死角”というアドバイスについて考えていた。
これから戦うであろう印度華麗という力士は今の光太郎と比較して経験、技術、身体能力の全てが格上であろう存在である。
普通に考えれば、死力を尽くした上でさらにその先を進まなければ敗北するしかないということだろう。
しかし、それだけではない。
ブロッケン山が修行で伝えたかった事とは他にもあるはずだ、と光太郎は考えた。
そうこうするうちに時間だけが流れ、第一試合の会場に向かって光太郎は羽合庵、美伊東君らと共に出発していた。
英樹親方はタナボタ理事の手伝いで大会の執行委員会に出向いていた。
光太郎が出かける際に母親が玄関先で石を打ち合わせていた事を思い出す。
よく昔の時代劇で見かけた光景だがどういう意味があるのかは光太郎も知らない。
道中ずっと光太郎は”馬鹿の考え休むに似たり”と思いつつもブロッケン山の言葉について考えていた。
「思考の死角でごわすか…」
結局、どれほど考えようとも答えは出なかった。
されど光太郎の身体に残る記憶だけはしっかりとその意味を捉えている。
実に新鮮で不思議な感覚だった。
知らずのうちに空を掴むような所作で、光太郎はイメージの中の印度華麗と戦っていた。
そんな中、羽合庵が実に面白く無さそうな顔つきで光太郎に説教を始める。
「ブロッケン山のつまらん謎かけだ、光太郎。さっさと忘れてしまえ。ヤツが言いたかった事はただ一つ、目先の勝利に囚われる事無く戦えという事だ。”へのへのもへじ投げ”は言うなれば姑息な手段。その性質ゆえに目先の勝利にばかり執心してしまう。だが反面として、”力士にとって相撲とはそういうものか”とよく考えてみろ」
そう言ってから羽合庵、は白目でギロリと睨みつけた。
光太郎はそれだけで委縮してしまった。
だが十分なヒントとなった事もまた事実だった。
スモーオリンピックという大舞台では勝利にばかり目がいってしまって相撲というものを忘れてしまうのだろう。
当時の世界を支配していた米ソの意地の張り合いに巻き込まれ、ブロッケン山や羽合庵がどれほどの不遇を強いられてきたか等今さら考えるまでもない。
「最後に聞いてやる、光太郎。お前は何の為に今日土俵の上に立つのだ?」
光太郎は師の一言に思わず立ち止まった。
瞼の裏側にはテキサス山、倫敦橋、大神山の姿が次々と克明に映し出される。
”真のキン星山になる時は彼らを土俵の上で倒したその時だ”
そして自信に満ちた答えを出した。
「一つ、強敵の為に。一つ、今だ見ぬ強敵の為に。そして最後は己の為に、でごわす」
羽合庵は鼻先で笑った。
肝の据わった良い答えだと思っている。
美伊東君は光太郎の自身に満ちた顔つきを見て自分の事のように喜んでしまう。
今は光太郎が敗北することなど考えもしない。
「まあまあの答えだな。そら、奴さんは既に会場に来ているぞ。気を引き締めろ、光太郎。GOD AND DEATHの気持ちを忘れるな」
光太郎は第一回戦の会場、東京カレー会館(※多分浅草にある)の前で仁王立ちをしているインド人力士の姿を見上げた。
今日に限っては頭の上にホカホカと湯気を立てるカツカレー(※ゲン担ぎの為と思われる)を乗せているが、あの力士とは思えぬ痩身は紛れもなくインド代表のカレークッ…ではなくて印度華麗だった。
印度華麗は近くにいるインド人っぽい人に頭の上に乗っているカツカレーを渡し、合掌したまま頭を垂れた。
カツカレーを乗せたまま頭を下げればカレーがこぼれてしまうからだった(※当たり前)。
「貴方が日本代表のキン星山様ですか。初めまして、私はインド代表の印度華麗というものです。今日は持てる限りの力を尽くし最高の戦いをしましょう」
印度華麗は雅やかに微笑む。
しかし、光太郎は印度華麗からかつてないほどの闘志を感じ取っていた。
光太郎はその場でジャージを脱ぎ捨て、四股を踏んだ。
昂る闘志を鎮めようとしたのだ。
その瞬間、印度華麗の細められた目が鋭利な刃物のように輝く。
思えばこの時二人の戦いは既に始まっていたのかもしれない。
光太郎は試合開始前だというのに低い位置から身構える。
印度華麗は光太郎を正面から迎え撃つという形で僧衣を脱ぎ捨てた。
「こちらこそ。今日はお手柔らかに仕合うことをお願いするでごわすよ。インド代表の印度華麗殿」
光太郎は鋭い視線を印度華麗に向けて、差し迫った。
能面のような表情らしきものを感じさせぬ印度華麗だったが、この時だけはニタリと不気味に笑って返した。
危険を感じた美伊東君が光太郎の手を取って印度華麗から引き離す。
同様に印度華麗の付き人も光太郎から印度華麗を引き離した。
「落ち着いてください。若、開会セレモニーが始まる前に試合を始めてしまったら流石に反則ですよ?」
美伊東君は心配そうな目つきで光太郎を見た。
しかし次の瞬間、羽合庵は光太郎の頬を張り飛ばした。
それは威力の無い、目覚ましの平手打ちだった。鼻血はしっかりと出たが。
「光太郎。早くも敵の術中に落ちたな。まず最初に敵に手を出させてから勝負に臨む。それが印度華麗のやり口だ」
後ろ目で羽合庵は印度華麗の姿を見た。
そこには口元をわずか歪ませ冷笑する印度華麗の姿があった。