第五十六話 修行終了‼へのへのもへじ投げ、ゲットだぜ‼の巻
大変遅れてしまったでごわす。ごめんでごわす。次回は11月8日に投稿する予定でごわす。
また空かしを食らった。
試合開始以来、光太郎の突進はブロッケン山に全て回避されていた。
目視さえしていない。
気負いが過ぎるのか、今の光太郎には理解できない。
だが普通に考えれば土俵という二人の力士にとって空間はあまりにも狭すぎるはずである。
やがて光太郎の息が切れ、肩を大きく上下させる頃にはその考えが甘いということに気がついた。
「おいおい。そんなテレフォン動作じゃ、明日の朝になっても俺には当たらないぜ?さっきの勢いはどうした、キン星山。俺を引退させてくれるんじゃなかったのか?」
ブロッケン山はさも呆れた様子で両手を放り出した。
しかし、内心は光太郎が気がつきつつあることに喜んでいた。
事前予測というものには限界がある。
先に回り込んでしまえば度合が進むほどに選択肢が仕掛け手の狭まってしまう。
それは羽合庵、倫敦橋、印度華麗とて例外ではない。
ガムシャラに、無謀に、しかし相手を確実に袋小路へと追い詰めて肝要なのだ。
ブロッケン山はまた最小限の動作で光太郎の突進を捌いた。
土俵に残した足跡を見ながら、ブロッケン山は自身の動ける範囲が少なくなっていることに気がついていた。
「残る”へのへのもへじ投げ”の実戦パターンは百以上。ならばおいどんは今まで習得した形式を全て使ってあんさんに挑む‼」
光太郎はブロッケン山の右手首に向かって平手打ちを狙った。
手首関節を狙うことによって”掴み”に狙いを絞らせない目的だった。
ブロッケン山は素早く守勢から攻勢に予測を展開する。
その選択肢とは、光太郎の顔面に肘打ち。
国際相撲のルールでは立派な反則だが、されど相撲の世界。勢い余って敵の顔に肘が当たることなど常識の範疇にすぎない。
光太郎は額であえてブロッケン山の肘打ちを受けようとした。
光太郎の額に一文字の傷が残り、ブロッケン山の肘は粉砕される。
しかし光太郎の浴びせ頭突きをブロッケン山は頭ごと捉えて、そのまま土俵に落とした。否。落としきる事は出来ない。
ギリギリのところで屈んで耐えている。
相撲の攻防ではない。
しかし紛れもなく力と力のせめぎ合いの極致たる相撲だった。
「そうだ。持てる力と技術を全てぶち込んで来い。俺の予測を、俺という力士の全てを今ここで越えろ。それ以外にお前が生き残る術など在りはしないのだ‼…キン星山‼」
ブロッケン山は横に移動しながら次の攻防に備える。
決着の瞬間は思った以上に近い。
真綿が水を吸い込むように、”キン星山”の名を受け継いだ男は次々と奥義の骨子を体得している。
ブロッケン山たちが築き上げた時代が終わり、次の世代の相撲が生まれようとしている事に喜びと寂しさを覚えた。
(この次は背骨を折る)
そう思うと同時に横跳びでキン星山の軸足の動きに制限をかける。
相撲のフットワークは前に進むことに特化しすぎていて、急な進路変更には思わぬ肉体的な負荷がかかってしまうのだ。
勢い余り轍から外れた車輪のように進み、伸びた鋼鉄の剛腕が背中をガッチリと捉える。
そして、ブロッケン山は光太郎と鯖折りの一歩手前の体勢で組み合うことになった。
「巧いッ‼この短時間で若の特製を知った上での好手ッ‼これがブロッケン山の真骨頂ですかッ‼」
それは相撲マニアの美伊東君をも唸らせるほどの”攻め手”だった。
鯖折りは日本の相撲ルールでは歓迎されていないが、国外の相撲では決まり手として存在している。
さらにスモーオリンピックでは公式の技としてベアハッグ、鯖折りは採用されていた。
日本の相撲しか知らない光太郎にとっては世界相撲の手痛い洗礼となったことだろう。
だが今回に限ってはそれがいい。
公式試合で落とされるよりも先に体感することが出来たのである。
美伊東君はブロッケン山の指導者としての能力は羽合庵に匹敵するものがあることを感じ取っていた。
(し、死ぬでごわす。美伊東君、タオルを投げて欲しいでごわすよ)
光太郎は失神一歩手前の状態で美伊東君に救いを求めた。
しかし美伊東君は何を思い違いをしたのかサムズアップを返してきた。
(美伊東君、今おいどんは力士人生最大のピンチを迎えているでごわすよ。いやいや、これは稽古でごわす。流石のブロッケン山殿もまさか技を最後まで極めてしまうような事は…)
光太郎は一縷の望みを託してブロッケン山の顔を盗み見た。
ブロッケン山は真剣そのものといった表情で正面から光太郎の背骨を折りにかかっていた。
だが次の瞬間には、光太郎の頭の中では恐怖と混乱よりも鯖折りへの対処法が克明に映し出されていた。
具体的に鯖折りという技には腕力で強引に締め上げる方法と、筋肉と骨格の要所を押さえ込んで肺と背骨を圧迫するという技術的な方法が存在した。
前者は力で相手を圧倒して逃れる手段で対処し、後者は相手と自分の間に隙間を作ってそこから逃がれるという手段があった。
そして、その時のブロッケン山は故意に逃れやすい形でベアハッグを仕掛けていた。
光太郎は即座にベアハッグがブロッケン山の本命ではないことを悟る。
今の状況は既にブロッケン山の術中にあり、光太郎は誘導されているのだ。
前に逃れれば出てきた身体を横に向かって投げる。
ここから後ろに踏ん張れば、おそらくブロッケン山の大本命である後方を取ってからのバックドロップという形で終わってしまうのだろう。
だが、そこに隙が生じる。
これは逃れようとする意識へと誘導するブロッケン山流の”へのへのもへじ投げ”であり、今の状況を打破する為に必要な行動とは前に出ることに他ならない。
ブロッケン山は考える時間を十分に与えたと判断し、ベアハッグの仕上げにかかっていた。
光太郎はブロッケン山の方に向かって思い切り体重をかけた。
ブロッケン山は光太郎の身体に出来た隙間を埋めるべく両腕に力を込めた。同時に光太郎は首だけを大きく後方に下げた。
鯖折りに対しての頭突き、かなりの非合理である。
他の格闘技ならば優先度の低い返し技として選択肢の一つに入っているのだろうが、重量級同士の組合いを主体とした相撲ならば握手と言わざるを得ない。
しかし、だからこそ光太郎にとっての好手となり得たのも事実だった。
光太郎はブロッケン山の側頭部に向かって目つぶし頭突きを狙った。
ブロッケン山はダメージを最小限に食い止め、尚且つ鯖折りの威力を止める為に頭突きが入る位置を修正しようとした。
「ブロッケン山殿、完全な戦略には、完全な戦略ではない戦略を含まないという欠点があるでごわすよ‼あんさんの選択肢は普通の力士相手ならば最適解だったでごわす‼しかし、おいどんはキン星山はそこを越えて行くでごわす‼…ふぐッ‼」
光太郎はブロッケン山の帽子にそのまま噛みついた。
ブロッケン山のトレードマークである帽子を鍔の部分から前にズラして視界を奪ったのだ。
通常、相撲において相手の力士の大銀杏に手をかけることは禁忌中の禁忌である。
スモーデビルでも試合中ならばそんなことはしないだろう。
しかし、これは真剣勝負とはいえ野試合ですらない稽古の中の試合である。
ブロッケン山は意図せずして思考の死角を突かれてしまったのだ。
一瞬にして視界を失ったブロッケン山は、自身もまた相撲という”へのへのもへじ投げ”に囚われていたことに気がついた。
そして”こういう敗北もあるのか”と己の殉教者じみた相撲人生も丸ごと笑った。
「キン星山の六十九の決め技の一つ、カツオの一本釣り投げぇぇぇーーーッ‼」
光太郎は一瞬の隙をついてブロッケン山の片手を取り、腕を釣り竿に見立ててブロッケン山の身体を放り投げた。
直後、地面に背中から叩きつけられるブロッケン山。
この日、光太郎がブロッケン山から勝ち取った唯一の瞬間でもあった。
仰向けになったブロッケン山は天井を見上げながら己に残された命について考えた。
(鈴赤に今日の敗北を教えてやろう。アイツはきっと自分が負けた時よりも悔しがり、さらに闘志を燃やすことだろう。そうか俺に残された時間は鈴赤の為に使うべきだったんだな…)
荒い息を吐く光太郎がブロッケン山に近づいていることがわかる。
光太郎は涙を流していた。
この若者にも勝負の非情さを教えてやる必要がある。
(羽合庵はそういうのが下手クソな力士だからな)
「タバコを一本だけ吸ってもいいか?鈴赤の前だとロクに吸えないんだ…」
ブロッケン山は立ち上がって脱ぎ捨てた上着の内ポケットを探っている。
そして、日本産の紙巻タバコを一本取り出すとマッチで火をつけようとした。
光太郎は何かに怯えるような顔で注意をしようとした。
「ええと…。それは…」
時で既に遅し。光太郎の後ろには両腕を組み全身を灼熱のマグマの如き色に変えた羽合庵と美伊東君が立っていた。
その隣には既に一発、張り手を入れられた英樹親方も立っている。
この後、ブロッケン山と光太郎と英樹親方はタバコの臭いが消えるまで稽古場の掃除をさせられることになった。