果てしなく広がる暗黒の中で、の巻
真章突入。ここから春九砲丸の真の物語がはじまりますッ!
「これがお前の望んだ結末なのか」
川面に映る俺は、俺に問いかける。その問いかけに対して俺は何も答えない。
「一体、どうすりゃいいんだ」
そういってから俺は目を閉じた。もしかするとこうしている間にも何かが悪い方向に進んでいるという可能性は否定できない。
袋小路に追い詰められて、ないない尽くしになってしまったのか。この俺ともあろうものが。
忌々しい川面を見つめながら俺はため息をつく。
ど畜生が。俺からスモーを取り上げて何が残る。
クソッたれが。また視界がブレはじめがった。
橋の手すりを掴んでバランスを失って倒れそうになるのを堪えようとするが、今の俺には自重を支える握力があるのかどうかさえ怪しい。
しばらくしてから視力が回復し、体勢を立て直す。それがあの試合が終わってからの日常だった。
頭蓋骨骨折による視覚障害、そして全身麻痺の可能性。
あの試合の後で医者にそう告げられた時に来るべき時が来たとそう考えていた。
我武者羅なラフファイトを続ければ絶対にそうなる。
全ては覚悟の上だったのに。
握力が戻らない手で殴る。だが、もっともらしい音さえ鳴らなかった。
酒は飲んでいない。怪我が悪化する可能性が怖かったからだ。
もう何日も寝ていない、眠れない。
俺は考えも無しにふらふらと歩き出した。
まわしを身につけたい。
素足で土俵に立ちたい。
俺はスモーがしたい。それだけなんだ。
「春九砲丸。来場所は頑張ってくれよ」
そんな俺の気持ちを知らないファンたちが俺に声をかける。
やめてくれ。
頼む。
そうこうと支離滅裂なことを考えているうちに俺のもとには無責任なファンたちが群がっていた。
彼らの握手やサインに応じてから、今日もまた鰤天部屋のトレーニングジムへと向かう。
足取りは重い。
稽古を続けたところでどうなるというのだ。それまで出来て当然だったことが出来なくなって惨めな思いをするだけだというのに。俺の壊れてしまった目からは涙も出ないのだ。
俺はジムへの道のりで何度も立ち止まる。
こんな身体で行ってどうするというのだ、春九砲丸。
お前はもう用済みなのだ。
何度か練習に参加しても「もうスモーレスラーとして再起できない」という現実を思い知らされるだけ
なんだぞ。わかっている。
そんなことは一番、俺自身がわかっていることなのだ。
俺は奥歯を強く噛み締めた。狂おしいほどに悔しいのに涙は出ないのだ。
医者の話ではスモーをしなければ車椅子や松葉杖の世話になることはないらしい。
視力に至っては相応の覚悟が必要だと言っていた。
全く、余計な世話だ。自分のことくらい自分が一番わかっている。
そう考えている最中に、石に蹴躓いたわけでもないのにバランスを崩す。
おっと、足場がグラつきやがった。最近じゃいつもこんな感じだ。
スクラップ寸前の体を引き吊りながら、廃屋同然のジムまで辿り着く。
またオヤジにうるさい小言を言われるだろうが俺にはこれしかない。
せめて、稽古の真似事だけでも、と錆だらけのドアノブに手をかけたその時に親父が吹き飛ばされ地面に転がされてきやがった。
俺は考え無しに飛び出して、オヤジの体を受け止める。
オヤジは額から血を流し、何かを伝えようと懸命に口を動かそうとする。
巨獣めいた大地を揺るがす重厚な足音。
背後から迫る強烈なプレッシャー。俺は心臓を直に掴まれたような心境となった。
氷の冷たさと炎の熱さを併せ持つ、相反する個性を備えた圧倒的なスモーオーラ。
「DOLL SUIT CALL IT ッ!!!!」
魂さえも吹き消してしまいそうな恐るべき気合と共に放たれる竹刀の一突き。
しかも「DOLL SUIT CALL IT(和訳:魂と血を捧げよ!)」だと!?英仏百年戦争に登場した世界初の女性力士「オルレアンの乙女」に率いられたスモーレスラーたちが好んで使った言葉ではないか。
今でもロンドン市内でこの言葉を使ったらその場で騎兵隊に射殺されても文句はいえない。
ロンドンっ子の常識だ。
竹刀の先端を手の平で受け止める。
その直後、俺は骨の髄にまで届く強烈な痛みなどものともせずに五指で押さえつけた。
満身創痍の身の上であろうとも俺のやることに変わりはない。
ましてガキのころから面倒を見てくれたオヤジを守るためなのだから。
やがて竹刀の威力を前に皮膚が破れ、出血する。たったそれだけのことだった。
二人のスモーレスラーは異なる思惑で笑う。
一方はさらなる激闘の予感に。
もう一方は己の野望の結実にまた一歩近づいているということを確信して。
俺はまだ終わっちゃあいねえ。
獣じみた笑いが、腹の奥底から湧いて出た。
今まで感じたことのない底知れない力の胎動。俺は竹刀を破壊せんとさらに力を込める。
だが、力と力が拮抗している為に俺の願いが叶うことはない。
いいぜ、面白い。つき合ってやるよ。
「グレープ・ザ・巨峰。DOLL SUIT CALL IT、とは穏やかじゃないな」
グレープ・ザ・巨峰は片手で竹刀を持ったまま、蹴払いを放った。
並みのスモーレスラーならば大腿骨骨折は免れないであろう一撃を春九砲丸は受け止めた。
さながらそれは鉄骨と鉄骨の衝突。
破壊エネルギーは相殺されて微塵の揺らぎさえ見せない。あたかもそれは真なるスモーの果し合いなのだと言わんばかりの光景であった。
グレープ・ザ・巨峰は無言のまま、竹刀を手放した。本気を出せばどうということはない相手だが、目的の為に殺すことは出来ない。正直、手に余る。それが率直な感想だった。
「まわしを身につけなさい、春九砲丸。その安物のベルトでは弱いものいじめをしているようで気分がよろしくない」
手元に戻った竹刀のほんのわずかな違和感。
先刻の攻防でバンブーと留め具、それらをひとまとめにしている糸に歪みを発見する。
不快な汚れやシミを見つけてしまったと言わんばかりにグレープ・ザ・巨峰は竹刀をねじ切った。
何という完璧主義者。このグレープ・ザ・巨峰の行為は春九砲丸の反骨心をさらに燃え上がらせる。
血まみれの床にうつ伏せになって倒れている親方と兄弟弟子たち。
春九砲丸の成長を見守ってきたトレーニング機器の数々は破壊し尽くされている。
屈辱、報復。
否、それはありとあらゆる意思を押しのけて顕現するスモーへの飽くなき渇望。
春九砲丸の顔から表情の一切が消えた。
かつてない絶望を前に消えかけていた闘志が火を取り戻す。
いつしか医師から受けた最後勧告は頭の中からさっぱりと消え、世の理不尽の全てを撥ね退けようとする生粋のスモレスラーだけがそこに残った。
「安心しな、グレープ・ザ・巨峰。俺はいつだってズボンの下はまわしだ!」
そう言ってから俺はベルトを外し、ズボンを脱ぎ捨てた。
ファスナーを下ろすとかそういうくだりはこの際だから省略だ。トゲのついた黒の革ジャンに白いまわし。このコスチュームこそが俺のルーツであり、スタンダードなのだ。