初老の剣士
初の小説投稿です。精一杯頑張ります。
板を踏みしめる足音が左から徐々に近づく。キシッという音がはっきり聞こえてきた。やがてその音は自分の真正面で止まり、座る音でそれまでとなった。
『ようやくおでましか』
心の中でそう一人ごちた男は、雨の降る奉行所の庭に引き立てられていた。
『それにしても……だな』
手は縄できつく縛られ、目には布を当てられている。何も見えず、動くこともできない。お上の奴らがどんな表情をして自分を見ているかは分からない。
だが、目は見えず雨の中に座らされているとて、男の耳は眠っているわけではなかった。
『上座に三人。で、そばに桶持ちと俺を始末する奴で二人で、ここに男は五人。ついさっき上座のお偉方は一人だけ唾ぁ飲み込んだな。あとはわしの左に佐江と鶴吉か……八つの童を雨の中座らせるとはな』
呆れてため息を漏らした男の名は寂 主水「じゃく もんど」という。
主水は葉笠藩では一、二の剣の腕を持つ武士として評されていた男であり、当人は質素な性格だが、その激しくまた緻密な剣風は山の向こうの藩の人間にも、その勇名とともに知られていた。
二十一歳の時に妻はつをめとり、三年後に一人息子の蔵之介が生まれた。充実した年月を過ごしてきた彼は、今や五十二歳の壮年と老年の狭間。
息子は十年前に結婚し、八年前に孫が生まれた。孫の名は鶴吉といい、息子の嫁御の佐江が生んだ、生意気だが愛らしい初孫だった。
爺さまと呼ばれるようになった主水は、城務めの仕事はそろそろ若い者に任せ、時には道場で剣を学ぶ少年に手解きを加えるようになった。
もう少しすると自分には幸せな老後が待っている。つい最近まではそう思っていたし、そのはずだった。
だが、その彼は今日、武士として死ぬ切腹ではなく、大罪人として打ち首獄門の刑に処される。
ずぶ濡れの主水に今、言い渡されているお上の口上はこうだ。
先日三日前の寅の刻、筆頭家老「稲葉 雁六」の屋敷に押し掛け襲撃し、その主の雁六、以下家に居た七名の友人を殺害し、さらには物盗りの仕業に見せるために一切の家具を荒らしてその場から去った、と。
そう、武士として最も忌むべき、主殺しの罪状だった。
『どうだかな』
この庭に引っ立てられてから一言も発していない彼は、告げられた罪状を聞きながら、自らの所業を振り返った。
確かにその晩、家老の屋敷に主水は居た。そして取り巻いていた奴らを撫で斬りにしてから逃走したのも事実だ。その時の立ち回りのせいで、箪笥や襖などを滅茶苦茶にしたのも、見に覚えのあることなのだから不満はなかった。
しかし、筆頭家老に手を下したのは自分ではなく、そもそも屋敷に押し掛けたつもりはない。
そして、いくらなんでも筆頭家老が金で雇った連中を友人扱いするのは、お上の考え、いや次席家老「宮島良之丞」の考えでしかない。
前方に座ってほくそ笑んでいるであろう宮島を思い、主水は内心で舌打った。
宮島は若いときは放蕩者として知られたお坊ちゃんだった男で、特に女関係がだらしないことで有名だった。
ひどい時には片手では数えられないほどの女を一度に弄んだとも言われていたが、三十五を過ぎた宮島はさすがに色事のなりを納め、奉行所仕事をそつなくこなすようになり、剣の技術も主水に指導を頼み、葉笠藩が誇る剣士のもとでめきめきと力を伸ばしていった。
若気のいたりは酷かったが、こいつならばやがて筆頭家老として藩をよく回してくれる人物になるだろう。
誰もがそう考えている中、師の寂 主水の評価は少しだけ違っていた。稽古中の宮島の熱心さは一見して混じりけのないものだが、よくよく読み取れば、というより剣を交える際の直感で主水は、凝りのような物をどうしても感じてしまっていた。
そしてその直感は最悪の形で当たった。
男としての性情とは、どうしてもむくりと冬眠から目覚めた熊のように起き上がるものだった。しかも宮島良之丞の場合、年を経たせいで余計なずる賢さと周囲の信用を手に入れたために、たちが悪かった。
そしてそれに感化されるのは満足の足りない女の性情で、それが義娘の佐江に芽生えてしまったのが、主水にとって青天の霹靂だった。
『それでも、まさかあんな行動を起こすとはな』
昨晩、主水は道場仲間と酒を引っ掛けてから帰っていた。道中、自分一人だけになった所で四人の人間に襲われた。反応はしたが全員が手練れだったようで、結局はふんじばられたまま気を失い袋詰めにされた。
後から知ったが、刺客四人は家老共が表の口では言えないような物事を行うときの切り札、いわゆる金で雇う私兵である。
主水は目を覚ましたとき、そこがどこかの屋敷の冷たい床下だと気付き、すぐさま脱出を図った。床板の上に這い出て様子を探ると、笑いあって騒いでいる声が聞こえた。
声の数は十人弱で、刀も手元にないままでは太刀打ちできずと判断し、こっそりとここから逃げようとした。
しかし、奴らの一人が気づくと、全員が探しだそうと動いた。見つかった主水はやむなく応戦したが、そこで気づいたのは、奴らの奥に立っていたのは紛れもなく筆頭家老であったことだ。
主水はそこで察した。噂で聞いた私兵を目の当たりにした俺を、筆頭家老は生かして帰すわけがない。
主水は死に物狂いで戦って私兵七人を返り討ちにした。筆頭家老も斬りかかりそうな様子だったが、家老だけは何故か急に苦しみだして血を吐いて死んだ。
おそらく、私兵共はすでに筆頭家老を裏切って宮島についていて、酒には毒を盛っていたのだろう。しかし、あの状況下では自分が全員殺したように断じられてもしょうがない。
『そして稲葉屋敷の門前で、宮島と捕り方達がすでに待ち伏せ、俺はまんまと御用ってわけだ』
主水は顔を少し左に向け、耳を澄ませた。その先にはまったく言葉を出さない佐江と、泣きじゃくっている鶴吉がいる。
『蔵之介の仕事人間振りに我慢が効かず、宮島なんぞに引っ掛かったか』
宮島と佐江は、浮気に感付きそうな主水をこのように嵌めることで、逢い引きが今後やりやすくなる。さらに宮島個人で言えば、筆頭家老にすぐさまなれるというノシがついた計画の成功だ。
主水は息子の蔵之介の愚直さでは、二人の淫行に気づかないだろうと思っていた。
大罪人の主水の処刑を家族は見なければならない。ここに連れて来られているということは、形だけではあるが、自分が斬られた後になにかしらの沙汰を言い渡されるに違いない。
息子の蔵之介は今はこの藩にいない。参勤交代の供でいないことが主水にとっては逆に幸いした。
頑固な蔵之介の性格ならば、俺がこのようになると聞けばお上に暴挙を起こしかねなかった。
「さて、口上は終わったが最期に……寂 主水よ、言い残す事があるか述べてみよ」
そう言った宮島の嫌らしい笑みがそっくり頭に浮かび、主水は歯噛みした。
だが、言いたいことは言わせてもらうことにした。どうせ死ぬならば、周りには狂人と思われてもどうということはない。
「鶴吉、元気でな」
一息置いて、
「次に生き物として生まれるならば、俺は畜生になりたい。浅ましくても物が言えなくても正直な奴らに囲まれる。なんと羨ましい」
雨は強く篠突いて皮膚に突き刺さらんばかりであった。
言い終えて、間があって、思考は朱に染まって闇に堕ちた。