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10 days ago

本編「第1話 神社の魔法使い」より10日前の話になります。

 それは、県立高校の受験を十日前に控えた日のこと。


「くっ、……ここもですか」


 純真可憐な男子中学生、八坂命は窮地に立たされていた。


 どうしてこうなった?

 先月、推薦入試を突破したばかりじゃないですか。

 だというのに、なぜまた試練が降りかかってくるのですか。

 私はただ、『新作のゲームやりました? あっ……すみません、そういえば受験間近でしたね』みたいな、ちょっと空気が読めていない学生をやりながら、のうのうと暮らしたかっただけなのに……。


 神を呪わざるを得ない。たとえ、社家の跡取り息子であっても、だ。


「こっちもダメなら……っ!」


 その場でUターン。神社につながる石段を登ることを途中であきらめ、命は真横に飛び出した。

 鬱蒼と生い茂った木々に、急な傾斜。

 そこは本来なら獣のための道だが、選り好みしている場合ではない。この窮地を脱せるのなら、喜んで犬畜生になるといったものだ。


 さすがにこの山のなかまでは……、と安堵した命が甘かった。


「いたぞ、こっちだ!」

「逃がすな、追い詰めろ!」

「おらぁ! 早く出すもの出して楽になりな!」


 奴らはすでに犬畜生に堕ちていた。人の道を外れた奴らにとって、山に分け入ることなど朝飯前だった。


「ひぃっ!」


 何がそこまで彼らを駆り立てるのか?

 決まっている。アレである。


「おのれ……おのれ」


 疾走。

 伸びてきた黒髪をなびかせながら、命は道なき道を下る。


「おのれ……バレンタイン――ッ!」


 ときは平成(せんごく)、世は2月14日(らんせ)

 野心を燃やす男どもはチョコレートに飢えていた。

 ……命の周りだけ異常に。




     ◆




 ガンガン……ガンガン。


 チッ! うっせえな。


 ノックがやかましい。そんな些細なことだって、受験生である玖馬(きゅうま)の心をささくれ立たせた。


 ただでさえ周りのガキどもがうるさいのに。どうせセールスか何かだろう?


 玖馬は、無視して過去問を解き進めることにした。

 早くガキどもが追っ払ってくんねーかな……、なんてのんきに構えていられたのも、わずかな時間だった。


「うわああああああああああああああああ――ッ!」


 子どもの叫び声が耳に入るなり、玖馬はすっくと立ち上がった。

 何だ? 何が起きたんだ?

 わけもわからぬまま玄関へと急ぐ。


 ガンガン……ガンガン。


 扉を叩く音。子どもがさらに泣きわめいた。

 何が……何がウチの外にいやがる。

 玄関に着くと、外で何者かが叫んでいた。


「助……っ! 助けて! やら、やられる!」


 実に和テイストのホラーである。

 曇りガラスの向こうで、小柄な女が一心不乱に玄関扉を叩いていた。


 いや、声も背丈も女みてーだが……こいつは。


 怯える子どもたちを避けて、玖馬は玄関扉を半分開ける。


「玖馬~!」


 扉の前には、神か仏でも拝むような友人の姿があった。

 何があったのか綺麗な黒髪はボサボサで、葉っぱまで挟まっているではないか。

 かわいそうに、厄介ごとにでも巻き込まれたのだろう。


「あっ、ウチ間に合ってるんで」


 玖馬はそっと扉を閉めた。


「何が!? 要るでしょ私! 炊事洗濯家事掃除からヤンキーの友達まで何でもござれ。一家に一台、八坂命ですよ!」

「こいつ、懸命に自分を売り込んでやがる!」


 外にいるのが命だとわかると、子どもたちも同情的な視線を注ぎ始めた。ねえ、なかに入れてあげようよ、とでも言いたげだ。


「ったく。わあーったよ」


 玖馬は仕方なく命を迎え入れた。


「はあ……はあ……助かりました。危うく八つ裂きにされるところでした」


 なにこいつ、聖ウァレンティヌスか何かなの? 処刑されるの?


 今日がバレンタインデーだということを踏まえれば事情は大体わかりそうなものだが、玖馬は一応聞いておいた。


「でっ、何があったんだよ」

「奴らが……チョコに飢えた男どもが、私を襲ってきて」


 ――きっかけは些細なことだった。


『なあ、八坂ってチョコ作んのかな?』

『そういや前に作ってたような』


 果たして命は、チョコレートを作るのか?

 初めは男子中学生の話の種に過ぎなかったそれは、


『八坂ってチョコ作るらしいぞ』


 徐々に、徐々に真実を歪められていき……最終的には、


『八坂チョコ配るってよ』


 ――になっていた。


 会う学生会う学生(男限定)から無遠慮にチョコをせがまれたと思えば、今度はファンクラブ(非公認)の皆さんがやってきて言い争いになり、ついには誰かが手を出し、血の雨ぴゅうぴゅう。


 わあ。皆さんってば血気盛ん。要りませんよね? それだけ血の気が余っているなら、チョコ要りませんよね? だって鼻血ブーしちゃいますもの。


 命は逃げた。それはもう全力で。


「しかし、すでに我が家にまで追手の者が! どこに行っても私を襲うギブミーチョコレートの嵐!」


 はははっ、マッサーカー。何なのこいつ、終戦直後の米兵か何かなの?

 第一次世界大戦の開戦が1914年、第二次が1939年と。

 玖馬は片手間に歴史の勉強を始めた。


「どうにか包囲網を突破し、ここまで逃げてきたというわけです」

「スゲーなお前。一人で戦争起こしてきたのかよ」


 サラエボの青年もびっくりである。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ、と。


「もう、ちゃんと聞いて下さい。真面目な話ですよ!」

「真面目にアホな話じゃねーか! あったか真面目要素? カカオ1%分も含まれてなかったよな!?」


 俺はこんなアホに負けたのか。もうやだ。受験とかどうでも良くなってきた。いや、どうでも良くはねえな……、と玖馬は頭を掻いた。

 ただでさえ元不良だの問題児だの風当たりが強いのだ。

 受験前に問題を起こすのは非常に良くない。


「とりあえず外はまずい。なかに入ってくれ」

「良かった。ここを決戦の地(ハルマゲドン)にするぞ、と脅す手間が省けました」

「……お前よく俺の友達を名乗れたな」


 施設(ここ)に子どもが大勢いることを知った上で、なんて恐ろしい発言を。玖馬は鷹のような目で睨んだが、命はどこ吹く風。髪に絡んだ葉っぱを払っていた。

 靴を脱ぐと、「お邪魔します」と命は上がり(かまち)に足をかけた。


「ふう。やっと一息つけそうです」

「別にいいけどよ。ここはここで落ち着かねーと思うぞ?」

「ご安心を。ここは勝手知ったる他人の……あ痛っ!」


 唐突な暴力が命を襲う!

 目線を下げれば、そこには幼稚園年長のたっくんの姿が。涙目のたっくんが怒りの腹パンチを放っていた。


「おどかすな、このバカ! 命のくせに」

「ちょっ、ごめん。たっくん痛いからやめて!」


 痛い! 未就学児童のパンチ痛い!


 年長さんだけあって、たっくんの拳は意外と重かった。

 見るに見かねて玖馬が口を出す。


「やめろ、たっくん! それじゃ手打ちだ。パンチは腰で打てって、いつも言ってるだろ!」

「まさかのヤンキー仕込み――ッ!」


 道理で良いパンチ放るわけである。なんて感心している間に、次々と押し寄せてくる子どもたち。さっきのお返しとばかりに命はもみくちゃにされた。


「うわああん。怖かったんだからな!」

「ごめんごめん。だから泣きながら殴るのやめて!」

「おらあ! 玖馬パーンチ!」

「そこ混ぜるな元ヤン!」

「ねえねえ、命お姉ちゃん。あとでお菓子の作り方教えて」

「お姉ちゃん違う! でも後で教えてあげるから、ちょっと待ってて!」


 これだけ怒涛の勢いで攻められては、さすがの命もお手上げだった。


「わかりました! 皆さんの言いたいことは痛いぐらいわかりました! だから、だから……落ち着いて下さあああああああああああああい!」


 それから五分ほど、命は身も心も蹂躙され続けた。



 この施設にいる子供は、必ずしも個室を持っているわけではない。玖馬のような受験生や年長の子どもに、優先的に個室を割り当てるシステムを取っていた。

 では、個室を持たない子どもはどうするかといえば、大部屋に集まるのが慣例となっていた。多くの子どもを収容するための、幼稚園の遊戯室にも似た大きな部屋だ。

 歳を重ねるにつれて子どもたちはこの部屋を嫌がるようになるが、一人っ子の命にはこの大部屋の騒がしさが、ほんの少し羨ましかった。


 ……なんて、両親が健在である命は口が裂けても言わないが。


「玖馬は、よくこの環境で勉強できますね」

「うっせーけど、もう慣れたよ。集中したいときは個室にこもるし」

「いえ、そちらでなくて。子どもの面倒を見ながら勉強するなんて偉いなって」

「面倒? 気が向いたときだけ相手してやってるだけだ」


 ふふっ、照れています。


 命は微笑ましい者を見る目を向ける。見た目に反して玖馬の面倒見が良いことは、命もよく知っていた。集中したいとき以外は大部屋にいるのが、そのいい証拠だ。


「ちっ」


 玖馬は居心地が悪そうに舌打ちを鳴らした。

 こういうときに限って、場を乱す子どもたちはいない。彼らは命の提案に乗って、みんな買い出しに出ていた。


 ちゃぶ台の向こうでニコニコする命。私はわかっていますよ、ふふっ……、というような見知り顔が、最高に腹立たしかった。


「まっ、個室にこもってても、お前に似た奴の小言がうるせーんだけどな」

「私に似た?」


 あれ? いねえ。


 玖馬は辺りを見回したが、アレはいない。いつもは右肩の辺りをうろちょろしているのだが、どうやら大部屋には来ていないようだった。


 そういえばあいつ、命がいるときはいつも隠れてるような……。


 玖馬が言うアレ、あいつとは、命によく似た精霊のような生き物のことだ。

 受験勉強に、と命が送った"愛"pod。

 160GB分の命の肉声が詰められたそれを聞いて、来る日も来る日も勉強に励んでいたら、ある日、顕現した謎の生き物である。


 最初は受験勉強のストレスから来る幻覚の類だと思っていたが、そいつは今なお消える気配を見せずにいた。


 俺は頭がおかしくなったのだろうか……、と一応病院にも行こうとしたのだが、気が進まず今日にいたってしまった。なぜなら本当のことを話すと、本当に頭がアレな人だと思われそうだからだ。


 仕方なしに自力で調べてみると、人工精霊やらタルパやら似たような存在がいることを知れたが、どうもそれらとは違う気がしてならなかった。

 アレは何というか……もっと輪郭がくっきりしていて存在感がある。それに自分の意識に結びついているというより、独自の思考パターンを持っているといった方がしっくりくる存在なのだ。


 よくよく考えてみれば本当に謎である。何なんだ、アレは。


「急に黙り込んでどうしたのですか。私に似た、なんですか?」


 玖馬は命を見る。


 こいつには……アレが見えるのか?


 アレに似た命になら、という期待感があった。


「あのよ命」


 玖馬は途中まで言いかけて、


「……やっぱ何でもねえ」


 止めた。


 どう伝えればいいのかわからなかったのだ。

 実は、お前によく似た精霊みたいなのが俺の周りをうろついてんだ、とでも言えと? ドン引き間違いなしである。

 玖馬はこの事実を隠しておくことにした。

 恥を晒すことを避けて、そして無意識に命もどきを庇って。

 玖馬には、アレがそれほど悪いものには思えなかった。さほど良いものでもないが……。


 玖馬はそれで良かった。が、命はそうではなかった。


「いやいや。そこで止められると、非常に気になるのですが」

「あっ、ガキども帰ってきたぞ」

「そこ誤魔化さない! もしかして彼女? 彼女でもできたのですか?」

「お前に似た彼女って……」


 ズドン! 墓穴を掘ったとばかりに、命が頭からちゃぶ台に落ちた。


 こいつは頭が良いのに、ときおり底抜けにアホである。

 命の容姿をとやかく言うのは嫌いだが、誤魔化せたのなら、まあいい。

 玖馬は切り替えて子どもたちを出迎えた。

 あとは子どもたちが引っ掻き回してくれるだろう。


「帰ったぞー、命! 約束だかんなー」

「はいはい。わかっていますよ」

「ごめんね、命お姉ちゃん。私があんなこと言ったから」

「いいのですよ。私もお菓子作りは嫌いじゃないですから」


 スーパーやら百均やらの袋を持った子どもたちが続々と大部屋に入ってきた。最後に入ってきた引率のおばさんと二言三言会話をかわすと、命は始まりを告げる。


「それでは、さっそく始めますか」


 命のチョコレート教室開講――そのニュースを聞いた子どもたちが騒ぐ。

 早く早くとせかす子どもたちに押されるようにして、命と玖馬はダイニングキッチンまで移動した。


「悪いな。ガキどものワガママに付き合わせて」

「なに、かわいいワガママじゃないですか。チョコレートの作り方の一つや二つ、喜んで教えますよ」

「一つや二つは普通に教えられるのな」

「それはもちろん。お菓子づくりは高尚な男の趣味ですからね」


 確かに第一線で活躍するパティシエールには男性が多いと聞く。でも命が言うと何だかなあ……、と思う玖馬であった。


「じゃあ、さっきの噂もあながち嘘じゃねーのな」

「そうですね。去年のショコラケーキは好評でしたよ……男子には」

「女子には?」


 命は、軽く微笑んでから言う。


「概ね不評でしたね。男のくせにとか、スイーツ男子とか、酷いのになると『嫌がらせなの?』と、二、三人の女子から責められて」


 だから今年は作らなかったわけか。


「……別にクオリティ高いものを作った覚えはないのですが」

「わかった。お前の気持ちはよくわかった」


 そして、女子の気持ちもよくわかった。命は、女子の生態系を破壊するプレデターだなんて揶揄されているが、これもあながち嘘ではなさそうだった。


「今日はそういうの抜きにして楽しもう。なっ、そうしよう」

「ですね。今日は美味しいチョコレートを作っても不評を買いません。小さい子は純粋でいいですね。チョコレートを見ても不純な感情も抱きませんし……」


 ……だめだ。ここは地雷が多すぎる。


 無傷で突破できないと見るや、玖馬は「イヤッッホォォォオオォオウ」とばかりに裸足で地雷原を駆け抜けることにした。


「みんなー、チョコが食いてーか? だったらもっとテンション上げてこーぜ!」


「おー」とか「わー」とか子どもたちが喚き立てる。空気を読んだわけではなく、単純にワクワクしているだけなのだが、そんな子供の純真さに玖馬は心を救われた。


「ほら見ろ。みんな今か今かと待ってんぞ。お前もやってみろ」

「えー、そんな。えー」


 満更でもない命であった。「チョコレートの作り方? お前に教わるとか女子としての沽券にかかわる」とか言われた去年の出来事が嘘のようだ。


 ああ、みんなが期待してくれている……、命は満たされた気持ちで右腕を天に伸ばした。


「みんなー、美味しいチョコレートが食べたいですかー!」

「おー、さっそく食べようぜー!」

「食べちゃだめ! それ材料だから――ッ!」


 命は慌てて制止をかける。なんという子どものフリーダムさ。待ちくたびれて、板チョコレートを食べかけていた。


「ダメですよ。今日はチョコレートを作るのですから」

「えー、というか何でチョコからチョコ作んだ。意味わかんねー」


 というのが、たっくんを始めとしたやんちゃボーイズの意見だった。

 ……なるほど、そこから教える必要があるのか。

 講師として、命はチョコレートを作る意義から教えることとした。


「それは現代の錬金術とでもいいますか、チョコの価値が跳ね上がるのです」

「何だそれ。よくわかんねー」

「では簡単に。100円玉が福沢諭吉(いちまんえん)に変わるようなものです」

「すげえ! バレンタインすげえ!」


 一万円なんてお年玉でしか見たことねーぞ、とざわつく子どもたち。

 うんうん我ながら良い説明をした、と命も満足げだ。


「バレンタインの意味がよくわかったようで何よりです。あと、苦労して作った料理は美味しいでしょう。そういうことです」

「……先にそっち言えよ」


 至極真っ当な意見を無視して、命は続ける。


「はーい、みんな準備はいいですか。ロングヘアの女の子は髪が入らないよう、きちんと髪を結えるように」

「……お前はいつから女の子になった」

「ああ、これですか」


 げんなりする玖馬の視線の先には、バンダナで髪を結えた命の姿があった。


「髪を伸ばせば伸ばすほどお小遣いが増えるという、謎のインセンティブ契約を親と交しまして」

「何考えてんだ、お前の両親は?」


 命が容姿で苦しんでいることを知らない訳でもあるまいし。


「さあ? あの両親が考えていることなんて、わかるわけないじゃないですか」


 命の言うことは最もだった。考えたって詮ないこと。女装して魔法少女育成施設に入る未来なんて、誰が見通せるというのだ。命がこの話を告げられるのは、これから十日ほど先のことである。


 このときの命は、推薦入試も突破して、人生に数回あるモラトリアムを謳歌するアホアホの命であった。でなければ、こんな呑気にお菓子作りなんてしていない。


 待ち受ける運命を知らぬ命は、陽気に確認をとっていた。


「よーし、それでは……みんなー、お手洗いは済ませましたか?」

「はぁーい」

調理器具(どうぐ)の準備は?」

「できましたぁ!」


 さすがに手慣れている。同世代の女子からは全く好かれないものの、子供には大人気の命先生であった。


「あめんぼあかいな?」

「あいうえお!」

「料理の基本は?」

「さしすせそ!」

「愛情致死量?」

「塩少々!」

「よーし。いいですよ、みんな! 最後は元気よくいきましょう。料理は――」

「てきりょう!」

「愛情じゃねーのかよ――ッ!」


 玖馬は両の拳をテーブルに叩き落とした。

 致死量ぶちこんでおいて、どういう了見だコラ。最後の最後で梯子を外された気分だった。


「ええ……何ですか、急に」

「なんでドン引いてんだよ。意味がわからん!」

「いや、だって人が口に入れるものですよ? 食材の量はもちろん、調味料だって適量加えて美味しいものを作ることが大事でしょう。……それに、愛情なんて入っていて当たり前じゃないですか。これ見よがしに前に押し出す要素ではありません」


「そうだぞ、玖馬! 愛情はかくし味なんだぞー」とガキどもにまで諭される始末。正論なのがまたムカつくところだ。


 だからお前は、女子ウケが悪いんだよ……っ!


 玖馬は喉から出かかった言葉をすんでのところで飲み込む。

 いけない、今日は命に純粋に楽しんでもらう日なのだ。男女の愛憎入り乱れない純粋なチョコレート作りを。


 子どもにチョコレート作りを教えると言うこの男。実は調理器具から材料まで全て自腹で揃えるほどウッキウキなのである。何を隠そう、このチョコレート教室を一番楽しんでいるのは命だ。


 まあ、別に楽しんでくれるのは構わない。

 しかし、先ほどまでの遣り取りを見ていると、不安を覚えずにはいられないのも確かだ。


「おい、大丈夫かよ。こんな調子で本当にガキどもがチョコ作れんのかよ?」

「安心して下さい。これから作るのはチョコトリュフとカップチョコレートですし、そう難しいものではありません」


 トリュフ? カップ? それ自体は知らないが。


「でも、火だって使うんだろ」

「……うーん。レンジで溶かすやり方もあるのですが、今回はやっぱり火を使おうかと思います」

「どうして、わざわざ」

「私が思うに、チョコレート作りの醍醐味は湯せんの面倒臭さにあると思うのです。なかなか溶けないチョコレートを一生懸命溶かして、まだかなまだかな、と。その内、ああ何してんだろう市販のチョコレートで済ませおけば良かった、という後悔を乗り越えた先にあるものを味わって欲しいのです」

「なんだその歪んだ達成感――ッ!」


 そんなものを味わうために、ガキどもに火を使わせるのか。玖馬としては不安なことこの上ない。


「おい、ヤバイって。こいつらには、ぜってぇーできねえよ」

「と言われますが、どうです、たっくん?」

「なにぃ、できらあ!」

「変なこと教えんな――ッ!」


 さっきの妙な掛け合いといい、妙なこと吹き込みやがって。つくづく油断のならない男である。


 ……んっ?


 くいくいと服の裾を引っ張られていた。

 玖馬が下に目を遣ると、そこには命にお菓子作りを教えて欲しいと乞うた、施設でも一番引っ込み思案な女の子がいた。


「あの……できらあ」


 そうか、できるのか。


 玖馬は非常に扱いに困った。


「ほら、こんなに小さな女の子だって、できると言っているのです。もう十分でしょう。ささっ、受験生は部屋にお帰り」

「こら、押すな!」


 命は、無視して玖馬の背中を押す。


「やる前からできないなんて言っていたら、何にもできなくなっちゃいますよ」


 廊下まで押しやると、命は極上の笑みを浮かべる。


「子どもたちの面倒は私が見ますから、玖馬は気にせず勉強に専念して下さい」

「……」


 ナーバスな受験生の心理とか、何もかも見透かされているようで、玖馬は反論できなかった。せめてもの仕返しに、「けっ」と毒づいてから別れた。


「それでは良い悪あがきを」


 うっせえ!



 怒りをぶつけるように、玖馬は荒い足取りで階段を上がった。

 ッターン、と無遠慮に引き戸を開けて自室に戻る。


『あら、お帰りなさい。現実逃避はもう十分ですか?』


 こっちもうっせえ!


 謎の生命体Xもとい命もどきが、勝手にベッドでくつろいでいた。めくった形跡のある雑誌が横にあることが不思議で仕方ない。


 が、構ってやると天井知らずに調子に乗るので触れない。玖馬にしか見えない分、命もどきは本人よりも構ってちゃんなのだ。

 玖馬は何ごともなかったように机に着いて、参考書を広げた。

 ……つもりだったのが、小さな変化を嗅ぎつけたのだろう。ふよふよと飛んできた命もどきは、玖馬の右肩に乗った。


『その様子だと、オリジナルに尻を叩かれたようですね』

「なーにがオリジナルだ。命がいると、表に出てこないくせに」

『仕方ないでしょう。私とオリジナルが合うと、巡り巡って悪いことが起きるのですから』


 シャーペン動かしたまま玖馬は問う。


「悪いことって?」

『少なくとも私は死にます。オリジナルも……状況次第では死ぬかもしれません』

「ドッペルゲンガーか、おのれは」


 なら命もどきの話を出さなかったのは、正解だったか。確証はないが直感がそう言っていた。


『きゃっ☆ 対消滅しちゃいます!』


 心残りもなくなった玖馬は、黙々と参考書の問題を解く。


『なに無視しているのですか。面白くないですね。もしもーし、そこの志望校E判定の玖馬さーん』

「…………」

『もう無駄な努力なんてやめて、私と遊びましょうよ。もう十分でしょう。ヤンキーが進学校に受かるなんて夢のまた夢だってこと、わかったでしょう』

「うっせえ。できらあ!」


 それっきり玖馬は一言も声を発しなかった。寝食も忘れて勉強し続けて、気がついたときには机で寝ていた。


「……んっ」


 窓から射す朝日が目に染みる。

 ぼんやりとした視界の隅には、ラッピングされた小箱が。

 その年、命が唯一同級生に送ったチョコレートが置いてあった。




     ◆




 ……後日。


 玖馬は、路地裏で見知らぬ男子中学生に絡まれていた。リーダー一人に、手下が二人。典型的な不良のスリーマンセルである。


 どうしてこうなった?

 不良の世界からは足を洗ったじゃねえか。

 だというのに、なぜまた野郎どもに絡まれるのか。

 俺はただ、『やべーわ、マジ勉強してねーわ。これ本当にやべーやつだわ』みたいな、あからさまな嘘をつく受験生をやりながら、いざ本番では本気を出したかっただけなのに……。


 命を呪わざるを得ない。たとえ、奴が親友であっても、だ。


「おい。ネタは割れてんだぞ、そこのデクの坊!」


 ざっ、と足音を立てて手下Aが一歩詰め寄る。


「テメー、命ちゃんのチョコレートを食ったらしいな、ええコラ!」


 眉間に怒りジワを寄せた手下Bが一歩詰め寄る。


「悪いな、元第三中学校の悪魔。壁に耳あり障子屋メアリーだぜ。お前がエンジェル命ちゃんのチョコを食ったってことは、この界隈じゃ有名だぜ。お前はこの界隈をすべて敵に回したぜ……マジで」


 そうか、マジか。


 言葉の節々から頭の悪さが滲み出ているリーダーは、手下に指示を下す。


「お前ら……()れ」


 手下A・Bは獣じみた――人間をやめた畜生でなければ出せないような――奇声を上げながら、踊りかかってきた。


 ボスッ!


 一発は甘んじて受けた。二人同時に相手取るのは、面倒だからだ。


「だからっ!」


 代わりに、もう一人は壁にめり込むほどの勢いで叩きつけてやった。

 頭を打った手下Aがずるずると壁にもたれて落ちていく。

 手下Bが「ひいっ」と小さくうめいたが、もう遅い。


「それはっ!」


 膝蹴り。それもバッチリ鳩尾(みぞおち)

 手下Bが声にもならぬ声を出しながら崩折れる。

 ギロリ、と玖馬が残る一人を睨みつける。


 安全圏にいたリーダーの顔が青ざめる。


 ぶっちゃけ第三中学校の悪魔なんて過去の話でしょ。三人がかりならワンチャンどころか余裕っしょ、と調子こいていた数時間前の自分を殴りたい気分だった。


 表に出なくなってからは好き放題言われていたが、しょせんそれは外野の噂に過ぎなかった。


 いた……ここに。


 その名に恥じぬ第三中学校の悪魔が。


「――ッ!」


 リーダーは脇目も振らずに逃げ出した。人目がない路地裏から出てしまえば、いくら第三中学校の悪魔でも手出しできないだろう。


 そう。ここを出て――出られるわけがない。


「……どこの」


 一瞬の浮遊感。

 後ろ襟首を掴まれたと思ったときには、今来た道を後転しながら戻っていた。転げた痛みよりも、袋小路に追い込まれたという恐怖の方が勝っていた。


 気がつけば、リーダーは口を開いていた。


「ま、待て。俺は羽鳥財閥の御――」


 お構いなし。

 玖馬はこぼれ球に駆け寄るストライカーのように走り。

 大きく右足を振りかぶって。


「どこの界隈の話だああああああああああああああああああ――ッ!」


 豪快なサッカーボールキック。


 ポリバケツを倒して、ゴミにまみれたリーダーが、数回転して行き止まりの壁にぶつかった。どうやら目を回したようで、起き上がる気配はなかった。


「おい、次はねーからな。また命に迷惑かけたら、その界隈ごと……潰すぞ」

『と、気絶している連中に凄んでも無駄では?』

「いいんだよ。こういうのは気分だ気分」

『……全く。これで受験できなくなったら、どうする気ですか?』

「そんときは、そんときだ」


 良いストレス解消になった、と玖馬はカラカラ笑う。


 彼が進学校である松陽高校に受かるのは、この数十日後の話である。

◆オマケ:路地裏アフター◆


???「元はといえば私のせいですし……口封じぐらいしておきますか」


 おや、路地の入口に謎の人影が。


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