エロと狂気の伝道師(上)
これは変な子――那須照子が女学院に入学する前の物語。
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窓の向こうから聞こえる、ミンミンゼミの合唱。
うだる暑さに拍車をかけるはずのそれは、やけに彼女の背筋を寒くした。
たらりと、一筋の汗が額から首筋へと流れ落ちていく。
那須照子15歳。中学三年生の夏。
彼女は、エロサイトのワンクリック詐欺に嵌まっていた。
薄暗い部屋で、ポップアップはチカチカと瞬く。
「あの……えっと」
左クリック、左クリック、左クリック。
歴代最速の指使いもむなしく、敵は何度でも蘇る。
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ぶわっと全身の毛穴が開いて、止まっていた汗が噴き出した。
今すぐ教室の用具箱から箒を持ちだして、あの入道雲の浮かぶ夏の空へフライアウェイしたい気分になるも、それで何かが解決するわけではない。
情報室のパソコンを借りるにあたり、那須は事前に職員室の先生に許可をとってきている。わざわざ夏休みに学校にまで足を運んでパソコンを借りるの生徒なんて、少数に違いない。
ごくりと、那須はつばを飲み込む。
魔法少女にだって、過去とエロサイトのポップアップは消せない。
「せいや!」
覚悟を決めた那須は、LANケーブルを掴む。
ウイルス感染と思しき症状が出たときは、まずは被害を拡大させないようLANケーブルは抜くこと――授業で教わった内容を、那須は直ぐに実践で活かした。
◆
なぜ那須がワンクリック詐欺にかかったのか。
その原因に行き着くまでには、時計の針を終業式にまで戻す必要がある。
「あの……Winding XPの交換対応ですか」
「そうだ。お前だったら興味あるんじゃないかと思ってな」
一学期の終業式を終えた後、那須は職員室にいた。
夏休みに浮かれる学生が校門を出ていくなか。
那須が熊みたいな担当教員に引き止められた理由は、秘密のアルバイトのお誘いを受けたからだ。
担当教員は声を潜めて続ける。
「Winding 7との交換と、LANケーブルの配線。大きな声じゃ言えないが、謝礼金も出してやるよ」
「やります!」
思わず大きな声を出した那須を、教員はなだめた。
わずかな時間注目を集めた那須は、頬を桜色に染めながら縮こまる。仕方ないことなのだ。人見知りでも、彼女は変な子なのだ。
つい大声を出して快諾してしまう理由なんて、単純である。
だって楽しそうだったから、である。
◆
マグノリアマートでのお買い物は、那須の日課だった。
毎日新商品をチェックしては、これはというキワモノを買うのが彼女の趣味だ。本日はポーション風味の飲み物と、抹茶プリン味チップスを購入した。
「ポイントカードはお持ちですか」
「あの……ありません」
常連さんだが、ポイントカードは持っていない。
欲しけれど、口に出せぬは乙女の恥じらい。
きっとその心は那須にとって、プライスレスなのである。
(お釣りは結構です。とっておきなさい)
一度は言ってみたい台詞を、心のなかだけで言ってみる。
中学生の懐事情はたいてい寒いので、現実の那須はきちんとお釣りは受け取る。これを実行するのは、もう少しリッチさんになってからだ。
会計を済ませると、そそくさと立ち去り、袋を覗いて堪らずニマリとする。
立ち止まったのが自動ドア手前だったので、急にドアが開いて、那須は思わずビクリと背筋を伸ばす。
恥ずかしげに逃げていく小動物の背中を、店員は目で追っていた。
「店長、あの子変な商品ばっか買ってきましたね」
「ああ、君は新人だから知らないのかい。あの娘はうちのお得意様だよ」
南アルプス中学校の変な子と名高い、那須照子。
彼女は通学路の途中にある、ここマグノリアマートでも有名人だった。
◆
これでもかと降り注ぐ太陽光線。
遠く揺れる景色を眺めながら、陰から陰へと飛び移る。日陰を探しているのではなく、変な子特有の移動術である。
ルールは簡単。ただ陰から陰へと飛び移る遊びである。
スタート地点は、マグノリアマートで、ゴール地点は南アルプス中学校。
ストップウォッチをカチリと鳴らせば、よーいドン。
道沿いに続く庇の下を猛ダッシュ。途中で途切れる陰をぴょんぴょん跳ねて、那須は軽快な動きを見せる。
信号機の前で止まれば、通行人の影に乗って移動する。この辺りは運要素が多分に絡むのだが、今日は順調に移動できた方である。
そんな要領で、校門にゴールイン。
気になるクリアタイムは、9分58秒。
待望の10分切りを果たしたハイスコアガール那須は、ご満悦の表情だ。
校庭では夏の暑さに負けぬよう、運動部の面々が声を張り上げている。その様子をチラチラ横目に見ながら、那須は校庭の隅っこを歩いて校舎に入った。
「おお、待ってたぞ那須」
1階の外れにある情報室に入ると、例の担任がバンバンと那須の背中を叩いて手荒く出迎えた。最初は口から心臓が飛び出そうになるほど驚いたが、今では那須も少しは慣れた。これが担任なりのスキンシップなのだと。
……やっぱり、まだ少し怖いけれど。
「おう、こいつこいつ。今日の助っ人な」
情報室の後方には、ダンボールが山積みされていた。
搬入されていたダンボールを開けていた人物は手を止めて、二人の元へ歩いて行く。
銀縁メガネをかけた彼の肩に手を回し、担任は紹介した。
「それで、こっちは俺の同級生。コネで仕事を仕入れてる奴」
「……いきなり人聞きの悪いこと言うの、勘弁してくれないか」
担任の同級生は、エンジニアのFさんと言った。
南アルプス中学校のOBらしく、IT系企業に十数年務めた後に独立したという経歴の持ち主だった。
「すごい……社長さん」
「頭に『しがない』がつくけどね」
「そうそう。こいつの職場見たら、ガッカリするぞお前」
社長=すごいの図式が成り立っている那須は、目からキラキラ光線を放っていたが、Fさんは困ったように微笑んでいた。
「早く現場には顔を出さない社長に成りたいもんだよ」
「もう少し腰を落ち着けろよ。本当にお前、社長なのか?」
「同情するぐらいなら、ウチに来てくれよ。何度か誘っただろ」
「嫌だよ。いつ潰れるかわからないところの世話になるぐらいなら、親方日の丸の世話になる方が良いに決まってる」
旧知の仲である二人がじゃれあう様子を、那須は羨ましそうに眺めていた。
残念ながら南アルプス中学校を卒業しても、こういう仲になれそうな友達が、那須の周りにはいなかった。
(高校に行ったら、見つかるのだろうか)
異国の地にある魔法少女育成施設――セントフィリア女学院。
那須は、まだ見ぬ進学先に思いを馳せる。そこでは彼らのような親友を見つけて、楽しい学院生活を送りたいと願いを込めて。
「ほら。さっさと仕事始めるぞ」
担任に背中を叩かれて、那須は意識を現実へと戻した。
親友こそ見つからなかったが、こうやって自分を気にかけてくれる教員とは巡り合えた。卒業してからもこの教員には会いに来ようと、那須は密かに思う。
◆
男二人に混じって、那須も廃棄対象のWinding XPをえっさえっさと運んだ。
途中で疲れが見え始めると、エンジニアのFさんが那須に提案した。
「パソコンのセットアップをやってみるかい」
好奇心の塊は、コクリコクリとうなづいた。
搬入されたパソコンのなかで、一台だけ手違いで未セットアップのパソコンがあるとの話だった。なんとなく嘘だとはわかったが、那須はご厚意に甘えて、挑戦してみることにした。
手渡された手順書と睨めっこしながら、パソコンを操作する。
たまに何をしているかわからないこともあったが、手順書に従えばきちんと物は出来上がっていく。
少しずつ作られていく商品に興奮し、ネットワークに繋がったときなんかは言い知れぬ喜びが心に湧き上がった。那須はこのパソコンを『Winding 那須 7』と名付けて、愛機にすることを心のなかで誓った。
廃棄作業を終えると、次に取りかかったのはLAN線の整理だ。
「LAN線ぐっちゃぐちゃだろ。この機会に直そうと思ってな」
そう言って担任が床板を外すと、那須はギョッとした。
表向きは綺麗なLANケーブルが、床下ではこんがらがって何がなんだかわからない状態だった。なかには断線したまま放置された品もあった。
床下の線を手繰り寄せての、ひも解きげえむが始まる。
最下位は担任で、二位は那須。不器用な担任を見て、最近発育の良い胸を張る那須ではあったが、上には上がいるものだ。
エンジニアのFさんは、すいすいと結び目を解いては、不要なLANケーブルはくるくると丸めていく。
「これは……プロの仕事です」
「ははは、大げさだよ那須ちゃん」
那須も真似してLANケーブルを巻き取ってみるものの、どうにも上手くいかない。慣れれば手早く巻けるが、結局均等に輪っかを作るまでには至らなかった。
これはケーブル巻きスキルの取得が急務だと、那須は夏休みの宿題を一個増やした。
変な子の道はなかなかに険しいようである。
続いて、不要となったLANケーブルを新品と交換。
新しいLANケーブルは既成品ではなく、手で作ることになった。
Winding 7のダンボールに混じって、LANケーブルだけが入った箱を見つけると、とぐろを巻くLANケーブルをちょんと切ってから、専用の工具で接続部の頭を取り付ける。緑、橙、青、茶色の四色が交じり合う導線を弄るのも、那須にとっては楽しい作業だった。
テスターという機械にかけてピピっと判定してみると、オールグリーン。
試しに完成したLANケーブルを先ほどの『Winding 那須 7』に接続してみると、疎通に問題がない確認がとれた。
那須はこのLANケーブルを『那須専用回線』と名づけた。というか、テプラというシール製造機でこっそり名前を貼っておいた。
「どうして、LAN線からパソコンまでの距離がわかったのですか?」
「床板一枚の距離から計算してね。後は大凡の目安はつくものさ」
さらりと言われた言葉に、那須は痺れる想いだった。
これだ、これなのだ。那須が目指す変な子の極地とは、一般人ができない変なこと(Fさんに大変失礼である)を、さらりとこなすことなのだ。
「なんなら、うちに来てみるかい」
「え……あの」
目を輝かせる那須にFさんがお誘いを入れると、すかさず担任が割って入った。
「うちの女生徒を、あんな男臭い職場に勧誘してんじゃねえよ」
「残念。可愛い子でもいれば、うちの男連中のやる気も違うのにねえ」
ときおりそんな会話を交えながらも、三人は作業に励んだ。
新しいLANケーブルを床下に通す際には、Fさんが面白がってキャスターが付いた木製平台車を見せた。小柄な那須がそれに乗り込み、床下を移動しようとすると、慌てて担任に止められた。
代わりの手法は、LANケーブルを貼り付けたメジャーを床下で伸ばすというもの。この手法が主流ということもあり、確かに不要なLAN線を回収するのも容易ではあった。
でも面白くないと、那須は不満で少し頬を膨らませた。
変なことをあきめない女、那須は、休憩時間の隙を見て平台車で情報室を滑走した。上向きの姿勢で移動するというのは予想以上にスリリングで、ダンボールの壁がどんどん近づ――。
数秒後、那須は空の段ボールの雪崩に飲み込まれた。
自販機から帰ってきた担任とFさんは爆笑し、那須は顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。
持参のポーションをゴクゴク。体力回復といくはずが、予想以上の不味さに、那須は体力を削られた気すらした。担任が放ったコーヒーをありがたくいただき、ちびちび飲むことでようやく人心地ついた。
「よっしゃ、もう一丁頑張りますか」
教員の声を契機に、三人はラストスパートをかけた。
最後はひたすらWinding 7の導入と、動作確認。力仕事は男二人が引き受け、那須は片っ端からパソコンの動作を確認していった。
まだ外は明るいように思えたが、時刻はすでに午後六時を回っていた。
利用機会も少なくあまり思い入れがなかった情報室は、那須にとって妙に愛着のわく部屋になった。
新しく生まれ変わった情報室に目を奪われていると、那須の脇から大きくて毛むくじゃらな腕が伸びた。その手の先には封筒がある。
「はい。お疲れだったな那須。せめてもの気持ちだ」
「いえ……その」
元より秘密のアルバイトであるし、断るのは失礼であると、那須は恐る恐る封筒を受け取った。本当は感謝の気持ちでいっぱいなのは、那須の方だった。
「ありがとうございます、先生」
那須は気づいていた。
これは本当はお手伝いなのではなく、変な子のために設けてくれたイベントなのだと。いつだって担任の先生は、あまり人と馴染めない那須を気にかけてくれた。
「おう。どういたしまして」
ただ一言、担任はそう返答した。
那須の中学最後の夏休みの思い出が、1ページ増えた日の出来事だった。




