ピンクルージュ(虹色幻想16)
百花は今日も学校の後にバイトへ行った。
今、百花は一人暮らしをしていた。訳があって親とは離れて暮らしている。
だが百花は生活費は自分で稼いでいた。
それが約束だったから。
ただ、女子高生が生活費を稼ぐことは簡単ではなかった。
結果的に、簡単に稼げる夜の仕事が中心となっていった。
百花は少し化粧をすると女子高生には見えないほど大人びていた。
茶色く長い髪を緩やかにウェーブし、派手なスーツを着ると二十歳そこそこに見えた。
百花は夜の仕事が嫌いではなかった。
だが、それは学校へ通う間だけの仕事と割り切っていた。
あくまで、生活費を稼ぐためだったから。
百花が通うのは私立和泉高等学校だ。
三年の秋に差し掛かり、あと高校生活も半年に迫っていた。
この日もいつものように百花はバイトをしていた。
そして少し飲みすぎた。
就職が決まり、嬉しくなって羽目を外した。
心地よい酔いに満たされ、前後不覚になっていた。
目覚めたら、知らない部屋にいた。
ここはどこ?
百花は青ざめた。
知らない部屋、知らないベッド。
慌ててベッドから下り、自分の姿を見る。
知らないパジャマを着ていた。
男物。
百花はめまいを感じた。
やってしまったのだろうか?
少しの間絶望した。
それから気を取り直し、部屋を出る。
目の前には玄関。
右手と左手に扉があった。
右手を開けるとバスとトイレだった。
左手を開けるとリビングとダイニングだった。
百花はそこで知っている顔を見つけた。
「西崎先生!」
西崎裕一。
彼は百花の担任だ。
裕一は新聞から顔を上げ、百花を見た。
「起きたか。平気なのか?昨日は酷く酔っていたぞ」
百花はその場から動くことが出来なかった。
これはどういうことなのだろうか?
混乱していた。
その時、玄関から物音がした。
「ただいま~」
若い女の声がした。
その若い女は百花を見て笑った。
「やっと起きたね。もう大丈夫?」
そう言いながらダイニングに入り、百花を手招きした。
「お腹減ったでしょ?今ご飯作るから、座っていて」
そう言うと百花をリビングへ追いやった。
時間はもう昼だった。
百花はしかたなく、裕一の前に座った。
居心地が悪く、もじもじする。
「先生、どういうこと?」
裕一は新聞を読んだまま答えた。
「お前が酔って危険だったから、連れてきたんだよ。覚えてないか?べろんべろんだったぞ!」
覚えていない。
百花は青くなった。
ダイニングからは包丁の心地よいリズムが聞こえる。
百花は不思議に思って聞いた。
「先生、彼女?」
「…いいや、奥さん。皆には秘密だぞ」
そう言って新聞をたたみ、百花の顔を見た。
私服の裕一に百花は驚いた。
学校にいるときとは随分違う。
さっぱりして、暗くない。
むしろ好青年だった。
「お前のバイトのことも秘密にするから、このことも秘密な」
口の前に人差し指を立てて、裕一は小さな声で言った。
百花は拍子抜けした。
「先生、いつから知っていたの?」
「ん~、俺が担任になった時から」
それでは、もうずっと黙ってくれていたのだ。百花は驚いた。
「どうして?どうして黙っていてくれたの?」
裕一は笑った。
「授業に影響があるなら辞めさせようと思ったよ。
でも学校にもきちんと来るし、特に問題も起こしていない。
就職も決まったしな。
それに、何か訳があるようにも見えた」
よく見ている、そう思って百花は感心した。
「おまたせ~」
紅子がパスタを作って持ってきた。
ミートソースパスタだ。
手際よくテーブルに並べ、スープを取りに行った。
おいしそうな匂いにお腹が反応した。
百花は慌ててお腹を押さる。
その音を聞いて裕一は小さく笑った。
紅子がスープを百花の前に置いた。
コンソメスープに小さく刻んだ野菜が浮いている。
「どうぞ、めしあがれ」
紅子はそう言うと裕一の横に座った。
裕一は百花を見て言った。
「改めて、妻の紅子だ」
「紅子です。よろしくお願いします」
紅子はペコリと頭を下げた。
その顔を見て、百花は思い出した。
「もしかしてうちの学校の生徒?」
紅子は笑って頷いた。
やっぱり、どこかで見たことがあると思った。
百花は一人納得した。
そしてハッとする。
初めてその秘密の大きさに気づいたのだ。
「先生…淫行教師?」
失礼な!と裕一は言った。
紅子は確かにね~、と楽しそうに笑った。
「先生、このことを秘密にする代わりに、私の頼み聞いてくれます?」
百花は思い切って裕一に聞いた。
裕一は眉をひそめたが、頷いた。
「俺が出来ることならな!
但し、テスト問題を見せろとかは無理だぞ!」
「そんなことじゃないよ!
ちょっと協力してほしいんだ」
分かった、と裕一は言った。
父親が事故で死んだのは、中二の夏だった。
暑い夏の日だった。
百花は母親と二人きりになった。
火葬場で母親と二人、父親が煙になっていくのを眺めた。
うるさい位の蝉の声が今も脳裏に焼きついている。
百花は父親が大好きだった。
優しくて、いつも笑っていた。
そんな父親が大好きだった。
母親もそんな父親が大好きだった。
百花は誕生日に父親からピンクのルージュをくれた。
「百花に似合うと思って」
そう言って笑った。
百花はそのルージュをつけて、葬儀に出た。
大切なルージュ。
もう少し大人になったらつけようと思っていたルージュ。
百花は父親が焼かれる前、頬にそっとキスをした。
柔らかいピンクが父親の頬についた。
百花は父親に別れを告げた。
私立和泉高等学校は、父親の母校だ。
よく父親から話を聞いていた。
沢山の不思議がある学校。
百花はその話が大好きだった。
「夜にこっそり忍び込んで音楽室でピアノをよく弾いた。
真っ暗な学校が少し怖かった。
でも静かな音楽室で弾くピアノは、澄んだ音色がした。
夢中になって弾いたな。
そうしたら、いつのまにか不思議が増えていた。
夜中に鳴るピアノってね。
肝試しで来ていた誰かが聞いたのだろう。
それから噂に皆が飽きるまでは、忍び込むことが出来なくなってね。
半年後くらいかな、また忍び込んでピアノを弾いたものだよ」
楽しそうに話す父親。
百花はその顔が好きだった。
「私もその学校に行きたい」
「無理だよ。学校は神奈川にあるんだ。ここからでは行けないよ」
その学校の場所を聞いて、酷くがっかりしたものだ。
それでも、いつかは行きたいと心の奥で願っていた。
父親が死に、百花はあの学校に父親の影を求めた。
音楽室でピアノを弾く姿。
廊下を友達と歩く姿。
机につっぷし、眠る授業中の姿。
机に黒板に体育館、特別教室、全てに父親の匂いを感じた。
父親が過ごした三年間を百花も体験したかった。
だから百花は一人で来た。
母親は心配したが、納得させた。
裕福ではないので、生活費は自分で稼ぐしかなかった。
それでも毎日が楽しかった。
学校へ行くことが楽しかったのだ。
「先生!」
百花は夜の校門の前で待っていた。
向こうから裕一と紅子が手を振った。
「まさか、夜の学校に忍び込んでピアノを弾きたいとはね」
裕一は驚いて言った。
百花の協力とは、学校へ忍び込むことだったのだ。
百花は照れたように笑った。
「夜の音楽室へどうしても行きたかった。
でも一人だとなかなか勇気がなくて」
ずっと行きたかったの、百花はそう言って夜の学校を仰ぎ見た。
桜が綺麗に咲いていた。
今日は卒業式だった。
百花は式が終わった後、一人音楽室へ来ていた。
黒く、冷たいグランドピアノ。
蓋を開けて指を滑らす。
百花は父親が好きだった曲を奏でた。
柔らかい旋律が静かな音楽室に響く。
あの夜、音楽室でピアノを弾いた。
父親から習ったピアノを。
暗く、静かな音楽室で奏でた音色は澄んだ音がした。
音が夜に吸い込まれていった。
父親の言った通りだった。
それはとても素晴らしく、美しく、楽しかった。
裕一と紅子は黙ってつきあってくれた。
百花はあの夜を一生忘れることはないだろう。
それぐらい素晴らしい夜だった。
百花はピアノの蓋を閉じ、身を屈めた。
そうして蓋にキスをした。
ピンクのルージュが優しくついた。
百花は満足したように微笑んだ。
「ありがとう。さようなら」
四月からはまた母親と一緒に暮らす。
頑張って生きるのだ。
百花は静かに音楽室を出て行った。
校庭では、卒業生と在校生が別れを惜しんでいた。
百花は先生を探した。
数人の生徒に囲まれた裕一を見つけると、駆け寄っていった。
「先生!」
裕一は百花の声に反応して笑った。
「卒業おめでとう。がんばれよ」
そう言って百花の頭を撫でた。
「はい。先生のおかげで、すごく助かりました。本当にありがとうございました」
百花はそう言って頭を下げた。
裕一はいいや、俺は何もしてないさ、と言った。
「年下の可愛い奥さんによろしくね!」
百花は大きな声で叫び、裕一から離れた。
「ちょっ、お前!何を…!」
慌てた裕一を生徒が取り囲んだ。
「先生、結婚してたの?」
「年下ってどういうこと?」
「可愛いってどれぐらい?」
生徒が次々と質問してくる。
裕一は自棄になって叫んだ。
「そうだよ!可愛い年下の奥さんがいるよ!」
生徒がどよめいてさらに騒がしくなった。
その声を遠くで聞いて百花は笑った。
桜がとても綺麗だった。