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人の持つ牙  作者: 赤胴貫介
ディーセント帝国・騎士団編
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ある冬の夜の追憶

 はた、と目を覚ますとそこは暗かった。


 突然の暗がりにより瞼を二、三度瞬いて狼狽えてしまい、彼はわずかに転びそうになった。

 踏み止まってから右と左を見ると、ここがある路地だと分かった。そして、この雰囲気に彼は懐かしさを覚えた。


 「ここは……」


 路地裏に転がる材木や布の切れ端、木で出来た建物の造り、すえた釜飯の香り、乾いて萎びた刺身を咥えて足元を通った野良猫……これらは彼、ジャックもとい寂 主水の記憶に全てあったものだ。


 「戻って来た……のか?」


 前世で過ごした地、日本。


 詳しいことは分からないが、どうやら日本の路地に自分は立っているらしい。

 辺りはすでに暗く、からっ風が吹いている。しかも、路地を横切った男を遠目で見ると厚着していたので、今は冬の夜だとあたりをつけた。


 ここが日本だということが、いよいよ現実味を増してくると、彼は夜空を仰ぎ見て目元を手で覆った。


 「そうか、そうに違いない。今まで……長い夢だったのだ。俺は、ジャックじゃない……寂 主水だ。マーシュだって、クレアだって、ラスクだって……エイドスだって、あれはただの夢だったんだ……!」


 彼の呟きには、あの異界じみた出来事が全て虚構であって、今まさに自分の元居た場所へと戻ってこれたという解放感があった。


 拳を握り、唇をぐっと結んで目を閉じる。

 あの仲間たちとの戦いが泡沫の夢だったことに一抹の寂しさはあったが、それは胸の内に押し留めてから、ようやく彼は目を開けた。


 「……さて、ここはどこあたりだ?葉笠藩の城下ならばありがたいが……」


 路地は右と左に伸びる一本道で、どうやら長屋と長屋に挟まれている路地らしい。ひとまず彼は路地を出ることにした。 

 広い通りに出た。人通りは少なく、彼以外にいるのは少し離れたところで屋台そばの男くらいだ。


 彼は、鼻をすすりながらそばを茹でている亭主に話しかけることにした。


 「もし、今何刻だ?」


 そば屋の男は話しかけても返事せず、彼に見向きもせずくしゃみした。聞こえなかったのか、と思って今度は駆け寄って声を掛けたが、それでも、彼の声にそば屋は反応しなかった。変わらずそばを茹でつつ、鼻の先を掻いている。


 『……どういうことだ?』


 不思議に思った彼は、そば屋の男の肩を掴もうと手を伸ばしたが、指先は男の肩を捉えることなく霞のようにすり抜けてしまった。


 『……!』


 彼は驚きで言葉を失い、視線は自分の手の平に移った。手の平を見たおかげで、彼はそこでやっと自分の姿に気がついた。


 手の平は皺がなくつるつるとしていて、まるで少年のようだったのだ。とても五十を過ぎた男の手の平ではないことは明らかだ。

 おそるおそるそば屋の亭主の脇を通り抜け、そば湯に映る自らの顔を確かめると、そこに映っていた顔は『寂 主水』ではなく『ジャック』だった。


 「そんな、ばかな」


 呆然とした彼はよろよろと後ずさる。

 肩が亭主の肩にぶつからずすり抜けたが、そんなことは意識の外に出てしまっている。


 寂 主水に戻った喜びや安堵が一気に冷めていく。そのおかげか、彼はもう一度辺りを見渡してこの場所がどこか思い出せた。


 「この、通りは……知っている。歩いてすぐに、家がある……」


 うわ言のように彼は呟くと、月の沈む方角に向かって通りを歩き始めた。

 風が吹くと家屋の戸がかたかたと揺れ、茶屋の暖簾も揺らめいて閉められた戸に当たる。そんな中でも実体の無い彼は、冬の冷えを感じることなく、着実に、月明かりに照らされた道を、前世の記憶を頼りに進んでいった。


 やがて彼は、川が目の前を横切って流れる通りに出て、橋を渡った先に建つ屋敷を見つけた。

 その屋敷に彼は見覚えがあった。あの時と変わらず、橋を渡った先に『寂家』の住まいがあった。


 彼は歩き出そうとして、一度立ち止まった。かつて自分が住んでいた寂家の屋敷に行くことを躊躇ったのだ。

 今が何年の何月何日なのか詳しくは知らないが、彼は直感で、行ってしまえば深く傷ついて後悔してしまう、と悟った。この乾いた冬の夜を明確に覚えている気がした。


 その場に彼は座り込む。地面の冷たさは感じられなかったが、代わりに実体のない自分の体の頼りなさが感じられた。


 『行くべきか、行かぬべき、か……』


 腕を組んでひとしきり悩んでから、彼は立ち上がって橋を渡り始めた。


 屋敷の門の前に立つ。背丈が少年の状態のせいで、門が記憶と違って高く聳えるように思えた。手を伸ばして門に触れようとするが、手は門をすり抜けたので、彼はそのまま門を通過することにした。


 「人は……居るな」


 右と左を見て、耳と肌で気配を探ってそう呟いた。


 軒先のをぐるりと回って裏の庭の方に行く。

 裏庭に面して主水の部屋があるので、まずそこに人がいるのか見ることにした。

 彼が前世の己の部屋を外から見ると、障子の奥からは微かな明かりがついていた。足音は聞こえるはずがないが、自然と彼は慎重な足取りで自分の部屋に忍び寄った。


 渡り廊下に上り、閉ざされた障子の奥へ入る。

 かつての己の部屋には、一人の男が居た。

 今の自分よりも一回りは大きい体躯をした『前世の自分』……寂 主水だった。


 寂 主水はこちら側、すなわち庭側に背を向けて机の上で筆を走らせていた。

 ゆっくりと回り込んで顔を覗いてみる。その表情で、彼は目の前で筆を持つ『自分』の境遇を理解した。


 『あの医者に宛てた文、じゃないか……結局、届かず終いだった文だが、な……』


 彼は主水の書いている手紙の内容を確認する。

 手紙には、肺を患った妻の容体についてが綴られていた。


 寂 主水が筆頭家老殺しの罪人として斬首される一年前に、主水の妻は労咳(結核)により亡くなっている。江戸から高名な医者が葉笠藩に訪れた際に、主水は妻の「はつ」をその医者に診てもらったのだが、伝染する労咳を宣告されてからは、主水は医者の言う通りに、はつを一つの部屋で過ごさせた。


 労咳と告げられて妻を家族と隔離させてからは、寂家の雰囲気は重く苦しいものだった。

 すでに寂家には、主水の息子とその嫁も住んでいて、孫の鶴吉も六歳になっていたのだが、はつが姿を見せられなくなってからは、団欒に笑い声は聞かなくなった。

 寂家の暖かい『拠り所』が、毎日一つの部屋に押し込められるようになったことで、特に孫の鶴吉がぐずるようになり、主水の言いつけを破ってはつの部屋に入ろうとしたら、主水は孫の鶴吉をひどく叱った。何度となく入ってはいけない、会ってはいけないと言い聞かせても「ばぁばと話したい」と言った時には、孫の頰を引っ叩いたこともあった。


 今、主水は江戸に戻ってしまった医者に出す手紙を書いている。

 はつが毎日運ぶ食事をめっきり食べなくなったことで、何かしらの助言を得ようとして、主水は夜遅くに手紙を綴ったのだ。


 背後で見ていた彼は、そんな前世の自分の姿を覚えていた。

 まさに今日が妻の最期の日なのだ。





 ーーーそう、手紙を書き終わってから厠に立った主水は、途中にあるはつの部屋の前を通った際に、障子が僅かに空いてることに気づくのだ。

 普段ならば、家族に労咳が伝染しないようにそっと襖を閉めるのだが、その夜は違った。


 はつは、廊下の主水に向かって声を掛けた。「そこにいるのは、お前さまですか」と。


 主水は襖に掛けた手を止めた。長年聞いた妻の声なのに、ただならぬ何かを感じて、主水は言葉が詰まった。

 少し間が空いてから主水は、「起きていたのか」と聞き返した。何故か主水の声は掠れてしまっていた。

 

 「よく、眠れないのです」とはつは言った。

 平然としたはつの声はむしろ不自然だった。それに気づいた主水の胸の鼓動は、だんだんと早まる。

 主水は息を吸ってから、「体に障るから、早く寝なさい」と言った。隔離を始めて半年は経っていたが、はつの心情はこれっぽっちも聞かずに、主水は家族と離すことを行なった。

 その負い目からか、今も、主水の言葉には妻との言葉の交わし合いを避けたい心情が滲み出ていた。


 また、しばしの沈黙が流れる。

 それから、はつは声色を変えずに静かに呟いた。


 「今度眠ったら、もう起きられないかもしれません」


 はつのその言葉に、主水は立ち眩みを覚えた。


 生涯で一度たりとも感じることの無かった、深い目眩を覚え、どうにもならない寂しさから、禁忌を犯す衝動が沸き起こる。妻の言葉の意味を解し、主水の手は勝手に襖を開こうとしたのだ。

 しかし、はつは主水のその行動を感じ取ったのか、咎めて遮るように「お前さまも、体に障るのでもうお休みなさい」と、言った。


 主水は障子に掛けた手を離し、一度拳を握った。自らを戒めるためか、悲しみをこらえるためか、そうせざるを得なかった。

 主水は無言のまま、手をかけ直してようやく襖を閉じた。そして厠には行かず、自分の部屋に戻った。今、厠に行けば、腹のものをそっくり吐いてしまう気がした。





 ーーー彼が前世の自分の姿を目にして、妻との最期の会話を思い返していると、手紙を書き終えた主水が立ち上がった。


 前世の自分は、背後に立つ彼に振り向くことなく、部屋を出た。やはり記憶の通りだった。


 前世の自分はこれから傷つくのだ、と。

 厠に行こうとして、妻の部屋の前を通るのだろう。

 微かに開いていた襖に気づき、はつの声を聞くのだろう。

 会話を交わし、別れを悟って、またすぐにここへ帰って来るのだろう。


 『…出よう』


 主水が帰ってくる前に、彼は外の渡り廊下に出た。

 軒先の下は、月明かりの影となっていて暗かった。暗い渡り廊下は右と左に伸びていて、左に進めば妻の部屋がある。


 ふと、彼は妻の部屋の方へ足を向けた。


 ゆっくりとした足取りで渡り廊下を進む。

 とっくに前世の自分は妻の部屋の前から去っているに違いない。


 それは怖いもの見たさか、それとも最後の心残りを埋めるためか、歩き出した今でも分からない。

 それでも、妻の最期を、実体の無い今だからこそ、この目で見届けたい思いに駆られて妻の元へゆく。


 外の渡り廊下を進み、妻の部屋の障子の前に立った。前世の自分とは真反対の方角から、彼は再び、妻の部屋に入ろうと試みた。


 だが、それは叶わなかった。


 そこで視界が揺らめき、足元が沈む。障子に越えようした自らの手が水煙の如く散り始め、五体は成仏する幽鬼のように離れ離れになる。成仏出来るような魂でもないのに。


 霧散して意識が消え去っていく間、彼には……ジャックとなっていた彼には、様々な想いが巡っていく。


 面と向かって話し合うことを避けた己が、今更会うなどとは虫が良すぎることなのかもしれない。どう足掻いても、その機を取り戻すことは無いかもしれない。

 全ての原因は、己が臆して死する機会を失ってしまったことだ。


 その証拠に……この一年後に、寂 主水は息子嫁を寝取った次席家老に嵌められ、罪人としてこの世を去ることになる。


 『周囲の悪意に取り囲まれる時期が訪れたのは……俺の所為だ。一年生き永らえたせいで、息子と孫まで巻き添えにしてしまった俺は……とんだ………やっかい者だ』


 自らの死後、遺された寂家がどうなったのかは知り得ない。しかし、碌なことになっていないのは確かだった。


 『…次こそは……俺だけ、で…………』


 たった一つの決意を固めた直後に、彼の意識は闇へと溶けて弾けた。



お待たせしました。次話から新たな話に入ります。

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