甘い雪
「あげるよ」
教室がやけに寒くて、自席で体を丸めるようにして座っていると、突然、机の上に置かれたのは、すでに半分食べてある安そうな分厚い板チョコ。
見上げると、あの子が俯いて立っていた。
『あげるよ』
その落ち着いた声が耳の奥に染み込んでいく心地好さに浸りながら、頬が赤くなりそうになるのを必死に抑えた。けどあの子の向こうで、窓の外、雪が降っていることに初めて気がついたのに、そんなことどうでもよくなる程には僕の鼓動は速くなっていた。
「え?どうして?」
そう訊いたけど、あの子は黙ったまま、ただチョコを差し出している。
しばしチョコレートとその子を見つめた。
再試前の自習時間、追試になるやつなんてそうそういなくて、教室には先生もいなければクラスメートも数えるぐらいしかいない。なのに、教室の窓がほとんど曇ってしまっているのは、僕のこの体が発熱した体温のせいじゃないかなんて馬鹿げたこと思ってしまう。
教室に入った時から彼女の姿をきっちり捉えていたから意識はしていたけれど、まさか彼女の方から話しかてくるなんて夢にも思っていなかった。だからなぜにどうしてチョコレートなんだ?と不思議ではあったけれど、人見知りなあの子が僕に声をかけてくれている。それだけで僕は舞い上がりそうで、別に欲しくもなかったのに、「じゃあ、くれる分だけ割って?」
だなんて、僕としたことがどこか甘えたような言葉を発してしまった。
だけどあの子は何も言わず、俯いたままこくんと頷くと、板チョコを手にとって外袋の上から適当なところでチョコを割る。その細い指がやけに眩しくて、目が離せなかった。
チョコレートをもらう振りして彼女の指に触れてしまおうか?だなんて胸の中で邪心が顔を出したけど、気づかないふりをしてあの子の前髪で隠れた額を見てた。こんなに近くから彼女の姿を見るのはこれが初めてかもしれないなんて思うと、しっかり目に焼きつけておきたくなった。
彼女は再び無言で差し出した板チョコを、今度は両手で僕の前に出すものだから、僕の中の邪心が大きくむくりと体を起こしてしまい、チョコを持っているその白い両手から視線が離せず、うまくチョコを取り出す事ができなかった。
「よいしょ」
なんて言って誤魔化しても、もたもたすればするほどあの子の視線が自分の手にビーム光線のように注がれて、手の平がじわりと汗ばんだ。すると彼女の細い指が外袋の上からチョコを押しだして、僕の指にチョコを近づけていく。
おうおう、そんなに傍に寄ってくんなって、俺の理性にも限界があるんだぜ?
なんて僕のやんちゃな指が彼女の手を口説こうとしてたけど、僕自体は小心者だから自分の手が汗ばんでいることを知られたくなくて、彼女の手に触れないよう細心の注意なんて払ってしまった。
結局僕に残ったのは、つまんだ板チョコの切れ端と彼女の指の残照。それから微かに香ったあの子の柔らかい体温と僕の上に落ちた小柄な影。
ああきっと、一生忘れられないんだろうなって予感した。
「ありがとう」。
これでもかと言わんばかりに満面の笑顔を浮かべたら、あの子はまたこくんと頷いて自分の席に戻って行った。その背中を目で追いかけて初めて、教室にはあの子と僕とどうでもいいアイツだけしかいないんだって気づいた。アイツはどうせ一人で携帯いじってるから、本当どうでもいい。
だから、今あの子と僕は二人っきりも同然。
そう思ったら、一気に体温が上って手に持ってるチョコレートが指に溶けだした。
慌てて、ひと口で食べるには大きすぎるのに、頬張って口の中いっぱいにチョコレートを押し込んだ。
普通のチョコレートだった。いや、正直ミルク臭いって他は味なんて分からなかった。なのに、あの子がくれた。ただそれだけでとてつもなく甘くて、胸の中がぐにょぐにょして、眩暈がした。なんて殺人的甘さなんだ。
あの子は何事もなかったような顔して、レポート用紙に何か書いていた。だけど僕の頭はぐるぐる回転して、せっかくのチャンスだ。あの子ともっと話したい。もっと近づきたいって叫び出していた。
だけど何を話せばいい?早く、早く、口の中のチョコレートを飲みこまなければ。
口をもごもごもごもごさせて、やっと話せるスタンバイは整ったのに、心臓はずっとどくどくしてて結局チャイムが鳴るまで彼女の横顔盗み見るだけで何も話しかけられなかった。
僕は愚かな小心者の自分を呪いながら、でも同時に口の中にまだ残り続けている甘さを感じるたび、彼女が直接くれたチョコレートの味なんだと幸せな気分にもなった。
あの子はそそくさ教室を出て行ってしまって、それを追いかけすらしない自分の不甲斐無さに嫌気がさしたけど、次は再試だからロッカーに私物を置きに行かなきゃいけない。重い腰を上げて外廊下に出てみれば、頬に冷たい風が当たって、自分がどれぐらい顔を熱くしてたのかが分かった。
ふと腕に抱えているレポート用紙と教科書を見て、そういえばチョコレートを貰う前にアイツから、あの子にレポート用紙一枚やってくれと言われてあの子に渡したことを思い出した。
ああなんだ、板チョコはレポート用紙のお礼だったのか。
だけど僕の脳裏に、俯いたあの子のどこか緊張したような表情が浮かぶ。
待てよ?あの子はわざわざ勇気振り絞って僕にチョコレートをくれた。それにあの板チョコは、慎ましい暮らしをしている彼女が節約した中から買っているものだと僕は知っている。
僕は・・・僕は、少しぐらい自惚れてもいいんだろうか?
どうでもいい奴に、それもたったレポート用紙1枚のために、あの子の大切なチョコレート、くれるのか?
いや、優しいあの子なら、するのかもしれない。だが、細い指が近づけた板チョコは僕の取ろうとした方じゃなくて大きい方だった。
いや、でも・・・いや・・・。
どうしようもなく巡り巡る頭の中、膨らむ気持ちが爆発しそうになって、雪の中、逃げるようにロッカー室へ走った。
あれから、もうずいぶんと月日が経ったけれど、今だに、僕にかかれば角砂糖だって茶菓子になる。それぐらい甘党だと自負するこの僕が、唯一苦しくなる甘さはあの日のチョコレート以外にまだ出会ったことはない。
そうか、今夜は雪が降っているのか。どうりで胸の中がぐにょぐにょするはずだ。
あの子のぶっきら棒な優しさがひどく懐かしい。