金の糸Ⅰ
絡む糸のなんとわずらわしいこと。
絡み、絡まれ、こんがらがって。身動きが取れなくなる代わりに安心を手に入れて、何になるのか。
下らない。
金の糸に群がる、個性のない紐束も。紐束の薄情さも知らず、絡んだ糸を自慢する金の糸も。
いつか紐解ける夢ならば、結ばなければいいのに。どうして解ける糸を紡ぐのか。私にはまるで理解ができない。
いらない……切れる糸なんて、私はいらない。
◆
オレンジ色に染まる教室にいた。
暇だ。エメロットがいないと退屈で仕方ない。いたらいたで、お小言が耳障りで鬱陶しいのだけれど。
と、何をするでもなく夕日に頬を焼かれていると、デコ助が寄って来た。全然嬉しくない。むしろ迷惑なぐらいである。
「フィロちゃ~ん。顔合わせ楽しみだね! 私この日が楽しみ過ぎて、もうずっと寝てないくらい楽しみ。ワクワク大感謝祭だね」
「ええ、そうね」
適当に相槌を打って流す。このデコ助は存外丈夫な子である。どれだけ邪険にしても、どれだけ嫌そうな顔をしても全く堪えやしないのだ。
はあ。面倒くさいことこの上ない。早く帰って下さいませんこと、と念を飛ばした甲斐もあってか、デコ助の保護者が迎えに来た。
「あ、茜ちゃん。そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
おっかなびっくりといった調子で、いかにも気弱そうな同級生が寄ってくる。相も変わらず幸薄そうな顔をした子だ。
「ふああ! もうこんな時間。大変だよハルちゃん。遅刻はご法度、厳禁系! 五分前行動を心がけなきゃ、お姉ちゃんに失礼だよ!」
「うん。だから早く行こう」
「わかった! フィロちゃんも急いで!」
ニブチン。後ろの薄幸ハルちゃんが、薄目を目一杯見開いていたことを教えてやりたいくらいに。……まあ、わざわざ口には出しませんけど。
「私に構わなくて結構。先にやることがありますの」
ほら、これで満足かしら。絶好球を放ってやると、幸薄子はあれよあれよという間にデコ助を連れて行った。
ふう。これでようやく、うるさいのがいなくなったわ。
「フィロちゃーん!」
――と思ったのだが、デコ助は背中を押されながらも、引き戸前でしぶとく立ち止まっていた。
「なかなか予定が合わないけど、明日は一緒にお昼食べよーね!」
「ええ。機会があればね」
めげない子ですの。いつか誘わなくなるだろうと断り続けて早二週間。あの子が私を昼食に誘わなかった日はない。
そして、私があの子の誘いに応じたことも一度としてない。
……いい加減ガツンと言った方がいいのかしら。
にぱあっと満面の笑みを咲かせ、デコ助はブンブンと手を振っていた。のんきなものですわ。
「早く行かないと遅刻するんじゃなかったかしら?」
「あっ、忘れてた! ハルちゃん、Bダッシュで急ぐよ!」
幸薄子の手をとって、デコ助は教室を飛び出す。ドタドタと足音が遠ざかったかと思えば、今度は教師の怒鳴り声が聞こえてきた。
本当に嵐のような子。
あの子の世話役に選ばれた上級生には、同情しないこともない。
「さてと」
しばらくしてから、私は陽だまりを離れた。温かい夕日が名残惜しいけれど、貴重な時間を無駄にはできないもの。
私の人生は、黄金の砂時計でできている。流れる一秒にすら砂金の価値がある、素晴らしい人財なのだ。
バッグを肩にかけて教室をあとにする。
廊下には案の定というべきか、おしゃべりに興じる女生徒たちが溢れかえっていた。毎日よく飽きもせずおしゃべりできるものだと感心してしまう。
こいつらの一秒には砂の価値しかないのだろう。群れたところで砂の城しか築けない、取るに足らない存在だ。
だから先に言っておこう。
これは断じて強がりなどではないのだ。
――あんな高慢ちきの姉になる先輩は、世界一不幸よね。
そんな陰口を叩かれても痛くも痒くもない。
野犬の遠吠えほどにしか感じられないのだから。
たかが学校側が勝手に決めた世話役と顔を合わせるだけの儀式。そんなものに一喜一憂できる野犬の方こそおめでたい。
ったく、犬の本能か何か知らないけど、道の真ん中で屯しないで欲しい。いちいち避けて通るこっちの身にもなって欲しいものですわ。
……わずらわしい。
ただ道を歩くだけでも絡みついてくる糸がわずらわしかった。
◆
日課となった飛行訓練――フィロソフィア家では『フライト』と呼ぶ――を終えて、第二女子寮303号室に帰る。部屋にはすでに明かりが点いていた。
火焔菜の独特の匂いが漂ってくる。今日の夕食はボルシチだろう。なかなかいい仕事をする従者である。
「帰ってきたわよ、エメロット」
「お帰りなさいませ、お嬢さま。先にお風呂にします? 夕食にします? それとも……」
もじもじと身体を揺するエメロット。
貴方、一体どこでそういうこと覚えてきますの?
「少なくとも最後のはいらないわ」
「残念。せっかくのビジネスチャンスを逃しました」
「課金制――ッ!?」
「ちなみに第三の選択肢は肩揉みです。60,000ミリ秒で一,〇〇〇イェンぽっきりと大変お安くなっております」
「たっか! 実質一分なのに、ぼったくりもいいところですわ!」
「ボッタクリだなんてとんでもない! メイド服を着たきゃわわな子の肩揉みには、それだけの価値があるということです」
「貴方そもそも、メイド服着てないじゃない!」
昔、メイド服をあげたこともあるが「あんな囚人服は着られない」と頑として着なかった女が何を言うのか。
しかも今は寝巻き。先にお風呂にしますかなどと殊勝ぶったことを言っていたが、すでにひとっ風呂済ませた後の服装とか、メイド失格にも程がある駄メイドですわ!
「……もういい。早く夕食にしてちょうだい」
「かしこまり☆」
微妙にイラっとする了解を返すと、エメロットは手際よく夕食を配膳した。
と言っても、そこまで並べる皿があるわけでもない。黒パンとボルシチ、以上が今日のフィロソフィア家の食卓である。
「……はあ」
「人が作った食事見て、ため息つくの止めてくれません?」
そりゃ、ため息の一つも出るわよ。腐ってもフィロソフィア家のご令嬢ですもの。まあ、私が生まれたときには、過去の栄華なんて雪山に埋もれていましたけど。
「悪かったわよ。でも、もう一品ぐらいおかずを増やせないの?」
「たとえば?」
「ビフテキ」
「焼き入れますよ?」
あっ、これはマジで怒っていますわ。明日から猫缶を出されかねない。
「じょ、冗談よ、冗談! 私はボルシチも好きよ。食堂棟のボルシチはイマイチだからね。やっぱりボルシチは、エメロットが作ったものに限りますわ!」
半分おべっか半分本音といった具合。ボルシチをこれみよがしに口に運ぶと、エメロットは心なし機嫌を直したようだった。
ふう。一安心ですわ。
間に間に黒パンをちぎり、スプーンでボルシチを掬う。ゴロゴロした具材が深紅色のスープから姿を現わす。
キャベツ、トマト、玉ねぎ、キャベツ、キャベツ、キャベツ……。
「……キャベツの比率高くありません?」
「気のせいですよ」
嘘だ。絶対にこの前の余りですわ。
昨日のロールキャベツなんて、キャベツinキャベツでしたもの。食べても食べてもキャベツしか出てこない、キャベツのマトリョーシカ状態だったし。
「しかも、お肉も入ってないし」
「我慢して下さいよ。お金ないんですから」
貧乏。その二文字が重く背中にのしかかる。
悔しい……ロクにお肉も食べられないのに、屈辱だけはおかわり自由だなんて。
有り体にいってフィロソフィア家には金がない。
元より無一文に近い形で家を飛び出してきたのに、二人揃ってレッドカードなる罰則を食らってしまったためだ。
日々の生活は次第に貧窮していき、ついには飼い猫のフィーの方が主人より高価なものを食っている有様である。
で、その猫はというと、我関せずとボウル皿に頭を突っ込んで、猛烈な勢いで高級猫缶を食い尽くしている。
しょせんは猫畜生。拾ってやった恩も忘れて、薄情なものですわ。
「にゃあ~」
食事を終えたフィーが、猫なで声を出して擦り寄ってくる。ちゃぶ台(ソファーを使わない妙なローテーブル)の下を潜り、私の膝の上に乗った。
「いいなあ、お嬢さま」
「全然よかないわよ」
愛猫家であるエメロットは羨ましがっていたが、デザートにされた私は堪ったものでない。生憎ウチの猫は、主人の気持ちを汲みとるような可愛げを持ち合わせていない。勝手に魔力を汲みとって、いや、掠めとっているだけだ。
ああ……魔力を吸われていく。
くすぐったい感覚が過ぎ去るのをじっと待つ。フィーにとって魔力は必要不可欠な栄養だが、私にとっては一晩寝れば全快するものだ。
それに何より、フィロソフィア家の猫である以上は、みすぼらしいなんて以って外だ。せいぜい栄養を蓄えて、毛並みを綺麗にするがいいわ。ふさふさしていた方が触り心地もいいですもの。
足元には無礼な猫がいて、向かいには無礼な従者がいる。部屋なんか動物小屋かと勘違いするほど小さいし、食卓には黒パンとおかずが一品しか並ばないし。
とても生活レヴェルが高いとは言い難い暮らしだが、最近はこの生活も悪くないと思えてきた。あんなだだっ広いだけの豪邸で、寒々しい生活を送るよりは余ほど人間らしい暮らしだ。
……なんて、考え過ぎかしら。単に感覚が麻痺してきただけね。そう結論づけて故郷の景色を頭の隅に追いやり、パンを齧る。
「そういえばお嬢さま、今日の顔合わせはどうでした?」
スプーンを運ぶ手が止まる。
その話題は……ついに来たかという感じだった。
――姉妹制度。
姉は妹を導き、妹は姉を支えるとか何とか。大体そんな理念に則ってセントフィリア女学院が奨励している制度である。
今日は、その姉となる上級生との顔合わせの日だった。
「……ワールドレコード」
「え?」よく意味がわからないという声音で、エメロットが先を促す。
「今日もワールドレコードを叩き出してやったわ」
「フライトのことですか」
私が言わんとしたことを察し、エメロットは綺麗に眉を吊り上げて応える。
「つまり……顔合わせをすっぽかして、フライトしていたと」
あっ、今日一で怒っていますわ。あれはエメロットが怒っているときに、記号的に作り出す顔である。
「で、でも、ワールドレコードを出したのよ! 凄くなくて」
「競技者人口一人の競技で自慢ですか?」
「さ、探せばもう一人ぐらいは」
「いません」
断言されてしまった。
確かにナタリー城壁南門~海辺駅カフラン間を飛んでいるのなんて私だけかもしれないけど、言い方ってものがあるじゃない。
「全く。人が汗水たらして仕事してきたというのに、お嬢さまときたら」
大体お嬢さまは社交性に欠けています。
そこから始まったエメロットのお小言は就眠するまで続いた。
本当に深い眠りに落ちるまで、だ。
エメロットは身を横たえたまま、隣接するベッドから延々と文句を言い続けてきた。本当に口うるさい従者ですわ。
◆
冷んやりとした空気が肌をなでる。
翌日。太陽が顔を出すころには、私はナタリー城壁南門の前にいた。むしゃくしゃしたときはフライトに限る。
爽やかな朝の空気に身を浸し、さあストレス解消だと思ったのだが、
「……やっぱりいるじゃない」
城壁の外には先客がいた。
朝日を反射するワングラス型のサングラス。真ん中分けの翠玉の髪は滑らかに左右に流れている。首から上だけ見ると、お忍びで街に繰り出した女優といった風だが、首から下まで見るとガラリと印象が変わる。
あれはライダースーツというのかしら。
身体のラインがわかる、ピッチリとした黒服に身を包んでいた。バイク(エンジンを積んだ二輪の鉄馬)にでも乗りそうな格好だけど、彼女の足は右手の箒なのだろう。あれはきっと噂に聞く走り屋という人種に違いない。空の走り屋ですわ。
と、まじまじ見つめ過ぎたせいか、例の走り屋が笑顔を向けてきた。
「今日はいい風が吹く。そうは思わないかい?」
「……」
いい笑顔で何か変なことを言われた。かい、とか言われても正直反応に困る。どうしよう……見た目以上に危ない人かもしれないわ。知らない人には付いて行くな、とエメロットにも口酸っぱく言われていますし……。
よしっ、思い立ったら即行動!
杖に飛び乗り、空に舞い上がる。
金の髪をなびかせながら、私は一目散に飛び去った。さすがにここまでは追って来ない……と思った私が甘かった。
「ほう……そう来るのか」
むしろ貴方がそう来ますの――ッ!
振り返るとそこに奴がいた。光の加減によるものだと知っていても、怪しく光るサングラスが怖すぎる。
なんなの、なんなんですのこれ!
ファン? 私の熱烈なファンなの!?
いずれ私のカリスマ性に惹かれて、そのような輩が出てくることは予見していたが、いざ目の前にすると引く。
こんなの相手にしてられないわ。
魔力を上乗せして【加速】をかける。さすがにここまですれば……背後に奴がいた。
「静かな……いい加速だ」
こっちの台詞ですわ――ッ!
なに音もなく付いて来てるの!
ストーカー? 私のストーカーなの!?
奴は混乱する私をよそに、横に並ぶと、そのまま私を抜き去り前に出た。
あれ……私の熱狂的なファンじゃないのかしら。
「ゴールは海辺駅カフラン」
そう告げると、奴は口端を持ち上げる。
「先に着いた方が勝ちでどうだろう?」
付かず離れずの距離を保ったまま、奴は私が来るのを待っていた。
どうも私は勘違いをしていたようだ。奴は私の狂信的なファンなどではない。ただの、身のほど知らずの愚か者だった。
「不遜ね。私は誰と心得るか、野犬――ッ!」
それ以上の言葉はいらない。
横に並んだことを合図にして、私たちは同時に魔力を上乗せする。私の杖が、奴の箒が、主人を乗せて疾走する。
難しいことなど何一つありはしない。ただ私はフライトの王者として、挑戦者を迎え撃つだけだった。
伏せた身体は風を裂き、覚醒する意識は空に融ける。そして世界は加速した。
◆
――疾走。
己の内から生じた衝動に突き動かされて、私はひた走る。
「うわああああああああああああああ――ッ!」
思わず叫び声を上げる。もう限界だ。目と鼻の先にあるゴールを潜るまで、昂ぶる感情を抑えることができなかった。
施錠されたゴール――303号室の扉を開けて飛び込む。
「早朝から迷惑ですよ、お嬢さま」
エメロットの注意を置き去りにする。廊下で丸まるフィーを見つけた。足を緩めずに腰を落として捕獲。嫌がるフィー抱きかかえたままベッドに迫り、踏み切る。
空中三回転ダイブ!
私の叫び声と飼い猫の鳴き声が二重奏を奏でる。
スプリングの反動を利用して、さらに隣のベッドに飛び移る。そーれグルグル回っちゃいますわよー!
ぐーるぐる。ぐーるぐる。
ベッドの端から端へと、狭い区間を狂ったように転げる。フィーが腕のなかで暴れていたが構うものか。
一回、二回と往復するたび、永遠とベッドの上を転げていられそうな万能感がみなぎってきた!
そうよ! 私はベッドグルグル界の寵児なのよ!
いつまでも……いつまでだって回っていられますわ……っ!
「うにゃっ――ッ!?」
そんなわけなかった。後ろ足ネコキックを食らい、距離感を見失った私は、見事に床に転げ落ちた。
「ありえない……この私が……ありえない」
「どうしたのですか、お嬢さま?」
ベッドとベッドの隙間に挟まった私に、エメロットは憐れみの視線を向けてきた。普段であれば同情するなと怒鳴るところだが、今は話を聞いてくれるだけでも心が救われた。
「聞いてエメロット! 私が、この私がですわ! 誰とも知れない相手にフライトで負けたのよ!」
「むしろ私、お嬢さまが勝負ごとに勝った姿を見たことがないのですが」
冷める前に朝食にしましょう。
そう言い残すと、エメロットは朝食の配膳に戻った。
冷めているのは貴方の心よ!
北の永久凍土より冷めた従者ですわ!
従者がこれなら飼い猫もしかり。
主人が心の均衡を欠いているというのに、そっぽを向いていますわ。
……ぐやじい。
あんな色物に負けるなんて。
でも矜持まで失ったわけではない。砕かれたというなら、一つ残らず拾い集めるまでである。
負けたから終わるのではない。人はあきらめたとき負け犬に成り下がるのだ。勝負なんて、私が勝つまで終わらないのよ!
かくして、私の仁義なき戦い第二幕が始まった。
奴との仁義なき戦いの記録
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1戦目:○奴―✕お嬢さま(弱い)
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記録:きゃわわな従者エメロット




