第九話 海星光太郎の覚醒!!の巻
次回は三月五日に投稿する予定です。展開の都合上、文章量が少なくなってしまったことを深くお詫びいたします。ごめんなさい。
試合の後、光太郎は腫れ上がって赤い風船のようになってしまった顔を美伊東君に冷やしてもらっていた。
流石に心配になった為か、英樹親方と大神山も側にいる。
母親は小さなバケツに冷凍庫から持ってきた氷を入れて氷水を作っている。
光太郎は今さらながら自分がどれほど多くの人間に支えられて生きているかを実感する。
そして、自分をここまで徹底的に叩きのめした羽合庵に対しては恐れをいだくどころか敬意さえ感じるようになっていた。
今の光太郎は何をする時でも恐怖を感じていた彼ではない。
その瞳には英気が宿り、心は波一つ無い湖面のように落ち着いていた。
(自分は今何かを失ったのではない。ようやく己の分際というものに気づかされたのだ)
光太郎の変容に気がついていたのは光太郎だけではない。
その場にいた全ての人間が、無力な子供から何者かになろうとしている男に成長している姿を理解している。
光太郎は右のまともな方の目で英樹親方の姿を見る。
「親方。オイドンはスモー人生の最後に、羽合庵の指導を受けたいと思っており申す。一生のお願いでゴワス。羽合庵にオイドンのコーチになってくれるように頼んでもらえないでゴワスか?」
(あの甘ったれの光太郎が、ワシを父では無く親方と呼んだ。羽合庵。お前のおかげだ。感謝の言葉も無い)
英樹親方は光太郎の肩に手を置いた。
普段ならば頭を叩かれるのではないかと早合点して、引っ込んでしまう光太郎だったが肝を据えているので動じる様子はない。
光太郎は己の覚悟というものを見定める為に親方の目を覗き込んだ。
「お前も一度、稽古をつけてもらって理解したと思うが羽合庵には情け容赦というものがない。海星光太郎、お前に命を捨てる覚悟は出来ているのか?」
光太郎は目を閉じる。
今、光太郎の瞼の裏側に映るものは翔平の姿だった。
まず最初に光太郎は名力士の血を受け継ぎ、名門の未来を背負って一人で相撲道を進む兄の重責を思った。
(翔平兄ちゃん…)
そして次に不慮の事故で角界を去らなければならなくなった兄の無念を思った。
(翔平兄ちゃん…ッッ!!)
光太郎は拳を固く握る。
いつか兄は「お前を土俵で待っている」と言ってくれた。
兄・翔平は並みの努力もしたことがない無能無価値の弟がいつかは自らの力で立ち上がり、自分の後を追ってきてくれると信じてくれていたのだ。
最後に光太郎は己の不甲斐なさを思った。
兄に。父に。母に。先輩、大神山に。美伊東君に。
光太郎は甘えていたのだ。
光太郎は己の無能を憎み、育児の無さ加減に愛想を尽かした。
(ここで立ち上がらなければ男が廃るというものでゴワス)
バシンッッ!!
光太郎は気合を入れ直す為に両の頬を一発叩いた。
腫れ上がっていた頬がさらに真っ赤になってしまった。
だが光太郎は涙を流すことは無かった。
ここにいない兄の為にしばらくの間は泣くことが出来ない。
「命を捨てる覚悟!今出来上がり申したでゴワス!」
「ならば自分で頭を下げて弟子入りして来い。それでも駄目ならワシが一緒に頭を下げてやる!今のお前なら羽合庵とて無下に断るような真似はしないだろう。行ってこい、海星光太郎!!」
激励を贈った後に英樹親方はついさっき羽合庵が出て行った方向に向かって指をさす。
光太郎は親方に頭を下げるとすぐに飛び出して行った。
少し時間が経過して光太郎の為に冷やしたおしぼりを持って現れた美伊東君が血相を変えて英樹親方に詰め寄る。
「親方。若はどこに行ってしまったんですか?…せっかくおしぼり持って来てあげたのに」
「美伊東。海星光太郎はおそらく羽合庵を探して例の滝に行ったはずだ。お前にはいろいろと迷惑をかけるが、海星光太郎のところに言ってやってくれんか?」
美伊東君は驚きのあまり声を出すことが出来なかった。
あの頑固者の英樹親方が半人前の光太郎を四股名で呼んでいるのだ。
やはり美伊東君が先ほどの羽合庵との戦いで感じていた光太郎の成長度合は勘違いではなかったのだ。
(ならば僕のやるべきこおとはただ一つ。あの未完の大器海星光太郎の道となって彼を一人前の力士にすることだ!!)
美伊東君は頭を下げてからすぐに光太郎の後を追いかけた。
(まるで出来の悪い兄としっかりの者の弟だな)
英樹親方は実の兄弟のような二人の姿を優しく見守っていた。