第十話 羽合庵の憂鬱の巻!!
次回は三月十日に出陣でごわすー!!
(伝えるべきことは伝えた。後は”彼”次第だ)
天のどこかにあるという大きな水瓶から流れ落ちるが如き滝の音に心を注ぎながら、赤銅の肉体を持つ老力士は佇んでいた。
今日、海星光太郎という力士と組み合って失望した。
彼にはこれといった才能と呼べるものがない。
このまま力士であり続けても並みの力士で終わってしまうだろう。
だが、しかし。
明日の光太郎はどうだろうか。
明日には輝きを増し、夜空の隅の星屑から中天の太陽に変わっているのではないか。
羽合庵は一人、若さを持て余したテキサス山の濁った瞳を思い出す。
今のテキサス山は昔の羽合庵だった。
数多くの好敵手たちを破竹の勢いでなぎ倒し、自分が無敵だと思っていたちっぽけな存在。
(あの若きスモーレスラーを己の二の舞にはすまい…)
己の未熟を自覚せぬまま世界に飛び出し手当たり次第に戦った。
敵がいなくなっても戦い続けた。
己の後を追って来ると思っていた英樹親方にも何度も止められた。
しかし、ついに羽合庵は己の不足に気がつくことなく数十年前に”彼”と出会ってしまったのだ。
伝説とばかり思っていた最強のスモーゴッドの一人に。
”彼”と出会うや否や羽合庵とその男は死合った。
羽合庵とて男が只者ではないことは十分に承知していた。
しかし、若さと傲慢さが羽合庵自身に相手との力の背をを見誤らせた。
一度の目の勝負はたった一度の叩き込みで決着がつく。
されど羽合庵は次は勝てる、と意気込んで体躯を躍らせてぶちかますが、男は砲弾の如き羽合庵の肉体を受け止め横に流してしまった。
二度目の土の味を知り、羽合庵は後に退けなくなった。
以降、九十九回も羽合庵は全身全霊の力を持って男に挑むことになる。
やがて羽合庵は意識を保つことが難しくなるほどの窮地に追い込まれていた。
「それほど長い時間があるわけではない。やがて世界は再び、スモーの恐ろしさを知ることになるだろう。若きスモーレスラーよ。その時までにせいぜい力を蓄えておくのだな。願うことならば、このアレス山を倒せるほどの力を」
薄れゆく意識の中、羽合庵はたしかにそう聞いた。
この時、羽合庵は屈辱よりも恐怖よりも、まず己に与えられた役割の使命の重さを知った。
もしも男の言っていることが真実であるとすれば、世界をまたにかけたスモー最終戦争が始まることを意味するからである。
今日この場で羽合庵はこの男に気まぐれに生かされたのではない。
アレス山を名乗るスモーゴッドは羽合庵をメッセンジャーとして選んだのだ。
若き羽合庵は己の運命を前に戦慄した。
やはり己の求めた道は間違っていなかったのだ。
その事件以降、羽合庵は来るべきスモー最終戦戦争を生き残る為に同志を探すことになる。
時には世界のスモーに参戦し、力のみを求める無頼のように戦い続けた。
今は亡き日本の師、親友である英樹親方とドリーファンク山と倫敦騎士にさえ何も告げられないまま戦い続けた。
その時から羽合庵は伝説のスモーレスラーと呼ばれるようになったのだ。
羽合庵は待ち続けた志を託すに値するスモーレスラーを。
羽合庵はひたすら待ち続けた混迷を極めるスモー界に秩序と安寧を為すべき存在を。
その褐色の体に数多の傷を残しながら、精神が何度折れようとも立ち続ける不屈の魂に火を灯しながら彼はスモーの未来の為に戦い続けたのだ。
だが皮肉にも運命は彼に味方を与えなかった。
やがて羽合庵が年老いて、戦えない体になって引退する時まで、真のスモーレスラーの強さを持ったスモーレスラーは現れなかったのである。
されど鍛錬を怠ることは無かった。
いつか自分の前に現れるであろう真のスモーレスラーの存在を信じて羽合庵はひたすら研ぎ続けたのだ。
心の刃を。
技を。
力を。
いつしか己の努力が報われることを信じて鍛え続けたのだ。
なぜなら彼にとってスモーは彼の全てだから。
彼は世界とスモーを天秤にかけてもスモーを選ぶ覚悟さえ持っていたのだ。
そして羽合庵の心が現代に戻る。
「やはり杞憂だったか…」
羽合庵は一人、首を横に振る。
海星光太郎を責めてはいけない。
例え彼の持つ資質が羽合庵の望むものであろうとも、魂がスモー愛が無ければ羽合庵の魂を託すことなどできない。
羽合庵は一人、四股を踏んだ。
ズンッ!!
親友、秀樹の息子ならばもしやと思った己の淡い期待を、未練を断ち切る意味で羽合庵は禊の四股を踏んだ。
ズズンッ!!
そして明日から再び己の使命を託すに値するスモーレスラーを探す度に出かける決意を奮い立たせる為に四股を踏んだ。
※ プロのお相撲さんが四股を踏むとマジで地面が揺れるので、くれぐれもTPOには気をつけよう。みんなとふじわらしのぶの約束だ。
羽合庵は一頻り四股を踏んだ後、ホテルに帰ることを考えていた。
(もしもの時の為は、俺が直々にテキサス山と戦ってやろう。果たして老いた俺があのテキサス山を相手にどこまで戦えるのやら)
そして羽合庵は力無く笑った。
「羽合庵よ。お前は他人の力というものを過小評価しているな」
当時の羽合庵には隣に並ぶ者がいないほどの無敵ぶりを発揮していた。
容易に声をかけることさえ躊躇われた羽合庵だが、雷電の言うことだけは軽んすることはなかった。
「スモーに他人の力が必要なのですか?」
訝しげな顔つきで若き羽合庵は尋ねる。
すると雷電親方はくっくと破顔しながら答えた。
「力士は土俵の中に入れば望まぬとも二人になってしまう。今はまだ考えなくてもいい。だが、もしもお前が道に迷うことがあれば一人くらいは友達を作っておいた方がいいぞ」
その時、なぜか今は亡き師の言葉を思い出した。
羽合庵の師匠であり先代の綿津海部屋の親方、海星雷電のことである。
スモープレジデントの跡目争いに巻き込まれ若くして故郷ハワイを追われた羽合庵はアジアの小さな島国でスモーの修行をすることになった。
浅黒い褐色の肌を持つ羽合庵は閉鎖的な気質を持つ日本のスモー界では特に嫌われ、何か問題を起こす度にスモー部屋を追放された。
そして最後に訪れたのが名門綿津海部屋だった。
当時に自暴自棄になっていた羽合庵は稽古の初日に親方に暴力を振るうという暴挙に出る。
あれこれと文句をつけられて追い出されるくらいなら、こちらから問題を起こして自分から出て行こうという魂胆だったのだ。
しかし、雷電は違った。
羽合庵の全ての技を受け止めてくれたのだ。
たった一人になってしまった今だからこそわかる。
こうして道に迷うことなく進んでいられるのは師のお陰なのだ。
「ミスター羽合庵ッ!!ストップ!!ストップ、プリーズでゴワスー!!」
羽合庵は海星光太郎の声をしかと耳で聞いた。
(やはりあの男は英樹の子、雷電親方の孫。私の心配こそが杞憂だったか)
羽合庵は口元をわずかに歪ませ光太郎の来訪を喜んだ。
しかし、いざ振り返った時には微塵にも喜ぶふりは見せない。
羽合庵はあくまで勝者として、光太郎は勝者に追いすがろうとする惨めな敗者として相対するのであった。
(見事に化けたな。海星光太郎)
羽合庵の前に現れた海星光太郎は別人のような顔つきになっていた。
どことなく幼さを感じさせるギョロ目の、団子鼻の童顔は決戦に望む若武者のような風貌に変わっている。
だらしなく半開きになっていた大きな口は真一文字に結ばれて強固な決意を覚えさせる。
まさしくスモレスラー、日本でいうところの力士のそれであった。
「用件は何だ。手短に言え」
羽合庵は突き放すように言った。
しかし、今の海星光太郎は怯むどころか喉笛に食らいついてくるかのような迫力で取って返す。
まるで土俵中央の立ち回りである。
「海星光太郎、一生のお願いでゴワス!!打倒、テキサス山の為にオイドンをアンタの弟子にしてくだしゃんせ!!」
(”くだしゃんせ”は違うだろう…)
日本語が達者な羽合庵は額から汗を流すほど残念な気持ちになっていた。