第五十五話 それぞれの戦う理由‼の巻
次回は11月3日に投稿したいと思います。
あれからどれほどの時が経過したのだろうか。
光太郎はすっかり暗くなってしまった稽古場の中を見渡した。
土俵の中心にはブロッケン山が仁王立ちしていた。
稽古中に気絶してしまった光太郎が意識を取り戻すまで待っていてくれた様子だった。
ドイツ力士の手元にある特徴のある匂いと煙を出している物体Xの存在を見ていると携帯灰皿の中に証拠隠滅してしまった。
英樹親方や羽合庵にバレれば説教どころではすまないだろう。
光太郎は苦笑しながら立ち上がった。
”へのへのもへじ投げ”を体得する為の稽古はまだ終わっていないのだ。
「お待たせしてもうしわけないでごわす、ブロッケン山殿。さあ、稽古の続きをお願いしもうすでごわす‼」
光太郎は四股を踏んで、ブロッケン山の攻撃に備えた。
ブロッケン山は顎に手を当てながら光太郎の足を見ていた。
どこか気になる場所でもあるのか、と光太郎自身も自分の太腿や脛を見てしまう。
ブロッケン山は左右に頭を振ってから自身の行動の理由について語った。
「別にお前さんが悪いというわけじゃねえさ、キン星山よ。正直なところ、ここまで食い下がるとは予想外だ。俺の知っている力士では五指に入るほどのタフな野郎だと思うぜ?」
光太郎はブロッケン山の自分に対する評価が高いことに喜びそうになるが、一瞬だけ戸惑う。
”基礎体力は及第点。では何が足りぬというのか”光太郎もまた考え込んでしまった。
ブロッケン山は再び、右手を光太郎の前に出した。
この形式に移ってから一時間くらいになるが互いの右手を掴んだところからトレーニングが始まる。
先ほど鈴赤が眠ってしまい、光太郎の家に泊まることが決まって大体の面子が引き上げてしまった頃から今のトレーニング方法に変わった。
理由も意外なものであり、現時点で印度華麗が最も得意とする”ランカシャースタイルからの攻防”というテーマも存在した。
美伊東君もうつらうつらとなりながら二人の姿を見守っている。
羽合庵と英樹親方はタナボタ理事の見送りに出て行ってしまった。
「何とかの考え、休むに似たりってヤツだ。実戦形式でとことんお前の肉体を追い込むぞ。俺にもわかったぜ、キン星山。お前は叩けば叩くほど化けるタイプだ」
ブロッケン山は一歩前に出てから左手首を掴んできた。
光太郎は三手先を読んでまわしに向かって伸びる左右どちらかの手に気を配る。
裏の裏の選択肢として直に上手を取りに行くというものもあったのだが、今の段階の光太郎ではそこまでついては行けないのであくまでこのレベルでの攻防に止められていた。
文字通り小手先の競り合いにすぎないのだが、技巧達者な老兵はこの局面でも格上として振る舞うことを忘れない。
あれよあれよという間に光太郎は土俵際に追い詰められて、極めて不利な体勢でまわしを取られていた。
そして光太郎の体勢を根っこから崩して、足を引っ掛け強引に投げた。
地面に叩きつけられ砂ぼこりが宙を舞う。
投げに行くまでの展開が早いとかそういうレベルでは無い。
光太郎にはブロッケン山との攻防が一つのつなぎ目の無い動作にさえ見えた。
「その、もう少しだけでいいでごわすから手加減をお願いしたいでごわすよ…。ここまで一方的にやられると自身を喪失してしまうでごわす…」
腰がへたれて動けない。
今さらの話になるが実力の違いをこうまで見せつけられると立ち上がる気力さえ無いといった心境でさえある。
(やれやれ。国という大それた看板を背負って戦うというのに、コイツには気負いというものが無い。つくづく世話のかかるヤツだ)
ブロッケン山は物心つく前から多くの者を背負わされ、孤軍奮闘を強いられてきた。
強敵たちと出会わなければ戦闘機械のようになっていただろう。
大昔絶対に負けられない戦いで敗北して地面に背をつけた自分に手を差し伸べてきた羽合庵の姿を思い出しながら、ブロッケン山は愚痴を溢す。
「馬鹿野郎が。接近戦中の予測合戦で手を抜いたら訓練にならねえだろうが。さっさと立て、キン星山。今のは結構イイ線行っていたんだ」
ブロッケン山は光太郎に手を差し出した。
光太郎はブロッケン山の手を握り、立ち上がる。
”イイ線を言っている”、タダの言葉にすぎない。
だが自分自身の成長を実感できたことが何よりも嬉しかった。
何時間も戦っているというのにまるで温度を感じさせないブロッケン山の手に違和感を覚えなければ、どれほど幸運だったのだろう。
光太郎は死人のように冷たい手をしたブロッケン山の顔を凝視する。
「ブロッケン山殿…。そのあんさんの手はとても冷たいでごわすよ。どこか具合が悪いのでごわすか…?」
知ってはいけないことを知ってしまった時の怯えた子供のような顔をした光太郎の顔を見たブロッケン山は優しく微笑んでくれた。
そして自らに待ち受ける確かな未来を告げる。
「ああ。認めたくはないが、俺はもうすぐこの世からいなくなっちまうらしい。若い頃から無理ばかりしてきたからな。自業自得ってヤツか?」
そして、自嘲的な渇いた笑いが漏れる。
死への恐怖は無い。
しかし、この世に残していく者の事だけが心配だった。
今日ここに来るまで何度も思い悩んだ事だったが、その問題も解決した。
かつてのブロッケン山のように鈴赤も強敵たちとの間に絆を見出して、前に進むことが出来る。
そう確信したからこそ、ブロッケン山は最後の仕事として光太郎のコーチ役を買って出たのだ。
「そんな…ッ‼鈴赤どんはどうするでごわすか⁉あんさんにもしもの事があったら、あんなにブロッケン山殿の事を慕っているというのにッ‼」
「それなら問題ないぜ。お前や美伊東君がいる。ヤツは、今回の大会を通じて多くのライバルたちの存在を知ることになるだろう。そして鈴赤は世界最強の力士になっていくんだ。俺の役目は終わった。老兵は去り行くのみさ」
光太郎は思わず立ち上がった。
今のブロッケン山の姿に、家を出る前の兄・翔平の面影を見てしまったからだ。あんな思いだけはもう絶対にしたくはない。
光太郎はブロッケン山の身体を前に向かって突き放した。
「それは絶対に違うでごわす。あんさんはまだまだ鈴赤に必要な男でごわす。おいどんは鈴赤の為に、この場であんさんを倒すッ‼」
ブロッケン山と鈴赤とは今日知り合ったばかりの間柄だった。
しかし、相撲を通しての僅かな時間で多くの事を分かり合えたような気がする。何よりも光太郎は”へのへのもへじ投げ”の特訓を経て、ブロッケン山がどれほど相撲の事を愛しているのかを理解したつもりだった。
彼の息子、鈴赤も大事に育てられたに違いないと思う。
何よりもこれほどの相撲愛に満ちた力士が自ずから死地に赴くことを見過ごせることなど、光太郎に出来るはずもない。
「言うねえ。さっきまでちっこいソーセージだった野郎が、見事なまでのフランクフルトに成長しやがった。じゃあ何か?俺をこの場で負かして隠居でもさせてみるのか?」
ブロッケン山は右腕を大きく回して身体の状態を確かめた。
光太郎に、キン星山という力士の事を知った時からこうなることは確信していた。
この男が相撲界の新たな希望になるか。
そして愛弟子、鈴赤の目標足り得る力士になるのか。
それを確かめる為に、ブロッケン山は”最後の稽古”に臨むのであった。