第百十八話 蟻の一穴‼の巻
毎度遅れてすいません。次回は十月三十日に更新する予定です。すいません。
果たして痛みは人を成長させるのか?その時、
そのような疑問がフラの舞の中で泡沫のように生まれていた。
痛みを乗り越えて前進する。言葉の聞こえは良いが必ずしも成功とは言えない。
少なくともフラの舞という力士には不似合いな生き様だった。だが目の前に痛みを背負いながら前に這って進んでいる男がいる。
初めてこの男の話を聞いた時にフラの舞は劣等感を覚えた。
なぜならその頃のフラの舞は死んだ父親の陰に怯え、自分に敗北を禁じていた。
泥臭い努力を否定して常に最短距離を進んできた。決して間違った生き方ではない、と自負している。
だが正しくも無い生き方だった。
三流パフォーマーのように敗者を罵倒し、勝ち誇る。感動の無いテレビドラマを見ているような気分だった。
試合の後で右腕を上げる度に偽りの称賛を受けてきた。
それは心を蝕む孤独、寂寥感だった。特に情けなかったのはアメリカ相撲界のビッグネーム、テキサス山を前にした時の自分の姿だった。
その時は、本当の自分の矮小な姿をこれでもかというほど思い知らされた。
彼にはフラの舞の手には決して届かないありとあらゆる物が備わっていた。
テキサス山を嫉妬する自分の姿を見るのは嫌だった。
しかしタイトルを賭けて挑戦するほどの勇気も無い。
今はその時機ではない。
何度そうやって自分を騙し続けてきた事か。
そしてテキサス山がスモーオリンピックの下見を兼ねて日本に遠征し、仇敵羽合庵の指導を受けた男がテキサス山を倒したというニュースを聞いた時にフラの舞は運命というものを感じるようになっていた。
(やはり、お前との戦いは運命だ。海星光太郎。今の俺は全ての痛みを受け入れ新たな道に進もうとしている。…お前を倒し、俺が次代のキン星山になってやる)
「攻撃は最大の防御、その逆もまた然り。先手を打ったフラの舞が窮地に立たされておる。カナダ山よ、力士であるお主ならばどうやってこの窮地を切り抜けるつもりじゃ?」
張昭は緊張の汗を流しながらカナダ山に問うた。
フラの舞に対して特に思い入れがあるわけではないが、カナダ山の戦友ともなれば勝たせてやりたいという気持ちが張昭にはあった。
「ハッ。残念だったな、叔父貴。あれは力士の世界では窮地とは言わねえよ。フラの舞は先に攻撃を仕掛ける事でキン星山に切り札を出させたんだ。つまり奴さんはこの先、あの厄介なガード戦法を簡単に出せねえ」
そしてカナダ山の予想は的中する。
キン星山はひたすらガードを上げて構えを持続するが、フラの舞は追撃する事は無かった。
先ほどの攻撃を弾かれて手に痺れが残っていたのも原因の一つではあるが、フラの舞は”連勝ストッパーの構え”の弱点を知っていた。
(連勝ストッパーの構えとは強固なガードを持続して敵の攻撃を防ぐ技ではない。自身の体内で相手の攻撃を受け流す回避行動に近い技だ)
フラの舞は光太郎から距離を置いて動きに注目する。
わずかな呼吸の乱れさえも見逃さない。
”連勝ストッパーの構え”の攻略法とは即ち集中力が途切れた時に生じるわずかな隙を衝く事にあった。
そして光太郎も弱点の事は承知している。
”完全な技など無い。継承した技に改良を重ねて己の物とせよ”と羽合庵の日頃の教えが脳裏に響く。光太郎は構えを解いて前進した。
「次は取っ組み合いがお望みか。芸が無いぞ、キン星山‼」
「応ともさ‼おいどんは馬鹿の一つ覚えの駄目力士でごわす‼この勝負を受けるも受けないもあんさんの自由ッ‼」
光太郎は腰の位置を下げてから一気に突っ込んだ。
出る前にわざわざそうする事を宣言したのはフラの舞に考える時間を与える為である。
じわっ…。
”凪”の張り手を受けた箇所が熱を帯びて再び痛み始める。
光太郎は先ほどから身体の負傷した箇所が気にしないようにして戦っていた。
結果そうしないよりはマシな程度の効果を得る事は出来たが時間の経過と共に限界を迎えつつある。
光太郎は正面から身体をぶつけてフラの舞のまわしを取ろうとした。
「愚問だな、キン星山。他の敵が相手ならば一笑に伏していたところだが、お前が相手ならば話は違う。全てにおいてお前を上回らなければ俺の勝利とは言えぬ」
ガシィッ‼
フラの舞は光太郎の身体を引きこんでから受け止めた。
そしてフラの舞は光太郎の両腕を外側から抑えて動きを制御しようとする。
それに対して光太郎はまわしを掴んだまま決死の覚悟で前進した。
だがどれほど力を込めようとも目の前のフラの舞は微動だにしない。
端正な顔に不敵な笑みを浮かべながら逆に光太郎を土俵の外に押し返そうとしていた。
「ぬううう…ッ‼…そう来ると思っていたでごわすよ、そりゃああッ‼」
光太郎はフラの舞の身体を右側に投げようとした。
しかしフラの舞は容易に光太郎の身体を土俵中央に戻す。
力加減を間違えれば当然のように光太郎は秘技”崖っぷちのど根性”を使うと予想していた。
光太郎は出力ではフラの舞に劣る物の、自由に発動するタイミングを切り替える事が可能だった。
(こちらが先に”崖っぷちのど根性”を出せば不利になる。ならば先に使わせるまでだ…ッ‼)
フラの舞は両腕から力を抜いて光太郎の前に立った。
光太郎は脱力に徹したフラの舞の姿を見て脅威を覚える。
次の瞬間、フラの舞のエメラルドの瞳が輝くと同時に想定を遥かに越えた距離からフラの舞の張り手が光太郎に向かって襲いかかる。
光太郎は後退しながら張り手をやり過ごし、再び連勝ストッパーの構えを取る。
「チッ、やはり知っていたか…。羽合庵め、他国の力士にベラベラと手の内を話しやがって。何様のつもりだ」
フラの舞は悪態をつきながら両腕を大きく回して肩の関節の具合を確かめる。
今使った技、”凪”と対となるハワイ相撲の”白波”は脱力によって関節の可動領域を増やして射程と速度を強化する技である。
速攻と短期決戦を信条とするハワイ相撲には珍しい類型だが技の威力と相手に与える心理的効果は十分にある。
光太郎はガードを上げて顔面を庇いながらフラの舞の次の一手を待つ。
この先予想されるフラの舞の挑発に乗れば勝負は一瞬で終わってしまうだろう。
「近距離では”火山”、遠距離では”白波”、そして”凪”による奇襲…ッ‼むう、まるで全盛期のワイキキの浜の姿を見ているようじゃわい」
雲吞麵は手数で光太郎を圧倒するフラの舞を苦悶に満ちた表情で見ている。
それは技巧ならば他の国の力士よりも中国の相撲拳法の方が優れているという誇りと父親と羽合庵への劣等感を克服しさらなる高みに達したフラの舞への嫉妬が原因である事に他ならなかった。
フラの舞は状況に応じて技を使い分け、精気に溢れた力で光太郎を土俵の際まで追い詰める。
そして止めは刺さずに光太郎を逃がす。
光太郎は息を切らせながら逃げては土俵中央からやり直させられていた。
「あの野郎…、キン星山の体力が完全に無くなるまで終わらせないつもりか…ッ‼」
伊達が今にも土俵の中に入って行きそうな勢いで毒づいた。
その間にも光太郎はフラの舞の追撃を受けて土俵の中央から端に追い込まれていた。
次の瞬間、フラの舞が勝負を決めようと接近するが寸前のタイミングで光太郎は意識を取り戻してフラの舞を追い払う。
光太郎はフラの舞の右手を取って引き寄せようとするが、フラの舞は光太郎の右手首を叩き落としてから一定の距離を保った。
フラの舞は光太郎に掴まれて赤くなった手首の具合を確認しながら間合いを確保する。
光太郎は不敵な笑みを浮かべながらフラの舞の出方を伺っていた。
「流石はキン星山だ。例え意識を失っていてもフラの舞への反撃を忘れてはいない…。こうなってくると試合前半のフラの舞側の優勢が思わぬ足かせになってくるな」
「おい、Jよ。ワシは日本語以外はわからんのじゃ。頼むから試合の解説をする時は日本語で頼むぞい」
一瞬の空白。
されどJは光太郎の反撃が無意識のうちに繰り出された物である事、そしてフラの舞がこれまで盤石の備えで試合を有利に運んだ事がフラの舞側の選択肢を狭めている事を説明した。
やれやれとしたり顔をしている剣桃太郎だったが、実は虎丸と考えている事に違いは無い。
余裕たっぷりといった顔をしながらも内心ではJの説明を真面目に聞いていた。
「今のキン星山の攻撃は意図して反応した物ではない。無意識のうちに繰り出された反撃だ。それを証拠にフラの舞は反応出来ていなかったはずだ。トラマル、これが何を意味するかわかっているか?」
虎丸は地べたに座り込んでから腕を組む。
しばらく首を捻って唸ってはいたが、すぐに元の強面に戻って口を開いた。
あまりの堂々とした様子に剣桃太郎と富樫は彼の意見を聞こうと真剣な顔をして待っていた。
「うーむ…ンなモンワシにわかるわけがなかろう。そういうのは田沢(※田沢情報には全幅の信頼を置いている)とか…、モモや雷電先生の仕事じゃ。というわけで分かりそうなヤツ、答えの方を頼む」
ドタドタドタ‼
コミカルにズッコケる相撲塾の漢たち。
孫権や他の武将、絶対にこういう場面では関わって来ない伊達までもが地面に転がっていた。
ズッコケた人間のあまりの多さに虎丸も額に汗を浮かべる。
その中でも比較的早くに回復した雷電は水を得た魚のようにJの質問に答えた。
「では皆に代わって私が答えよう。これまでフラの舞は相手に勝つ事だけを考えた相撲をしてきた。言うなれば一切の無駄を排除した相撲だろう」
「じゃあ今のキン星山先輩のまぐれ当りで計算が外れて、そこからフラの舞の調子が狂ったってか?そういうレベルの試合とも思えんが」
富樫は学帽の鍔を下げながら合点が行かないといった調子の声で答えた。
虎丸も富樫の意見に共感して、首を縦に振っている。
優秀な力士が勝ちパターンを崩されて敗北を喫するという話は決して珍しくはないが、スモーオリンピックのような世界レベルの大会の代表選手ともなれば低下した精神状態を元に戻すぐらいは簡単に出来てしまうだろう。
富樫たちから見てもフラの舞は世界に通用するトップクラスの力士である。
だが今は明らかに攻守は逆転し、不利に立たされていた。
光太郎はガードを上げながらフラの舞の攻撃を防ぎ、ゆっくりと後退させている。
「うむ。ある意味、その考え方も正しい。この試合、ラッキーパンチが一度当たったくらいでは結果が覆らないというお主の考えは間違っておらぬ。問題は、その後だ。先の攻防を起点にフラの舞の勝ちパターンをキン星山が使っている。つまり乗っ取られたわけだ」
「オフコース。流石は相撲塾の軍師、サー・雷電だ。俺が説明するまでもない。つまりキン星山はかなり早い段階から偶然の一撃がヒットする事を想定して、近距離線に応じたのではないかと俺は考えている。ミスター雲吞麺には心当りがあるようだが…」
雲吞麵は青ざめた顔で額の汗を拭った。
かつて彼がラーメン山と共に羽合庵に挑み、完敗した時に使われたキン星山の奥義を見ることになったのである。
雲吞麵は過去に味わった屈辱を紛らわそうと口の端から血が流れるほど歯を食いしばっていた。
「ぬうう…。あれこそはキン星山の奥義の一つ、”へのへのもへじ投げ”…。敵に同調する事によって勝負の流れを支配する恐るべき奥義じゃ。…ワシが後二十歳くらい若ければヤツに挑んでいたところじゃわい」
光太郎はフラの舞の攻撃を冷静に処理する。
不可避の張り手を体で受け止め、嵐の如き鉄砲を片っ端から手で落とす。
さらに動きを最小限に止める事で体力の消耗を抑えていた。
(腑に落ちないでごわす。あのフラの舞どんがおいどんの策に嵌るとは思えないでごわすよ。だけど今はこうやって少しでも体力を回復させなければ”崖っぷちのど根性”は使えないでごわす…)
光太郎は文字通り身を削りながら体力を温存する。
その間にもフラの舞の攻撃が衰えなかったが、呼吸の乱れを感じるようになっていた。
普段の光太郎ならば踏み込んで攻勢に転じていたのだろうが、二度の敗北がそれを許さない。
フラの舞がこの程度で終わる力士ではない事は戦っている光太郎自身が一番良く知っていた。
ザザッ…ザッ‼
一度、大きく飛び退いて土俵際に誘い込もうとするが応じる様子はない。
この時、光太郎はフラの舞の持つ見えざる刃の存在に気がついていた。
「それが伝家の宝刀”へのへのもへじ投げ”か。一つ良い事を教えてやろうか、海星光太郎。その技はな、俺たち一族には伝わっていないキン星山の奥義だ。我が心の師ラーメン山曰く、素質の無い者には教えようのない技らしいな」
フラの舞は両腕を上げて”火山の構え”を取った。
その時、いずこより冷気を含んだ風が吹いて光太郎を震え上がらせた。
光太郎はわけもわからずに連勝ストッパーの構えに切り替えてフラの舞の様子を見ていた。
それはまさに天地の覇者たる龍虎の戦いだった。
「ははっ…、あんさんのような天才に習得できんような技があるとは思わなかったでごわすよ」
光太郎は不自然なまでに激しく高鳴る心臓の鼓動を聞きながら、フラの舞を見る。
来る、何かが来る。
フラの舞は口元に嘲弄の笑みを浮かべながらラーメン山の言う”へのへのもへじ投げの素質”について語った。
「かの奥義習得において必須の条件とは弱者であることらしい。なるほど、俺もラーメン山から聞いた時に思わず膝を打ってしまったよ。負け知らずの俺には決して手の届かない場所にある技だとな」
ずんっ!
フラの舞は火山の構えを維持しながら一歩、光太郎との距離を縮める。
光太郎は両手を握り締めて”連勝ストッパーの構え”の守りをさらに固めた。
「だが今の俺は以前とは違う。かつてない、強者が俺の目の前にいるのだからな。ありがとう、海星光太郎。俺はお前の屍を越えて新たなる頂を目指そうと思う。よく見ておけ、これが俺の”へのへのもへじ投げ”だ‼」