第百十一話 大ピンチ、孫権山の危機‼の巻
かなり遅れてすいません。次回は九月六日になると思います。
ちなみに今回、孫権を襲ったのは曹丕の四友の呉質です。作中で正体を明かすことはないのでここに書いておきました。
凌統の怒声が城内に響き渡る。
腰の剣を抜かないのはカナダ山とスペシャル山が目の前に立っているからだ。
周泰にしてみれば、いっそ凌統に斬られて汚名を注いだ方が幾分か済々したことだろう。
周泰は地に膝をつけて頭を垂れる。自分の過失をうやむやにするような事は一切、言わない。
「孫権様を見失った、だと⁉一体貴様は何の為の近衛兵だ、周泰ッ‼」
凌統は拳を震わせながら己の不明をも悔いる。
周泰は周瑜が見込んだ優秀な軍人だ。
彼が些細な失敗で孫権を見逃すことはない。
仮に今の自分たちに足りないものがあるとすればそれは個々の結束だろう。
周瑜と張昭の努力によって戦力は増強されたが、いざ動くともなれば戦場で本来の実力が発揮できるかは怪しいものだ。
(今、我々に必要な物は求心力。そうかつて覇王”項羽”の再来と称された孫策様のような…)
そこで凌統は己の中で膨張する現在の主君、孫権への期待に歯止めをかける。
孫権と孫策は兄弟であっても同じ人間ではない。
もしかすると孫権という人間の存在を故人である孫策の鋳型に流し込んで勝手に満足していた事が家臣と主君の心に溝を作っていたのやもしれぬ。
「なあ、美伊東君。あちらさんはずいぶん大変な事になっているようでごわすが、おいどんは何もしなくていいんでごわすか?」
死闘の後、光太郎は柴桑の城内にある大広間の窓の近くで涼んでいた。
魯粛は個室を用意すると言ってくれたが必要なのは小休止であって休憩ではない。
今ここで最も恐ろしい事は戦いから時間が経過しすぎて”熱量”が失われることである。
光太郎は体力の回復、精神は闘志を絶やさぬように努めた。
目を閉じないのは、美伊東君から「若はそのまま眠ってしまうので」と言われたからである。
「僕の聞いた話によると、何でも盟主の孫権さんが散歩に出かけたきり戻らないとか…。この調子だと、そろそろ別の場所に移動することになるんでしょうかね」
美伊東君は光太郎の近くでタオルを振って風を送る。
光太郎は頭を縦に振って感謝の意を伝えるとその場に寝転んだ。
背中を地面につけて数十秒後、早くもウトウトとしている
(この人は…、あれほど寝るなと言ったのに。どうなっても知らないぞ)
美伊東君は眉間に皺を寄せながらタオルを振り続けた。
だんだんだんっ。
やがて張昭たちの話に参加させられていた羽合庵が光太郎たちのところに戻って来た。
案の定、光太郎は大口を開けてぐーぐーと寝ている。
羽合庵は汚物を見るような視線を光太郎に投げかけると足拭きマットよろしく身体の上を通り抜けた。
老いても羽合庵は力士、現役ほどではないにしても体重は落としてはいない。
「ぎええええええーっ」
直後、光太郎の情けない悲鳴が城内に木霊した。
「おや最近のカーペットは通った直後にブザーが鳴るのか。いやはや科学技術とは日進月歩とは言うが速度は侮れぬものがあるな。なあ、美伊東君?」
「ええ、全くですよ。僕は試合中にお腹が空いたり、トイレに行きたくなったりするから寝ないでくださいってあれほど言ったのに…。うちの若はどこまで本気なのやら」
羽合庵よ美伊東君は同時にため息をつく。
先の一戦で圧倒的な実力差を誇る強敵から奇跡の逆転勝利をもぎ取った光太郎は消え失せていた。
光太郎は壁まで横転した後、羽合庵に踏まれた箇所を撫でながら起き上がる。
そして愛想笑いを浮かべながら師匠と相棒の近くに向かった。
「いやー、酷いでごわすな。美伊東君も、羽合庵師匠も。おいどんは本気も本気、次の試合もフラの舞を倒して準々決勝に進む為の秘策をこう、目を瞑って精神統一しながら考えていたわけでごわすよ。がっはっはっは!」
羽合庵と美伊東君は死んだ魚のような目つきで光太郎を見ている。
光太郎の高笑いにはいつしか虚しい響きしか残っていなかった。
「面白い話だな。俺を打倒する秘策とやらがあるならば、この場で語ってはくれないか。…敗者の特権というヤツだ」
フラの舞は頭にかかっていたタオルを外して光太郎を見る。
彼もまた光太郎と同じような理由で城内に残っていた。
光太郎はフラの舞に突然声をかけられて固まってしまう。
二人は未だに対戦中だったが、元より社交性に乏しく内向的な性格の光太郎では会話が続かない。
美伊東君がやれやれと呆れた様子でフラの舞の謝罪する。
ここで間違って羽合庵が話に入ってこれば間違いなくケンカになってしまうだろう。
「もうしわけありません、フラの舞。今の若は一回勝っていい気になっているだけですから、酔っぱらいの戯言だと思ってもらっても構いませんから」
フラの舞はフッと笑うとまた頭からタオルを被って休憩に戻る。
美伊東君は何度も頭を下げながら心の底から謝っていた。
光太郎は結果としてフラの舞を挑発した事を反省してションボリしている。
美伊東君はフラの舞に頭を下げながら光太郎に不用心な発言を控えるように釘を刺しておく。
この戦いに審判は大会の審判は存在しないが、それよりも厄介な神獣たちによって監視されているのである。
仮に彼らの反感を買うような真似をすればどうなるかはわからない。
「美伊東君、おいどんは今回も全面的に悪かったごわすよ…。そのおいどんの代わりに謝ってくれて感謝するでごわす」
「…。本当に反省しているなら今はしっかり休んで体力を回復させてください。いいですか、若。後一回でも負けたらそこで終わりなんですからね!」
光太郎は敷物の上に座って目を閉じる。
その間も瞼を閉じることは無く、気を落ち着かせた。
一方、羽合庵はフラの舞と光太郎の間に何も無かったので張昭のところに戻った。
張昭は周泰から孫権の行方がわからなくなったという報告を受けてから落ち込んでいる。
光太郎という問題児を抱える羽合庵としてはどうしても放ってはおけなかった。
羽合庵は悠々とした足取りで張昭の前に現れる。
張昭は羽合庵の姿を見ると安堵したような顔になった。
張昭は普段から若い人間と一緒に行動することが多いので、年長者である羽合庵の存在を心強く思っている。
羽合庵は張昭に右手で握手をした。
「このような形で天人の使者を頼るような真似をして、本当に心苦しく思っております。羽合庵殿」
張昭は両目を閉じながら羽合庵の大きな手を取る。
彼の手からは孫権の身を案じる親の心と自身の無力感を確かに感じる。
それはかつて羽合庵が盟友ワイキキの浜を失い、彼の息子フラの舞から憎しみを受けた時と同じような心境だったのだろう。
羽合庵は彼の苦しみが少しでも和らぐように慰めの言葉をかけた。
「ミスター・張昭。何も楽観しろとは言わないが、若い人間の力を信じてやるのも責任ある立場の者の仕事だ。今は孫権将軍が無事に帰った時の説教の内容でも考えておいた方がいいのではないか?」
張昭は何度も頷きながら羽合庵の手を放した。
いつの間にか彼の周りに甘寧と凌統を始めとする江南の勇者たちが集まっている。
張昭は着物の袖で涙を拭ってから大きく咳払いをした。
そして奥に引っ込んでいた周泰を呼びつけて、彼の話を聞きながら失踪した孫権の捜索隊を結成する。
かくして頭の固い老臣は元通りに復活し、周瑜将軍が城に到着する前に何とか孫権を連れ戻すという目標が定まる。
居候の身分にすぎない光太郎たちは出来る範囲で彼らの手伝いをすることになった。
そして今より数時間前、当の孫権はどうしていたか。
孫権は警護役の周泰に頼み込んで一人で河原を散策していた。
無論、周泰は猛反対したが孫権に懇願されては受け入れざるを得ない。
孫権は中天を映す長江の河面を見ながら物思いに耽っているうちに死んだ父や兄と過ごした日々を思い出していた。
(父や兄ならば、きっと私などより上手くやっていた。そのうち周瑜や張昭も私を見限ってどこかへ行ってしまうかもしれない。ああ、私はどうすればいいんだ…)
そのまま背の高い大男は上流に向かって歩いて行った。
道行く釣り人や行商人にたちは彼が孫権だと知って頭を下げていたが、孫権は人気のない場所に辿り着くまでついに気がつくことは無かった。
やがて孫権は腰を下ろすには都合の良い大きな石を見つけるとそこに座る。
それから誰もいない事を確認してから大きな声で泣き言を始める。
それは普段から張昭と周瑜から特に注意されていた孫権の悪癖だった。
「ああ、私は何て駄目な人間なんだろう。父上ほど勇敢ではないし、人望では兄上の足元にも及ばない。どうせなら周瑜兄上が家督を継いで盟主になってくれればいいのに…」
びゅんっ!
孫権の鼻先を一本の矢が掠める。彼を射殺す為ではない、あくまで警告の為に放たれたものだ。
孫権は表情を引き締めて周囲を警戒する。
ひゅっ!ひゅっ!
風を掻く音と共に第二、第三の矢が孫権に向かって放たれる。
これらの矢からも殺気の類を感じない。孫権は護身用の直刀で矢を次々と叩き落とした。
「お見事。貴方は江南の盟主、孫権殿ですね。我々の主人がどうしても貴方に会いたいと言っておられます。もうしわけありませんがご同行願えませんかな?」
孫権は挨拶の代わりに暗殺者たちに切っ先を向けた。
生憎と幼い頃から命を狙われる事には慣れている。
敵に下れば自分の命は助かるかもしれないが、仲間の命が危険に晒されるのは明白。
何より死んだ父と兄もこうしたはずだ。
「私に話があるならお前の主とやらが直接私のところに来ればいい。五分の条件で話を聞いてやる…」
「フン。おとなしい小僧と聞いていたが、あの小覇王と比べての事か。悪いがこちらも手ぶらで帰るわけにはいかん。…腕の一本くらいは覚悟してもらうぞ?」
男が右手を下ろすと彼の背後に控えていた者たちは構えていた弓を地面に捨てた。
そして武器を短刀に持ち替える。
白刃にも似た冷たい殺気が孫権に向けられた。
(不味いな。皆、場数をこなした手練れだ…)
ギンッ‼
孫権は背中から冷たい汗を流しながら音もなく目の前に現れた刺客の剣を弾き飛ばす。
次いで地面に転がった剣を蹴り飛ばそうするが、間一髪で現れた別の男がそれを阻止する。
孫権は自らの不運を呪いながらも懸命に立ち向かった。
「やれやれ、まるで虎だな…。こちらは死人こそ出なかったが半分は使い物にならん」
孫権は奮闘も虚しく刺客たちに捕まっていた。
首領格の男は部下に命じて孫権を縄で縛っている。
小利口なやり口からして江南の人間ではない。
孫権は縄を引き千切ろうと全身に力を込める。
だが後少しのところで首領の男に見破られ、殴られた後に縄の上から鎖で縛られてしまった。
「どこの誰かは知らんが、殺すならさっさと殺せ。言っておくが私が死んでも誰も困らないぞ。私はただの穀潰しだからな」
孫権はわざと強気に出た。
その一方で刺客の男は頭巾の奥から孫権の人間性を観察する。
(この男。見かけは荒削りだが、磨けば光る”玉”となろう。曹丕殿の障害になるやもしれん…)
男は懐から別の短刀を取り出して孫権の喉に押し当てた。
彼の部下たちが驚いて一斉に止めようとする。
「気が変わった。こいつはここで死んでもらうことにした。責任は俺が取る…」
ピタリ。
男は「じゃあな」と静かに告げると刃を横に流した。
(父上、兄上。どうか愚かな私をお許しください)
孫権は最後に泣かぬのが父と兄への餞とばかりに死を覚悟して目を閉じてしまう。
だがこの時、孫権は死ぬ事は無かった。
「気に食わんのう。実に気に食わんぞ、富樫…ッ‼」
「その通りじゃ、相棒。一人を相手に寄ってたかって袋叩きとは男の風上にもおけん…」
富樫は男の帯を取って強引にぶん投げた。
男は地面にぶつかる寸前に受け身を取って直撃を避ける。
しかし、その直後に虎丸の突進によって大きく吹き飛ばされた。