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18/30

アシュロンの憂鬱Ⅳ

 空に薄闇がかかるころ、4区の飲食街は様変わりしていた。

 掲げた木製の看板を引っくり返すと、無国籍の料理屋は酒飲みのための吹き溜まりと化す。芳醇な葡萄な匂いが漂ったと思えば、ブランデーの濃厚なアルコール臭が鼻をついた。


 春祭りの騒動も陽気なムードに流されたのか、辛気臭い面を浮かべる者は誰もいない。

 『先の騒動は"鐘鳴りの乙女(カンパネラ)"の過失である』と、王宮側が公式見解を述べたことも事態の沈静に一役買ったようだった。


 憤慨する者も少なからずいたが、事態は収束に向かいつつある。

 好感度の高さも働き、"鐘鳴りの乙女"を糾弾する声は大きくなかった。国民は"鐘鳴りの乙女"の失敗を洗い流すためにも酒を煽る。


「誰にだって失敗は付き物です! そろそろ仏頂面を浮かべるのも飽きたでしょう。ここは大いに酔って忘れてあげるのが、セントフィリアの国民の義務に違いありません」


 また"鐘鳴りの乙女"の新たな門出を祝して酒を煽った。


「反省を糧に生まれ変わる、新たな"鐘鳴りの乙女"に祝福を」


 "鐘鳴りの乙女"を口実に献杯しては、何度も杯がぶつかる音が続いた。強烈な酒の匂いが堪えるのか、街なかを歩くヴォルフは顔をしかめていた。


「意味わかんねえな、あいつら。さっきまで叩いてた癖にな」


 意味がわからないのは、アシュロンの方だった。

 事後処理のため東西南北を奔走していたのは、ほんの数十分前のことである。

 説明責任、情報統制、警備体制の強化、上層部への文書作成、春祭りのイベントプログラムの見直し、その他諸々。


 彼女が膨大な業務量に面食らっている間にも、業務の争奪戦は始まっていた。率先して業務を取り合う諸先輩方の姿勢に、欠片でも尊敬の念を抱いたのが間違いだった。

 奴らはゴミ山から烏のごとく餌を漁り、あとに残ったのは正真正銘のゴミだけ。出遅れた結果、アシュロンは山ほどの泥臭い仕事を抱える羽目になった。


 アシュロンは人波を掻き分けては、何度も9つの行政区画を往復した。

 肩をぶつけられ、靴を踏まれ、行き着いた先で叱りつけられ。心身ともに削られたが、これが最後の仕事だと思えば持ち堪えられた。


 全ての業務をこなした後には、言い知れぬ開放感があった。

 ああ、辛く苦しかった日々も今日で終わりである、と。


 帰り道のリカーショップで、リースリングの白とモッツァレラチーズを購入しよう。チーズは衣をつけてこんがり揚げて。そういえばトマトとジャガイモも余っていたな、ソーセージも一緒に炒めてしまおう。

 そうやって、うきうき気分で自主退職パーティーを考えていた折だった。


 ――おう、酒飲みいくぞ。奢りだからついて来い。


 明日退職の話を持ち出すというのに、なぜ断れなかったのだろうか。

 アシュロンは己の優柔不断さを呪った。都合の悪いことに奢りときたものだから、金欠というもっともらしい欠席理由も潰されてしまった。


 俯きがちにヴォルフの後を追うと、"王宮騎士団"のご贔屓の店に到着した。

 4区でも高級の部類に入る酒場だ。喧騒から外れた立地が、大衆酒場との住み分けを無言で主張しているようだ。

 防音を兼ねた個室と法外な部屋料金は、店と客の信頼があってこそ成り立つもの。この店で起こったことは誰も知らないし、誰も聞いてはいけないというのが不文律だった。


 お偉方の密談もだが、何よりも目に余るのがにゃんにゃんだ。

 男子禁制の国であるし、他人の性嗜好にケチをつける気は全くない。成人同士が両者合意の上で致してているのだから、当然罪に問われることでもない。


 しかし、アシュロンには一つどうしても許せないことがある。


「……この透明ガラスだけは勘弁して欲しい」

「おい、アシュロン。あっち見ろよ、3人一緒に――」

「もー、早く行きますよ、ヴォルフ先輩」


 頬に伝染したピンク色を振り切るように、ヴォルフの背中を押した。

 事前に予約を入れていた個室には、通路と同様に紫色の魔法石のネオンが灯っている。壁に沿うL字型ソファーに腰を下ろすと、アシュロンは扉を見遣った。扉に嵌め込めんだ硝子には凹凸があり、外から中を伺えない仕様になっていた。


「この部屋は、ちゃんと型番ガラスなんですね」

「あたしとのにゃんにゃんが見られたら嫌だろう」


 冗談に取り合うことなく、アシュロンは問いかけた。


「それで、これは何の時間外業務ですか?」


 その言葉は、暗に酒の席を揶揄したものではなかった。

 業務時間外には誰ともつるまない一匹狼が誘いをかけてきた時点で、アシュロンは疑問を抱いていた。そもそもワイルドな成りをしているが、上司が酒に弱いこともよく知っていた。


「護衛だよ。隣の部屋で、雌獅子(めじし)どもがにゃんにゃんしてるからな」


 一頭がクトロワであることは容易にわかったが、もう一頭は掴めなかった。

 説明がない以上、アシュロンも「聞くな」という意味合いを含むことぐらいは理解している。上の人間には得てして後ろ暗いところがある。そういうことは、幼いころからよく知っていた。


「雌獅子に護衛は不要だと思いますが」

「その更に隣の部屋に、緋色の雌獅子が控えていてもか?」


 マグリア=マグマハート。

 予想以上に大物の名前が挙がり、アシュロンは思わず息を呑む。

 四大組織の一角を担いながらも、"鐘鳴りの乙女"は唯一王国の庇護下にいない。"しらは"とも"法の薔薇園(ロウズガーデン)"とも違う。ましてや"王宮騎士団(ロイヤルナイツ)"の正反対に位置する非政府組織だ。


「そう心配そうな顔するな。うちの雌獅子は、寝技が大の得意だ。万が一にも悪いことにはなりゃしねえよ。今日は、お上の財布で酒を飲みに来た。ただそれだけだ」


 ヴォルフは軽く眺めると、メニュー表を滑らせる。

 黒テーブルを渡ったそれを、アシュロンが受け取った。


「胃と良心が痛まねえなら、好きなもん頼めよ」

「ご安心を。今日は良心が傷まない程度に働いて、お腹もペコペコです」


 この店の注文は御用聞きを通さず、魔法石を介して行われる。

 こうなれば自棄である。アシュロンは自腹なら頼まないであろう料理に当たりを付けて、片っ端から注文を続ける。最後にエールを頼んでから、先輩の飲み物を確認した。


「ヴォルフ先輩は?」

「……オレンジサワー、氷抜き、炭酸抜き、アルコール抜き」


 俗に言うオレンジジュースである。

 拗ねた顔で目を背けるヴォルフが、不覚にも可愛く見える。あれは鬼軍曹だと幻想を振り払ってから、アシュロンは注文を頼んだ。


 別段語るような話題もないので、二人は無言で過ごした。

 入隊当初、アシュロンは教育担当との間に流れる沈黙を恐れたものだが、一年も経つと慣れたものだ。彼女が作る沈黙もいつからか、居場所の一つになっていた。


 ドアノックの音が、三回鳴り響く。

 どうぞの声を経て、スタッフが先に飲み物を運んできた。オレンジとエールのフルーティーな匂いが、微かに室内に漂う。鼻を利かせれば一瞬だけ味わえる、淡く甘い匂い。


「そうだな……こんな場所でなんだが、今日ぐらいは褒めてやるか」


 言い訳染みた前置きを述べると、ヴォルフがグラスを掲げた。


「レイア姫さまの人質救出の栄誉をたたえて」


 乾杯――その声に合わせて、アシュロンは献杯できなかった。


「……すいません。ヴォルフ先輩」


 もしここでグラスを重ねてしまえば、家に帰ってリースリングの白ワインを飲めなくなってしまう。アシュロンは意を決して、終わりの言葉を紡いだ。


「私は明日、春祭りの警備を終えたら……辞表を出します」


 ヴォルフは言葉を返す前に、よく沈むソファーに背中を預けた。天井を眺めてから数秒。ぽつりと、感慨深げに一言だけ漏らした。


「そうか」


 新人潰しの異名をとる彼女にも、予感めいたものはあった。

 思い詰めた者が醸し出す、独特の雰囲気。アシュロンからも同じものを嗅ぎとっていたが、割り切れる類の感情ではなかった。


 腑抜けた顔を引き締めると、鬼軍曹は尚もグラスを差し出した。


「乾杯だけはさせろ」

「ですから……ヴォルフ先輩」

「お前の功績だけは、祝わせてくれ」


 アシュロンが着任する前から、ヴォルフは伝えられていた。

 円卓会議員のご息女は辞めさせる方向で仕向けろ、と。

 上の間で話は付いていたのだろう。母親も王宮側も誰一人、アシュロンが立派な騎士に成れると信じていなかったことが伺えた。


 "王宮騎士団"という箔があれば、天下りは幾らでも可能だ。

 本人の意志に関わらず、アシュロンはこれからも躍らせ続ける。築いた栄誉を繋ぐだけの受け皿になり、七光りという誹謗中傷に晒される道を歩いて行くのだ。


「レイア姫さまの人質救出の栄誉をたたえて、乾杯」


 事件が表沙汰にならない以上、レイア姫を救出したという功績も認められない。不出来な部下がやっと築いた手柄が泡と消えるのが、不憫でならなかった。誰も知らなくても、彼女の功績を知っている者がいるのだと伝えたかった。


 不器用な鬼軍曹は、言葉にならない想いをグラスに乗せた。

 たとえ小さくても、ここには結実した努力の結晶がある。控えめにガラスが触れ合う。一秒にも満たない音色がその証拠だ。


「一つだけ、気兼ねなく答えて欲しい」


 ヴォルフの声が、わずかに震える。


「仕事を辞めたい理由は……あたしか?」


 首を縦に振るならば、素直に辞表を受け取るつもりだった。


「いいえ、それだけはありません」


 アシュロンは、照れくさそうに答えた。

 真剣に向き合うヴォルフに嘘はつけないが、面と向かって述べるには恥ずかしい退職理由だった。彼女は厚い壁を指差す。その向こうにいるであろう緋色の英雄を。


「どちらかと言えば、彼女が理由です」


 緋色の英雄が女学生だったときから、意識はしていた。

 2つ歳の離れた先輩と直接の面識はなかったが、学内で重なる時間もあった。噂に挙がる身近な有名人の情報は、無意識にも頭に刷り込まれていった。


 無邪気で人当たりが良くて、才能に溢れていて。

 キャンパスを歩けば、自然と人だかりができあがる。

 後ろ盾など持たずとも、魔法の腕前一本で前に道を切り開いていく生き様。人垣の隙間から覗いた彼女の背中には、翼が生えているように見えた。


「たぶん、ずっと羨ましかったんだと思います」


 マグリアは、アシュロンが持っていないものを全て持っていた。

 あんな風に自分も生きられるのだろうか。そんな漠然とした憧憬が、正規の魔法少女(レギュラー)を目指す原動力になった。誰かが努力しろと言ったからではない。初めて自分の意志の手で光に伸ばしたのだ。


 不作の年代と呼ばれても、栄光を掴んだ日のことは忘れられない。

 母親が用意したレールの上ではなく、自ら選んだ道の上を裸足で走りきったのだ。そう信じていたからこそ、失望は感動を真っ黒に塗りつぶした。


「私も……彼女みたいに成りたかった」


 七光りだなんて蔑まれない、自由な生き様を貫きたかった。

 他人と比べられても、常に優位に立てる存在でありたかった。

 若手、火属性の魔法少女。たった二つの類似点だけで、安易に比較されたくなかった。いつも敗者に立たされる側の気持ちを知って欲しかった。


 顔も知らない、みんなが言う。

 アシュロンの家に生まれた時点で、彼女は勝ち組なのだと。

 勝手に組まれた枠組みのなかで叩かれる。

 雨受け皿にみたいに、不平不満の雫が落ちてくる。


「これでも……努力もした、つもりなのに」


 全ての努力が、嘘にならないように。

 "王宮騎士団"の座を家名で勝ち得たと言われないため、一年間ずっと立派な騎士に成るための努力を重ねた。家元を離れて庁舎に入り、ヴォルフの過酷な要求にも応えてきた。


「ぞれでも……足元にも及びませんでした」


 頬を伝う二筋の流線は、アシュロンの頬を乗り越えていく。

 幾らひたむきに地面の上を歩いても無意味なのだ。彼女との距離が縮まることなどないのだ、と思い知らされてしまった。


 緋色の英雄は遥か高み――天上にいた。

 たとえ地を這う虫に羽があったところで、飛べる高さなどたかが知れている。


 どう足掻いても、自分はあの高さまで飛べない。

 見上げた緋色の空は、どんな曇天よりも暗かった。そこに希望はなく、空一面に横たわる絶望をまざまざと見せられた気分だった。


「だから……もう……限界です」


 アシュロンは力なく項垂れると、弱音を零す。

 秘密が漏れない個室で、見栄も外聞もなかった。


「そうか、辛かったんだな」


 長い……長いアシュロンの独り語りが終わった。

 小さく肩を震わせる部下を前に、ヴォルフは微笑む。

 それからグラスを手に運び、部下に中身を浴びせた。


「――なんて言うとでも思ったか、戯けが」


 少なからず思っていたのだろう。

 果汁100%メガネは、目をぱちくりしていた。


 静かに耳を傾けていた、ヴォルフも限界だった。

 誰と比べて自分がどうとか、うだうだ、ぐちぐちと。職場や人間関係に不満があると言う方がまだマシだ。この舐めた退職理由だけは、狼の気に召さなかった。


「良いのかよ、テメエはそこで諦めて――ッ!」


 机を転がり落ちた硝子が、砕ける音がした。

 もはや護衛の仕事など血が登ったヴォルフの頭にはない。身を乗り出して、腑抜けた赤ぶちメガネの胸ぐらを掴んだ。


「一度や二度の挫折ぐらいで……才能なきゃ、努力するほか道ねえだろが」

「努力しても、中途半端な人間にしか成れなかったじゃないですか――ッ!」


 眼前の恐怖に向かって、アシュロンは負けじと口答えする。

 折れるものかと頭をぶつけるも、ヴォルフは額を擦り付けてきた。


「そりゃ勘違いだ。中途半端なんて結果じゃねえ、ただの宙ぶらりんな過程だ!」

「だったら……どうしろというのですか――ッ!」

「何遍も言わせんじゃねえ、メガネの癖に頭が悪ぃんだよ!」


 ヴォルフは頭突きを食らわせる。

 胸ぐらを外されたアシュロンが、ソファーへもたれる形で尻もちを付いた。


「努力すんだよ――ッ!」


 光沢のある黒テーブルに片足を乗せると、狼は吠えた。


「本物になるまで貫き通さなきゃ、ずっと中途半端なんだよ。何者にも成れてねえのに、それで良いのかよ。一生境遇のせいにして生きて、それで満足かよ」


 挑発めいた言葉だと理解している。

 それでもアシュロンは、怒りに震える身体を押さえつけられない。満たされないから延々と抗ってきたのだ。ギシギシと線路の上で悲鳴を上げてきたのだ。


 途中で投げ捨てられないから、誰の物でもない自分の人生だから。

 今からでも……間に合うのだろうか。自分はまだ線路を外した道の上を歩けるのだろうか、何時だってそう期待してしまう。


「嫌に、決まってるじゃないですか。でも何に成れというのですか」


 母親の理想にも成れず、憧れた理想にも届かず。

 行き場を無くした半端者が、何に成れるというのか。アシュロンが険しい目つきで問いかけるも、ヴォルフは簡単なことのように言ってのけた。


「あーん? 鏡見ねえと自分の姿もわからねえのか」


 鏡を見てこいと、そこに誰がいるのか、と。

 かつてヴォルフは、居もしない誰かに期待するほど無意味なことはないと思い知らされたことがある。前例がないなら前例になれば良い。常識が立ちはだかるなら、この手で壊せば良いだけである。


 ――強請(ねだ)るバカより、勝ち取るバカになろうぜ。


 ガツンと、頭を叩かれたシンプルな言葉がある。

 あの言葉があったから、ヴォルフはまだ"王宮騎士団"にいる。その一言が無ければ勝手に失望し、とうに見切りをつけていたかもしれない。


 口八丁な騎士団長ほど上手くは言えないが、言わねばならない。今日この日はまだ、ヴォルフはアシュロンの上司なのだから。


「誰かに押し付けられた理想じゃなければ、成れねえ他人にでもねえ。成りたい自分に成るんだよ」


 しかし、借り物の言葉はアシュロンの奥底までは届かなかった。

 彼女はわずかに瞠目してから、顔を曇らせた。目を逸らしながら、自嘲気味に唇を持ち上げた。


「こんな私に……誰が期待するのですか」

「それはお前に期待している、あたしへの当て付けか?」


 最後に心の琴線を揺らしたのは、ヴォルフ自身の言葉だった。

 春祭り前日、ヴォルフはアシュロンを中心に警備体制を敷くことを提言していた。騎士団長も一度は難色を示したが、ある交換条件を飲んでくれた。


 ――あたしが裏から見守るから、それで良いだろ。


 アシュロンに警備区域を預けたあとも、ヴォルフは生きた心地がしなかった。初めてのお使いを任せる母親の心境で、影から彼女を見守り続けてきた。

 何度も危ない場面があって、一日中そわそわし通し。警備区域を渡したヴォルフの方がよほど罰ゲームを受けている気分だった。


 結果からいえば、アシュロンの警備には不手際があった。

 その気になればもっと早く介入できたが、ヴォルフは敢えて手を出さなかった。大した痛手にならないと判断し、失敗を積ませることを優先したからだ。


 この先アシュロンが"王宮騎士団"の一員として生きるのであれば、何度も挫折を味わい、苦渋を飲まされるのは目に見えていた。

 ずる賢い人間だったなら、七光りという境遇とも折り合いを付けて生きられたかもしれないが、彼女の場合は違う。


 真面目がメガネをかけたような生き物だ。

 一生懸命でも要領が悪くて、気立てや愛想がとりたてて良いわけでもない。魔法の腕前だって、ローズの足元にも及ばなかった。


 明日にでも辞めるだろうと、ヴォルフは高を括っていた。

 にもかかわらずアシュロンは期待を裏切り続けた。どんな厳しい目に遭った翌日もケロリとした顔で出勤してきた。


 透けて見える強がりだったが、そういう態度は嫌いじゃなかった。

 次第にともにする時間が増えていき、アシュロンが真面目なだけじゃなくて、意外と負けず嫌いなのだと知った。


 模擬戦でローズに惨敗したときも、物陰で唇を噛む彼女を見かけた。

 ああ、こいつは馬鹿なんだと、ヴォルフは根本的に認識を改めた。相手が悪いと誰もが比べることを避ける相手とも、アシュロンは向き合っていた。


 不器用でどうしようもなくて、少し自分に似ていた。

 表向きだけだったはずの教育担当なのに、アシュロンの育成に注ぐ熱は日増しに増えていった。わずかな時間があれば、常に彼女の可能性を探っていた。


 間違いなく情も贔屓も入っている。アシュロンに力を入れるあまり、ローズの育成がおざなりになっていることも、注意を受けるまでもなく自覚していた。

 ローズは放っておいても育つ、なんて言い訳を用意しているあたりが証拠だ。冷静に秤にかければ、どちらに比重を置くべきかは明白なのに。


 ヴォルフは、目の前の地味メガネに賭けてみたかった。


「アシュロン」


 一廉の人物に育てて「ヴォルフさまのおかげです」と言わせるのが夢だが、己の状況を考えると、あと数年保つかも怪しい。

 最後まで付き合えないかもしれないが、それでも付き添えるところまでは。真っ直ぐ自立し、一人で道を歩ける強さを手に入れるまでは付き合いたい。


 胸に湧き上がる感情が、我儘なものだと理解している。

 庇護下におくより、アシュロンの意志を尊重して"王宮騎士団"を辞めさせた方が良い未来が待っているのかもしれない。


 それでも願わくば、夢が叶うのであれば、


「このヴォルフさまが期待してんだ。もっと自信を持て」


 ――彼女と一緒に居たかった。


「ずるいですよ……ヴォルフ先輩」


 期待している、必要とされている。

 ずっと言われたくて、誰も言ってくれなかった言葉が、アシュロンの心に響いていく。胸からこみ上げてくる感情は厄介で、きっちり締めたはずの涙腺がまた緩みだした。


「そんなこと言われたら、辞められないじゃないですか」

「鬼軍曹はアメとムチの使い方が上手いんだよ。辞表は預かっておいてやるから、今日のところは騙されとけ」

「今日だけですよ……本当に今日だけですからね」


 その日、アシュロンは浴びるように酒を飲んだ。

 彼女は飴玉一つで機嫌を直せる子供でもあり、酒を飲まねば嫌なことも忘れられない大人でもあった。


「うー、……頭が痛いよう」


 まばゆい陽射しが窓から差し込む。

 頼んだ覚えもないのに、太陽がまた朝を知らせに来た。

 起床して直ぐに、後悔は二日酔いとともに訪れた。アシュロンは苦しみから逃れようと、浴室へと逃げ込んだ。


「はあ、生き返るぅ」


 シャワーを浴びていると、酒気が抜けていく。

 ずっとこうしていたい気分ではあるが、そうもいかない。アシュロンは心持ち軽くなった全身を拭ってから、臙脂(えんじ)の髪を乾かした。


「おおっ、今日は良い感じかも」


 なかなかの髪型の出来栄えに、アシュロンは思わず感嘆の声を漏らす。微笑みかければ、鏡の向こうの彼女も笑顔を返してくれる。

 水晶球から流れる朝のニュースを聞き流しつつ、アシュロンは出掛けの支度を済ませた。いつもの制服に袖を通せば、新米騎士の出来上がりである。


「まだ、大丈夫だよね」


 一度履いた靴を脱ぎ捨てて、アシュロンは踵を返す。

 着慣れた制服がやけに嬉しくて、くるりとタンスの備え付けられた姿見の前で一回転してみせると、赤ぶちメガネの女がにやけていた。


「行ってきます」


 いつもと代わり映えのない今日が、また始まる。

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