王者の試練
心臓が高鳴る。あれから結構な時間が経過しているはずだが、いまだに興奮から醒めない。
俺は全てが夢の中での出来事ではないことを祈りながら。
「俺が、あの倫敦橋と戦うのか?」
会場を離れ家に帰る途中に俺は何度も自らに問うていた。
季節は冬を迎えたばかりだというのに空から雪がまばらに降っていることに気がつく。
行き交う街の人々の吐息も白い。
また心臓が高鳴る。今度の戦いは五体満足で終えられるという確証はない。あの倫敦橋が相手なら死ぬ可能性だって十分にあるはずだ。
だというのに俺の体の中を流れるマグマの熱さを持った血潮は一向に収まる気配はないのだ。
いやむしろ自分の方からそうしないように働きかけていたと言った方が正しいのだろう。
用意された猶予はわずか二日の間だが、必ず俺の肉体を完全無欠に仕上げてみせる。
敗北と土の味を知るのは貴様の方だ、倫敦橋。
俺は闘争心を昂らせながらアパートを目指して歩いた。
帰ったらすぐにまわし一丁の姿でジョギングをするつもりで。
ロンドンの肌を刺すような冬の寒さ?気にならないね。
むしろ今は暑いくらいさ。だが、そんな俺を尾行する不穏な影の存在があった。
「お待ちなさい。鰤天部屋の若き力士よ」
気がつくと目の前に天を衝くような巨漢が立ちはだかっていた。
尋常ならざる闘気が陽炎のように周囲の景色を歪ませている。それがこの男の放つただ事ではない圧迫感であることは明確な事実だった。
高鳴る鼓動の音が消えた。呼吸することが困難だった。
息が苦しい。
胸が苦しい。これでは心臓を鷲掴みされたも同然である。
このままでは殺される。
反射的に俺は鉄砲をぶっ放した。
無論、俺は一般人相手にスモーの技を使うような男ではない。俺の野生の獣じみた本能がこの男の持つ独特の雰囲気が何かしらのプロフェッショナルであることを体感している。
そして、その予感は正しかった。
当たったという感触はあっても、それがダメージになったという確信はない。
この奇襲は不発、失敗だった。
俺の鉄砲をプロテクターに覆われた分厚い胸板で受け止められている。
さらに次の瞬間、俺の手首を掴み動きを封じ込めようとしていた。
どこまでも面白い。
倫敦橋の前にお前をぶっ壊してやろうか。
俺は容赦の無い全力のフルパワーで大男のクラッチを引き千切る。
この俺がここまでお膳立てをしてやったんだ。もう逃がしはしねえぞ。
俺は正体不明の巨漢相手にかつてないほどの殺意を覚えていた。
しかし、男は違った。あくまで冷静なまま俺と対峙していたのだ。
「うちの部屋の名前を知っているなら、俺のあだ名も知っているだろう、リトル・ジョン」
「鰤天部屋きっての問題児、春九砲丸。通称<ミスター・デモリッションマン>。比類なき破壊者と呼ばれているそうですね。だが本人に出会っていささか失望しましたよ。あの劣等スモーレスラーの対戦相手に指名されたというだけでこんなに舞い上がっているなんてね」
そう言うと男は一歩踏み込んでくる。体当たりを封じたつもりか。
俺は自分の不用心さに舌打ちする。パワーにはそこそこ自信があるが、こいつはただの木偶の坊ではない。身体の大きさに見合った実力を持つ純然たるパワーファイターだ。
想定したものよりも素早い動きを持っているかもしれない。
せめてぶちかましを決めてから重心を崩してまわしを取らなくてはなるまい。
俺にとっては身動き一つ出来ない紙一重の状況だった。
さらにもう一歩、男は踏み出す。
だがここから先は完全に俺の領域だった。
正体不明の不快感、内側から身を灼くような怒りが沸いてくる。
なぜ、攻めてこない。明らかに俺は遊ばれている。そして、俺の闘争心を弄ぶかのような振る舞いを決して許すわけにはいかない。
いいだろう、ここは乗ってやる。
俺は十分な距離を稼げない状況で倍近いサイズの男に組みついていく。
その瞬間、岩と岩が正面からぶつかりあったかのような衝撃に人気の無い裏路地がぐらついた。
思った通りだ。この大男、紛れもない強者。
俺は大地に両足を突き刺し、体格上の劣勢を覆すべくそこから逆転を計る。
どうだ?でかいの
これが土俵際の駆け引きってやつだ。