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人の持つ牙  作者: 赤胴貫介
ディーセント帝国・騎士団編
105/105

集結する強豪たち

「早く来ないかなぁ」


 時刻は午後4時半。

 港湾都市ヴェルティアの中心部に建つ聖堂の鐘楼で、1人の少年が西方を望みながら呟いた。


 ただ1人でこの鐘楼に上った少年は、大会に出場した者たちの戦いをどうしても見たかった。どこにでもいる酒屋の息子として育った彼も、いずれは立派な帝国騎士になりたいと夢見ている。


 彼は実家の酒屋での手伝いを済ませた後、親に内緒でこの鐘楼に上って、今日の夕方頃に来る出場者たちの戦いを見物しようとしていた。


 この鐘楼は街で式典が催された時にしか使われない場所だ。鐘の中にはクモの巣が張り、どこかから飛んできた落ち葉や紙が床の隅に溜まっている。このように狭くじめじめとしたところだが、誰かに見つかって叱られる心配もなく、眺めはとても良好だ。


「どこから出てくるんだろう? 山側からかな?」


 鐘楼は他の建物と比較してもかなり高く、西側に目を凝らす少年の視界を遮るものは無い。都市の西門から伸びている大橋も、その先に広がっている丘陵地帯や山々も見える。今日のような大雨でなければ、さらに遠くの山嶺も眺められたことだろう。


「空を飛んでるあの船も、竜に乗っている人も、凄いなあ……あんなものに、僕も乗れたらなぁ」


 あこがれを抱く少年の視線は、雨粒を降り注ぐ灰色の空へと移る。


 帝国の要人たちが乗っている飛行船は、少年から見て右側……つまり都市の北側に維持飛行している。出場者たちの安全を管理かつ監視する竜騎士隊は、隊長オーギュスト・アーリマンの指揮の下、ヴェルティアの周囲を囲むように飛行している。


 飛行船では大会運営をはじめ、帝国三将、将校、地方貴族などがズラリと顔を並べている。運営側もトップを走ってきた出場者のペースを計算し、遅くとも今日の日没前にはヴェルティアに到着すると知っているので、ほぼ全ての者が西側を真剣に注目している。


 竜騎士たちもその気持ちは同じだ。彼らも将来を担う騎士の卵の活躍に興味を持ち、その実力を見定めようとしている。竜騎士に与えられた職務は大会中の安全を上空から管理することだが、闘争の中に身を置く彼らとしては、これから始まる出場者たちの戦いへの興味が強い。


 竜騎士隊長のアーリマンも西に注意を傾けていた。全身を黒い甲冑で覆い、十字槍を右手で握っている。束ねた金髪が後ろ襟から流れ出し、雨に濡れて艶めいている。兜の眉庇の間から、油断なく西の先を見据えている。


 第1士官学校の教官も兼務しているアーリマンは、やはり自分の教え子たちが先着できるか懸念していた。


『ラスクとルイーネはトップ集団を突き放しているだろう。魔馬の体力は尋常ではない。最後に走り勝つ鍵は小細工ではなく、戦いながら駆け抜ける体力が残っているかどうかだ。それに、アドルフも先に出発して抜け道を通っているだろうから、やつの中途半端な実力でも上位に食い込めるはずだ』


 そして思案するアーリマンの視線は西から南へ移る。ヴェルティアの南は大規模な港があり、そこからは大海原が広がる。


 嵐により海の波は唸りをあげて荒れ狂い、波と波が絡み合って弾けて、白い水柱が幾度も舞い上がる。間断なく押し寄せる波は、まさに都市に突撃を繰り返す軍隊のようだ。


 ドックに停泊している巨大な商船や樫造りの倉庫すらも、打ちつける高波と強風により大きく揺らいでいた。


 渦巻く南の大海原と海岸線をアーリマンは眺めて、大本命の2人組のことを考える。


『ハルとジャックならば問題はない。あの2人ならば、間違いなく予定通りに南側から回り込んでくる。特にハルは、確実なスケジュールと進路を決めて進める男だ……それに遠回りした分だけ、あの2人は他の出場者との戦闘を避けて、体力を温存できただろうからな』


 アーリマンはハル・イブリッツとジャックに全幅の信頼を置いている。片や武芸と戦術に秀でた騎士一族の麒麟児であり、片や不死身の人狼エイドスを殺した少年剣士である。並の出場者では傷一つ負わせることも不可能な、最強の2人組といってもいいだろう。


 だがいくら周到なアーリマンでも、ホルン・シンフォニアという思わぬ伏兵までは予期できていない。


 ジャックとハルがほとんど無傷で来ると考えているアーリマンだが、ホルンとの戦いで2人の体力は相当減り、トップ争いに参戦できるかも怪しいところである。


 今なおヴェルティアの上空では、女将軍シャルロットが生み出した雷の流星が盛んに飛び回る。普段ならば恐怖の対象である『雷』という自然現象も、大会の熱気の前では、民衆たちの興奮を助長するのみである。


 もちろんシャルロットが雷を生み出した時のような盛況ぶりは、すでにかなり収まっている。大体の人間は大会にちなんで開催された祭りを楽しんでいる最中だ。出店の列に並びながら仲間や恋人と笑い合い、出来たての食べ物にかぶりつき、街の至る所で飲めや食えやと宴会が開かれている。


 だが、それは単に時間とともに大観衆の熱気が鎮まったというわけではない。それは火を焚べて入念に煮込まれた鍋のようだ。決して爆発はしないが、とてつもなく高まった熱が奥底で煮詰められていて、それを開放する時を待ち侘びているのだ。


 さらにその熱気は観衆のものだけにあらず。


「いよいよ、ですな……!」


「ええ……ついに山場を目の当たりにできるのですね。ああ、早く来ないものか!」


 飛行船に乗って都市を見下ろしている貴族たちも、この大会の焦点となる戦いを待ち焦がれている。乗船している者たちはこぞって望遠鏡を取り出し、トップで現れる出場者を少しでも早く見てやろうと、必死で望遠鏡に目を押しつけて覗き込む。


 また、帝国三将も飛行船内の一等客室の窓より、肩を並べて眼下の景色を見ている。普段ならば3人揃って何かをするということは中々ないが、今日のこの時ばかりは勢揃いで大会を観戦するようだ。


「ファローザ殿、今日の戦いの焦点はどこだと考える?」


 並ぶ3人の中心に立つ老将軍オルセウス・ヴァルサックスが、右隣にいるファローザに問いを投げかける。口元以外を仮面で隠しているファローザは、年長の将軍の問いに静かに答える。


「……やはり、ヴェルティアの西大橋が焦点でしょう」


 そう答えたファローザが巨大な橋を指さす。


 ヴェルティアは広い湾から離れた島を開発して生まれた都市である。都市は高い防壁に囲まれ、南側は港として使われ、東、西、北の街門から、それぞれ巨大な橋が伸びて陸地と繋がっている。


 当然、ファローザが指差したのは西門に繋がる橋だ。橋は強固な石造りであり、海から高波が襲いかかってもビクともしない。なおかつ幅も充分広く、馬車2台が行き交うことができるほどだ。


「少し大げさかもしれませんが、あの橋に真っ先に到達した者こそ勝者となりましょう」


「ふむ」


 理由を説明されずとも、ファローザの言いたいことはオルセウスもシャルロットも理解していた。


 橋の全長は500mに及び、橋にさえ到達すればヴェルティアまで一直線となる。つまり横から囲まれて攻撃される心配が減り、馬同士の単純な走力勝負に持ち込みやすくなる。


 もちろんトップは後ろから攻撃される危険が残るが、それでも前を走る者が有利なのは変わらない。広いとはいえ橋では通る幅が限られてしまう。後ろを走る者が追い越そうとしても、前を走る人間は簡単に進路を塞ぐことができるのだ。


『だが、それはあくまでも基本的な技術面の話だ。この戦いの明暗を分ける本質はそんなものではない。それを私を含め、ここにいる3人全員が知っている。ふふ、オルセウス殿もシャルロット殿も腹を割らないだろうがな』


 ファローザは自分の左側に並ぶ2人の将軍が、表面的な会話しかしないつもりだと気づいている。


 そもそもシャルロットには人狼エイドスから配合生物を密輸していた疑いがあり、ファローザは水面下でそれを調査している。2人は初めから本音を言い合えるような関係ではない。


 またオルセウスとも交流は少ない。帝国で最も古株の騎士であるオルセウスは、徹底した秘密主義のファローザや、まだまだ新参のシャルロットとはある程度の壁を作って接している。将軍という役職こそ同じでも、年齢にも価値観にも大きな隔たりがあった。


『これほど大規模な戦いで勝者となるには、あらゆるものを淘汰する精神が必要だ。戦う力、敵を出し抜く知恵、切り抜けるための運、馬の強靱さ……それら全て大事だが、最後はその者自身が、どれほど栄光に飢えているかが鍵となる』


 帝国の裏も表も本拠地としているファローザだからこそ、この世の全ての闘争は単純な実力で決まらないと熟知している。


『さあ、見せてくれ。ジャック、ラスク……行き場を失った末に帝国騎士を目指さざるを得なくなった者たちよ、私に君たちの爆発力を見せつけるのだ』


 白い仮面の中からファローザは戦いの行く末を見届ける。異国より連れ去られた少年と少女の底力を、心より待ち受けて。


 ゴゴロロゥウウッ……バリバリバリィッ!!


 その時、雷鳴が轟いた。


 一筋の稲妻がヴェルティアの上空にある雷の星々に落ちて、それにより雷の星々の輝きが増した。落雷は都市に着弾することなく、空中で霧散した。


 激しい雷鳴に驚いたことで、大観衆のざわめきが一瞬だけ静まったが、その静寂もすぐに打ち破られる。


「ーーー来たぞ!!」


 街壁に上っていた観衆の内から、誰かが西を指で指し示して叫んだ。


 まさにそれが合図となった。街壁にずらりと並んで見ていた者も、ゴールである開放された西門の近くに群がっていた者も、家の屋根に登って少しでも出場者を見ようとした者も、一斉に沸き立った。


「「「ウォオオオオーーーッ!!!」」」


 ヴェルティア中の熱気が瞬く間に跳ね上がった。


「むっ! 来たのは1人か! あれは誰だ!?」


「赤い鎧を着ているぞ!」


 飛行船に乗っている貴族たちも、初めに現れた出場者に気づいた。望遠鏡から見える景色に真剣に焦点を合わせ、誰が来たか確認しようとする。


 西の果て、少し北側の山の斜面を下ってきたのはアドルフ・ゲーグナーだった。


「うくく、くははははっ! 前には誰もいない! 西門に群がっているのも住民だけ! やはり、この俺の計算は間違いなかったようだなぁ!!」


 雨粒が猛烈に降りかかる中でも、高らかに笑うアドルフの目はカッと見開かれている。目指すべきゴールである、開放された西門だけを見据える。


「は、ははっ…見たか、見たか見たかぁっ! 俺がアドルフ・ゲーグナーだ! 刮目しろ! 俺こそ…が! 俺こそが、勝利者だぁあーーッ!!」


 並みいる強豪たちを押さえて、自分だけが突出することができたという事実は、アドルフの士気も最高潮に押し上げた。


 そして、さらに大会の興奮にスパイスが加えられる。


 街壁に上がっているのは観衆だけではない。ヴェルティアの西門の真上に設けられた実況席には、稀代の芸人であるマイク・マクマホンがいる。実況者として抜擢された彼の仕事も始まった。


「来ましたッ! ついに来ましたッ! この大会の運命の分かれ道とも言える今日の決戦で、ついに先頭の出場者が現れましたァーーーッ!!」


 風魔術の魔道具によってマイクの声は拡散され、ヴェルティアの隅々まで実況の内容が届く。


 壁の上にいる観衆たちは身を乗り出し、先頭でやって来た出場者を見ようとする。また壁に上れなかった者も、その実況を聴いたせいで我慢の限界に達して、無理矢理上ろうとする者も出てきた。


 そのような喧騒の真っ只中ですら、マイク・マクマホンの臨場感溢れる実況は冴え渡る。


「先頭はアドルフッ! アドルフ・ゲーグナーですッ! このような豪雨でも真紅の鎧が映えて、彼の勇姿がこちらからでも視認できますッ! アドルフ・ゲーグナーが真っ直ぐに独走しているぞォーーッ!!」


 実際にマイク・マクマホンから見えるアドルフ・ゲーグナーの姿は小さい。街壁からアドルフまでの距離は約2kmといったところで、望遠鏡を覗いて実況しているマイクですら視認するのがやっとだ。


 それでも実況をやる意義がある。大衆は興奮に弱く、その場の雰囲気に流されやすいものだ。だからこそ、マイクは豆粒大にしか見えない出場者のことを、さも近くで見ているかのように実況するのだ。


「しかし強烈な風雨が襲いかかっているぞッ! 大自然の猛威が走り続けた出場者を脅かしている!! アドルフと馬の体力は大丈夫なのか?!」


 実況者マイクの心配は的を射ていた。


「はぁーっ……はぁーっ………ッ、くそぉッ!」


 現にアドルフ・ゲーグナーの顔には疲労の色が伺える。いくら抜け道を通って戦闘を避けてきたといっても、日が昇る前からここまで走り続けた。どれだけ一番乗りの喜びを得ても、物理的な疲れはどうしようもない。


 さらに精神的な疲労も強い。少しでも気を抜いて落馬などをしてしまったら、全ての努力が水の泡となる戦いである。勝ち気なアドルフでも、緊張状態を長時間保つのは過酷だった。


「はぁ、はぁ、はぁ……まだだッ! まだまだ進むんだッ!」


 乱れてきた自分の呼吸で疲労を自覚するが、アドルフは怯まず馬に鞭を入れる。あえて自分の限界を無視するつもりだった。


『ここで止まってたまるか! もう一息で、栄光が、掴めるんだ!』


 体は疲労困憊の局地に達しても、アドルフの目は死んでいない。


 かつてのアドルフは貴族という生まれに甘んじ、自分の才能に酔い、他人より一歩先にいただけで驕っていた。物心ついた時からそれが当たり前であり、これからもそうやって生きていけるものだと、タカをくくって過ごしていた。


 そんな時、士官学校にジャックが現れた。


 ジャックは貴族でもなく、汚れた身なりをした地味な少年だった。だがアドルフと違い、自分の身体ひとつで戦う表情をしていた。そして確かな実力と説得力があった。何もかも自分とは違うものを持っていた。


 あの日の敗北以来、アドルフ・ゲーグナーは飢えた挑戦者となった。誰よりも自分のことを恥ずかしいと思い、誰よりも輝かしい勝利を欲している。


 今の自分には、過去の敗北の記憶を完全に塗り替えるような『栄光』が必要なのだ。


「こんなところで……へばってたまるかよぉおッ!!」


 吼えたアドルフから力がみなぎる。もはや鐙を踏む足も、手綱を握る手も限界にきているが、叫んだ拍子に脳のリミッターが外れたのだ。一時的な力とはいえ、アドルフは力を緩めず走り続ける。


 非情に体熱を奪う春の嵐に飛び込み、さらにアドルフの体力は苦境に達する。


 飛行船から観戦している貴族たちも、アドルフ・ゲーグナーの独走が続く展開に驚きを隠せていない。


「あの出場者は何者なんだ?!」


「アドルフ・ゲーグナーだ! 登録番号で分かった! あの出場者はゲーグナー家の長男だ!!」


「まさかゲーグナーの息子がこれほど独走するとは……! 他の出場者も追走してくると思ったが、現実は意外な展開になったな……」


「まだ午後5時にもなっていないのに、ここまで来たのか! なんという速さだ!」


 大部分の貴族たちはアドルフの登場に湧いたが、一部の貴族は冷静に状況を分析していた。


 まずは切れ者の伯爵夫人タチアナ・リベラが気づいた。彼女はオペラグラスに似た小さな魔道具を覗いている。その魔道具は遠くの景色も鮮明に見えるもので、決して安くない高級品である。


「何を馬鹿なことを。もう来てるわよ、アドルフ・ゲーグナーの後方から数十騎が」


 冷めた声でリベラ夫人がそう言うと、夫人の近くにいた貴族たちがハッとした顔をして、アドルフの後方を慌てて確認する。


 望遠鏡越しに見えるアドルフから後方100mのところに視線を移すと、およそ30騎の集団が迫ってきていた。


 その集団の多くは、大会開催前から注目されていた実力派の出場者たちで、この大雨にも怯まず着実に進んでいる。


 誰が優勝してもおかしくない強豪揃いの集団の出現だ。


「直近の街に宿泊していた出場者たちだ! アドルフ・ゲーグナーを除けば、あれが先頭集団ということか!」


「それにしても少ないぞ?! あの街には50人以上の出場者が着いていたはずだ!」


「いや、おそらく走り負けたのだ! 馬の体力が残っているのは、あの集団だけだったようだ!」


 貴族たちは先頭集団の規模が小さいことに気づいたが、その本当の理由はまだ知らない。


 もちろん熾烈な先頭争いで、ある程度の脱落者が出たのは確かだ。だが本当の原因は、昨晩ラスクが敵対した10人の出場者を全て殺害したためである。


 卑劣な手段でラスクを追い詰めた者たちだが、彼らはそれなりに高名な出場者ばかりだった。貴族の子弟として有名だった者、魔物退治で活躍した者などだった。


 だからこそ、貴族たちは集団の人数があまりにも合わないことに不自然さを抱く。


 そんな人間たちが一晩で消えたならば、その原因は後々知られることになるだろう。しかし、今それを知っている者はラスクとルイーネ以外に誰もいない。


「おおーーッ! 集団です! 先頭のアドルフを追いかける集団が現れました! チェックポイント1位を争うレースは、まだまだ波乱が待っているようだァァアッ!!」


 はち切れんばかりに声を張り上げ、マイク・マクマホンは後続集団が現れたことを街中の人間に知らしめる。


 街壁に立つ観衆たちも集団に気づき始めると、様々な応援と野次が矢弾のように乱れ飛ぶ。


「いけいけーっ!! 先頭のアドルフを追い抜かせぇっ!!」


「逃げろ逃げろ!! そのまま突っ切れーッ! 」


「おぉい、面白くねえぞおっ! さっさと斬り合えよ!!」


 何千人、何万人という大観衆が沸き立つ。その騒ぎは雷雨の音すら押し退ける。まさに鳴動する火山の如き激しさだが、命懸けで競い合う出場者たちには、そんなことをいちいち気にする余裕はないだろう。


「……ほう」


 飛行船から観ている帝国三将のうち、仮面のファローザが小さく声を上げた。


 ファローザが注目していたのは後続集団の中心だ。そこには魔馬に乗ったラスクと、ラスクのすぐ前を走るルイーネ・マリアクラスタの姿が確認できた。


『なるほど、ラスクとルイーネはその戦法をとったか。ふふ、確かにあの走り方ならば、アドルフとの差も射程圏内だろう』


 瞬時にラスクとルイーネの意図に気づいたファローザは、少女たちがどのタイミングで仕掛けるのかと考え、かすかな高揚を覚えていた。


 ベシャッ、グシャッ、バチャッ、ブチャッ


 濡れた草地を馬たちが蹴り、泥と草が飛び散る。地面で雨粒が弾け、雷鳴がどんどん大きくなって近づいてきている。


 アドルフの後方を走る集団は異様な雰囲気に包まれていた。盛り上がっている観衆たちとは逆に、水を打ったような静寂だった。当然、集団の目標はアドルフを追い抜くことなのだが、それよりも重大な問題があったのだ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……ごくっ、はぁっ、はぁっ……」


 短く荒い呼吸を続けていた誰かが唾を飲み込んだ。体力よりも精神が追いつめられている。そんな呼吸だった。


 その原因はラスクとルイーネだ。


 2人は集団の中間辺りを走っている。集団の中では速くもなく遅くもなく、一定の速度を保ちながら走行していた。


 しかもラスクの魔馬の体力が健在にも関わらず、集団のトップに躍り出ようとしない。むしろ相棒のルイーネのすぐ後ろに追走して、勝負を仕掛けることなく、じっと黙って走っている。


 その気になればトップに躍り出ることができるのに、2人は集団の中で静かに走っている。


「……くっ」


 それが他の出場者にはとても厄介だった。


 ラスクの魔馬は魔術を扱える肉食の怪物であり、通常の馬と違って戦う手段をいくつも持っている。魔馬ならばすぐそばを走っている出場者の馬を、魔術や牙で潰してしまうこともできる。


 そんな怪物がルイーネの背後を守りながら、集団の中心で淡々と走っている。それだけでも他の出場者にとっては有効な牽制になり、誰一人として好き勝手に動くことができない。剣や槍で攻撃することも危険だ。もし攻撃を仕掛ければ、先に仕掛けた人間が返り討ちに遭うだろう。


 また、ラスクの前を走るルイーネの役割も大きい。


 馬の扱いに長けたルイーネが集団の速度を維持する役割を担い、前を走っている者を風よけにすることで、ラスクもルイーネも馬の体力を温存している。


 この技術はラスクに真似できるものではない。名前も知らない人間の走りのペースに合わせて、巧みに馬の速度をコントロールするルイーネの馬術は特別だ。


 ゆえに集団の動きはラスクとルイーネのせいで凍りついている。誰も自分の武器を握ろうとしなければ、馬に鞭を入れて速度をあげることもしない。


 あろうことか全員が手綱から手を離せず、中心にいるラスクとルイーネのペースに合わせることしかできない。


『くそぉおっ……あの魔馬と女たちが邪魔だ! いつまでもここに留まってるんじゃねえ!』


 ラスクのすぐ後ろを走る出場者の1人が心の中で悪態をつくが、彼ができることは歯ぎしりすることくらいだ。


 もしもラスクとルイーネが素直に速度を上げて、集団の前を走っていれば、馬の体力が尽きたところで抜くことができたかもしれない。また魔馬の魔術が届かない距離から、矢で攻撃することもできたかもしれない。


 それら全てのチャンスを潰されたのだ。ラスクたちの後ろを走っている者も、前を走っている者も、怒りと焦りで精神が追いつめられていく。


「く、うぅ……うっ、うぉおおおおおっ!! くらえぇ!」


 ついに我慢の限界を迎えた者が現れた。


 ラスクの左後方で走っていた男が槍を振り上げ、絶叫しながらラスクの背中を突き刺してきた。


 バシュウッ!


 しかしその男の顔面に鋭利な水飛沫が襲いかかり、槍の穂先はラスクの背に届かなかった。水刃の粒は男の目も潰したので、失明した男はバランスを崩して落馬した。


「ぐぁあああっ………!!」


 男の叫びは一瞬ではるか後方まで押しやられ、雨の音にかき消されて聞こえなくなる。


「もう潮時のようね」


 後ろをチラリと見たルイーネがそう言った。


 水魔術で男の顔面を切り刻んだのはルイーネの仕業だ。そろそろこの膠着状態に耐えられなくなった者が現れると予想していたのだ。


「ラスク、出るわよ」


「ああ」


 そのルイーネの言葉を聞いたラスクが動いた。


 ラスクは魔馬に鞭を入れて、迷うことなく速度を上げたのだ。


 馬たちが密集している中心で加速するという行為は、馬同士の接触事故の可能性が高くなる危険行為だ。もちろん他の出場者は進路を塞ごうとするため、逆に加速した側は余計に体力を消耗し、自分の首を絞めることになる。


 だが、そんな暴挙を押し通せるのが魔馬たる所以(ゆえん)だ。


 キュオオオオオッ!!


 異形の叫びを上げた魔馬が魔力を放出する。放出した魔力の余波は全方位に放散し、周囲にいた馬たちが一斉に怯んだ。


「よし、行ける」


 その瞬間、馬が怯んだことで空いたスペースにラスクが強引に割り込んで、集団の前へ前へと突き進んでいく。すかさずルイーネもラスクの後方について行く。


 その光景を端から見れば、周りの出場者たちが道を空けたようにも思えるだろう。実況していたマイクも、観衆や貴族たちも何が起こっているのか理解できなかった。


「なっ、このぉっ……!」


 ラスクに追い抜かされた先頭の男が、思わず剣の柄を握った。


「……うっ」


 だが男は動けず、ラスクとルイーネが集団から抜け出すのを見守ることしかできなかった。


 男が怯えたスキにラスクとルイーネは差を広げた。


 その男の判断は賢明だった。あの時、ラスクかルイーネを斬りつけようとしていれば、間違いなく男はルイーネに魔術を撃ち込まれてから、とどめにラスクの裏拳で吹き飛ばされていた。


『動けなかった……攻撃しようとしたら、体が硬直した……背筋が凍って、手先が震えて……なんなんだ? なんだったのだ、あの女の目は?!』


 男の視線がラスクの瞳をわずかに覗いた時、男の腕は攻撃することを急停止した。その男の本能が『殺される』と察知したのだ。


 ラスクの濡れた前髪の奥には、ラプターウルフの眼が見えていた。手を出せば食い殺す。その無言のメッセージだけで、大抵の人間は戦うことを諦める。


 この時点で、ラスクとルイーネを女ごときと安く見る者はいない。2人との戦力差を感じ取れない愚か者から、真っ先に脱落していったからだ。


「さて、前方はあと1人。あの派手な鎧は……アドルフね」


 ルイーネの視線の先には、赤い鎧を着込んだアドルフの背中がある。そのさらに先は雨で見えにくいが、ヴェルティア西大橋がなんとか視認できる。橋が見えさえすれば、その奥のヴェルティア西門の場所もおのずと分かる。


「ルイーネ、どうする? 同じ士官学校のやつなら、そのまま抜き去るだけにするか?」


 ラスクがそう訊くと、ルイーネは首を横に振った。


「いいえ、戦闘は避けられないわ。アドルフの性格なら多少分が悪くても攻撃してくるはずよ」


「そうか。じゃあ先手をとるか」


「ええ、そうしましょう。前にいるのがアイツだけっていうのも歯応えが無いけど……まあ、やるからには幼なじみでも容赦しないわよ」


 方針を決めた2人が同時に鞭を振るう。2人の馬が一気に加速して、独走していたアドルフとの差をどんどん縮めていく。


 実況者マイク・マクマホンからして見れば、この展開は願ったり叶ったりだった。


 ただ独走する人間を見るだけのレースでは、いくら言葉を並べて叫んでも、盛り上がりに欠けるものだ。トップを争うせめぎ合いを見てこそ、レースの醍醐味だろう。


「おおおーーーッ!! 来てるぞッ! 来てるぞッ!! 先頭のアドルフ・ゲーグナーとの差を、2人の出場者がみるみるうちに縮めているぞ!!」


 マイクが叫ぶ間も、ラスクとルイーネは加速を続けている。濡れた双眼鏡を必死に覗き込んで、マイクは追いついてきた2人の姿を確認した。


「追ってきたのはラスクとルイーネ! ラスクとルイーネ・マリアクラスタですッ! 凄まじい猛追を見せているのは! あの可憐な少女コンビだぁッ!!」


 出場者の大部分が男という中で、目ざましい活躍を見せる女性の存在は大衆の興味を引きつける。


 大会が開催されるまで無関心だった者ですら、2人組の少女の存在を聞くことで興味が湧くものだ。


 特にラスクとルイーネの活躍ぶりは、大会初日の時点で広く知れ渡っている。今では観衆の中にはもちろん、貴族の中でもラスクとルイーネの勝利を応援する者が現れ始めている。


 ラスクとルイーネ・マリアクラスタが、トップになろうとしている。その情報が出た途端に、この1週間で増えていた2人のファンが色めきだつ。


「トップのアドルフはもはや安全圏ではありません!! すでに差は小さい! 4馬身! 3馬身! 2馬身!! 追いつかれる寸前だァッ!」


 怒涛の追撃を見せるラスクとルイーネに、ようやくアドルフが気づいた。


 後ろを振り向いたアドルフは目を見開き、歯を食いしばって眉もつり上がった。すぐそこまで来ていた2人は、他の出場者よりも脅威な存在だった。


『ちぃいっ! よりによって、ここでお前ら2人かよ! ちくしょうが! ここで無様に抜かれてたまるかぁッ!!』


 アドルフも愛馬ロッキー・バルカンに鞭を振るい、さらなる加速を促すが、なかなか馬の脚は速くならなかった。


 ここまで向かい風を突っ切って、独走してきたツケが出てきた。馬の体力に限界が見え始めたのだ。


「邪魔よ! アドルフ!」


 ルイーネが右手刀で空中を切り裂き、風の刃をアドルフへ発射してきた。刃は雨粒を切断しながら、アドルフの背中へ迫る。


「ぬうぅっ!」


 まともに喰らえば深手を負うと判断して、アドルフは馬体を左に傾けて回避した。


 そして回避した分だけ、アドルフの馬の脚は減速してしまう。


 グンッ!


 そのタイミングを見逃すことなく、ラスクの魔馬シュプリンガーが急加速する。巨大な体躯のシュプリンガーは、アドルフが避ける前にいた場所へ進み、アドルフと並走する形になった。


「ラスク……ッ!」


 自分に追いついたラスクを見て、アドルフは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。


 ラスクと魔馬がいなければ、ここまでルイーネが来ることもなかった。当初の予定通り、自分だけが抜け道を通って独走して、華々しい一番乗りを果たせるはずだった。


 まさにラスクという少女は、今のアドルフにとって目の上のたんこぶであり、計画を狂わせた張本人。どんな人間よりも優先して排除したい存在だ。


「アドルフ・ゲーグナー、君に恨みはないけど、妨害するならここから消えてもらう」


 そしてラスクも戦意上々で、背負っている大剣をゆるりと抜く。よく手入れされたぶ厚い刃は雨の雫を滴らせ、不気味な艶めきを発している。


 アドルフも剣を抜こうとしたが、ラスクの後ろを走っているルイーネを見て、その直前で手を止めた。


 なぜならルイーネがすでに射撃姿勢に入っていたからだ。水魔力を込めた指先がアドルフに向けられていて、アドルフが動いた瞬間に撃ち込む準備が整っていた。


 それでもまだ魔術を撃たないのは、ルイーネなりの手心なのだろうか。


「そのまま手綱を握り直しなさい、アドルフ。ラスクも言った通り、私たちに手を出さなければ何もしない。純粋な競走を続けるだけよ。でも、もしも私やラスクに攻撃を仕掛けるなら……手加減は一切しないからね」


 馬上で固まるアドルフと、構えを整えているラスクとルイーネの間の空気が、緊張感と殺気により冷えていく。


 膠着していた実際の時間は5秒ほどだったが、そのわずかな時間でも3人の駆け引きは止まらず、互いの思考は目まぐるしく進み続ける。


 ここで戦うべきなのか、それとも走ることに集中するべきなのか。相手は不意を突いてくる可能性はないか。自分が不意打ちするとしたら、どのタイミングが最適なのか。


 そんな様々な思惑が交錯するが、さらなる波乱の種は予期せず現れる。


 ヴェルティアにいる観衆や飛行船にいる貴族たちは、その異変を感じることはできなかったが、レースの中にいる出場者たちはその『異変』を敏感に察知した。


 まず異変に気づいたのはラスクだった。


「……?」


 ラスクの体は人狼エイドスの能力の影響により、ラプターウルフの力が体に染みついている。獣人の力は危機を感じたときに反応して目覚めやすくなるもので、ラスクの体もそれの例外ではない。


 そんなラスクの右腕が、ラスク自身も気づかないうちに獣人化していたのだ。


「ーーーーーッ!! まさか!」


 獣人の本能は敵意や殺気に対して素直だ。それを知っているラスクは、アドルフから視線を外して直ちに周囲を見渡した。


 突然のラスクの反応にルイーネもアドルフも面食らったが、その後すぐに2人も異変に気づいた。


 先頭を走る3人が目を向けたのは後ろの集団だった。雨のせいで正確な人数までは分からないが、少なくとも30人以上の出場者が固まって走っていた。


 しかし今見てみると、どうしても30人より少ないように思える。


 馬に乗って走っているから数え違っているわけでもなく、視界が悪いせいで正しく見えていないわけでもなく、明らかに人数が減っているのだ。


 ドシュッ! バスッ! ザクゥッ! ズドゥッ!


 そう考えている内に、集団の出場者たちに向かって次々と矢が飛んできた。南側から飛来した矢は、的確に出場者たちの鎧の継ぎ目に命中し、矢を受けた者は何も理解できずに落馬して脱落する。


 ようやく矢の攻撃に気づいた者が現れるが、なおも矢は間断なく、無情に降り注いで襲いかかる。


「ぐあっ!!」 「いっっ?! ぎゃあああっ!!」

「なっ……うわぁあっ!」「かっ、ぶはっ……!」


 気づいた時にはもう遅い。寒気が走るほど正確に出場者の鎧の隙間を撃ち抜き、強豪ひしめく集団は大混乱に陥った。


 矢を放っている張本人は何者だと、その場にいた全ての出場者が南の方角を見た。


 白い雨粒のカーテンのはるか先、南側およそ200m先に彼らはいた。2騎の出場者が荒れ狂う海を背に向けて突き進み、集団の右後方から迫ってきていた。


 片方は弓を構えている青髪の少年、もう片方は刀を腰に差している黒髪の少年だ。


 その2人の姿を目の当たりにした者たちは、すぐに彼ら2人の存在を思い出す。大会初日に50人以上を相手にして傷一つ負わず、さらには第5騎士団長をも打ち倒した実力を持つ、いわば『別格』の競争相手が。


 この大会のダークホース、ジャックとハル・イブリッツが現れた。


 関わってはいけない敵がいきなり現れて攻撃してきた。


 しかも矢を射っていたのはハル・イブリッツである。あらゆる戦闘技術に秀でている帝都の俊才が、自分たちの背中に容赦なく矢を撃ち込んでくる。


 その事実だけでも動揺に値するというのに、事態はこれだけで留まらない。


「ジャァァァァアック!!!」


 アドルフと対峙していたラスクが、ずっと後方にいるジャックに向けて叫んだ。


 その声の威力は絶大で、ルイーネとアドルフを含む周辺の出場者たちはおろか、2000mも離れた場所にいるヴェルティアの住民までもが、強烈な感情と衝撃を肌で感じた。目の前で猛獣に威嚇されたかのような、恐ろしい衝撃だった。


 実況していたマイク・マクマホンすらも、そのラスクの威圧感のせいで次に言うはずだった言葉が消えたが、すぐに気持ちを立て直して実況を再開する。


「っ……きっ、来ましたァーーーッ!! さらに後続です! 追いついてきたのはジャックとハル・イブリッツ! ジャックとハル・イブリッツが現れました! 今大会最大の台風の目ッ! 村を襲う甲火竜を沈めた2人の若き英雄がッ! この怒涛の戦いに姿を現しましたァアアッ!!」


 ここでやっとマイク・マクマホンが最も待ち望んでいた出場者が現れた。


 実況者であるマイクは大会開催から起こった主な出来事を、大会関係者を通して把握している。もちろんジャックとハルが目覚めた甲火竜を撃退し、マクサ村の人々を救ったことも大々的に喧伝されている。


 ジャックとハルが起こした行動は正義心から生まれたものだが、マイクはこの龍退治の功績を熱狂の渦に巻き込む極上のスパイスだと考えている。


 竜を倒したという武勇伝は古今東西で使い古されていても、その影響力は今なお健在で凄まじいものを持っているのだ。


 都市中の人間がジャックとハルの登場を知って色めきだち、飛行船の貴族たちは驚きで言葉が詰まる。


「………!!」


 吼えたラスクの目は一言で言い表せない激情で燃えている。だが『ついに会えた』という言葉だけは、はっきりと心の中に現れていた。


 逆にルイーネは眉間にシワを寄せて、苦々しい表情を見せた。


『くっ、最悪のタイミングね。ようやくトップになれるという時に、ラスクにとって最大の目標であるジャックが現れてしまった。ラスクにはアドルフを追い抜くことに集中してほしいのに……!』


 ルイーネはこの大会前まで、ラスクがジャックを倒すために並々ならぬ努力をしてきた姿を見てきた。できることならそれを応援したいし、自分の力が許す限り協力するつもりだった。


 だが、さすがに今は間が悪すぎる。


 ここでラスクがジャックに気を取られてしまえば、アドルフを抜き去ることが難しくなってくる。ラスクはワガママな性格ではないが、土壇場になった人間の感情というのは、誰にも予測がつかないものだ。


 またアドルフ・ゲーグナーもラスクと同じく、ジャックに対する激情に駆られていた。


 1ヶ月前の自分に屈辱を与えた人間が、この決戦の舞台に現れたのだ。討ち滅ぼして雪辱を果たすなら、これ以上に素晴らしい瞬間はない。


『ジャック! ハル・イブリッツ!……やはりお前らは来やがったか。今日の戦いに限ってお前たちが出遅れるはずがないと思っていたが、来るというなら同じ学校でも容赦しねえ。絶対に勝ってやる……殺す気でなッ!!』


 アドルフの魔力が瞬く間に膨れ上がる。ラスクとルイーネの意識がジャックたちに向かった隙を突いて、雷の斧をルイーネに振り下ろした。


「なっ?!」


 一瞬早く気づいたルイーネが、即座に土魔術で盾を作って雷を防いだ。しかし雷の重々しい一撃を受け止めたことでルイーネの馬の足は減速し、逆にアドルフは魔術で殴った反動を利用して加速した。


 ギュウンッ!ズドドドダァッ!!


 ラスクよりも先にアドルフが前に出る。すぐにラスクとルイーネも追いつこうとするが、アドルフは雷の波動を後方に向けて撃ちまくり、自分を追ってくる者たちを無差別に攻撃してきた。


『うそでしょ?! そんなマネしたら……!』


 このアドルフの行動にルイーネは絶句した。これほど連続して魔術を使用すれば、たとえ魔術師でも一気に魔力が枯渇してしまう。魔術師でもないアドルフがこのような捨て身の作戦に出るのは、ルイーネでも予測できなかった。


『あんな魔術乱射するなんて血迷ったの?!』


 それでもアドルフはこの作戦を実行した。これはすでに頭の片隅で考えていたもので、追い詰められた時にやると決めていたのだ。


『俺が抜け道を進んでいたのは、ある意味このためだ! この瞬間のために! 俺は魔術をほとんど使わずここまで辿り着いた! 負けるくらいなら、ここで全ての力を使い果たしてやる!!』


 乱射された雷の弾丸は人に命中することが目的ではなく、追いすがる者たちの行く手を遮るために撃っている。


 ゆえにどこへ弾丸が当たるか誰にも分からない。あさっての方向に飛んでいったり、濡れた草地に着弾して周囲に放電したり、馬の額に運良く命中したりと、予測不能な場所へ激しい雷が撃ち込まれる。


「うぉおおおおッ!! おらおらおらおらぁーーッ!!」


 アドルフが絶叫しながら後方へ雷を撒き散らす。左手で馬の手綱を握ったままで、右手で雷魔力を練り続けていく。


 ビリリィイッ! バリィッ! ビシィイイッ!


 その雷の威力はどれも侮れない。運悪く命中した者は吹き飛び、身につけていた鎧すら電熱でうっすらと溶けていく。


「……あやつ、この期に及んでヤケになったか」


「う~ん、ヤケクソではないと思うけどな。相手の進路を妨害する目的は果たせているし、意外と有効な戦術かもしれないよ」


「だが魔力の効率は悪い。あれでは長く保たぬだろう」


 アドルフの様子を見たジャックは呆れていたが、ハルは真逆の評価だった。


 現在、ジャックとハルはアドルフの右後方から走ってきていて、その差はおよそ150mといったところだ。まだまだ先頭のアドルフたちは遠く、その後ろにいる集団にすら追いついていない。


 また、ハルは矢による攻撃をやめている。再び矢を射って攻撃しようにも、矢は警戒されてしまえば防がれる確率が高い。ハルはこれ以上矢を使うのは無駄だと判断して、走ることに専念しているのだ。


「ホルンはまだ生きておるか?」


「ああ、息はしている……けど、もたもたしていたらどうなるか分からない」


 手綱を掴むハルの前にはホルン・シンフォニアが乗っている。ジャックが刀を存分に使えるよう、少し前にホルンをハルの馬に乗せ直した。


 気を失っているホルンは、ハルと体を縛っているおかげで落馬していないが、どんどん憔悴してきている。


 のんびりしているわけにはいかないと考えた2人は、ここで勝負に出る決心をした。


「ジャック、いけそうかい?」


「すでに下拵(したごしら)えは済ませておる。いつでも良いぞ」


「よし。じゃあ、最後の逆転劇といこうかッ!!」


「心得たッ!!」


 示し合わせた2人の眼から轟々とした気炎が生まれる。


 この2人かかれば絶望的な距離の差も射程圏内だ。


 グンッ!


 ハルの後ろにいたジャックが馬に鞭を入れ、ハルを追い越して先行した。


「ーーー見えた(・・・)。ハル、寸分(たが)わず俺の後ろを追え」


 ジャックの指示にハルが頷く。


 前に出たジャックは手綱を握った状態で、全身の魔力を高めていく。


 顔には雨の雫が当たり、強い風が幾度も方向を変えて吹きつけてくる。強烈な向かい風は馬の走行を妨げ、その体力の消耗は著しいものになる。


 するとジャックは馬を右に左に寄せて、フラフラとした動きで走り始めた。


「なに? あのおかしな動きは……」


 ジャックに注目していたラスクは、急に不安定な走りになったジャックに疑問を抱いた。


 その疑問は当たり前だった。スピードが最優先される大一番の戦いで、ジャックは何故か真っ直ぐ馬を走らせず、大きく左右に蛇行しながら走っているのだから。


 そしてあろうことか、ハル・イブリッツまでも相棒のジャックと同じように馬を蛇行させている。こんなことを続けていれば、馬の脚力がどんどん消耗して追いつけなくなるのは、火を見るより明らかだろう。


 だが、それでも2人は奇妙な蛇行をやめない。


 むしろ2人は積極的に馬の体を傾けて、より素早く蛇行すること(・・・・・・)を心がけているようだ。


「……あの2人、ジャックとハル・イブリッツはどうしたのだ? 強風が吹いているとはいえ、ここまで馬の操縦がままならなくなるのか?」


「理由は分からぬが、他の出場者よりも走りが乱れてきているのは確かだ。あのままでは馬が潰れるのも時間の問題だぞ」


「むうう、ジャックという平民の小僧はともかく、首位候補の最右翼であるハル・イブリッツが、まさかここまで苦戦する姿を晒すとは……」


 驚きと呆れが混じった空気が、飛行船の船室の中に広がっていく。


 そうなるのも無理はなく、ジャックとハル・イブリッツの不思議なコンビの快進撃には、貴族たちも期待していたからだ。


 そんな飛行船から観覧している貴族たちが口にしたのは、一様に『ジャックとハル・イブリッツは絶不調。なんとか追いついてきたが、もはや脱落寸前だ』という主旨の言葉だった。


「……」


 しかし、中にはジャックとハルの動きを、注意深く観察している人間もいた。


 伯爵夫人タチアナ・リベラは、ざわつき出した貴族たちに対して侮蔑を意を込めて鼻を鳴らしつつ、視線はジャックとハルの方に鋭く向けている。


 おしゃべりな男爵のホルザードも、珍しくじっと黙ったまま腕を組んで観戦している。彼が腕を組んでいるせいで、隆々とした二の腕と大胸筋ははち切れんばかりだった。


 船室の隅にいる青銅騎士団長エルシドは、この観戦が始まった時から直立不動で無表情だったが、ジャックとハルの姿を追う視線は真剣味を帯びていた。彼が纏う漆黒の法服の下では、2人の才能に対する闘争心が湧き上がっていた。


 さらに3人の将軍もジャックとハルの意図を感じていた。全員黙って観戦しているが、蛇行するジャックとハルの動きに集中力を傾けている。


 今現在、ジャックとハル・イブリッツを侮っていない者は、知恵に長けた実力者たちだけだ。


「強風の中…蛇行して…追走………はッ?! やばいっ!!」


 その時、ルイーネが叫んだ。ジャックとハルの()に最初に気づいた人物は、ルイーネ・マリアクラスタだった。


 ルイーネはすぐさま鞭を振り、馬の速度を上げてラスクの隣に追いついた。前から雷で攻撃してくるアドルフなど、今のジャックとハルの脅威に比べたら、あまりにもどうでも良くなった。


「ラスク、速度を上げて!! 早くッ!!」


「なんでだよ? せっかくジャックたちが追いついてきたのに……」


「待ち受ける必要なんてないわ! むしろ今から全速力で走っても、あの2人は私たちに100%追いついてくる! そんな走り方をあいつらはしているのよ!!」


「ッ?!……ちっ、わかったよ!」


 鬼気迫るルイーネの表情を見て、ラスクもすぐに意見に従った。ここまでルイーネが焦った姿を見るのは初めてだった。


 即座にラスクとルイーネは愛馬に鞭を当てて、馬の速度を上げていくが、そこにアドルフの雷が襲ってくる。


「アドルフ、もう遊びは終わりだ! その雷ごと蹴散らせッ!! シュプリンガァーーッ!!」


 ラスクの指示に従い、魔馬シュプリンガーは水魔術を発動する。


 ギュオオーーーンッ!


 己の主人の意に忠実に沿うべく、魔馬は額にある折れたツノから水の弾丸を発射する。


 その水弾はアドルフの雷弾よりもふた回りも大きく、さらには強烈な螺旋回転がかかっている。


 魔馬が撃った水の弾丸はいくつもの雷を飲み込み、アドルフの首に向かって突き進んでいく。


「なぁっ!?」


 自分の魔術を容易く飲み込んで迫る水の弾丸など、アドルフからすれば悪夢のごとき威力である。しかし驚いているだけではまともに喰らうので、アドルフも大急ぎで防御する。


「くぉおおっ! 止まれ止まれぇーーっ!!」


 アドルフは土魔術で作った壁を空中に何重も設置して、魔馬シュプリンガーの水の一撃を防ごうとした。


 だが土の壁を作っても作っても難なく貫かれ、追い詰められたアドルフは巨大な雷の斧を水の弾丸に叩きつけた。


「うがぁああァっ!?」


 雷と水が衝突した瞬間、アドルフは自分の生み出した雷に感電した。しかし苦痛の叫び声を上げたアドルフだが、水の弾丸に撃ち殺されることはなかった。


「があ、ぁっ……なん、とか…散らせた、か」


 アドルフは水の弾丸に大量の電流を流すことで、著しい電熱を瞬間的に生み出して水を蒸発させたのだ。


 咄嗟に思いついた防御策で即死を免れたが、もちろん雷の斧を出したアドルフの右腕は、火傷と麻痺により使い物にならなくなった。さらに大きな雷を無理に発動したことで、残っていた魔力も枯渇寸前になった。


「く、そぉおおッ……なんて馬鹿げた、威力だ! ……こんなにも計算が狂って…あの女…ッ!!」


 悔しさで顔を歪めたアドルフはラスクの魔馬を睨みつけるが、魔馬シュプリンガーもアドルフに向かって殺気を向け続ける。


 シュプリンガーは言葉を話さぬ魔獣でありながら、その目は「再びラスクに手を出せば殺す」という意志が宿っている。魔馬は体躯や魔力に任せただけの獣ではない。人間に近い知能を持つ危険な高等生物なのだ。


『これ以上は手が出せねえ。右手は当分使えない……魔力も、切れそうだ……くっ…せめて、せめて少しでも馬の脚を早めてやる……!』


 強気な姿勢を貫いていたアドルフだったが、さすがにここまで窮地に立たされた時点で、観念する気持ちが表れてきた。魔術も武器も満足に使えない状態でラスクとルイーネに挑むほど、アドルフは馬鹿ではなかった。


 そしてアドルフの攻撃が止まったのを見て、ラスクとルイーネは一気に加速する。


「もうアドルフは諦めたようだな! ルイーネ、このまま突っ切るぞ!」


「ええ! 今のうちになるべくジャックたちと差をつけるべきよ!!」


 戦闘不能のアドルフを追い抜かし、ラスクとルイーネは全速力で駆けていくが、2人の表情に余裕も安堵もない。


 なぜなら、すでに2人はジャックとハルの射程圏内に入っているからだ。


 ゴォオオウッ!!


「まずい、追いつかれるわ!」


 ジャックとハル・イブリッツは馬を蛇行させているにも関わらず、どんどん馬は加速している。しかも無理に鞭を入れて走っているわけでもない。ほとんど自然に走らせた状態で速度が上がっているのだ。


 誰もが狐につままれたような感覚を覚えた。タネに気づいたルイーネですら、理解の範疇を越える光景だった。凶暴な暴風雨の中で、ジャックとハルの馬だけが伸び伸びと平原を駆けていくのだから。


 もはやジャックたちの走り方をみっともない蛇行と思う者はいない。むしろ走ることを心から楽しみ、何物にも阻まれることなく、自由気ままに走っているようにしか見えない。


 シュオオオオゥッ!


 鋭い風の音がラスクたちの耳に届く。


 その風の音源は自然が発生させたものではなく、ジャックから生み出されている『風』が空気を切り裂く音だった。


「どういうことだ?! なんであんな走り方でスピードが出るんだ? しかも、いまだに…加速し続けている!」


「あの嵐の中で、あれほどの加速するなど理解できぬ!いったいどんな手品があると言うのだ?!」


 飛行船から観戦している貴族たちの驚愕は、さらに大きかった。ジャックたちの馬の馬鹿げた加速は上空から見れば一目瞭然であり、それは想像の範疇を越える追撃ぶりだ。


「ルイーネ! なんなんだあのスピードは?!」


 人智を超えた速度で迫るジャックたちに、さすがのラスクにも焦りが見え始める。


「仕掛けの正体は風よ! ジャックが魔術で風を操ってるのよ!」


「風を操って…? 馬の脚を風で後押ししているってことか?」


「違う!そんなチンケな技じゃない!」


 叫んだルイーネは再びジャックの方を向く。


「あいつはこの辺り一帯の風を、いや、空気の流れそのものを自在に操っているのよ!」


 後方のジャックとルイーネの視線がぶつかると、ジャックの唇が開いて白い歯がこぼれ落ちる。その笑みは獲物を捉えた獣より獰猛で、なおかつ油断や嘲りは一片も持ち合わせていない。


 ジャックに対するルイーネの恐れはやはり正しかった。


 魔術で馬の走行を手助けして、少しでもレースで上位を狙う。多少なりとも魔力を持ち合わせている出場者ならば当たり前にやっていることだが、ジャックの場合は次元が違う。


 真の魔術の能力に覚醒したジャックの能力範囲は半径20mを越える。


 その範囲の気流を完璧に読み取り、自分たちの馬が走りやすいように向かい風を魔術で排除する。どうしても受け流せない突風が現れれば事前に察知し、馬体を左右に傾けて突風の抵抗を最小限に抑えて走行する。


「つまりこの嵐のなか、ジャックとハルの馬だけは無風状態の草原を走っているようなものなのよ!」


 そのルイーネの説明にラスクは絶句する。


 口で説明するのは容易だが、ジャックのそれは至難の技だ。


 風を敏感に読む感覚と、魔力を広範囲に広げて繊細に魔術を発動する技量が無ければ成り立たない。


 しかも不測の突風が襲いかかれば、風魔術を発動させた状態のまま馬の手綱を操って蛇行運転し、あらゆる方向の突風をかいくぐっているのだ。


 いまやジャックの眼には、進むべき最高の道筋が輝いて見えている。


 風の影響をほとんど受けず、それでいて馬自身が走りやすい完璧な道。急な横殴りの風に襲われても、ジャックの眼はまた別の光る道を導き出していく。


 そして遂に、ジャックとハル・イブリッツが1馬身差まで追いついてきた。


「並んだッ! ついにジャックとハル・イブリッツが、ラスクとルイーネに並びましたッ!! まだこの勝負は分かりません!」


 実況席のマイクのボルテージが上昇する。


 ゴールの西門までの距離を考えると、この4人が並んだこの瞬間こそ、レースのクライマックスと考えられる。


 ヴェルティア中の市民を盛り上がりを爆発させるのは、この場面しかないとマイクは理解し、さらに畳み掛けていく。


「やはり天が遣わせた若き力が頂点に上り詰めるのか! 魔に長け、武に長けた4人の天才がぶつかり合うのかァーーッ!?」


 その瞬間、戦の掛け声すら押し潰すほどの熱狂が巻き起こる。煽りに煽られた観衆の漲りが暴発寸前になり、ジャックたち4人の戦いの火蓋が切って落とされた。



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