第百一話 屈辱の敗北‼(二回目)の巻
次回こそは七月十日に投稿するでごわす!多分!
「これは夏侯将軍、お久しぶりにござる。先の宴会では当方の失態に次ぐ失態をば平にお許し下され」
張飛は拳と掌を合わせて頭を下げる。
三国志演義では粗暴な振る舞いが目立つ張飛だったが史書においては礼と兵法を貴ぶ文武両道の士であったという記述も残っている。
夏侯惇は面白くなさそうに頭をかいた後、張飛から背を向けてしまった。
その合間を縫って荀攸が張飛の前に現れる。
劉備が曹操の下で働いていた頃、数回ほどだが話をした間柄だった。
「張飛殿、お久しぶりでござる。今は敵対しているが貴公とは共に中華の未来の為に働いた仲でございます。ここでいがみ合いともなれば孫呉を喜ばせるだけゆえに一度、蛇矛を下げてはくれませんか?こちらの兵と馬が怯えてしまって…」
荀攸は苦笑いしながら張飛に兵士たちの姿を見せた。
張飛は快諾し、蛇矛の先を地面に向けて戦闘の意志が無い事を示した。
もとより荀攸と夏侯惇は逃げる百姓たちを捕らえる為に来たわけではなく、戦争の混乱に乗じて出現する盗賊たちを退治する為にやって来たのだ。
この戦乱の世から逃げたければ思う存分逃げればいい、というのが夏侯惇の考えだった。
「張飛よ。百姓どもならばまだしもお前を易々と通しては丞相の沽券に関わる。もしも吊り橋を通りたければ俺と賭けをしてからにしろ」
そう言った後に夏侯惇は吊り橋の上にある土俵を指でさした。
張飛は目を凝らして世にも不思議な光景に見入ってしまう。
戦乱の時代においても吊り橋の上に土俵が立っているなどあり得ない出来事だった。
そして光太郎とフラの舞は自分たちの方が話題に上っている事に気がついて吊り橋の向こうに立っている夏侯惇たちに向かって頭を下げた。
礼を尽くした二人に対して張飛も頭を下げる。
粗野な外見からして豪傑然とした張飛だが、普段から礼儀作法にうるさい関羽から指導されている為に律義に挨拶を返す癖がついていた。
「賭けというのは向こうの珍妙な土俵に立っている若者のどちらが勝つか。そういう種類の賭け事ですか?」
「そうだ。俺はあの不細工な猪豚面の若造に賭ける。お前はもう一人の優男の勝利に賭けろ」
夏侯惇は部下から水の入った盃を受け取り、口に含むと地面に出した。
この場で喉を潤せば血気まで湿気ってしまう可能性もある。
張飛が返事をする前に荀攸が夏侯惇の前に顔を真っ赤にしてやって来た。
夏侯惇はこの何かと規則にうるさい男を隻眼でねめつける。
常に斬られる覚悟で夏侯惇や曹操に接してくる荀攸の存在を頼もしく思ってはいるが、基本的に武人と文官なので考えが相容れぬものとなる事も珍しくはない。
さらに荀攸は叔父荀彧の信頼も厚く、夏侯惇とは古いつき合いの楽進、于禁といった将軍とも親交があるので迂闊に怒鳴り散らすことも出来なかった。
「将軍、ここをどこと心得ますか⁉丞相の気まぐれならばともかく漢の大将軍である貴方様が戦場で賭け事などあるまじき行為ですぞ‼」
荀攸は烈火の如く怒りを露わにした。
夏侯惇は耳に人差し指を入れて聞こうとしない。
それどころか蠅や蚊を追い払うように手を振った。
三国志マニアならば知っているかもしれないが赤壁の戦いの時点では曹操は魏王ではない(まして丞相でもない。作者がその時の雰囲気で適当に書いているだけなので要注意だ)。
よって夏侯惇、荀攸らは漢帝国の軍人ということになる。
「吠えるな、荀攸。今俺は張飛と話をしている。軍内の序列では俺の方が上であることを忘れるなよ?もっとも俺より偉ぶりたいなら亜瞞に俺から推挙してやっても構わんぞ」
殊更に「亜瞞」と曹操を幼少の頃のあだ名で呼んでみせる。
荀攸の普段は温厚そうな顔が見る見るうちに赤くなっていた。
董卓をも恐れぬ豪胆の持ち主として知られる荀攸と天下に隻眼の鬼将軍として知られる夏侯惇の衝突を恐れた兵士たちは緊張のあまり身動きすることが出来なくなってしまった。
張飛はすぐに二人の間に入って場を収めようとする。
「お待ちください、御二方。夏侯将軍の持ち掛けられた賭け事は私めが引き受けます。荀攸殿、今回はこの野人張飛が酒によって暴れたとでも放言しておいてください。敵方である私のせいで軍内の和が乱れるようであれば本末転倒というものでござる」
と髭面の厳つい顔をした男が愛想笑いを浮かべながら謝っていた。
荀攸は口を真一文字に結んで心中に沸き立つ怒りを飲み込んで後方に戻ってしまった。
一方、夏侯惇は張飛の後頭部を叩いて口をへの字にしている。
「余計な事をしてくれたな、張飛。あれでは前よりもっとやり難くなったぞ。説教一刻程度では済まないだろうよ。ところで賭けの話になるが、優男の方で構わんな?」
「勝ち負けを競うというなら、あちらの御仁の方が有利でしょう。しかし何故に向こうの…風変わりな髪型(※光太郎の文金高島田髷の事)をした若者の勝利に賭けようとしているのですか」
夏侯惇は腕を組みながら光太郎とフラの舞の姿を見る。
美しく勇ましい若武者のような姿をしたフラの舞とどこか間の抜けた百姓のような光太郎、二人の優劣は一目瞭然だった。
夏侯惇は張飛の言葉を鼻先で笑って返した。
「言うに及ばずだ、張飛。俺は負けそうな奴に肩入れすることを好む。黄巾の乱の時も、今でもずっとだ」
夏侯惇は己の半生を思い出しながら大笑した。
張飛もまたついこの間までの流浪の日々を思い起こし笑う。
かくして光太郎とフラの舞の戦いは再開されることになった。
土俵の上に雲吞麺が三段跳びをしながらやって来る。
途中でつり橋から落ちそうになった時は伊達臣人も驚いて目を大きくしていた。
雲吞麺は何事も無かったように両手を袖の下に入れて土俵の上に立った。
顔が少しだけ青くなっていることを光太郎は突っ込まないでやることにした。
「これより赤壁相撲の長坂の戦い、第二戦を再開する。フラの舞、キン星山。準備は整ったな?」
光太郎は「押忍」を勢い良く返事をした。
そして、土俵の中央に立つ。
実際は立っているだけでもやっとの事だったが今は虚勢を張ろうという気持ちさえも貴重な原動力だった。
わずかな時間が空いたおかげで気力だけは少しだけ元に戻った。
フラの舞を相手にどこまで食い下がれるかはわからないが、せめて攻略の糸口だけでも見つけなければならぬ。
光太郎は泥仕合覚悟で勝負に臨んだ。
一方、フラの舞はここに来て光太郎の手強さの神髄を見たような気がしていた。
もはや八方塞がりでいつ逃げ出してもおかしくはない状況だというのに、キン星山は立ち上がり挑んできた。
その時、フラの舞はラーメン山の言葉を思い出す。
「代々のキン星山は勝負で追い詰められた時に真価を発揮する。ゆめゆめ忘れるな。追い詰めた時に確実に倒せ。さもなくば試合が終わった時に倒れているのは貴様の方だ、フラの舞よ」
フラの舞は以前より自分に足りないものは身体能力の類だと思っていた。
テキサス山に一度も勝つ事が出来なかったのは身体能力で劣っているからであり、自分という力士の在り方に不足は無いと考えていた。
しかし、今ならば自分の間違いであると断言出来る。
(俺に足りぬ物。それは心、人と人との絆を信じる心だった。家庭を顧みない父ワイキキの浜、父を裏切った羽合庵、今までの俺にとっては憎しみの対象でしかなかった。だがキン星山との戦いを通して俺は気づかされた。父と羽合庵への憎しみは信頼の裏返しだ。結局俺は今の今まで独り立ちせずに何かに支えなければ生きていけないタダのガキだった)
フラの舞は腰を落として足を上げる。
(親父。羽合庵。…ありがとう。今は胸を張ってそう言えるよ)
そして、万感の思いを共に土俵に足を落とした。
次の瞬間、フラの舞の目から迷いが消えていた。
以前のようなギラついた野心ではない、勝利を渇望する気高き力士が光太郎の前に立ちはだかる。
光太郎は歯を食いしばり、この期に及んで土俵から逃げ出そうとする己の身体を引き止める。
万が一の勝ち目も今、消えてしまった。
それでも光太郎の誇りが土俵から離れることを許さない。
光太郎は低い位置に構えて突進の準備をする。
雲吞麺は内心、勝負の結末に嘆息しながらも目の前に手刀を落とす。
刹那、二人の力士が土俵の中央に向けて駆け上がった。
「GO FOR BROKENッッ‼」
「どっせいッッ‼」
魂を込めた一声の後に二人の肉体がぶつかり合う。
第二戦、これが最後の勝負だった。
鋼の弾丸と化した肉体が正面衝突し、火花を散らした。
第二幕、突っ張りの応酬が始まって光太郎とフラの舞の身体は己の血で赤く染まる。
だが二人の勢いは弱まることなく時間を追う毎に激しさを増して行った。
防御、回避といった駆け引きの要素が無い戦いに命知らずの相撲塾の猛者たちも呆気に取られる。
今の張り手の打ち合いで光太郎は右の瞼を切って視界を失ってしまった。
対してフラの舞は自慢の鼻を潰されて上手く呼吸が出来なくなっている。
光太郎は残った目を見開き、フラの舞は土俵に血を叩き落とす。
光太郎は右の張り手でフラの舞を頬を打ち、フラの舞は左の張り手で光太郎のわき腹を突き上げる。
結果、出来た傷がさらに深まった。
両者はそのまま互いの傷ついた箇所を攻撃し続ける。
土は力士たちの血と汗を吸い上げて、一部が赤く染まる。
光太郎は視界の全てを失っても張り手の乱打を止めない。
フラの舞は誰もが羨む美貌が失われようとも闘志を燃やし続ける。
そして互いに両手がダラリと下がるまで壮絶なる打ち合いは続いた。
「おいどんは今ほど相撲をやっていて良かったと思ったことはないでごわすよ…。フラの舞どん、勝負でごわす」
光太郎は息も絶え絶えに口を開く。
そして両手で目を拭ってフラの舞を見据えた。
目の前に最強の敵がいる。
今の時分では勝つ事は叶わないだろう。
だが逃げることは出来ない。
自分自身がそうであると決めたから。
光太郎は前進しながらフラの舞にまわしを取ることを考えていた。
「フン、生意気な。これが終わったら慰謝料でも請求してやろうか…」
フラの舞は赤黒く腫れ上がった顔で笑っていた。
すでに体力は底を尽き、気力だけで立っている状態だった。
どうせ三本先取の戦いなのだから一本くらい勝利を譲っても構わないと思っていても何故か全勝するつもりでいた。
何故か目の前の男にだけは完全勝利を叩きつけてやりたかった。
(海星光太郎。俺もキン星山の血筋を受け継ぐ者だ。だからお前にだけは絶対に勝ちたい)
フラの舞は右手を大きく掲げて決まり手”そっ首落とし”の形を作る。
一歩、また一歩と前進する度に両者の心臓の鼓動が激しさを増す。
光太郎とフラの舞は互いの”機”を窺い、睨み合っていた。
そして残り一歩というところで立ち止まる。
夏侯惇は残った目の瞼を落としてため息を吐く。
そう最初から決まった勝負だったのだ。
「フン、くだらん。”敵を知り己を知れば百選危うからず”か。うちの阿瞞にも聞かせてやりたい言葉だな」
光太郎はフラの舞のまわしを取りにかかった。
フラの舞は下半身を無防備に晒すことで己の領域に光太郎を引きこんだ。
頭上の手刀が鈍く輝く。それは一種の賭けであった。
光太郎もフラの舞も余力というものが失われた状態でか細い勝利への道筋を見出そうとしていたのだ。
運に全てを委ねたといっても過言ではない。
光太郎が死に物狂いで土俵の外に押し出せば、それで勝ち。
フラの舞の手刀が光太郎の首の後ろに落とされれば意識を失って軍配はフラの舞に上がる。
この時点では五分の状況だった。
しかし、この時光太郎に邪念が働いてしまったとして一体、誰が彼を責めることが出来ようか。
小賢しくも光太郎はこの時、へのへのもへじ投げの理合を使ってしまったのだ。
逆転一発の妙手が、とんでもない愚策に変わる。
光太郎は手刀を察知して直前で背後を取ろうと回り込む。
よく言えば機敏、ありのままを言えば愚直。
それは極限の勝負においては許されぬ悪手だった。
そしてフラの舞が光太郎の失策を見逃すはずもなく、すぐに振り返って大地という支えを失った光太郎の首根っこを掴んで持ち上げる。
常時ならばともかく今の光太郎に渾身の喉輪を外す余力などあろうはずもない。
光太郎は喉から持ち上げられ、足をバタつかせた後に意識を失ってしまった。
そして、フラの舞は全身全霊の力を込めて光太郎を地面に叩き落とす。
「クッ…ッ‼それまで‼勝者、フラの舞ッッ‼」
フラの舞は憑き物が落ちたような表情で光太郎を見下ろしていた。
土俵の上では白目を剥いた光太郎が仰向けで倒れている。
かくして赤壁相撲、第二戦も光太郎の敗北で幕を閉じる結果となってしまった。