第百二話 くじけぬ心‼の巻
すいません、遅れてしまいました。
次回こそは遅れぬよう七月十五日に投稿しようと思います。でごわす。
敗北から得るものなど無い。
光太郎は意識を取り戻しながらそう考える。
不完全な呼吸が肉体の再生活動を阻み、肉体と精神に負った傷を抉っていた。
しかし同時にそれは自身がいまだに勝利を欲しているのだということを自覚させる。
一体何の為の修練の日々だったのだ?
光太郎は土俵の土を掴んで起き上がった。
既にフラの舞は次の戦場に向かい、土俵には相撲塾の力士たちと雲吞麺の姿だけがあった。
雲吞麺は右手を出して光太郎が立ち上がるのを助けようとしたが、光太郎は固辞する。
武士の情けを知る雲吞麺はすぐに引き下がった。
光太郎は雲吞麺に心の中で礼を行ってから吊り橋の向こうに広がる次元の扉っぽい場所に向かって歩き出す。
「ケッ、どちらも潔い事で…」
夏侯惇は光太郎の背中を見てから馬首を返すと一人でつり橋の反対側に向かった。
男同士の真剣勝負に口を挟むつもりは無かったが、部下を率いる不自由な身の上としては白黒のつかない決着を見せられて不満だけが残ってしまった。
荀攸は大声を上げて夏侯惇と呼び戻そうとする。
「夏侯惇将軍ッ!どこに行かれるというのですか!我々の任務はあくまで百姓たちの監視ですぞ!こんなことが曹公の耳に届けば…ッ!」
とそこまで言って荀攸は止まってしまう。
高祖に仕えたハンカイの如き猛将、豪傑の類を好む曹操が長坂の戦場に張飛が現れたと聞けばすぐに連れて来いと言い出すからである。
関羽に位を与えた時も家臣の間で大いに揉めた事も記憶に新しい。
「黙れ、荀攸。百姓は残らず荊州を出て行った。俺たちはそこの虎髭に蹴散らされてめそめそと退却、とでも子桓(※曹丕の字。こっちは追撃に参加していたことが史書にも記載されている)に報告しておけ。責任は全部”盲夏侯”のジジイだ」
荀攸は全軍に撤退するように号令を出して馬に乗り上げる。
最後に吊り橋のすぐに近くに立っている張飛に挨拶に向かった。
張飛は荀攸に対して手を合わせ礼をする。
「張飛殿。今度の一件、悉く申し訳ない。何も礼を返すことは出来ないが、ご武運を祈る」
「こちらこそ。百姓たちはともかく私を見逃してくださって夏侯将軍と荀攸殿の寛大な御心に感謝するでござる。願わくば天下を決する戦場にて相見えましょうぞ」
「いや、それだけは御免被る。何せ私の本領は文筆と放言。戦場では早々に蛇矛の餌食になってしまいますからな。これにて失礼」
荀攸は苦笑いしながら去って行った。
張飛は相撲塾の猛者たちのところに馬を引いて行く。
尚、中国出身と思われる雷電と雲吞麺は感動のあまり涙を流して彼を迎えた。
張飛は号泣する雲吞麺と雷電の姿に戸惑いを見せるが飛燕が泣き止まぬ二人を諫め、月光と剣桃太郎が張飛と話をすることになった。
伊達臣人は富樫たちと一緒に吊り橋の向こうに消えてしまった光太郎の方を見ている。
「負けるんじゃねえぞ、キン星山…。勝負ってのは終わってみねえとわからんもんだ」
伊達は光太郎の気配が完全に消えてしまった事に感づいて踵を返す。
富樫と虎丸とジェイも伊達に遅れて霧の向こうの光太郎に声援を送った。
その頃、剣桃太郎と月光は張飛からどこかの山村に非難するように言われたが自分たちは退路を確保していると説明していた。
張飛は剣桃太郎と月光の用意周到さに感心していた。
「なるほど。既に潜伏先を考えていたとは素晴らしい。剣殿と月光殿は立派でございますな。張益徳、感服いたしました。ウチの兄貴たちや軍師殿に見習わせたいくらいだ」
張飛は演義に登場する豪傑のイメージ通り豪快に笑った。
剣桃太郎はニヒルに笑った後、別離の挨拶に張飛に向かって手の平を差し出す。
張飛は剣の手を軽く叩き、次に月光の手を叩いた。
「張飛殿、どうかご武運を」
月光は言葉を発する瞬間にこの先、張飛を待ち受ける過酷な運命について考えていた。
しばらくの間、蜀の運命を打ち明けるかどうか迷っていると剣桃太郎に背中を叩かれて我に返る。
張飛の姿どころか気配さえも無かったのだ。
剣桃太郎は苦笑しながら茫然自失する月光に語り掛ける。
「月光、張飛はどこかに行っちまったよ。多分、俺たちがこの先彼が裏切りに遭って背後から斬られて死ぬ運命を教えても彼はそれを受け入れただろう。あの人は燕人張飛なんだぜ?」
「…。要らぬ心配をかけたな、剣殿。拙者はもう大丈夫だ。急いで雲吞麺殿のところに向かおう。周囲の気配が乱れ始めている。おそらくはこの場所が消滅しようとしているのだろう」
剣桃太郎の額からタラリと汗が流れる。
丁度同じ頃、合流を果たした伊達たちも嫌な汗をかきながら聞き流していた。
(そんなことが何でわかるんだよ)
そう思ってはいても誰も口にすることはない突っ込みだった。
やがて飛燕に諭された雲吞麺と雷電が合流する。
この時、憧れの武侠「張飛」と出会った事で雲吞麺のテンションが20%くらい上昇していたことは言うまでもない。
「さて皆の衆、次に向かうは赤壁相撲の第二の戦場である孫呉の要所”柴桑”に向かうぞ。各々方、気合を入れて行くぞ!」
雲吞麺は鼻息を荒くしながらドスドスと歩いて行く。
富樫と虎丸は変なスイッチが入ってしまった雲吞麺を心配そうに見ていた。
冷徹な伊達でさえ軽やかにスキップをしながら歩いている雲吞麺の姿を前に言葉を失っていた。
「雲吞麺のオッサン、ここに来て元気になってしまったのう…。そういえば虎丸、柴桑といえば魯粛と諸葛亮が孫権の説得に向かった場所だったな」
富樫は吉川英治と横山光輝で「三国志」に詳しくなった男だった。
対して虎丸は劇場版の三国志のアニメと横山光輝の漫画を読んで三国志オタクになった男である。
他の事はともかく虎丸は三国志では富樫を先輩格として認めていた。
「ああ、あの孔明が呉のおっさんたちに虐められる場面だな。今、思い出して腸が煮えくり返りそうじゃ」
命からがら荊州から呉にやって来た孔明が孫権の重臣たちにイカサマ師呼ばわりをされて黙っている場面を思い出し、虎丸が奥歯を軋ませる。
虎丸は徹底した蜀のファンで基本的に呉の武将が大嫌いだった。
富樫も虎丸に負けず劣らず蜀のファンだったのでうんうんと首を縦に振っている。
「そうじゃ。そんな場所で今度は一体どんな相撲をやらされるというんじゃ、キン星山先輩は。俺はさっきからその事が気になって仕方ねえ。なあ、桃よ。お前もそうは思わねえか?」
「俺にだってわからねえよ。だがな、次の試合はきっと前の勝負ほどあっさりとは決まらないぜ」
剣桃太郎は雲吞麺の待っている場所に向かって指をさした。
先ほどと同じく空中に渦巻きのようなものが出来上がり、そこから光が漏れている。
おそらくあの先に次の闘技場が広がっているのだろう。
剣桃太郎は悠然と雲吞麺のいる場所に向かって歩き始める。
富樫と虎丸を先頭に相撲塾の猛者たちは剣桃太郎の後ろについて行った。
「桃。俺の見立てでは次の勝負はフラの舞の圧勝になると思っている。だが数々の危機を相撲塾魂で切り抜けてきたお前がそう言うのならやはり正しいということだろう。出来ればREASONを教えてはくれないか?」
遅れてついてきたジェイが最後の部分だけ外国人枠としての矜持を発揮して英語で尋ねる。
他の相撲塾の面々も剣桃太郎の語る”キン星山の勝機はまだ失わていない”根拠、即ちREASONに興味があるらしく聞き耳を立てる。
雲吞麺などはわざわざ耳に手を当てながら聞こうとしていた。
「そうだな。最初にあの二人を見た時はそれこそ天と地ほどの実力差があったはずなんだが、今はかなり距離が縮まっているような気がする。まあ、それ以前に俺がキン星山先輩を気に入ってしまったからというのが主な理由だが、こんなんでいいか?」
剣桃太郎は言いわけの一つもせずに霧の中へと消えたキン星山の背中を思い出す。
(あれは死地へと向かう戦士の背中じゃねえ。勝利をつかみ取る為に覚悟を決めた力士の背中だ…。なあ、キン星山先輩よ)
ジェイは無言で頷き、心からの理解と同意を示した。
かくして相撲塾の面々は雲吞麺の用意した新しいワープゲートを使って次の試合会場を目指す。
彼らの後ろ姿を見送った巨大な幻獣、亀霊は厄介者たちが姿を消して一息ついていた。
「ようやく消えたか、人間どもめ。いつもながら気忙しい奴らだ。…それにしてもキン星山とやらも鈍い男だ。先の試合でお前が手に入れたのは計り知れない事物だというのに。まだそれに気がつかんとは…」
亀霊は眠たそうに独り言ちるとそのまま霧の奥深くに姿を消してしまった。
そして全ては霧の中に夢幻と消えていく。亀霊は最後に土俵に残ったキン星山とフラの舞の足跡の位置について考えていた。
次なる舞台は孫権の本拠地、呉の国に変わる。
光太郎といえば無心で吊り橋を渡り、山道を歩いていたところで霧に包まれ引き返すことも出来なかったので止む無く歩いていた。
今にして思えば霧の中で無心で歩いていたのはフラの舞に敗北した事を考えない為でもあった。
完全な実力差を見せつけられ、功を焦って師から教わった相撲で失策を犯す始末。
美伊東君に知られれば大目玉を食らってしまうことだろう。
光太郎は傷心の中、美伊東君に怒られている自分の姿を思い出して苦笑する。
今頃は現実世界で光太郎の勝利を信じて待っているのだろうが、辛くも二敗を喫してしまった。
既に後は無い。
光太郎は苦い思いを噛み締めながらひたすら出口を目指す。
「若、ご苦労様です!二回も負けてお辛い事でしょうが、勝負はこれからですよ!」
光太郎は幻聴の類かと思っていたが、美伊東君の隣には羽合庵と父英樹親方の姿もある。
三人は霧の晴れた先で光太郎を待っていた。
光太郎は大粒の涙を流しながら駆け出して行く。
例えこの先、傷つき倒れようとも同胞の信義に背くような真似はすまいと心に固く誓った。