愚か者の帰還
これは停職処分をくらった不良教師の物語。
本編「第101話 ライカ」以降に読むことをお勧めします。
「はあ……」
当てが外れた。丸窓から外を眺める女は静かにため息をついた。
「もっとおもしれー景色が見れると思ったんだけどな」
丸いガラスに映るのは、たなびく灰色雲と雨の受け皿となる水面だけ。何時間と見ていて飽きない景色ではない。晴れてさえいれば甲板で寝転がっていたというのに、外はあいにくの空模様だ。
鉄の壁に覆われた部屋にもさして面白いものはない。固いベッドに味気ない整理たんす。この部屋には娯楽に欠いたものばかりが置かれていた。
……ここはもしや監獄ではなかろうか。
急に転がり込んできた身でありながら、女は失礼なことを考えた。
――いや、だが。
監獄というのは言い得て妙である。女は自嘲するように嗤ってから伸びをした。
女の名は、マグナ=リュカ。
先日受け持ちの女生徒に手を上げ、一ヶ月の停職処分を言い渡された不良教師だ。
ここが監獄だというなら、マグナはうってつけの囚人役であろう。だが彼女は、大人しく監獄にいるような模範囚ではなかった。
「どら、探検でもしてくるか」
自由を愛する不良教師は鉄の扉をくぐり抜け、仮の自室を後にした。
魔法少女の四大組織の一つの名にして、王国唯一の海上兵器――弩級戦艦しらはは、暇を持て余したマグナにとって格好の遊び場であった。
◆
石岡エミは提督である。
そこに戦艦があれば提督がいるのは何らおかしいことではない。
しかし、なぜ私が提督なのか?
エミは時々その不思議について考えたくなる。魔法少女の世界は世代交代が早いとはいえ、やはり自分は特例であろう。三年前の出来事がなければ、自分が司令官室の肘掛け椅子に座っていることなんてなかったに違いない。
魔法少女の国にとって、三年前は一つの転機であった。
将来を嘱望された魔法少女の不名誉な引退があった。
誰からも好かれた魔法少女の名誉の死があった。
しかし暗い影ばかりが一方的に差したわけではない。セレナ=セントフィリアの生まれ変わりとでも言うべき傑物の鮮やかな活躍は、瞬く間にまばゆい光となって国を照らした。
三年前は、沈むと月と昇る太陽が交差する年だった。
一つの時代の終わりであり、一つの時代の始まり。
そんな歴史の転換点に居合わせたエミもタダでは済まなかった。
セントフィリア女学院を卒業してから早二年。ようやく職業軍人にも慣れてきた彼女に与えられた任務は、まさに特命と呼ぶに相応しいものだった。
――この者、しらはの提督に任ず。
任ぜられた。青天の霹靂であった。
押し寄せる怒涛の現実は荒れ狂う波のごとく、全てを洗い去っていく。友の引退を悲しむ間も、憧れの死を悼む間も、彼女には与えられなかった。代わりに与えられたのは職責と重圧と、それに見合わぬ給金だけ。
親任式を終えてからは辛い日々が続いた。
重い三年だった。苦しい三年だった。けれど、それが重く苦しかったということは、彼女が生きていた証に他ならない。険しい道程に幾度となく足を傷め、歯を食いしばってはまた歩き出し、辛苦を喰らっては己の血肉とした。
私は生きている。だから、まだ歩ける。生きて歩いてさえいれば、良いことと巡り会える。
そう思えるようになると肩の荷がほんの少しだけ軽くなった。借り物だった椅子に深く腰掛けられるようになったのは、つい最近のことだ。
生きて歩いてさえいれば、良いことと巡り会える。
そう……生きて歩いてさえいれば。
「ぬおおおおおおおぉぉぉ――ッ!」
聞き慣れた女の叫びが、エミの思考を遮る。扉を開けると同時に絨毯を転がった女は、昨日転がり込んできた親友マグナだった。
「…………」エミは肘掛け椅子に座ったまま訊ねた「何の遊び?」
「ちっげえよバカ早くあいつ何とかしてくれ!」
余裕がないのか、マグナは一息に言う。
直後――黒い魔弾がうねりを上げて扉をくぐった。
頭めがけて放たれたそれは、マグナの手前で破裂する。
二発、三発。
立て続けに扉をくぐった黒い弾丸も、マグナを討つことはなかった。
「あー、そゆこと」
苦もなく魔弾を迎撃したエミは、呆れ顔で正面を見遣る。開け放たれた扉の先。そこにいたのは見知った部下の姿だった。ゆっくりと歩いてきた部下は、微苦笑を浮かべながら頬をかいた。
「えっと、船内に不審者がいたから……てへっ」
「それ二回目な」
昨日と全く同じ遣り取りを終えると、エミはため息を漏らした。
艶のある濡れ髪に、セーラー服がはち切れんばかりの胸の双丘。匂い立つような色気を醸すばかりか、魔法少女としても腕が立つ。素材は間違いなく一級品だというのに、どうしてこの子はこうも忘れっぽいのか。
エミは嘆いたが苦言は呈さなかった。年長者として説教をするより早く、喧嘩っ早い親友が部下に飛びかかっていたからだ。
「てへっ……じゃねええええ! ヴァネッサ、テメーまたやりやがったな!」
「いやあ、またまたやっちゃいました……ってぎゃああああああギブギブギブ! それやばいマジやばいあばら軋んでるからあああああああ!」
それにしても見事なコブラツイストである。首のホールドといい足のフックといい完全にキマっている。やっぱりリュカちゃんは教師にしておくにはもったいない人材だなあ。
エミはそんなことを考えながら、新茶を啜った。
「あばらどころか、こっちゃあ頭が逝くとこだったわ! 言っとくけど、あたしじゃなかったら死んでっからな!」
むしろ、正規の魔法少女に二度も襲われてなぜ生き延びられるのか?
さすがリュカちゃんである。
エミはそんなことを考えながら、執務机の引き出しを開けた。確か、カーちゃんにもらったドラ焼きがこの辺りにあったはずなのだが……。
「てーとく、お茶してないで助けて! ほんと死んじゃう!」
一息入れてプロレス観戦でもしようと思っていたが仕方ない。エミがドラ焼きを放ると、マグナはコブラツイストを外し、飛んできたそれをキャッチした。
「菓子屋ルバートの限定ドラ焼き。それで勘弁してやってよ」
「まあ」マグナは包装紙破ると「水に」ドラ焼きをほおばった「なぐぁひてやふよ」
食べながら喋っとる。というか許すか決める前からドラ焼きぱくついてるんですけど、この人――ッ!?
ヴァネッサはマグナの傍若無人ぶりに面食らったようだが、知己であるエミは気にも留めなかった。
「うまいっ!」
完食したドラ焼きを惜しむように、マグナは指を舐めた。
「これもう一個ないの?」
「……ごめん。それ最後の一個なんだ」
「んだよ、もっと用意しとけよー」
「うん。次はもっと買っとくから許して」
「よし許す。じゃあ茶ぁくれ茶。あんこ食ったら喉かわいちまった」
エミは素直に謝ると、飲みかけだった湯のみ茶碗を手渡した。
「んっ、サンキュー」マグナは軽く応じて、新茶を飲み干す「くぅ、やっぱりドラ焼きには日本茶だな!」
ガンと音を立てて、湯のみ茶碗が執務机に返される。二人の関係を知らない人が見れば、卒倒しそうな光景だろう。
しらはの提督といえば、この国でも有数の権力者である。地位も権力なく、提督相手にこのような態度をとれるのはマグナくらいのものだ。
「それで、リュカちゃんは何しに来たの? まさか助けを求めに来ただけじゃないでしょ」
エミは、マグナ=リュカという女をよく知っている。天下無敵の親友が、正規の魔法少女に追われたぐらいで、わざわざ司令官室まで来るとは思えなかった。
「あっ、そうそう」
マグナはポンと手を打つ。すっかり忘れていた目的を思い出したのだ。
「暇だ。何か遊べるもん貸して」
「……暇って」
これにはエミも少し呆れた。マグナが転がり込んできたときに、心優しい提督は暇つぶしの道具をいくつも部屋に用意していたのだ。
「あれだけ置いたのにまだ足りない訳?」
マグナは「いやいや」と手を振る。マグナが傍若無人であることは自他ともに認めるが、今回ばかりは彼女にも言い分があった。
「世間一般では、あれは遊び道具じゃなくてトレーニング用具つーんだ」
マグナの仮宿には鉄アレイから始まりバーベル、ダンベル、鉄棒、ミットとサンドバッグにトレーニングベンチ、果てはプロテインまで完備されていた。あれがおもてなしだと言うなら、ホームパーティーが開かれるたびにマッスルが量産されることになる。
げんなりするマグナに対して、
「うーん。ならこっち使う?」
エミは出し惜しんでいた一品を見せるとした。座ったまま椅子を後ろにずらす。すると、彼女の足元に視線を遣ったマグナが目を丸くした。
書類仕事に専念していると思われたエミは、足元で内職をしていたのだ。彼女の両足首には、橋を渡すように円柱の重しがのっていた。
「お前……何してんの?」
「何って、レッグエクステンションだけど」
書類仕事の片手間に大腿四頭筋を鍛える。それの何がおかしいのか、エミは眉をひそめた。
「おい、やべーぞ。お前んとこの上司」
「あははー。まあ、いつものことですから」と軽く流すヴァネッサ。
エミのトレーニングジャンキーは、今に始まったことではない。提督が四六時中トレーニングに励む光景は、もはやしらはの日常と化していた。
魔法少女は少し頭がおかしい方が向いているとはよく言われるが、正規の魔法少女はまさにそれを地で行く集団であり、エミもその例外ではなかった。
しらはの過酷な訓練を鼻歌交じりでこなすどころか、暇を見つけてはトレーニングを始めてしまう。エミは、マグナですら心配してしまうほどの、まっとうな正規の魔法少女であった。
(昔は、あたしの後を追うひよこみてーだったのに……)
マグナの視線から非難めいたものを感じ取ったのか、エミはぼそっと呟いた。
「私に筋トレ勧めたの、リュカちゃんじゃん」
「うっ」
そこを突かれると痛い。出会った当初、エミはいつも俯きがちでおどおどしている女の子だった。何をするにもリュカちゃん、リュカちゃん、といじめっ子を撃退した自分の後を追ってばかりいた。
講義のときも、リュカちゃん、リュカちゃん。
食事のときも、リュカちゃん、リュカちゃん。
リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん……。
『だああああああ――ッ!』
じょじょに苛立ちを募らせたマグナはある日、トイレの手洗い場にて限界を迎えた。
『リュカちゃんリュカちゃんって、あたしはお前のママか! 何一つ自分で決められなくて恥ずかしくねーのか!』
『きゅ、急にそんなこと言われても……困る。じゃあ、どうしろっていうの?」
『知るか! 健全なる精神が欲しけりゃ筋トレでもしてろ、このモヤシ!』
その一言がエミの人生を大きく変えるなんて誰が想像出来るものか。マグナが突き放すつもりで言った言葉を、エミは大真面目に受け取ったのだ。
そっか身体を鍛えれば良いのか、と。
そこからの彼女の変化は劇的であった。なまじ真面目だったエミは一日も欠かすことなく身体を鍛え、ずぶずぶと筋トレ沼にハマっていった。
「筋トレって素晴らしいね、リュカちゃん。筋トレをしてない人は人生の半分を損してるよ!」
「お、おう」
マグナが気づいたときには、エミは取り返しがつかないほどに出来上がっていた。
脳からドバドバあふれる脳内麻薬を求めては筋トレを繰り返し、挙げ句の果てには正規の魔法少女になるという偉業まで成し遂げてしまった。空前絶後の筋トレバカ女郎である。
入学当初のエミを知る者であれば、まさか彼女がエリツキーを降して、正規の魔法少女の座を勝ち取るなど思いもしなかっただろう。
しかし現実というものはときに多くの者の予想を簡単に裏切る。
今やエミは押しも押されもしないしらはの提督であり、将来を有望視されたエリツキーはうだつの上がらない副教員であり、そして自分に至っては……。
目の前にいるはずのエミが遠く、霞んで見える。
「どうしたの、リュカちゃん?」
エミが問いかける。マグナは「いや」と曖昧な言葉を返した。
「何でもねーよ。面白いもんがねーから、どうやって暇を潰そうか考えてただけ。何ならお前も一緒に遊ぶか?」
昔みたいに――マグナがいて、エミがいて、カーチェがいて、三人で肩を並べて歩いていたら、怖いものなんて何一つなかったあのころのように。日常が、目に映るもの全てが、輝いていたあのころのように。
「ごめん。リュカちゃん……それはできない」
答えはわかりきっていた。だというのに、伏し目がちに謝るエミの姿を見て、マグナは少なからずショックを受けていた。
停職中の自分と違い、エミは公務中である。片手間に大腿四頭筋を鍛えるようなことはすれど、真面目なエミが血税を無駄にするような真似をするはずがなかった。
(ああ……)
昔のように、講義を抜け出して遊びに行くようにはいかないのだ。あたしたちは大人になったのだと、嫌でも痛感してしまう。
「えー、てーとく遊びましょうよー! どーせ人もいないんだし」
……もっとも、なかには例外もいるようだが。
メンタリティがマグナに近いヴァネッサは、ここぞとばかりにエミの説得に乗り出した。しらはの過半数が【階層工事】の後始末に駆り出されている今、残された身としては他人の仕事まで背負いたくない。ヴァネッサは自分に正直な女であった。
「……ヴァネッサ」
エミに険しい目つきで名前を呼ばれ、ヴァネッサは思わず「ひぃっ」と情けない声を漏らした。生まれつきパンダのように目元が黒いエミが目力を発揮すると、その迫力は想像を絶するものがあった。
さすがにおふざけが過ぎたか?
ヴァネッサは慌てて訂正しようとしたが、エミの方が一手早かった。バサっ、と。エミは引き出しから取り出したノートを執務机に置いた。
「……それを開けてみろ」
ノートの題名は『リュカちゃんとのラブラブデートプラン(は~と)』であった。
不味い。狂気しか感じられない……。
ただ紙の束からどうしてこんなにも禍々しいオーラが発せられるのか。ヴァネッサは心底嫌であったが、てーとくの命令は絶対。
恐る恐るノートを開くとそこには、
『3時30分 起床』『3時31分 デートが楽しみすぎて1分ほど妄想にふける』『リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん、リュカちゃん……』『3時32分 我に返って顔を洗う』
9時集合予定であるにもかかわらず、3時30分から分刻みで予定が記述されたデートプランがあった。どういう精神状態であればこんな怪文書が書けるのか。誰よりも健全なる肉体の持ち主は、明らかに魂が濁っていた。
怖気づくヴァネッサ、ドン引きするマグナ。二人の些細な情動など気にすることなく、エミは血の涙を流す思いで訴えた。
「私が今……どれだけ仕事を投げ出して遊びに行きたいか。それがわかった上で、お前は誘ってるんだな」
「す、すみませんでしたー!」
反射的に謝罪したヴァネッサは、間髪容れずに腕立ての体勢に移る。不真面目な彼女にも、軍人としての最低限の心得はあった。
「腕立て開始いぃぃぃ! イッチ、ニッ、サン、シィ――ッ!」
真横には腕立て伏せを始める女。向かいには憂いを帯びた顔で『リュカちゃんとのラブラブデートプラン(は~と)』を見つめる女。
何だこの状況は……。
いたたまれない気持ちになったマグナは、そっと司令官室を後にした。
「はあ……」
仮の自室に戻るなり、マグナは固いベッドに寝転がる。体を動かすのは好きだがあんな汗臭い光景を見せられた後とあっては、筋トレをする気も起きなかった。
退室する間際にエミが貸してくれたビジネス書を、指でパラパラとめくる。大して中身に興味があったわけではない。ただ、エミがビジネス書を読むという事実に興味があっただけだ。
「あいつ、こんなの読むんだな」
初めの内は「へー」とか「ほーん」とか言いつつ読んでいたが、直ぐに飽きた。鼻から興味がないジャンルなのだ。他人のありがたいお言葉が嫌いということもあって、マグナはものの数分でビジネス書を投げた。
結論、時間の無駄だった。
誰かにとっては役立つ物かもしれないが、少なくとも今のマグナにとっては役立つ物ではない。雑念だらけの頭には数行の文章すらロクに入ってこないのだ。
クソ、と鈍色の天井に毒突く。
停職中のマグナには、有り余るほどの時間があった。時間は無駄な思考の呼び水となり、雑念ばかりが頭に浮かぶ。あのときああしていればなんて、時間があればあるほど過去を悔いてしまう。
(……仕事が恋しい)
少し前の自分が聞いたら、鼻で笑う台詞だろう。大人は社会の奴隷であり嫌々働いているものだと、マグナは思っていた。
だがいざ仕事を奪われてみると思いの他やることがない。ただ、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。募る焦燥、無限のように湧いて出る後ろ向きな思考。時が経つにつれ、停職というものが罰であることを思い知らされていた。
「あたしは……」
どうして、ここに来たのだろう。
停職処分を受けたあの日、マグナは定住するセントフィリア女学院からの強制退去を余儀なくされた。彼女は幸いにも顔が広く寝泊まりする場所には困らなかったが、どうしても一所には留まれなかった。
ここではない……ここでもない。
あてどない黄金郷を探す冒険家のように、知人宅をふらふらと渡り歩く日々が続く。そうして一週間が経過し、気づけばマグナはしらはに足を運んでいた。
王宮騎士団や鐘鳴りの乙女と同じく、しらはも【階層工事】の後始末として、魔物退治の任についていることを知っていた。
過半数のメンバーはカーチェの迷宮に派兵されている。今なら空き部屋があるだろうと踏んで、この弩級戦艦にやって来たのだ。
そうだ。都合の良かったことに違いはない。けれど、あたしは本当にそれだけの理由でしらはを訪れたのだろうか。
『それだけだよ』
「――ッ!」
自分しかいないはずの部屋から声がする。マグナは身を起こし、周囲を見回す。しかしそこには誰かがいる気配も、誰かが入った形跡もなかった。
「誰だ」
姿なき声は、マグナの誰何に答えることなく語りかける。
『しらはに来たのは、偶然の重なりだ。そこに大した意味なんてないし、ましてや確固たる理由なんてものはありはしない』
出所は依然としてわからないが、この声には聞き覚えがある。とても身近なのに無限遠点のような距離すら感じる声。
どこだ、どこにいる?
警戒するマグナをよそに、姿なき声は続ける。
『考えるだけ無駄だって。お前は波に揺られるだけの笹舟と同じだ。お前はどこにも辿り着けない。ただ波に遊ばれて、沈むだけの運命なんだよ』
声の調子が、言葉の一つ一つが、やけに癇に障る。
「だから、誰だテメーは!」
マグナは蟻一匹すら見逃すまいと目を見開き、首を振る。
……いた。
ベッドを蹴飛ばし疾駆する。
姿なき声の気配を捉えたマグナは、迷うことなく丸窓に拳を突き立てた。
赤い血と硝子の破片が飛び散るさなか、
『もうわかってるんだろ?』
姿なき声は挑発するように言う。
『お前は、天下無敵なんかじゃない。過去の栄光を捨て去るどころか、今と向き合うことすらできないただのチキンだ』
「違う。あたしは――」
『大人になれよ、マグナ。お前はもう……魔法少女じゃないんだよ』
「エリツキーか!? お前、エリツキーか!」
マグナの頭に想起されたのは、同期にして同じクラスを受け持つ副教員の顔であったが、姿なき声は「いいや」と平坦な声で否定した。
「私は――」声に色がつく。色はやがて姿を象りマグナの前に現れた「私は、あたしだよ」
そこにいたのは在りし日の自分の姿だった。
「う」
在りし日、と言ってもそう遠い過去ではない。三年前、天下無敵だと信じて疑わなかったころの自分がそこにいた。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!」
幽霊に怯える子どものように、おねしょの地図を隠そうする子どものように、消えろと願い、マグナは拳をふるう。
肉を捉えた感触はない。ふるった拳は空を切ったが、もう一人の自分が消えたという安堵が他のどの感情よりも勝った。
やった……やった、あいつが消え――
『消えるかよ』
直後、マグナの視界がぐにゃりと歪む。鉄の部屋がドロドロと溶け出し、割れた丸窓からは汚泥が流れ込んできた。何が起きているのか理解する間もない。腕を足を全身を、一瞬で汚泥に飲まれた。
――カちゃん。
誰かが自分の名前を呼んでいた。薄れゆく意識のなかで聞こえたそれは聞き慣れた知己のもので、マグナは遮二無二知己の姿を探した。
汚泥にまみれ前も後ろもわからない世界で、ただひたすらに彼女を探す。
……いた。
意識が明滅するなか見つけた彼女は、振りかぶって、
「……っ!」
真っ直ぐ右拳を突き出して来た。
「リュカちゃん――ッ!」
――明転。
曖昧だった世界が紐解けて、現実が返ってくる。船室を満たす汚泥も、かつての自分の姿もそこにはない。あるのは、覆いかぶさるようにして心配げにこちらを見る知己の姿だけだった。
「良かったあああああ。うなされてたから心配したんだよー!」
「……うなされてた?」
どうやらベッドに横になっている内に寝てしまったらしい。状況を把握したマグナが最初に取った行動は、右腕を突き出すことだった。
「ええい、暑苦しい! 寄んじゃねえ!」
「だってだって本当に苦しそうにしてたから。もう二度と目を覚まさないかと思って!」
汗ばんだ身体をハグされるのが恥ずかしくて、マグナは今にも泣きそうなエミを引っ剥がした。エミはしばらくの間ぐしぐしと泣いていたが、ちーんと洟をかむとようやく平静を取り戻した。
(この女は本当に……)
こういうところは昔と変わらない。泣き虫エミは未だに健在であった。
「大げさなんだって、お前は。ちょっとうなされた程度で死にやしないっての」
「良かったあああ。本当に良かったああああ」
マグナは子供をあやすようにエミの肩をポンポンと叩く。
それから彼女はふと気づいた。
「というかお前、何でここにいるの?」
船上の密室。白いベッド。汗ばんだ身体。無意識の時間。上から覆いかぶさるかのような体勢の親友。
……ふむ。
全ての情報を整理し終えると、マグナは両腕で自分の身体を掻き抱いた。
「まさかお前……」
「ああ、そんな性犯罪者を見るような目で見ないで! やってないから! 私、そういうことしないから」
思わぬ濡れ衣を着せられ、エミは慌てて弁解する。
「私はリュカちゃんとの肉体関係とか求めてないから。ただ、寝顔をずっとそばで見ているだけで幸せだから」
「レヴェルの高いHENTAIだなおめーは――ッ!?」
安心できない発言ではあるが、乙女の貞操は守られたようだ。状況が状況だけに疑ってしまったが、エミが人の寝込み襲うような女でないことは、マグナもよくわかっていた。
「そうそう。理事長から連絡あったから、リュカちゃんにも知らせようと思って」
「……ばっちゃんから?」
セントフィリア女学院の理事長が、停職中の教師に何の用だというのか。マグナは怪訝な表情を浮かべた。居場所が割れていることについては、別段気にしない。あのタヌキ理事長であれば、それぐらいのことは当たり前のようにやるだろうと思っていた。
「それがね、リュカちゃん聞いてよリュカちゃん! 大変なんだよ!」
「そんな前振りすっとハードル上がるだけだぞ」
部下がいないから気を抜いているのだろう。エミの言動はいつもよりどこか幼い。マグナはさして期待せず、エミの話に耳を傾けるとした。
「驚かないで聞いてね。あのね、エリちゃんが講義中に倒れたって」
「エリツキーが……」
診療所に搬送された? あの正規の魔法少女にも匹敵する女が。
にわかに信じがたい話ではあるが、理事長とエミが嘘をつく理由がない。エミの表情もどこか陰りを帯びていた。
「軽症で済んだけど過労気味らしくて……少しの間、入院するみたい」
「……あの馬鹿」
「馬鹿って、さすがにそれは言い過ぎでしょ」
「ああん、馬鹿に馬鹿って言って何が悪い? 担任が暴力沙汰で謹慎食らって、副担任が過労で担ぎ込まれるなんて、普通に考えておかしいだろ」
なにより理事長に対して面目がない。この一件で一番責任を問われるのは、セントフィリア女学院の長たるマーサ理事長だろう。
自分を拾ってくれた恩を返すどころか、後ろ足で砂をかけるような行為である。人一倍真面目なエリツキーが仕事を抱え込むことなんて容易に想像できただろうに、何の手も打てなかった。
やるせない思いが胸の内で焼けている。偉そうに説教を垂れておいて倒れるエリツキーに、その彼女よりも至らぬ自分に、腹が立つ。
「馬鹿だよ。あいつも……あたしも」
「……リュカちゃん」
今、マグナが呑み込んだものを考えると、エミは何も言えなかった。
「1-Fの後任についても何か言ってなかったか」
「いや、そこまでは」
「……そうか」
特段言う必要がなかったのか、それとも敢えて触れなかったのか。引っかかるところではあるが、今のマグナには手の施しようがない問題である。
1-Bの副担任であるガンロックあたりが、後任になってくれることが望ましいが、そう上手く事が運んでいるとも思えない。
セントフィリア女学院を引っ掻き回している主犯がヴァイオリッヒ家の御令嬢ということもあり、教師陣の間でもシルスターの扱いについては意見が真っ二つに割れているのだ。
シルスターは、長年に渡りセントフィリア女学院に貢献してきたヴァイオリッヒ家のご息女である。特別扱いすべき、と主張する厚遇派。
いや、一生徒のことだけを特別扱いするのはおかしい。他の生徒と同じく平等に扱うべきだ、と主張する平等派。
生徒の前ではひた隠しているが、二つの陣営は水面下で幾度なく火花を散らしてきた。しかし、それもここに来て状況が変わった。
平等派であるマグナ、そしてエリツキーが立て続けに失態を犯したことで、厚遇派の勢いが増しているのだ。これはマグナの推測の域を出ないが、恐らく1-Fの後任に選ばれたのは厚遇派だろう。それもヴァイオリッヒ家の傀儡である可能性が高い。
「――ッ!」
そこまでわかっていながら、自分は何もできないのか。マグナは振り上げた拳はベッドに叩きつけようとしたが、その乱暴な振る舞いは途中で止まる。シルスターを殴り損ねたあの日から、マグナは拳を振り下ろす先を見失っていた。
「今度さ、休みが合うときにでもさ、一緒にエリちゃんのお見舞いに行かない?」
「行かない」
この場の空気を変えようと提案したエミであったが、マグナの答えはそっけないものであった。
「あたしが行ってどうすんだよ? 『お互い大変だったね。次は気をつけよう』とか言って、傷の舐め合いでもしろってか」
「…………」
それはない。気休めの発言ではあったが、マグナとエリツキーがお互いの傷を舐め合う姿が、エミには微塵も想像できなかった。虎と馴れ合う狼がいるとは思えない。
「わかってんなら、つまんねー事聞くなよ!」
マグナとエリツキーは互いを嫌い合っている。反りが合わないし、一時期は視界に入れることすら嫌で、顔を合わせる度に撃ち合い、殴り合いの喧嘩を繰り広げてきた。
二人の関係は良好とは言い難い。ただ、険悪と一言で片付けられない複雑さがあった。口が裂けても言わないし微塵も態度には表さないが、二人は互いのこと少なからず認め合っている。だからこそ傷を舐め合うのは御免なのだ。
傷をさらけ出すぐらいなら、自らの牙で傷を広げて自死を選ぶ。二人は誇り高く、それでいて面倒な二匹の獣であった。
それは二人の関係を直ぐ側で見てきたエミだって理解している。
でも、
「……お見舞いぐらい行ってあげればいいじゃん」
「あん?」
「凄んだってダメ。怖くないからね」
エミは言わずにはいれなかった。
「合わせる顔がないなら、花だけでも預けてくればいいじゃん。エリちゃんが素直に花を受け取るかは疑問だけど……」
逆上して窓から花を投げ捨てるかもしれない。
「それでも発奮材料ぐらいにはなるんじゃないの」
「はっ! ゴミになるとわかってる花を差し入れろってか。何なら鉢植えでも持ってくか」
「そういう言い方しない。わかるでしょ、私が言ってること」
エリツキーが一日でも早く復帰すれば、それは理事長の助け、ひいては女学院のためにもなる。本当に申し訳ないと思っているなら、謹慎の身であったってできることはある。エミの言葉は至極正論で、だからこそマグナの耳には痛いものだった。
「だったらお前は――」
「行くよ、私は。エリちゃんのお見舞い」
機先を制したのはエミだった。
マグナはその一瞬、怒りすら忘れてエミを眺めていた。
「もう五年かな。エリちゃんとはずっと……上辺だけの付き合いしかしてないんだ」
「そりゃ、そうだろ」
マグナの口からは、自然と乾いた声がこぼれた。
もし自分がエリツキーの立場だとしたら、エミと楽しくおしゃべりする自信がマグナにはなかった。
エミに競り負けていなければ、エミさえいなければ。
“永遠の四位”なんて不名誉な二つ名を与えられることもなかっただろう。
エリツキーは、正規の魔法少女として栄光の道を歩いていたはずだから。
「ちょっと! こいつ正気か、みたいな目で見ないでよ」
見るよ。
エミとエリツキーの関係は、マグナとエリツキーのそれと違って顕在化しない分だけ根が深い。それはセントフィリア王国が時を刻む度に生まれる因縁であり、呪縛である。一朝一夕で解決できるものではなかった。
だから、五年も引きずっているのだ。
「……わかってるよ。虫が良いこと言ってるのは。けどさ、もし明日死ぬとしたら、私はエリちゃんと仲違いしてることを後悔すると思うんだ」
「死ぬってお前」
「ないって言い切れる?」
……言い切れない。
マグナの無言が、エミの言葉を肯定していた。マグナだって、あの日、魔法少女生命を絶たれるなんて思ってもいなかった。
あの人が……鷹匠さんが二階級特進するなんて夢にも思っていなかった。
「だからできるだけ後悔しないように生きようと思ってね」
エミは微笑っていたが、その顔には少しの憂いを含んでいた。
「まあ、なんとかなるっしょ。ずっと変わらないと思ってたものが、明日には変わったりするんだから」
そこに良いも悪いもない。何かも変わっていくのが、ままならぬのが浮世の習いである。
「変わらないものなんて、ないんだよ」
「それは」
――今、あたしがお前に感じている距離もそうなのだろうか。
「それは?」
「いや」
マグナは口を濁した。
過去の栄光を振り払えない彼女は、怖くてその先の言葉を言えなかった。それを口に出してしまえば、自分とエミの関係は変わってしまうかもしれないから。
「んんー」
エミは何も追求しなかった。沈黙が重くならないように伸びをし、それから静かに覚悟を決めた。一昼夜考えて妙案が浮かばなかったのだから、仕方がない。
「よしっ!」
これもまた天の配剤。エミは膝を叩いて納得した。
「リュカちゃん!」
「何だよ急に」
「明日はさ、すっごい良い天気なんだって!」
「……はっ?」
マグナは当たり前のように疑問を抱いたが、目の前の女は取り合わなかった。
「だから明日は訓練もするし、当然漁にだって出る! あっ、リュカちゃんも原則参加だからね。しらはで寝泊まりする以上は、提督の命令は絶対だから!」
「……別にそれは構わねえけど」
部屋で一人悶々と悩んでいるより、身体を動かしていた方が気が紛れる。しらはの下働きぐらいなら喜んでやろうではないか。
しかし問題はそちらではなくて、
「それではリュカちゃん……じゃなくてマグナ隊員! 明日の業務開始は06:00からだ。叩き起こされたくなかったら、しっかりと寝たまえ。さらばだ!」
そう一方的に告げると、エミは風のように去っていった。
「寝たまえって……まだ夕飯も食ってねーんだけど」
それに。
マグナは丸窓から夜の海は眺める。辺り一面真っ暗で視界は悪いが、それでも波が荒れていることぐらいはわかる。
「明日って、大荒れなんじゃねーの?」
あの女、とうとう筋トレのし過ぎで頭がイカれたか……、マグナは親友のことを哀れみながら、うねる波をボンヤリと眺めるのだった。
◆
翌日の空は、エミの宣言通り快晴……にはならなかった。
天気予報は的中するどころかそれを上回る。台風並に発達した春の嵐がセントフィリア王国に接近していた。
その猛威は、暴風域にある戦艦しらはにも当然及んでいた。
中心気圧958hpa、最大風速33m。
この時期としては異例の強さを誇る春の嵐が一度吹き荒れれば、
「どわっ!」
匍匐前進中の人間を吹き飛ばすことなど造作もない。
「マグ――せんぷあああぁぁ――――」
ヴァネッサの叫びも激しい雨風に紛れて消える。荒れる海に飲まれたマグナが救助されたのは、それから二分後のことであった。
箒にまたがったヴァネッサに引き上げられたマグナは、甲板の上で四つん這いになって海水を吐いていた。
「ごっ……ぶへぇ! はあ……ちくしょう……服が水さえ吸ってなきゃ、自力で這い上がれたのに」
「なにと張り合ってるんですか、あんたは――ッ!?」
ヴァネッサは驚き半分、呆れ半分でマグナの背中をさすった。
「勘弁してよ。マグナ……さんが溺死したら、おばちゃんまた始末書だし」
「……始末書で済ますんじゃねえ。それが自分を庇ってくれた恩人にかける言葉かよ」
それは先月のこと。ヴァネッサは、セントフィリア女学院の入学生が親睦を深めるイベント、日帰り旅行――そのなかでも変わり種である迷宮探索ツアーの引率を任されていた。
しかしその役割を十全に果たすことはできず、ヴァネッサは女生徒たちと散り散りになってしまうという失態を演じてしまった。
そのとき、意外にもヴァネッサを庇ったのはマグナであった。
ヴァネッサに否がないわけではない。だが、百年に一度と言われる大規模質量転移魔法【階層工事】を予期して動くのは無理がある。
マグナはそう主張したからこそ、ヴァネッサは始末書程度の罰で済んだのだ。
だというのに。
「そんなことあったような、なかったような」
「かー、これだよ」
「ごめんねぇ。おばちゃん、忘れっぽくてねー。あっ、でもさっき助けてあげたし、これでチャラってことじゃない」
まるで妙案でも思いついたかのように言うヴァネッサ。まさに思いつきで生きているような女であるが、マグナは彼女のテキトーさ加減が嫌いではなかった。
いつまでも過去を引きずって生きるぐらいなら、いっそ彼女のように何も考えずに生きた方がマシなのかもしれない。
そんなことを考えていると、叱咤する声が飛んできた。
「こらー、そこサボるなー!」
声を張ることに慣れた鬼軍曹もとい提督の声は、春の嵐のなかにあってもよく通る。しらはのメンバーが普段どれだけしぼられているかが察せられ、マグナは同情した。
「あたし、溺死寸前だった気がすんだけど。……大変なんだな、お前ら」
「ホントにね。キ◯ガイなのよ、あのてーとく」
親友のことを差別用語で罵られた気がするが、マグナも否定はできない。春の嵐をものともせず、甲板の中央でスクワット。ついでとばかりに笑いながら指示出しするエミの姿は、控えめに言って頭がおかしかった。
「でも、今日もいつにも増して頭おかしい感じはするかも」
「そうなのか?」
「悪天時に無理なスケジュール組むなんて変でしょ」
言われてみればそうだ。昨日は悪天候が原因で漁と訓練が中止になったと聞いている。にもかかわらず、昨日より一段と酷い天候の今日は、漁も訓練も実施している。
(荒れてる方が取れ高が上がるなんて聞くが、まさかな)
魚は希少とはいえ、サバやイサキのためにわざわざ春の嵐に突っ込むとも思えない。
一体何が目的なのか……、マグナは思索を巡らせようとしたが、ぼうっとしている暇はなかった。
「そこぉ、私語禁止! 腕立てよーい!」
この雨風のなかで腕立て伏せ?
「……まじかよ」
そうぼやいたマグナには、追加として倍の腕立て伏せを命じられた。
その後も手旗やら結索やら、およそ悪天候のなかで行うとは思えない訓練が続いたが、マグナは持ち前の根性でこれを乗り切った。
「次は何だ、短艇か、それとも射撃訓練か。ここまで来たら、最後まで付き合ってやるよバカ野郎!」
マグナは途中で離脱するとばかり思っていたのか、横に立つヴァネッサは感心していた。
「ほへぇ、よく付いてこれますね」
「これぐらい当たり前だ。人間舐めてんじゃねーぞ!」
ギブアップするのが癪だというのもあるが、何より、正規の魔法少女でない自分にはできないと思われることが嫌だった。
冷たい雨に打たれようと、強風に煽られようと、そこだけは譲れない。
マグナは睨むような目つきでエミに次のメニューを催促した。
「うっし」エミは手のひらを拳で叩く「そろそろ身体も温まってきたし」
「えー、むしろさむーい」
話の腰を折るヴァネッサに対し、マグナは横から蹴りを入れた。
「ちょっと、マグナさん。いたーい!」
「寒くも痛くもねーだろ」
物理攻撃の無効化から防寒まで兼ねた【羽衣】をまとっておきながら、生意気なこと抜かしやがって。これだから、最近の魔法少女は。むしろ寒いのはあたしだと、マグナは苛立ちをあらわにした。
「それで、何すんだよ」
「格闘訓練――平たく言えば、殴り合いだな」
「いいね。わかりやすくて」
犬歯を見せて嗤うマグナと対照的に、ヴァネッサは苦虫を噛み潰したような表情を作った。
「うへぇ。本当にやるんですか」
魔法少女同士のどつき合いとなると、必然的に組み合わせはエミとヴァネッサになる。
あの“軍服を着た悪魔”と本気でやり合わなければいけないのか……。面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。
「てーとく、今日はやめときません? おばちゃん、ちょーっと体調悪くて」
「わかった。ヴァネッサは見学でいいよ」
「わーい。ラッキー……って、え?」
ダメ元で言った要求が通ってしまい、ヴァネッサは面食らう。ズル休みできるのはありがたいが、そうなると新たな問題が発生する。
エミVSマグナ。
無謀な対戦カートが成立してしまうのだ。
えっ、ちょっと待って。何この人、人肉でハンバーグでも作る予定あんの? ヴァネッサは動揺しつつも、遠回りに提督を諌めた。
「ちょ、てーとく。さすがに正規の魔法少女が、一般人に手を挙げるのはちょーっと問題があるんじゃ……」
「大丈夫だよ。リュカちゃんは並の人間じゃないし。それに――」
エミはマグナの瞳を真っ直ぐ見詰め、もう一度手のひらを拳で叩いた。
「素手だ。魔法は要らん」
「…………」
それは、今のあたし相手に魔法は要らないってことか。マグナは、雨風にさらされていた身体がぐつぐつと煮えたつ音を聞いた。
「そろそろセントフィリア素手喧嘩ランキングを更新する時期だろ」
「……そうだな。そういやそんな時期か」
「せ、セントフィリア素手喧嘩ランキングって……何?」
すっかり蚊帳の外に追いやられたヴァネッサがぼそりと漏らすと、エミが答えた。
「そのまんまさ。この国でもっとも素手の喧嘩が強いやつは誰かってランキング。毎年、私とリュカちゃんで更新してんだ」
「ま、まさか毎年殴り合いを……」
「いや、二人で酒の席で決めてるだけ。本当は毎年4月に更新したいんだけど、期首は何かと忙しくてね。大体二人の予定を合わせると5月ごろになるんだよね」
だったら今年も酒の席で決めてよ、というのがヴァネッサの本音である。提督は世間話でもするような口調だが、マグナは違う。彼女の声には隠しきれない険が含まれていた。冷たい雨風とは別のものが、ヴァネッサの身体を震わせた。
「ちなみに、去年は私が3位で――」
「あたしが2位だったな」
マグナが指を鳴らしながら言う。
どんだけー! と、ヴァネッサは内心でツッコんだ。魔法抜きとはいえ、素手喧嘩で提督に勝るとか、もはや教師ではない。
動揺を隠しきれないヴァネッサを見て、エミはくすりと微笑む。
「まあ、実際に殴り合って決めたわけじゃないけどね」
こめかみの辺りが引き攣る。その発言の真意がどこにあるのか、マグナは確かめずにはいられなかった。
「……おい、エミ。あたしの耳がおかしくなっちまったのか? まるで『実際に殴ったら自分の方が強い』ってあたしには聞こえたんだが」
「そだよ。私の方が強いって言ったんだよ」
――爆 弾 投 下。
マグナが発散する怒気に呼応するように風が吹き荒れる。その瞬間、乗り慣れたしらはは間違いなく戦場と化した。
互いの地位や間柄も関係ない。
人の形を借りた獣は、しなやかな肢体に静かに力を溜めていた。
今まさに目の前の獲物に牙を突き立てるために。
「言うようになったじゃねえか。あたしの後を追うしか能がなかった、ひよこちゃんが」
「それ何時の話? リュカちゃんって昔の私にしか勝てない訳?」
あかん、これあかんやつや……、知らぬ間に板挟みになったヴァネッサは戦慄する。薄氷より薄い女の友情とかいうやつが、木っ端微塵に砕けるやつや。ヴァネッサは努めて冷静に仲裁に入るとした。
「マグナさん。気持ちはわか――」
「さっさと合図出せよ、ヴァネッサ」
「あっ、はい」
無理だった。これ以上口を挟んでいたら、間違いなくぶん殴られていた。マジカルモードなら取り押さえられるだろうが、あんな猛り狂う獣みたいな人間を敵に回すのは御免である。ヴァネッサは大人しくマグナに従うとした。
「両者位置に着いて」
学生時代から染み付いた合図を口に出す。マグナとエミは対峙したまま、両者ともすっと顔前に拳を構えた。
「はじめ――ッ!」
――疾走。
ヴァネッサが手刀を切ると同時にマグナが突っ込んだ。
あまりの速さに、ヴァネッサの視線が一瞬遅れる。一般人が濡れた甲板の上で出せる脚力ではなかった。
速いのは脚だけではない。
射程圏内に入った瞬間、突進の勢いを乗せた拳が飛んだ。
雨粒が弾ける。
頭を滑らせたエミが、最小限の動きで飛来する拳をかわした。
そうこなくては。牽制で片付いては面白くない。マグナは素早く右手を引いて反撃に備える。
相手の拳筋を見極めたら、すかさずカウンターを被せるつもりだった。
対するエミの拳は、
(……来ない?)
違わずマグナの右肩を狙い撃った。
「――ッ!」
鈍痛。殴られた左肩に引っ張られて流れる身体。頭を高速で疑念が埋め尽くす。
いつだ、いつ殴られた?
衝撃が遅れて届いたかと思うほど、マグナの知覚は追いついていない。しかし、殴り合いの最中に相手が待ってくれるはずがない。
左の二連撃――追撃の拳を右肩で受けにいって初めて、マグナは左で殴られていることを知覚した。
見えた。拳の軌道こそ見えないが、見えない拳の正体はわかった。
皮一枚。エミの右ストレートがマグナの頬をかすめる。危なかった。見えない拳の正体がわかっていなかったら、早々にお寝んねしているところだった。
(見えない拳の正体は……)
なんてことはない。ただ拳を真っ直ぐ放っているだけだ。それも極端なほどに真っ直ぐに。
構えた位置と同じ高さで飛来する拳は、腕の軌道が見えにくい。急に相手の拳が飛んできたかのような錯覚に陥るのだ。
理屈は単純明快である。だが、
(なんつー拳放りやがるんだ、こいつは――ッ!)
それを体現できるかはまた別の話である。現実と理想が違うように、頭と身体の間には必ずギャップがある。それが限りなくゼロに近いというのは驚異的という他ない。
マグナは紙一重でエミの拳を避けてはいるものの、攻めには転じられずにいた。
ファーストコンタクトで、右の三角筋を撃ち抜かれたのが響いている。
今のエミは、左一本で太刀打ちできる相手ではない。
せめて右が回復するまでは時間を稼がないと……。
(――って思ってんだろ)
だからこそ行く。発射台は肩ではなく腰。痺れが残る右拳を振るう。
起死回生を図る右腕は真っ直ぐと伸びて――ぱちん、とはたき落とされた。
「――ッ!」
拳闘開始からほとんど表情を変えなかったエミが、わずかに口の広角を上げた。右はないと思ってるから絶対当たる――って思ってんだろ。
親友の顔は雄弁とそう語っていた。
「~~~~~~~~~~っ!」
その顔の動きに気を取られた瞬間、苦いものがこみ上げてくる。
一足で懐に潜り込んだエミが、マグナの腹を叩いていた。
一発と二発と打撃が重なるごとにマグナの顔は苦悶に歪む。
鳩尾。心臓。肝臓。
人体の構造を熟知した筋トレ馬鹿の拳は、的確に急所を捉えていた。
(腹が、壊……ぶっ!)
胃液が口端から垂れる。マグナは右の打ち下ろしを放つも、エミはひょいと避けて遠ざかっていく。
やられたらやり返す、という信条にも脚がついていかない。マグナは乱れた息を整えるので精一杯だった。
「ごめんね、リュカちゃん」
距離をとったエミが、唐突に謝罪の言葉を口にした。
それは何に対しての謝罪だろうか。
あたしをしこたま殴ったことに対する謝罪か。それとも、この国で二番目に殴り合いが強いと下駄を履かせてきたことに対する謝罪だろうか。
朦朧とした意識のなかで、マグナはエミの姿をぼんやりと捉えていた。
暗雲と横殴りの雨が、糢糊としたエミの輪郭をさらにぼやけさせる。
「私を助けてくれたあの日から、リュカちゃんはずっと……ずっと私のヒーローだった。キレイで、カッコよくて、強くて……だから、近づきたくて。いつか肩を並べたくて、近くて遠い背なかを必死で追いかけてたら、いつの間にかここにいたよ」
顔なんて見えないはずなのに、マグナにはエミが泣いているように見えた。頬から溢れた雫は激しい嵐に呑まれ。それでもエミは微笑っていた。
「憧れるばかりだった私が、誰かに憧れられる私になったよ。でも、私は……私は、今でもずっと……ずっと」
――貴方の背中を背負いかけてる。
ダンッ、とエミが鋼板を蹴る。マグナの背中ばかりを追いかけていた少女が、今は真っ正面からマグナと向かい合っている。
(ああ……そうか)
マグナは唐突に全てを理解できた気がした。どうして自分が、しらはにやって来たのかを。無意識の内に自分が何を求めていたのかを。
魔法少女生命を絶たれ、マグナが全てを失ったと思ったあの日。
抜け殻のようになった自分の頬を叩いてくれたのも、彼女だった。
全てなんて失っていない、と胸ぐらを掴んで言ってくれた。
貴方が生きていて良かった、と涙を流して訴えてくれた。
前を向いて歩け、と愛のある叱咤を浴びせてくれた。
最後にただ一言。
――待ってる。
そう言って突き放してくれなかったら、自分はとうに燃え滓になっていただろう。
立たなきゃ。立って前に歩かなきゃ。身体のあちこちが悲鳴を上げていたが、マグナはその全てを黙殺した。
魔法はもうない。けどここにはまだ――あたしがいる。
やられたらやり返すのが信条だろう。
なら、やられっぱなしじゃいられないだろう?
エミが、
「……う」
親友が待ってるんだから。
「うああああああああああああああああああぁぁぁぁぁあ――ッ!」
視界は悪い。前は見えない。けれど踏み出す。ただ我武者羅に前へ。腕力とか根性とか気力とか、何でもいいから全ての力を総動員して迎え撃つ。
殴る。殴る。殴る。
ただあいつの横っ面をぶん殴る――ッ!
死に物狂いで駆け出したマグナとエミの身体は交差して、嵐のなかの殴り合いは決着を迎えた。
(そうか、あたしは)
先に届いた拳は――――――――エミのものだった。
(こいつに、殴られたかっ――)
届かないのはわかっていたが、それでも悔しさから歯噛みする。それが、最後に気力を振り絞った行動であった。
明滅。暗転。意識を刈り取られたマグナの身体は、鋼板の上に崩折れていった。
「……ぶはっ」
大量の水が肌を打つのがわかった。マグナが目を覚ますと、頭上にはバケツを持ったヴァネッサがいた。
「あっ、起きた」
(……起きたってお前。あたしじゃなかったら、死んでっからな)
この嵐のなか野晒しにされていたこととか、言いたいことは山ほどあったが、意識が覚醒している最中では呂律が回らなかった。
マグナが息を吐いて上体を起こすと、
「リュカちゃあああぁぁああん――ッ!」
横合いからエミが飛び込み、抱きついてきた。痛めた身体に衝撃がかかり、マグナは小さく悲鳴を漏らしたが、エミは気づかなかったようだ。
「良かったあああああああ。生きてて」
「……危うく殺しかけたのは、お前だろ」
「だって、だってえええぇぇええー。私だって殴りたくなかったもん。でも、リュカちゃんが殴って欲しそうな顔してたから私……私……」
全てお見通しだったわけか。マグナは、提督の威厳もないへちゃむくれの親友を抱き寄せ、慈しむように濡れた黒髪を撫でた。
「悪かったな、色々と」
急に押しかけたこととか、苛立ちをぶつけてしまったこととか、辛い思いをさせてしまったこととか。挙げれば切がない諸々について、マグナは謝った。
「そっか……」
二人のやり取りを側で見守っていたヴァネッサは目を細めて言った。
「マグナさんって、見た目と違ってドMなんですね」
こいつぶん殴ってやろうかと思ったが、マグナは行動を起こす前に思いとどまった。ここ二日、この艦で一番気を回していたのは、他ならぬヴァネッサだろう。彼女には、減らず口の一つや二つ言う権利があって然るべきである。
「お前にも世話かけたな」
「世話? おばちゃん、コブラツイストしか掛けられた覚えがないなー」
よく言う。マグナは後輩の減らず口を鼻で笑って流した。
「エミ、長居したな」
離すもんか、と。ギュッと抱きつくエミに、マグナは諭すように言う。
ここはとても居心地が良くて、離れるのが惜しくさえある。でも、いつまでもエミの優しさに甘えている訳にはいかなかった。
ここは……あたしの居場所じゃないから。
マグナの静かな決意を感じ取ったかのように、エミは腕を離した。
髪を乱す風も、身体を余すことなく叩く雨も、今この瞬間だけは忘れられた。
さよなら。二人は目と目で別れの挨拶を済ませた。
二人の間に言葉は要らなかった。でも、それだけでは寂しすぎるから。マグナはヴァネッサを見習って軽口を叩くとした。
「次会うときは、ちゃんとめかしこんどけよ。軍服着た女とデートするのは、ごめんだからな」
ひゅー、とヴァネッサが下手くそな口笛を吹く。
一拍置いて、エミは嵐にも負けぬ大声で返事をした。
「うん、約束だからね。嘘ついたら拳固千発だからね!」
背を向けたマグナは、腕を上げて応えた。彼女はルーズな女だが、この予定だけは粉骨砕身して守らねばならない。エミの拳固を千発ももらった日には、骨身どころか生命にかかわる。
さて、と。マグナはゆっくりと歩き出した。この艦でやり残したことはもうない。だからこそ彼女の足取りには迷いがなく、だからこそヴァネッサは大いに困惑した。
右舷正横に歩くマグナは、海に向かって歩いているようにしか見えなかったのだ。
「ちょっ! マグナさん」
追いすがるような声を背に受けて、マグナは口角を上げた。
「おいおい。あたしだって、そんなに馬鹿じゃねえよ」
振り返らない。一歩また一歩と歩いたマグナは、ヴァネッサの想像だにしない行動を取った。
脱いだのだ。
上着を、シャツを、洋袴を。
家に着いたOLのように歩きながら服を脱ぎ散らかした。
――服が水さえ吸ってなきゃ、自力で這い上がれたのに。
ヴァネッサの頭には、ほんの数十分前の会話が思い起こされる。まさか、と思ったときには、マグナはすでに行動を起こしていた。
「あたしは、二の轍を踏むほど馬鹿じゃねえよ――ッ!」
馬鹿が翔んだ。
甲板の手すりを軽快に飛び越え、落ちる。暗い嵐に呑まれ、下着姿の女は瞬く間に見えなくなる。最後に残ったのはボチャンという水音だけだった。
ヴァネッサは慌てて手すりまで駆け寄ろうとしたが、落ち着き払っているエミの横顔を見て足を止めた。代わりに立ち尽くした彼女は、感じたままに口を開いた。
「……めちゃくちゃだ、あの人」
うん、とエミは頷いたが、それはヴァネッサの求める同意ではなかった。
「めちゃくちゃカッコいいんだよ、リュカちゃん」
少女のように目を輝かせ、提督は誇らしげに笑った。
◆
海岸に打ち上げられた女がいた。下着姿で、橙黄色の乱れ髪を広げ、砂の上に寝そべる女が。何の事情も知らない者が見れば、単なる自殺志願者か、荒れた海を見に行った馬鹿の末路にしか見えないかもしれないが、女は生きていた。息していた。息絶え絶えではあったが。
舐めていた。女は海という魔物を舐めていたのだ。
たとえ嵐のなかでも、2~3キロなら泳げるだろう。そう高を括っていたが、いざ泳いでみたらどうだ。
荒れた海を泳ぐことなど土台無理で、比較的穏やかな海中を潜るしかなかった。息が苦しくなったら浮上し、息継ぎしては流され、そしてまた海に潜る。当然、暗い海のなかを指針もなしに真っ直ぐ泳げるわけもなく、2~3キロどころか、その数倍は泳いでいた。オマケに親友にしこたま殴られた腹筋が痙攣し、溺死寸前まで追い込まれるという始末だ。
そんな馬鹿みたい遠泳の末、女は砂の上に寝そべっていた。全身の力という力を使い果たした彼女は、立ち上がることすらままならなかったのだ。
女の名は、マグナ=リュカ。
先日受け持ちの女生徒に手を上げ、一ヶ月の停職処分を言い渡された不良教師だ。
数時間前までいた場所が監獄だというなら、マグナはまさに脱獄に成功した巌窟王であろう。
職を追われ、名声を落とし、懲罰を受けることを余儀なくされた。
その手に栄光はなく、奇跡もなければ魔法もありはしない。
だが女は、嵐のなかにあっても消えはしない炎を瞳に宿していた。
明鏡止水の境地に至るほど齢経ていないが、この世の理不尽を許せない若さが彼女にはあった。
過去も現実も受け容れられないからこそ、もがき苦しみ這い上がる。立って、この世の全てに反逆しなければ気が済まないのだ。
マグナが立ち上がると、彼女の決断を歓迎するように風が鳴いた。そこには肌をなでるような気遣いも、背を押すような優しさもない。春の嵐は一切の容赦なく髪を乱し、マグナの身体を通り過ぎていった。
「いいね、嵐ってやつは」
そう言うと暴風を浴びた女は、
「いくつになってもワクワクする」
誰もいない砂浜で一人、獰猛な笑みを浮かべた。
かくして愚か者は帰還を果たした。それは奇しくも、黒髪の乙女が愚者として初めて正を向いた日と同じ日のことであった。




