日雇いメイドとお嬢様の半日(下)
浴槽には泡まみれの女生徒がいた。
「全部洗ったわよ」
制服姿で仁王立ちするフィロソフィア。
その堂々した立ち姿を見て、命は頭を抱えた。
「どう見ても洗い残しがあるのですが」
「何よ、洗濯機の底まで見ましたわよ」
「……貴方ですよ」
お風呂が沸いているか確認すると、フィロソフィアがコクリと首を縦に振った。
「私が沸かしましたわ」
どうよと言わんばかりの自慢気な表情だが、単純にお風呂のスイッチを押しただけである。ぴっと押せば、火の魔法石でいっちょあがりだ。
「いつの間にお風呂まで沸かしていたのですね」
「まあね。私は先見の明に溢れていますから」
命はいつぞやのエメロットの言葉を思い出す。お嬢様は糞みたいな慧眼の持ち主という言葉が、もう命には全く笑えない。
「でしたら、一番風呂をどうぞ。そのままでは風邪を引きますよ」
「そうね。命の癖になかなか気が利くじゃないの」
何様だ。
喉元まで迫り上がったその言葉が、命の口から零れ落ちることはなかった。聞いても答えなど決まっているからだ。当然返答はフィロソフィア様である。
浴槽の折れ戸が閉まってから、命は人知れず溜息をついた。
(気を取り直して、冷蔵庫チェックしますか)
勝手に料理を作ると怒られるので、命は献立だけ先に考えることにした。 冷蔵庫のなかは冷気の通りが良さそうな空き具合だったが、食材があるだけマシだった。
女子寮住みの女生徒の大半は、食堂頼みの生活を満喫している。朝食、夕食は女子寮内の食堂でいただきます。昼食は学院の食堂棟でいただきますといった女生徒の数も少なくない。
お嬢様の入浴時間を待つのも暇だと、命は乙女気質を発揮して動いた。向かう先は布団が掛かった椅子だった。
「あれ、この布団」
布団からは湿り気が消えていた。それがフィロソフィアの仕事なのだと、命は少し遅れてから気付いた。
風の魔法に温度操作を加えた応用技術だ。火の魔法ほどの高温は出せないものの、布団を乾かすには丁度いい温度を出せる。
「ちゃんと、頑張っているのですねえ」
思わぬ形でお嬢様の成長を目の当たりにして、命は微笑ましげに口元を緩めたが、その好意的な感情も長くは続かない。
「エメロット! 洗髪の時間よ!」
ばあんと折れ戸を開け放って、全身から湯気を立てるお嬢様が出てきた。水気を吸った長い金髪は眩く輝いており、一糸まとわぬ姿だった。
「何やってるのですか――ッ!」
「ああ、エメロットは風邪でしたわね」
「そっちじゃなくて格好、その格好です!」
「じゃあ、命で我慢してあげますわ。寒いから先に戻ってますわね」
私の全裸には恥じるところがない。
そう無言で主張するフィロソフィアは、言うだけ言って戻っていた。
唐突なお嬢様の全裸襲来に、命は動揺を隠すことができない。たとえ女装で身を隠そうとも、こればかりは慣れることがない。
(落ち着け私。クールになれ私)
呪文のように繰り返してから、命はフィロソフィアの言葉を思い返す。
(……あれ。さっきの言葉の意味って)
「ないない」
命は否定したが、即座に浴槽からくぐもった叫び声が聞こえた。
「遅いですわ! 私を湯冷めさせる気ですか」
行けば全裸のお嬢様。退けば病気の従者様。
食えない銀髪の従者に至っては、命の秘密にどこか感付いている節すらある。ここで退けば当たりが強くなるのは必死で、死亡率上昇も免れない。
ならば、命の選ぶ道は一つだった。一度唾を飲み込んでから覚悟完了。命は決死の表情で浴槽へと向かった。
「全く、私が命令したら……」
振り返ったフィロソフィアの時が止まる。奇異な者を見る目つきで尋ねる。
「それは何の冗談ですの」
ロング手袋で目元を覆い隠す、心眼スタイルのメイドが背後にいた。
「すいません。私は宗教上の理由で、他人の肌を見ることができないのです」
「貴方やっぱり私のこと馬鹿にしてますわよね?」
「綺麗なものを見ると、目が潰れてしまうのです」
「……ふん。まあ許してあげますわ」
命はバスチェアに座るお嬢様の背後に立つ。そこは石鹸の良い匂いが鼻孔をくすぐる非常に危険なポジションだった。
(これは早く退散しなくては不味い)
やることやったら直ぐ去る姿勢を取り、命は口早に聞いた。
「それで、ご所望なのは洗髪ということで宜しいでしょうか」
「そうよ。普段は毎日エメロットがやってくれるのだけど、今日は命で我慢してあげますわ」
「一応確認しますが、自分で洗うという選択肢は」
「ないわ」
「ですよね」と命はそっと肩を落とす。
(道理で良い髪質しているわけです)
砂金を織り込んだような長い金髪。それがエメロットの手入れだと聞いて、命は得心がいった。銀髪の従者の仕事ぶりは完璧に近い。
(妖精猫の素晴らしい毛並みといい、大したブリーダーですねえ)
シャワーでフィロソフィアの金髪を温めながら、命はぼんやりと考える。
「えっと、シャンプーどこですか」
「ここですわよ。ここ」
心眼メイドに呆れ果てた様子でフィロソフィアがシャンプーを寄せた。命は手でそれを十分に泡立ててから、綺麗な金髪へと柔らかに絡ませる。
「これ凄く良いシャンプーなのでは」
「私が安物を愛用するとでもお思いなのかしら」
「それでカードは大丈夫なのですか」
「ブロンズになったので問題ありませんわ。万年レッドの貴方と違ってね」
嫌味らしく付け加えられた言葉を聞いて、命は厳しい現実に嘆息する。一時の財政難は突破したとはいえ、依然として借金は積み上がっている。
その吐息があまりに哀愁に満ちていたのか、フィロソフィアは慌てて言う。
「な、なんですの。私が悪いとでも言うのですの。万年レッドなのは貴方の無作法が問題でしょう。私は何も悪く無いわよ」
「それについては残念ながらもっともなので、何も返す言葉はありません」
「はあ」と再三になる溜息。
わしゃわしゃと髪を撫でる音だけが浴槽に響く。やがて沈黙に負けたフィロソフィアは呟いた。
「……ったわよ」
「えっ、今なんて言いましたか」
その言葉を聞き逃した要因は幾つかあったが、何より大きな要因は驚きによるものだった。
フィロソフィアは苛立たしげに繰り返す。
「悪かったと言ってますの! どうなの、これで満足かしら」
命は水抜きする風に耳を叩いた後、目隠し状態で周囲の気配を伺った。
「まさか……目隠し状態を利用した入れ替わり事案が発生している」
「してないわよ。本当にどこまでも失礼極まり無い野犬ですわね!」
この失礼極まり無い暴言は、フィロソフィア本人に違いない。そう断定した以上、現実を認めざるを得なかった。あの全身全霊が挟持ができている、高慢なお嬢様が謝ったのだと。
「貴方も……他人に謝るのですねえ」
「私だって謝ることぐらいありますわ」
それは子供が拗ねた口調にも似ていて、どこか愛らしさを感じさせた。
少なくとも命は初めてそのような感情をフィロソフィアに抱いた。
「どういたしまして」
聞かなかったことにしようと。この一件を流しにかかった命だが予想外の奇跡は二度続いた。
「あの時も……悪かったわよ」
消え入りそうな声だったが、確かに聞こえた。あの傲岸不遜なフィロソフィアの声色だった。
「えっと、あの時とは」
「デリカシーの欠片もない野犬ね。私が恥を偲んで謝ってあげていると言うのに。なんですかその傲慢な態度は!」
フィロソフィアは散々喚き立ててから、肝心な言葉を森のなかに隠すように早口で告げた。
「初日の件ですわ。切符を踏んだ件」
「ああ……あれですか」
今となっては遠くなりそうな記憶だった。命とフィロソフィアの初遭遇の思い出。それは限りなく命が悪印象を抱くものだった。
「気にしてませんよ。私の思い出を靴裏で踏み躙られたことも。勝負に勝ったのに平手張られたことも全然。あー、右頬が疼きますねえ」
「めちゃくちゃ根に持っているじゃないですの!」
命にとってフィロソフィアは天敵だ。たとえ肩を並べて難題に挑んだ仲とはいえ、お互いに気を許し合う友人ではない。あの時は偶然手段が合致しただけであり、本来は相容れない仲なのである。その意見を命が翻すつもりはない。
ただこのひと時。ほんの一瞬だけ。
命が少し愉快な気持ちになったのも確かだった。
砂漠の蜃気楼に揺れるオアシスを見た気分だ。有り得ないものを見たのだと言い聞かせてから、命はその幻を拭い去ることにした。
「今のは聞かなったことにしましょう」
「……えっ」
「私の気も晴れたので、それで十分でしょう。それで手を打ちませんか」
「ふん。貴方がそれで良ければどうぞご自由に」
フィロソフィアの挟持も保つことができ、命の一時の気の迷いも払拭できる。それが最善の落とし所だと命は考えた。
目隠しをした命は何も知らない。
普段と何ら変わらない憎まれ口を叩くフィロソフィアが、ほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべたことも。
無知なお嬢様に負けず劣らず、黒髪の乙女は女心を知らない。
二人の距離が劇的に縮まることはない。
慈しみをこめた洗髪の音だけが、会話のない浴槽を占めていくばかりだ。
◆
お風呂から上がったフィロソフィアは、命の想像の斜め上を行く服装だった。
「何ですの。その何か言いたげな目は」
「いえ、別に」
「物凄く納得がいかない返答ですわね」
「夕食の準備をしましょう」
話題を転換して、命はキッチンに向かう。
まるでロップイヤーみたいな垂れ耳付きのパジャマを着たフィロソフィアなど見えないかのような振る舞いだ。
「それでは夕食作りに取り掛かりますか」
「すでにありますわよ、夕食」
「それ」と指差す先には禁断の鍋があった。
人間の業による凶器が詰まった容器を見流し、命は爽やかな笑みをつくる。
「いいですか、フィロソフィア。愛情は隠し味にしかならないのです」
「それ遠回しに不味いと言ってますわよね」
「じゃあ直接的に不味いです」
「この野犬、とうとう開き直りやがりましたわ!」
そろそろ迂遠な表現をすることに嫌気が差してきた命が、本音を漏らした。
「病人を死人にするつもりですか、この料理」
「無礼千万とはこのことですわ!」
初料理へのあまりの物言いに腹を立て、フィロソフィアは鍋の蓋を開け放つ
「百歩譲って見た目が悪いことは認めますが」
そこまでの弁明を聞いた時点で、命はコップを取り出して水道の蛇口を捻った。
「食べてみれば、わか――」
身を持って思い知らされたフィロソフィアの意識が一瞬吹き飛ぶ様子を確認してから、命はそっとコップを差し出した。
速攻で引っ手繰ると、お嬢様は必死の形相で水を喉へと流し込んだ。
「……貴方、さては一服盛りましたわね」
「私16年間生きてきたなかで、こんなに酷い言いがかり聞いたことありませんよ」
「罰として、貴方の今日の夕食はこれになさい」
「とうとう自分の料理を罰と言い出しましたか」
遠回しながら自分の非を認めた後、フィロソフィアは気持ちを切り替えた。
「まあ私にも失敗はあります。失敗は成功の母です。次に行きますわよ」
(あの失敗を量産されたら溜まったものではないのですがねえ)
これ以上はお嬢様の逆鱗に触れかねないので、命は胸の中に閉まっておくことにした。危ない単語は副音声にしておくべきだと、安全策をチョイスする。
「一応聞いておきますが、あれは何の料理(の出来損ない)ですか」
「パン粥ですわ」
恥ずかしげに呟く料理名はそう的外れな病人食ではなかった。命は一先ず安心して話を先に進める。
「どうやって作ったのですか」
「えっとそうですわね」
顎先に指を当てて、フィロソフィアは答える。
「まずは鍋に並々ウォッカを注ぎます」
「ダウト――ッ!」
命の嫌な予感が寸分違わず的中した。冷蔵庫付近にあったウォッカ瓶と、
天井についた焦げ跡の証跡。まさかと思ったが、そのまさかだった。
「なんでウォッカ入れたのですか」
「私の国では病人はウォッカを飲みますわ」
「ああ、貴方あっちの国の出身者でしたか」
吹雪の舞う北の極寒地が、命の脳裏に浮かぶ。そのような文化も聞き齧った覚えはあるが、さすがに粥までダイレクトだった記憶はない。
「ウォッカを粥にも入れるのですか」
「入れませんわよ」
「――え」
「ウォッカとパン粥は別物ですわ。なので組み合わせてみましたわ」
(要らないアレンジ来ました!)
料理下手の人間が踏み入れてはいけない領域に、安々と足を踏み入れるお嬢様だった。
「悪いことは言いませんから、別にしましょう」
「まあ貴方がそこまで言うのであれば」
先の失敗が余程尾を引いているのか、フィロソフィアは珍しく言うことを聞いて、チラリと産業廃棄物が詰まった鍋を見遣った。
「ほら。過去ばっかり見てないで働く、働く」
中身は意外と臆病者であるお嬢様を急かして、命はフィロソフィアに食パンと仕事を与えた。
「貴方は食パンを千切って下さい」
「……なんだかとても地味ですわね」
「良いですか、これはとても重要な仕事ですよ。パン粥の良し悪しは、パンの千切り具合にかかっていると言っても過言ではありません」
丁寧に一口大に千切ると何より食べやすい。更に食感を考慮した厚み調整までできれば、食べる者の手が止まることなく回ります。パン粥の良し悪しの九割方は千切りなのです。
――と、命は懇切丁寧に適当を教えた。
「なるほど。一理ありますわね」
「一理どころか真理ですね。まあ、嫌なら私がやるので構いませんが」
「私がやりますわ! 私がパンを千切る係ですわ!」
パン千切り役をシンデレラ役か何かと間違え、フィロソフィアは必死に挙手する。熱意溢れるその姿に胸を打たれた命は、快くパン千切り役を譲った。
(それじゃあ私も本気を出しますか)
料理は四十八の乙女技を発揮するに適したフィールドである。
――男は胃袋で掴み、巻取り、絞め殺す。
普段キッチンにろくすっぽ立たない母親の教えを反芻しながら、命は目を見開き覚醒する。
(……戦が始まる)
その柔らかな手つきは無駄を削いだ流水の動き。一分の隙もない乙女の水洗い。全ての野菜は乙女の思うがままに! その掌で転がせ! 弄べ!
柄を視点に一回転させる包丁は乙女の遊び心。切る剥く叩くに捌くに卸す! 生殺与奪も指先一つの乙女の包丁さばき。ベーコンという肉という肉を細切れにしろ! トマトを叩け、真っ赤に染めろ!
オリーブオイルは着火の合図。炎が怖くて乙女が務まるものか。煮る焼く自由自在の乙女の火力操作! 甘みが出るまで焼き入れろ! 野菜が萎れる様見てほくそ笑め!
ごめん待った? ううん今来たところ。そんなの全て乙女の鍛えた演技力! 乙女の前には時すら平伏す土下座する。 寸分違わず乙女の時間操作! 釜茹から悲鳴が上げる瞬間を見逃すな! 素材を許すな、限界まで追い詰めろ!
そして機は熟す。最後の味付けに乙女感覚で調味料を投入すれば完成は間近。愛憎混じった匙加減は計算尽くの打算塗れ! 愛情致死量、塩少々。後は胡椒でコンプリート。
そしてできたのが、ミネストローネです。
「あとは貴方が焼いたパンを加えれば、ミネストローネ風パン粥が完成です」
「え、ええ。そうですわね」
キッチンから帰還してきた命は、戦場帰りの兵士の目をしていた。
料理とはかくも厳しき世界なのかと、フィロソフィアの怯えは収まらず、料理に対する認識を改めた。
食卓についたフィロソフィアは驚くほど礼儀正しく、目一杯の感謝を込めて両手を合わせる。
「い、いただきますわ」
誰から強制されるでなく正座の姿勢を取り、食事中は決して膝を崩すことはなかった。膝が痺れてもプルプルとやり過ごす姿は、エメロットの脳裏に鮮明に焼き付いた。
後にエメロットが奇跡の晩餐と呼ぶ夕食会は、フィロソフィアに小さな変化を残して、夜更けとともに静かに幕を下ろした。
「いただきますわ」
それからお嬢様が食事の挨拶を欠かしたことは一度もなくなった。時折台所に立つ従者にとっては、少し嬉しい心境の変化であった。
チュンチュンと小鳥が歌う早朝。
新聞係であるフィロソフィアは、謎の届け物に困惑していた。
「なんですの、これ」
不慣れな魔法文字と小動物が踊る可愛いカード付きの銀の贈り物。桜桃の缶詰を持って、お嬢様を首を傾げた。
――エメちゃん。早く元気になってね。
風邪を引くとどこからともなくポストに桜桃の缶詰が置かれていく。後に第二女子寮に広まる噂話のひとつ、桜桃の缶詰精霊の始まりであった。