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人の持つ牙  作者: 赤胴貫介
ディーセント帝国・騎士団編
104/105

3人の覚悟

お待たせしました!

 腕の根元から叩き斬られたホルンが倒れる。尋常ではない量の血が流れ続け、うつ伏せになったホルンの顔や体を血溜まりが覆っていく。


 ジャックが刀を空中で薙ぎ払うと、刃についたホルンの血が鋭く弾き飛ぶ。そうして血を軽く払って納刀した。


 無言のままの所作だったが、死闘の末に高ぶった気持ちが抑えきれてないようだ。その証拠にジャックの首から流れていた血は止まらず、むしろ勢いを増して噴き出している。


「ふむ、止まらぬぞ?」


 どこか楽しげにジャックは呟き、自分の首に指を這わせて血をすくい、指先に付着した血を舌先で舐めて味わった。


「かかっ、生まれ変わってもまとわりつくか? そこまで俺の首が欲しいてか? 俺の死に様はこうだと決まっておるのか?」


 誰に語りかけるわけでもなく、目の前の空間に向かって漠然とした問いを投げかけ続ける。


 陶然としたジャックの笑顔の芯には、人が持ってはいけない冷たいものが宿っている。


「うっとうしいぞ! いまだ俺ノ魂に、業が、シガミつくというのナラ……タダデハ、スマサヌカラナァ…ッ!」


 このジャックの姿を見れば、誰もが半ば正気を失っていると思うだろう。そして体の方も異常をきたしている最中であり、今も魔力がことごとく垂れ流しの状態になっている。


「……おい、ジャック?!おい、いい加減こっちを見ろよ! 何してるんだよ!」


 狂気の淵で揺れ動いているジャックを見かねて、後ろにいるハルが必死で呼びかけた。


 しかしハルの声はジャックに届かない。なおもジャックは薄ら笑いを浮かべながら、指先に血をとって空中に飛ばし、目の前の空間に怒りを撒き散らしている。


 このままではジャックの何かが決定的に壊れてしまう。


 そう感じたハルがジャックに掴みかかろうとした時、柔らかな旋律とともに優しい歌声が聴こえてきた。


「この音楽は……?」


 突然耳に入ってきた柔和な音楽に戸惑い、ハルは辺りを見渡したが、すぐにこんな芸当ができるのは1人しかいないと気づいた。


「ホルン・シンフォニア! お前の仕業なのか?」


 ハルはジャックの足元で倒れているホルンに呼びかける。


 血の海の中で倒れていたホルンは、ハルの声に反応して、呻きながらわずかに顔を上げた。顔の半分は床に流れた血で汚れている。


「え、ええ……その、通り…よ」


 そう言ったホルンの顔色は、薄暗い洞穴の中でもはっきり分かるほど、おびただしい出血量により青白くなっている。目の焦点も合ってないようで、もはや絶命するのは時間の問題だろう。


 しかし死にかけの外見とは対照的に、ホルンの体から発生している魔力は、生命を燃やした熱い執念を帯びている。


「……これで、終わらせないっ…!」


 歯を食いしばったホルンが魔力を込める。一層強くなった魔力の奔流は、力強くおおらかな音色を奏で始めた。


 そこまでしてジャックに一矢報いるつもりなのかと、ホルンの闘志に戦慄したハルは、弓に矢を番えようとした。


 だが、ハルはホルンを射たなかった。


「ウゥぅ…? くそ、ナんだ、この血は?」


 その声を聞いてハルが驚いた。目の前でフラフラと動きながら独り言を呟いていたジャックが、手の平を自分の顔の前に掲げて、手についた血を確認したのだ。


『正気に戻り始めた?! まさか、あの音色…』


 現在もホルンが魔力で生み出した音楽が流れている。


 根を張ったような個々の音色の力強さと、包容力を感じさせるリズム、落ち着いて聴いてみればこの旋律は精神的な安らぎを与えるものだ。


 さらに音の響きは具体性を増していく。


 ハルが音色から連想したのは、暖かな木漏れ日が降り注ぐ森の中と、心優しく陽気な小人たちが吹く笛だ。


 リズムは小躍りしたくなるような速さになり、牧歌的な懐かしさを感じさせる笛の音色が、嬉しそうに洞穴の中で反響する。


「こんな終わりかた、絶対に、許さないっ……私を倒したくせに、ここで気が触れて自滅するなんて、この私がっ、許すわけ、ない…っ…!」


 死力を尽くしてホルンが奏でていた音色は、ジャックを正気に戻すための音響魔術だったのだ。


 魔力を使い果たせば体は一気に衰弱するものだ。ジャックに右腕を斬られた今のホルンが、体の中に残った少ない魔力を使い切ってしまえば、間違いなく死ぬ時間は早まる。


 それでもホルンはジャックのために旋律を紡いだ。


 自分に勝利したこの人間の未来が簡単に絶たれてしまえば、この人間に敗けた自分のこれまでの人生すら、色褪せたつまらないものになってしまう。


 何が原因で狂気に陥りかけているか知らなくても、ジャックを助けるというホルンの意志は固かった。


「はや、く……正気に、戻りなさい、よっ…」


 ホルンの顔からみるみる生気が失われていく。頭の先から爪先まで力が入らないので、倒れたまま魔力だけを絞り出している。


「グゥううっ……音が、聞こえ…て…」


 決死の魔術が功を奏して、ジャックは少しずつ正気を取り戻していく。周りの音にも反応を見せ始めた。


 辺りに気を配る余裕が出てきたジャックが、ようやくホルンの行動の意図に気づいた。


「そうか、俺のために、音を」


 ジャックはホルンの必死の表情を見て、胸の中を何かで貫かれたように感じた。物言わずともホルンはジャックに向かって「しっかりしろ」と激励しているのだ。それを感じ取ったジャックは首の傷に改めて触れることで、この傷は自分にとって避けては通れない存在だと、やっと理解することができた。


「この首の傷……これを疎ましく思っては、前に進めぬということか。くっ、くくっ、良いだろうっ… 前世の業を引きずって、悔やむのは、辞めだ。(じゃく) 主水(もんど)であろうとジャックであろうと、業も咎も……全て背負って……生き抜いてやる!」


 自分がジャックでありたいのか、(じゃく) 主水(もんど)でありたいのか、それをどう思っても現実の姿を変えることはできない。


 ゆえに過去と現在、両方を受け止めることに決めた。


 今この瞬間で解決はできない。どれだけ切り離そうとして忘れようとしても、悔やみ続けても、時は進み続けるのだ。人生は自分だけのために止まってはくれないのだ。


 ならば彼は本当に腹を括るしかない。


 可愛い息子と孫を残して斬首されてしまった前世も、様々な人間を巻き込んで戦いの日々に身を投じてしまった今世も、捨て去ることはできない自分の歴史なのだから。


 ジャックであり(じゃく) 主水(もんど)であった彼は、己の存在と足跡を認めることができた。


「ジャック、君は……」


 そばで見ていたハルはジャックの心の変化に気づいたようだ。並々ならぬ過去を受け止めると誓ったジャックの顔つきが、以前よりも芯を持っているように見えた。


 少しずつ、少しずつ、ジャックの首の出血が治まっていく。そして出血が弱まるにつれて、洪水のように溢れ出していた魔力も下火になっていった。


「…そ……れ、で…い、い……」


 倒れているホルンがかすかに笑った。か細い声だったが、確かな満足を得た一言だった。


「ホルン・シンフォニア、お前は敵だが死なせはしない。大きな借りができたからな……ハル! ホルンの止血を手伝ってくれ! 勝手を言うようで悪いが、俺はどうしても借りを返したい」


「あ、ああ! もちろんだ! 必ず助かる保証はないけど、急いで止血すれば間に合うかもしれない!」


 生命を燃やしたホルンの行動は、ジャックとハルを動かした。


 すぐさま2人はホルンに駆け寄り、止血と傷の治療に全力を傾けた。持っていたポーションは惜しみなく使い、どうしても血が止まらない部分は、火で炙って出血点を完全に塞いだ。


 このままホルンが生きるか死ぬか、まだ分からない。ジャックとハルによる応急処置は迅速だったが、ここからホルンが息を吹き返す確率は五分五分だろう。


「ハル、目を覚ますのを待つだけでは状況は変わらぬな」


「そうだね、こうしている間にもレースは進んでいる……よし! 待っていても始まらないなら、こちらから動けばいい。ホルンを連れてこの洞穴を脱出しよう! 手近な集落までホルンを運んで、本格的に治療してくれる人間を探すんだ。僕たちのレースはそこから再開だ!」


「心得た! そうと決まれば急ぐぞ!」


 ただちにジャックはホルンを背負い、滑り落ちないように紐で自分とホルンの体を縛りつけた。ジャックの背中の上でホルンはぐったりとしていて、まだ目覚める様子はない。


「行くぞ!」


「ああ!」


 ジャックがホルンを背負って先導し、ハルが馬2頭を連れて後をついていく。


 暗闇の洞穴の中は危険な生物が多いはずだったが、先に居たホルンが音で倒していたおかげで、ジャックとハルの行く手に現れたのは大勢の魔物の死体だけだった。


 洞穴の奥へ進み続けるほど、ホルンという少女の音響魔術はやはり強力なものであったと2人は思い知った。




 ***




 ホルンを連れて洞穴を進むこと15分、ついに3人は海辺の洞穴を脱出した。


 暗い洞穴の中から外の世界に出ると、周りがより明るく見えるものだが、眩しさを感じる太陽は空になかった。


「ずいぶんな雨模様だな」


 ジャックが洞穴の出口から外の様子を伺うと、外は強い雨が降っていたのだ。空全体が厚い雷雲に覆われていて、まだ昼間だというのに薄暗かった。


「この調子だとまだまだ強くなる。よりによって今日が雷雨になるなんて、厳しい1日になりそうだ……」


 そう言ってハルがため息をついた。


 もちろんジャックもハルも、今日が選考大会の山場だと知っている。


 今日こそ第1チェックポイントの都市ヴェルティアに先着する出場者が決まる日であり、おおよそのトップ集団たちは、今日の夕方頃にヴェルティアに到達しようと計画しているはずだ。


 そんな日にこれほど天候が荒れるとなると、レースの様相も荒れたものになる。全ての出場者にとって最悪のコンディションである。


「それに、この雨の中で衰弱したホルンを連れていけるか微妙だ。すでにかなり血を失っているし、その上さらに雨で体温が奪われたら、助かる生命も助からなくなる」


 ハルの言う通り、冷たい雨というのは人間の体力を消耗させるものだ。


 いくらホルンが過酷な旅に慣れた魔術剣士だとしても、今の状態で体が耐えられるか不安が残る。いつ死んでもおかしくないホルンが、これ以上体力を奪われてしまえば、死ぬ危険性がグンと上がる。


「しかしここに残しては行けぬ。本格的な治療もせずこの場所に置き去りにしてしまえば、魔物にとって格好の餌食だ」


「それはそうだけど、雨が上がるのを待ってはいられない。他の出場者たちはヴェルティアに向かっている最中だろうし、ここで足止めされては本末転倒だ!」


「分かっておる! ならばどうする? 何かいい案は……」


 だんだんとジャックとハルの間に焦りが生まれる。元々冷静で優秀な2人といえど、勝負となる日に足止めを受けるのは手痛いものだ。


 刻一刻と時間は過ぎていき、対応が遅れれば遅れるほど、これからのレースが不利になっていく。


 ラスクやルイーネ、アドルフといったライバルたちも、トップを狙って今も進んでいる最中だろう。ここまで来て走り負けるということは絶対に避けたい2人だった。


「そうだ! ホルンの乗ってきた馬があるはずだ! 洞穴の中に入ってきた出場者を効率的に倒すために、自分の馬を洞穴の外に待機させていた可能性が高い。どこかの木か何かに繋いでいるはずだ!」


 近くに馬がないか探し始めたハルの意図を、ジャックも素早く理解した。


「なるほど、ホルンの馬が飼い慣らされた軍馬ならば、人里まで単独で行ってくれるかもしれん。そのホルンの馬に手紙などを結んでおけば、他の人間の助けを呼ぶことも……」


 2人は洞穴から出て、周囲に木があるか探そうとした。


「そんな、の…連れ、て……ない……」


 ジャックたちが洞穴から出ようとした時、ジャックに背負われていたホルンが声を発した。


 ハッと気づいたジャックが後ろに顔を向けると、顔を小さく上げたホルンと目が合った。ホルンの顔色はいまだ青ざめていたが、まだ生気は残っていた。


「おい、あまり喋るな!無理をするな!」


「ホルン、下手に動かない方がいい! 僕たちの応急処置だって完璧じゃないんだ!」


 なおも言葉を出そうとするホルンを、ジャックとハルは制止する。しかし2人はこの次の言葉に驚くことになる。


「う、馬なんて、乗ってきてない、か、ら」


 馬を持ってないというホルンの言葉に2人は困惑した。


 この帝国騎士選考大会の第1次戦とは、はるか東にあるモルト公爵領に向かうレースである。


 必然的に馬に乗ってレースに挑む出場者が大部分を占めていて、隷属させた魔獣や魔物に乗っている獣人の出場者などが、全体の1割もいるかどうかというところだ。


 つまり騎乗している生物に多少の違いはあれど、全ての出場者は何かしらの生物に乗って、レースに挑んでいるはずなのだ。


「馬に乗ってきてない、だと? ならば魔物などを従えていたのか? そういった生物も近くにはいないようだが…」


 洞穴を出た先は森が広がっている。崖や斜面の影になっているせいで、洞穴の出口は発見されづらいものになっているのだが、ジャックとハルは出口の周囲にある木々を、ある程度見渡せる状況だ。


 だがホルンは首を横に振って、再び2人の考えを否定した。


「……本当に、いないのよ…私がここまで、来たのは、召喚術で生み出し、た、精霊獣による、チカラ、なの……」


 ホルンの口から精霊と聞いたハルが一層驚いた。


『精霊だって?! 音の魔術のみならず、まさか召喚の秘儀さえも扱えるのか?』


 ハルが驚くのも当然だった。精霊の召喚はエルフの中でも限られた者にしか扱えない技術であり、純血のエルフでも精霊を呼び出せる使い手は50人に1人だという。


 まさか半エルフのホルンが精霊を召喚できるとは、ハルは夢にも思ってなかった。


 これを知ったハル・イブリッツには、この帝国の貴族の嫡男に生まれた者として、ホルン・シンフォニアを助ける新たな理由が生まれた。


『こいつは、ホルンは死なせてはならない。僕たちと殺し合いをした敵であっても、この半エルフの少女は間違いなく傑物になれる人材だ!いずれ帝国のためになる才人を、こんなところで散らせてはいけない……!』


 ジャックを正気に戻してくれた恩もあるが、元よりハルは騎士一族の血を継ぐ者である。稀有な才能を持つ者を尊重する価値観は揺るぎないものだ。


『また、やらなきゃならないことが増えたな』


 実を言えば理性的な性格のハルだからこそ、ついさっきまで『ホルンを見捨てる』という最悪の選択肢を、心の隅に残していた。


 そもそも将軍ファローザと竜騎士アーリマンから授けられた密命を遂行するという義務、騎士の家系として育てられた宿命を背負うという役目が、ハルの双肩にかかっている。


 ハルは達成しなければならない責務をいくつも抱えているため、不義理を働かねばならない決断に迫られた時は、たとえどれほど人倫にもとる行動でも、決心したら実行すると覚悟していた。


『この後に及んでホルンを捨てて行くのはナシだ。帝国の発展のためにも、ジャックを助けてくれた恩を返すためにも、僕は彼女の命を助けなければ……!』


 だが、この時点でハル・イブリッツは、ホルンを助けながらレースで勝つという方法だけを考えるようにした。


 悩むジャックとハルに良い考えが思い浮かばず、雷雲の唸りが盛んになり始めた頃、ホルンがジャックの肩を弱々しく叩いた。


「まっ、たく……どうしても、私、を…置いていけ、ないなら……そのまま、ヴェルティアに、まで、連れていけば、いい……!」


「馬鹿な、間違いなく死ぬぞ」


「いくらなんでも無茶だよ!」


 そんなホルンの提案には2人とも同意できなかった。これほど体力を消耗している状態で、大雨の中を馬で長時間走り続けるのは危険極まりない。


 しかしホルンの決意は固いようだ。ホルンの目の奥には鬼気迫るものが伺えて、ジャックも息を呑むほど鋭い目をしている。


「なら、今ここで、死んだ方がマシ……自分のせいで、敵だった相手、に、迷惑かけるなんて…そんな生き恥……晒したく、ない! それでも、私を生かしたい、なら…連れていけ! なんなら、弾除けにでも、なって、やるわ…っ」


 もはやこうなったホルンの覚悟を覆すことはできない。


 重症のホルンが見せた形相を見て、ジャックとハルはそれを悟った。


 少しの間、3人の間に沈黙が訪れた。その間も暴風に揺さぶられる枝の音と、雨粒が土と木の葉を打ちつける音が響いていた。


 そこで口火を切ったのはジャックだった。


「良いだろう、そこまで言うなら乗せていく」


 ジャックの言葉に驚いたハルが顔を上げた。ハルが見たジャックの表情には、とうに迷いや不安が消えていた。


「本当に連れていくのかい?」


 最後にハルが念押しすると、ジャックはしっかりと頷いた。


「もちろんだ。ここで問答をしても(らち)があかぬ。ならばここはひとつ、ホルンの命のしぶとさに賭けてみるのも悪くない」


 そしてフッと笑ったジャックが、愛馬ソルダートにホルンを先に乗せてから、ホルンの頭から革のマントをかけてやった。


「少しは濡れずに済むだろう……よっと」


 ジャックはホルンの後ろに乗って、お互いを腰のところで縛りつけた。どうやら懐でホルンを抱え込みながら、馬を操るつもりだ。


「やれやれ、何とかヴェルティアまで保てばいいけど」


 ハルもようやく観念して、ジャックの言う『賭け』に付き合うと決めた。


 愛馬ウンディネにハルが乗り込み、背中に担いだ荷物から方位磁針を出した。ハルは東北東の方角を今一度確認してから、ジャックに出発を合図した。


「さあ、ヴェルティアへ!」


「おうっ!」


 最初にハルが勢いよく洞穴から出て、すぐにジャックとホルンが続く。


 雨でぬかるんだ森の中を2頭の馬が駆け抜ける。土砂降りの豪雨は木の葉の合間を通り抜け、3人の体を容赦なく冷たく濡らしていく。


 風に煽られた雨粒たちが顔に突き刺さり、普通ならば目を開けることさえ困難な状況の中、ジャックとハルは毅然と前を見据えている。


 ジャックとハルの体力も万全ではない。ポーションによる応急処置は施したが、いまだ2人の鼓膜は完治しておらず、ジャックに至っては音波攻撃を受けたことによる骨折が多く、魔力もかなり消費している。


 ハルはジャックに比べて痛手を負っていないが、愛用の槍を失ったことで、ハルの本領である騎兵戦ができない。弓による射撃は問題ないが、もし接近戦となれば圧倒的に不利だった。


 2人の戦力は大きく下がった。今の状態でライバルたちと交戦すれば、苦しい戦いに持ち込まれるだろう。


 しかし2人の気勢は衰えていなかった。


「ハァッ! ハァッ!」


「フゥーーッ……!」


 落雷と驟雨が入り交じる嵐の中でも、2人の視線はヴェルティアの方角をビタリと捉えている。雨粒や突風にも怯まず突き進み、両者の荒い息づかいは獣のようだ。むしろ体力が万全な時よりも、凄まじい気迫と力がみなぎっている。


 ゴゴォォォッ……グロロゥウッ、ビシャアアアッ!!


 雷の唸りが一段と強くなったかと思った時、ジャックたちのすぐ近くに稲妻が落ちた。


「ハァッ! ハァッ! ハァッ! ーーーッ!? ジャック! 倒木だぁっ!!」


 先導していたハルが前を見て叫んだ。ハルから約30m先のところにある樹木に稲妻が直撃して、その太い樹木が焦げて倒れ始めたのだ。


 倒れゆく樹木が間もなく進路を塞ぐ。


 今は弓矢しか使えないハルは、力づくで倒木をどうにかする方法がない。ハルは衝突を避けるために手綱を引いて、馬の脚を止めようとした。


「そのまま進め。とっとと刻んでやる」


 だがジャックはハルに進むよう指示して、刀を抜いた。


「ふぅ……ゼァッ!」


 少しだけ呼吸を整えてから、魔力を込めた刀で地面を豪快に斬り上げた。刃先がガリッと地面に埋まり、掘り返された土と草が宙に舞った。


「これで充分だ。そうら、這い進んで切り刻め」


 ジャックが刀で地面を斬り上げた直後に、地下に染み込んでいた雨水がジャックの魔力に引き寄せられる。引き合った水は意思を持った1つの『波』となって、倒木に襲いかかった。


 ズバシャアッ!! ギャギィッ、ギャリギャリリィッ!


 波の一粒一粒が鋭利な刃となり、太い樹木をどんどん刻んで崩していく。倒れた樹木はものの数秒で崩壊して波に飲み込まれ、残ったのは木片だけとなった。


 ジャックたちは木片の山を踏み越えて、森の中を猛然と突き進んでいく。


 先行するハルは1度だけ後ろを振り返って、相棒のジャックの顔色を確認した。


『まだ魔力は残っているのか? いくら倒木が危険だったとはいえ、もうジャックに魔術を使って欲しくない』


 そう、ハルが懸念していたのはジャックの魔力切れだ。


 すでにジャックはホルンとの戦いで魔力を消費している。水の弾丸を撃つ『水牙』、風の刃を放つ『空刃』ら真空の空間を作り出す魔術、そして水を『波』にして対象を切り刻む魔術を使った。


 ここまで立て続けに魔力を使えば、普通の戦士ならばとっくに魔力切れで意識を失っている。体の中に内蔵している魔力量が多い『魔術師』であれば、まだまだ平気かもしれないが、もちろんジャックは魔術師ではない。


 ハルが知っている身近な魔術師といえば、知り合いのBクラス冒険者の魔術師や、騎士団長を務める父親の同僚の魔導騎士、そして同期のルイーネ・マリアクラスタなどだ。


 そういった者たちは生まれつき魔術の才能があり、なおかつ確かな修行の末に精神と技術が洗練されて、人並み以上の魔力を持つようになる。


 しかしジャックはあくまでも剣士だ。


 ジャックはハルと出会う前から魔力を扱えたが、それは素人に毛が生えたようなレベルだった。魔力を『球』の形にするという、つまり魔術の前段階である『魔法』を使えるだけだった。


 ハルもそれを知って、大会までの1ヶ月の間で魔術を本格的に修行させることはなかった。主に訓練時間では剣術、馬術、弓術など、実際に大会で有用になりそうな分野を鍛えていたのだ。


『それなのに、どうしてここまで魔術が使える? どうして魔力が切れない?』


 深い知識と卓越した知恵を持つハル・イブリッツですら、ジャックの変貌ぶりを理解できない。


 あの首の傷が浮かび上がって出血した時から、ジャックはホルンと同じような力を手に入れていた。あのような魔術の使い方は、エルフ族のような多彩さを感じさせる。


 いくらホルンの魔術から学んだといえど、ジャックのこの成長は異常過ぎる。


『頼むから無理はしないでくれよ……これから魔力切れを起こしたら、僕でも助けられる保証はないんだからな』


 ジャックの急成長は喜ばしいことでも、後先考えず魔術を使われては困る。


 魔力が枯渇すると意識障害や幻覚、精神遅滞、脱力感など、様々な不調が一気に押し寄せるのだ。そうなったらナイフを持った素人にすら殺されてしまうほど、弱体化するということになる。たとえジャックでも、そうなってしまえば致命的だ。


 表面上でハルは冷静に馬体を制御しながら、入り組んだ森の中を華麗に進んでいるが、心の中ではジャックの魔力切れを最も危惧していた。


 そんなハルの心配を気にすることなく、ジャックは難なくハルの後ろをついてきている。


『ドクンッ!…ドクンッ!…ドクンッ!!』


 その間もジャックの内なるモノは密かに脈打つ。


 それは地獄の閻魔から背負わされた斬首の業なのか、それとも(じゃく) 主水(もんど)の暗い情念なのか、真実は誰にも分からない。


 だが、ジャックはひとつだけ確信していた。自身の奥底で脈動する『力』を飼い慣らすやり方を。


『怒りは鎮めろ……終わった過去は、そっくり飲み込むんだ……真っ直ぐ前を見て、受け入れて……未来へ突き進むと覚悟しろ』


 前世での悔いを挙げればキリがない。


 労咳の妻と家族を切り離してしまったこと。義理の娘と次席家老の濁った本性に気づけなかったこと。目に入れても痛くない息子と孫を残して、打首に処されてしまったこと。


 そして今の人生でも苦い悔いがある。


 小さい頃から親友だったブルーノを守れなかったこと。自分が人狼エイドスを殺し切れなかったせいで、都市ロメオが戦場になってしまったこと。世話になったマーシュとクレアに、迷惑をかけたまま、ファルス王国から去ってしまったこと。


 そういった後悔に囚われ、どうして俺だけがという怒りに精神が支配されてしまえば、首から血が噴き出して魔力が暴走しやすくなる。


 特にこういった大雨の日は最悪だ。前世で斬首された日も、人狼エイドスが都市ロメオを襲撃した時も、今日のような激しい雨だったのだから。


 ゆえにジャックは己の精神を一分の隙もなく、制御し続けなければならない。


『ドクン……ドクン……ドクン……』


 雑念を排して己を律することで、だんだんと不穏な力の脈動が収まっていく。決して消えたわけではないが、一旦は眠りについたということだろう。


 やはり秘められた力はとてつもないものだ。そしてそれはあまりに危うく怪しい香りを放っている。この力の思うがままになってしまえば、ジャックという存在が別の『何か』に変わってしまうほどだ。


「ハル、心配するな」


 ジャックの一言にハルが振り向いた。


「俺は己を見失わない。腹の中で暴れるモノも奥の奥まで鎮めて、これから始まる死地を切り抜けるために蓄えてやる。無論、道の途上でくたばる愚は犯さぬからな」


 笑ったジャックの唇の間から白い歯が見え、眼には爛々と輝く生気が灯る。同じ笑顔でも先程のような危うい狂気は感じられず、それを見たハルは安心して頷いた。


「……うん、なら良かった。ジャックがそう言うなら、僕はそれをとことん信じるだけだ。背中は、任せたよ」


「心得た」


 首肯し合った2人の意は今この瞬間にも一致している。お互いが自分の役目を理解しているのだ。


 現在の時刻は午前9時。ヴェルティアに到着するまで7~8時間といったところで、日が落ちる頃に着く予定だ。


 ここから先はスピードが命となる。数々の猛者がヴェルティアを目指して走り続け、誰もが輝かしい『一番乗り』を虎視眈々と狙っているのだ。


 まだ正統騎士を決める大会の第一次戦のレースであり、今日はそのレースのチェックポイントの先着を争っているだけに過ぎない。


 それでも全ての選手たちは、チェックポイントで走り勝つ重要性を理解している。ディーセント帝国のエリートである正統騎士となるからには、長距離の進軍で遅れをとるようでは話にならないのだ。


 今日、ヴェルティアに着く直前で競走が激化するのは必至だ。場合によっては矛が交わる戦場となる。


「森から抜け出せるぞ!」


 叫んだハルの視線の先では、将軍シャルロットが創り出した雷光の星々が、木々の間からでもはっきりと存在を証明している。


 森を抜けると視界が一気に拓けた。


 目の前に広がるのは強風が吹き荒れる平原で、風に煽られた芝が大きく波打っている。右手を見れば海岸線となっていて、打ち寄せる白波は飛沫を上げて荒巻いている。


 東北東の空には数多の雷玉が綺羅星のごとく輝き、それは嵐の中を突っ切ってくる挑戦者を、今か今かと待ちわびているようだ。


 樹木という遮る物が無くなったので、さらに暴風雨が強く感じられる。それでもハルの愛馬ウンディネとジャックの愛馬ソルダートは、うねる草原の上を果敢に駆け抜ける。


 馬のひづめが芝を蹴るたびに泥水が跳ね、草の端きれが飛び散る。白く煙る雨の先へ2人は駆ける。もはや行く手にも乗り越える山や渓谷はなく、あとはヴェルティアに向けて最速で走り続けるだけだ。


 そしてこの平原にはジャックとハル以外に人はいない。


 直線ルートで進んでいるトップ集団も、その集団の競走を観戦している貴族たちも、南側から回り込んで来ているジャックとハル・イブリッツの存在を知らないだろう。


 先駆けの栄誉を狙う2人のダークホースが、身を潜め、爪を隠しながらヴェルティアに迫る。

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