vvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvv
銃声が鳴ったのは解った。
弾丸が飛び出した瞬間までは覚えている。
その瞬間はやけに冷静だった、冷たく寒気すら覚えるくらいに。
薬莢がコンクリートを跳ねる金属音も聞こえていた。
後ろにいる少女の悲鳴も、目の前の男の高笑いも聞こえていた。
――だが、どういうことか僕は気付けば灰色の天を仰いでいた。
額には穿たれた穴一つ。
【吸血鬼】
椅子がキィと軋む音が響いた。
「それで君はその代わりに何を払える?」
男は背もたれの高いオフィスチェアーに腰掛け、背を向けたまま少女に語りかけた。不躾な態度とも言えるが、特に少女は腹を立てる事もなく、革張りの椅子へ――その奥に居る人物に視線を向けた。
男はいわゆるフィクサーと呼ばれる種類の人間だった。その仕事は後暗い人間同士の縁を取り持つ事だったり、自らその種類の人間を動かして事を成就する事だったりする。その性質から恨みを買う事も少なくないのだろう。此処に来るまでの道中も目隠ししたままの状態で、彼の部下に連れて来られた。
「まさか無償って事もないだろう。こちらとしては危ない橋を渡すんだ、だとすれば――先立つモノは必要になってくるのは君も解るよね」
これも当然だ、慈善事業ではないのだから。危険と金を天秤にかけて、金を取るような種類の人間。その際たる例が目の前の男だ。むしろ金に対してだけはどんな人間よりも誠実だからこそ、依頼に関しては信用できるのだろう。
今まで微動だにしなかった少女がピクリと動く、その動きに連動して真っ白な毛先がふわりと舞った。
「解っているわ」
凛と一声。
表情は依然として変わず冷たいまま、ゆっくりと続ける。
「目的が果たせたなら、私の身の振りを好きにして貰って構わない」
少女は毛先を指先でクルクルと丸めたり解いたりしながら答えた。それは男からしてみれば意外な答えだ、依頼内容の難しさを考えれば、決して安くはない金額を請求できるだろうと踏んでいた。
「――それに、私はそれなりの金になるのでしょう?」
だが少女の答えはそれを踏まえてもおかしな物だ。
こんな男だが「命と天秤にかける物は存在しない」と考えている。命あっての物種、棺桶まで札束を持っていくことは出来ない、金は愉快な生き方を選ぶのに必要だが、死んで自我が無くなれば愉快もへったくれも無いのだから。
命を担保にする人間は居ても、命を売り物にする人間なんての狂人ぐらいのものだ。
そして、その手の狂人の多くは手に入れたいもの――目的と呼ばれる物を持ち合わせていないものだ。
しかし、少女にはそれがある、男はそれに対し口角をニィとあげて笑んだ。それは確かな喜びの笑みだった。何せ男は金が目的なのではない、その先の愉快な物を見て愉快な生き方をする事が目的だ。
未知は愉快だ。そして、少女の思考は男にとって未知だった。
「良いよ、解った。君なら元を取るどころかボロ儲けだからね」
室内にペンを走らせる音が響く、男が達者な筆で何かを書いているのだ。
暫くして、椅子越しに一枚の紙が差し出される。契約書と大きく書かれた下に、箇条書きで契約内容の説明、それと男のサインと拇印があった。少女がそれを受け取ると続けてペンと朱肉が渡される。
彼女は特に躊躇うこともなく、達筆で【吸血鬼】とサインして、その隣に男の物より少しばかり小さな拇印を押した。
「契約成立、後日人材を派遣しよう。護衛人は【狼】という名前で、名がそれなりに通った掃除屋が担当することになるだろう。腕は確かだから安心してくれていい」
【一般人A】
「人身事故は僕の所為じゃないんだけどな……」
僕は携帯の画面に向けて溜め息混じりに言い訳をした。
画面上には文字がぎっしり詰まったお怒りメールが表示されている。相手の怒りの度合いを端的に表してくれているメールを読んで、もう一度ため息を付いた。
――よりにもよってである。よりにもよってこの時間に、よりにもよってこの路線上で、よりにもよって昔馴染みと会う事になっていた今日この日に、何故人身事故が起きてしまうのだろうか。
お陰で変な汗が出る。
とりあえず人身事故である折を説明した上で、謝罪の意を伝えるメールを作成する。メールの相手は僕にとって頭が上がらない人物だったという事と、ルールや約束事に関しては人一倍厳しい人なので素直に謝らなければ後が怖い。
親指を送信ボタンの上と空中をニ、三度行ったり来たりさせた後、心を決めてメールを送信する。後はなるように任せるしか無い。良くてお説教三十分コースと言ったところだろう。悪ければ察しである。
――やけに喉が渇く。
汗をかいたせいか――いや、この暑い日に朝から何も飲んでいなかった所為だろう。乾いた口は喋り方を忘れたように舌が回らない。乾きかけの嫌な匂いのする唾を飲み下した。座っているベンチから直ぐ近くにある自販機を見てから財布の中の小銭を確認する。百二十円だけ取り出すと強く握り締めた。
炭酸か、それともお茶か、スポーツドリンクも捨てがたい。そんな事を考えつつ立ち上がった僕だったが、一瞬して視界は前方から足元へと回転する。
「――ぐわっ!?」
僕が自分は転んだのだと理解するのに一秒、寝返りホームの天井を見上げること数秒。打った箇所に走る鈍痛と、胸にこみ上げる情けなさ、立ち上がって足元を見れば茶色い革製の大きめな鞄が置かれていた。
「……いててて」
僕の足をかけた張本人の鞄をひと睨みしつつ、辺りをひとしきり見回した。ホームには他に人影は見当たらない、とするとこれは誰かが忘れていった物だろうか。落し物は確か改札横の事務所だったろうか?
そんな事を頭の中で考えつつ僕は鞄の持ち手を握る。それなりの重さを覚悟して引き上げた鞄はすんなりと、それどころか余分な力を乗せて舞い上がる。
――ゴロンと、鞄の中で固い音が転がる音がしただけだった。
高そうな見た目の鞄に反して中身はやけに小さな物が一つ入っているだけ、その奇妙を通り越して不可解な落し物に、僕は興味を奪われていた。
中身は何で、何のために、誰がここに持ってきて、忘れたのか。開けてみるまでは予想もつかない謎だ。あるいは、わざと放置したという線も濃い。その場合ベタな推理小説ならば、凶器のナイフだったり被害者の身体の一部だったりするのだろう。
――サスペンスならば爆弾という線も捨てがたい。
――と、わけの解らぬ事を思案しながら、人の物を勝手に覗いてしまうのは悪いだろうというという良心の部分と、見たいという好奇心の部分が争いを繰り広げた後、意を決して僕は鞄のジッパーを開けた。
結局のところ、他に見ている人間がいないという状況も手伝ってか、案外容易く良心の方が折れた。好奇心は猫をも殺すのである。
「――少し、がっかりだ……」
結論、鞄の中に入っていたのはナイフでも、爆弾でもなく、かといえば身体の一部でもなくて、特に飾りの類が付いていない携帯電話だった。少し期待を奪われたような気持ちになりながら再びジッパーを閉めようと思った時の事だ。
――着信音が静かなホームに鳴り響く。
*****
白んだ脳内に色が戻ってきた。数コール繰り返して依然電話は鳴ったままだ。【一般人A】は逡巡した後、電話を手に取った。もしかすれば、落とした本人――つまり鞄の持ち主からの電話かもしれないからだ。
もし違かったとしても、遠回りに落とした人間に繋がるかもしれない。今のご時世で携帯を持たずに歩くのは不便だし、何より落ち着かないだろう。例外として持ち歩かない人間も少なからず居るが、多くの人間にとって携帯が必要不可欠なツールである。
当然持ち主は困っているだろうから、【一般人A】としては直ぐにでも届けてあげたいと思った。決して待ち人の元に向かうのが嫌なわけではないのだと、自分に強く言い聞かせながら受話ボタンに手を伸ばした。
耳元にスピーカー部分をを当てる、短い接続音の後に向こう側の空気の音が耳に障る。通話の相手の静かな息遣いが聞こえてくる。
「――少し遅かったようだね狼王」
相手は男か、女か――そんな事を考えていた【一般人A】の予想を裏切り聞こえてきた声は人をおちょくるような声だった。変声ガスを吸ったようなその不可解な声は恐らくボイスチェンジャーを使ったものだろう。何故ボイスチェンジャーを使っているのかは解らないが、問題は相手が持ち主なのか、持ち主の知り合いなのかということだ。
「あ――」
「――いや、何も言わなくていい。スマートに行こう狼王、場所は西区の廃工場前だ。詳しい位置はそちらの端末に送る、先ずはそこに向かってくれるかな。到着を確認次第、次の行動について伝える」
あなたは――と、言いかけた途中だった。相手は有無を言わさず言葉を遮り、一方的に要件だけを告げた。それから相手は、ひとしきり言い切ると最後に一つだけと念を押すように【一般人A】に向けて続けた。
「――今回の件についてだが、勿論他言は無用だから宜しく頼む。その辺は君ならば言わずとも解るだろうが、定例事項のような物だ頼むよ狼王」
――と、念を押すように。声だけでは解らなかったが、喋り方から判断して男だという事が予想付く。相手の話す内容からして通話相手は依頼主、この電話を取るはずだった人物は通話相手から何らかの依頼を受けていたと考えられる。
――だとすれば、説明すれば相手も理解してくれる筈だ。
「――あの……」
「目的地に着き次第リダイヤルを頼む。そこで具体的な内容については説明する――では、健闘を祈るよ狼王」
【一般人A】が訂正の言葉を返そうとする前に、通話相手の言葉がそれを遮る。
有無を言わさず相手は言葉を続けて、挙句に【一般人A】の言葉は最後まで聞かずに一方的に電話を切った。
【記者A】
微睡みの中に居た【記者A】を呼び覚ましたのは携帯の着信音だった。画面表示を見なくても解る、あの嫌味な上司からだ。皮肉を込めて某SF映画に出てくる暗黒卿のテーマを個別着信音にしてみたのだが、実際かかってくると洒落にならない。
寝起き早々深い溜息を付きながら、【記者A】は受話ボタンを押した。
「モーニングコールありがとう御座います○○さん」
「遅いぞ【記者A】、上司からの電話はワンコール以内に出たまえ、そしてその無駄に回る舌は記事の方に役立てたまえ」
それは無茶な話だろう。こちらからすれば寝ているわけで、その上今日は代休で非番だ。
いくらフットワーク勝負の仕事とはいえ反応出来る方がおかしい。というよりこの上司は非番の意味を解っているのだろうか。
そもそもワンコールと言っても、この着信音の何処から何処までをワンコールとするのか是非とも聞いてみたい。
「すみません、日頃の疲れの分の休養をとっていたもので、今日は私は代休だと思っていたのですがミスター。私の覚え違いでしたでしょうか」
ベットから飛び起き、服を片腕で器用に着替え、リビングへ向かう。
欠伸混じりに、眠そうな声で【記者A】は答えた。――勿論できるだけ大げさに。
「そんな事は知っている、【記者A】君はむしろ私に感謝するべきだと思うがね? 君は知らなければいけないと思ってね、君の直属の上司の【記者B】についてなのだが……」
心なしか、上司の声のトーンが何時もより低い。
【記者A】に説教するときなど、喜び勇むように迫ってくるのだが、今日はそれが無い。一体どんな風の吹きまわしだろうか。リビングに付いた【記者A】は青いジャケットのシリアルの箱を手に取る。
携帯は顎と肩を使って器用に支えながら、箱を傾けて白い平皿にシリアルをざかざかと注いでいく、平皿の上にはシリアルの低い山ができた。空腹感はあるものの、もううんざりするほど見たこのシリアルでは、食欲は一欠片も湧かない。
「【記者B】さんがどうしたんです?」
そんな作業も程々に【記者A】は電話越しの上司に問い返す。
編集長と話すのは少しでも御免被りたいが、【記者B】についての話なら別だ。かしこまって電話で話すという事は彼の身に何かあったのだろうか?
「――良いかね、落ち着いて聞きたまえよ?」
「はい、何でしょうミスター?」
「……つい先程の話だが――○○駅にて【記者B】が列車に轢かれて亡くなったそうだ、事故現場には他の社員を向かわせたが、彼の下に付いていた君には言っておくべきだろう」
――静寂が流れた。
――電話口の向こうから相手の息遣いが聞こえる。
「――――」
何かを言おうとしたが、掠れた声にならない呻き出るだけだった。
シリアルに注いだ牛乳が皿の縁を切りテーブルの上に溢れる。その瞬間はそんな出来事さえどうでも良く思えた。そんな事よりも編集長の言葉が、【記者A】の意識を全取りするぐらいには衝撃的だったのだ。
「――【記者A】君、気持ちは解る。だが落ち着きたまえ、くれぐれも早まって家を飛び出すような真似は止めるんだぞ――【記者A】君!? 聞いているのか!?」
繋いだままの通話口からは編集長の声が聞こえる。しかし、【記者A】の意識は既に外へと向けられていた、何時もと同じ騒がしい朝、【記者A】は勢い良くドアを開け放ち、全速で部屋の外へと飛び出した。それも何時もと同じだった。
――しかし、彼女の胸の嫌な高鳴りだけが、何時もと違っていた。
****
「編集長!」
編集部の扉を開けて直ぐに【記者A】は叫ぶ。慌ただしく作業をしていた同僚たちは、皆一斉に入り口の彼女に視線を向けた。編集長だけは依然として電話の対応をしている。そんな涼やかな態度の相手にムッとしたのか、【記者A】はずかずかと大股で編集長の元まで歩いて行った。
何時もならば、壊れたししおどしみたいに頭を上げ下げして謝るところだが、今は事情が少しばかり違う。小言なら後でいくらでも聞くことができるが、【記者B】の事は今を逃せば聞くことは出来ない、そんな気がするからだ。
「聞いていますか、ミスター!」
「……電話中だ静かにしたまえ【記者A】君」
【記者A】が近づいてきても、電話の応対を続けていた編集長だったが、【記者A】がデスクに手をついて問い詰めると、ため息を短く付いてから、彼女に向けて一言口にした。
「――ええ、申し訳ない。出来の悪い部下がおりまして、先ほどの件についてですが申し上げた通りです。こちらからお伝えできる事はそれだけです――ええ、その通りです。また何かあればご連絡ください」
編集長は受話器を置くと椅子の向きを【記者A】の方へと向ける。それに対して【記者A】はゴクリと唾を飲み下し、やや退きかけるが、それではいかんと再び視線を真っ直ぐに編集長に向けた。暫く無言のやり取りが続き、周囲では同僚たちが固唾を飲んでいる。
「――で、何の用だね【記者A】君。今日は非番なのだろう?」
先に口火を切ったのは編集長の方だった。彼は全く動じず、物怖じもせず、淡々とした口調で【記者A】に尋ねた。【記者A】はそんな編集長に対し、言わずとも解っているだろうとばかりに睨みを利かせる。
「お分かりでしょう、ミスター。【記者B】さんについてですよ!」
「それならば言った通りだ【記者A】君、彼は取材中に駅のホームに運悪く転落して、そのまま列車に轢かれた。非常に残念だがそれは紛れもない事実だよ……」
頭を抱え、疲れた様子で彼は答える。突然の事だ、本来ならば報道する側の人間が報道対象になり、この新聞社にも多くの問い合わせが来たはずだ。それに重ねて警察、諸関係者への対応も要求され、編集長の気疲れも相当の物だっただろう。
だが――
「それが解らないんです!」
【記者A】も退く訳にはいかない。少なくとも【記者B】の死についての行きそつについて聞くまでは納得する事はできない。
「――だから言っただろう、彼は『不慮の事故』で亡くなったと」
編集長は少し逡巡してから返事を返した。それは先程と殆ど変わらない返答だったが、【記者A】からすれば全く違って聞こえた。
「でしたら、その空白は何なのですかミスター!」
「意味など無い、君の深読みしすぎだ。彼は誤って線路に転落し、その後運悪くやってきた列車に轢かれて亡くなった――事実はそれだけだ」
問い詰める【記者A】に対して編集長は同じ言葉を以って、バッサリと切り捨てた。
【王様】
バン――と、勢い良く扉が開け放たれた。
場所は街の南、駅前から少し離れた場所にある廃倉庫、随分血前に見捨てられたその場所は、今では同じように見捨てられた人間達――シティギャングが根城にしていた。
チーム【○○○】、領地を持たない王様とその家臣が作り上げた王国。
砂上の楼閣と一笑の元に笑い飛ばされてもおかしくなかった【○○○】も、王様の持つ求心力とそこらに居る不良とは隔絶した強さで、近隣のアウトローの少年が属する一大集団にまで成長した。
しかし、街の治安が悪化するかといえばそうではなく、【○○○】自体がアウトロー集団の中のルールとして機能することで、彼らが現れる前よりも小さな小競り合いや悪行の類が減り治安は向上したと言っても良いだろう。
――閑話休題。
そんな【○○○】の本拠地、王様の膝下へと、まだ幼さの残る少年が息を切らしながら走り込んできた。談笑していたメンバー達――【○○○】の中でも古参と言える顔ぶれの視線が彼に一気に注がれる事となる。
各々がチームの頭としても遜色ない面々である彼らの視線を集めて、少年からすれば気が気ではない思いだったろう。そも、集会を除いてこの倉庫には、幹部クラス以外は立ち入らないという暗黙の了解が出来ていたのだ。
その中で踏み入ったのだ、寿命が縮む思いだったろう。
「王様、失礼お詫びします。ですがお伝えしたい事があって来ました!」
深呼吸、深く息を吸うと少年は声を張り上げて行った。
目を強く瞑ったままの少年、咎められる事が怖いのだろう。
少年に向けられた視線は、今度は最奥の王様へ。
この場での絶対の決定権の判断を待っているのだ。そんな中、彼は玉座代わりの黒革のソファーに気怠そうにふんぞり返る。
額の部分には金で出来た紋章、軍帽とも違う鍔の長い帽子を目深に被り、帽子と同じ色の上着を、同じくズボンを履いている。彼が住んでいた国の伝統的なギャングスターの装束だという。
しばし沈黙が流れてから王様は身体を起こし、口を開いた。
「――気にしなくて良い、それより本題を続けろ」
「ありがとうございます! 実は【不良A】が急に暴れ出して、手がつけられないんです。三人がかりで止めに入ったんですが、アイツとんでも無く強くて、周りの人間に被害がいかないようにするのが精一杯の状態なんです。それで俺らじゃ手に負えないので助けてもらうために飛んできたんです」
切実な声、その声が状況が切迫しているのを言わずとも物語った。
少年が話す様子を見ながら王様はソファーの縁を、右手の人差し指で三回ノックした。
――トン、トン、トーン……
やけに最後の一回を間延びさせてから、左手を顎に当てて考え込む表情になる。それは不良たちの王様に似つかわしい探偵の表情だった。
再び沈黙。
今度の沈黙を破ったのは王様ではなく、ソファーの横に立つ側近の男だった。背丈は二メートルと言われても頷いてしまいそうな大男。厚着をしているため体格は見えないが。肩幅だけを見ても相当の物だろう。
「それで三人がかりで人一人止められなかった――と」
重々しい声、切りかかるような視線が少年に向く。
「は、はい……」
少年はさしずめ蛇に睨まれた蛙だ。
彼と【側近A】の格に比べ難い差があるだけに、それより酷いかもしれない。
「――やめろって【側近A】、彼は責任を果たしただけだ。君は確か【不良B】って言ったっけ? 詳しく聞かせてくれるかな?」
不満気に口を尖らせ、王様は【側近A】を諌める。
それから、彼は両手の指を絡ませて、それから帽子の下から覗く口元を少しだけ綻ばせた。
その王様の様子に安心してか少年は少し表情を緩め、ゆっくりと再び喋りだす。
「はい、つい最近なんですが――えっと、多分あれは一週間ぐらい前の事だったと思います。【不良A】の奴、喧嘩弱くて根性無いけど、気の良い奴だったんです。でもそれが丁度その辺りからおかしくなって……」
拙いながらも整理しながら、【不良A】は王様へとこれまでの行きそつを語る。
【探偵】
「つまり、導き出される結論は――」
ブツン、とテレビの電源が突然暗転した。停電ではない、何者かがリモコンで電源を落としたのだ。証拠にランプは待機を示すオレンジ色になっている。
「君、何をするんだ。良い所で、大事な見せ場ではないか」
男は振り向いて、背後にいる女に向けて不平を口にした。
すると、女の方も豹変したように男を睨み大きく息を吸い込む。
「見せ場って誰のですか。テレビの中の探偵? それともオルメス先生のですか? 前にも私言いましたよね、推理ドラマ見ながら推理して自慢げに話すなって。言っておきますけどそれってクイズ番組見ながら『こんなんも答えられないのかよハハハ』って言ってる人とかわりませんからね? 先生職業なんでしたっけ?」
「むう……探偵であるが」
「ですよね、なら私の考えてる事も推理してみてください」
女は手を広げて目を閉じてみせる。
男の名前はルーフォック・オルメス、「頭のおかしい」と揶揄される探偵である。
対して女はリジー・バレット
それをみた男は顎に手を当て、数秒ほど思考した後、手をパンと叩いた。
「……腹が減ったので駅前の屋台のフォカッチャが食べたい?」
すると女は満面の笑みを浮かべて――
「――ハズレです」
――と一言。それから男の襟をぐっと掴み引き上げる。
「ねえ知ってます? 事務所代ってただじゃないんですよ? 人間生きていくのには生活費という物もひつようになってくるんですよ? 私もタダで助手なんて仕事やるほど親切じゃないんですよ?」
ぎりぎりと締め付ける力は増していき、男からは苦しそうな呻きが漏れはじめる。
「ばっ……馬鹿にするな、そのくらいなら私も――」
「わかってるなら……」
fgsauitgi
一章 ハルと修羅
1
「ネタが無い、ネタが無いのだよワトソンくん」
目の前の少女は近所の寿司チェーン「極楽寺」に注文して取った、華盛り込み(税込五千二百五十円)からイカの握りを、親指と人差指でクレーンゲームみたいにしてつまみ上げ、醤油も付けずに口に放り込み、それから暫くもぐもぐと咀嚼してから宣言した。
此処は比良坂市駅前に位置するビルの二階、少女の仕事場兼自宅である。ビル名「天の岩戸」なんとも神様が閉じこもりそうな名前だが、引きこもっているのは神様ではなく僕の知り合いの少女だ。
季節は夏の時刻は正午、太陽は空高く上がるも、事務所は薄暗い。内部の照明は最低限の明るさで、窓には暗幕がかけられている。日光は本に悪いし、なんでも明るすぎると偏頭痛が起きやすくなるとかなんだとかで、暗めの方が調子が良いとのことだ。
「誰がワトソンだよ、ネタが無いって食べてるじゃないか」
僕は対抗して赤みの握りを三本指で摘み上げ醤油の小皿に付ける。手が汚れないように、それでいて赤身全体に醤油が付くように、自宅でこれをやると二十八になる姉が「それはマグロの味ではなくて醤油の味しかしないだろ」と小一時間説教を受ける。
そうは言っても、味が薄く感じてしまうのだから仕方ない。恨むなら僕の感性ではなく、その感性を育てた父の遺伝子と、母の料理の味付けを恨むべきだ。とは言え、一緒に育った姉が薄味推奨派なのだから、結局は僕の責任なのだが。
沢山おかずを食べるよりも、味の濃いおかずでご飯を一気にかきこむのが美味しいんじゃないか。だから僕は刺身も醤油の海に沈めてからご飯に乗せるタイプだ。その点、目の前の彼女は醤油を付けようとすらしない。イカをそのまんまとか美味しいのだろうか。少なくとも僕にはその芸当は出来ない。
「うるさいなあもう、ネタってそのネタじゃない。小説のネタだよヘイスティングス大尉」
誰がヘイスティングスだよ、ポワロかホームズかはっきりしろ。今度はヒラメに手を出して再び小皿へ、小皿からは口への流れ作業。これを今度はさして噛まずに飲み込んで、湯のみに入ったお茶で熱いお茶で流し込んだ。
それから頬杖を付きながら正面の少女へ視線をやる。
少女の名前は足立陽――この家の主にして、僕の幼馴染でありオカルト小説家なんていう際物な職業に付いている。同じ大学に進学したと思えば、急に思い立ったように「小説家を目指す」と宣言して大学を辞めて今に至る。わけのわからない奴だ。
――結局のところ僕はハルの本質を良くわかっては居ない。
ハルは黒色の静かに光る瞳を僕へ向けたまま、気だるそうにもう一つイカの握りを口へ放り込んだ。夏だから仕方ないのかもしれないけれども、身に着けているのは黒のキャミソールとホットパンツだけだ。
黒く長い濡れ羽根色の髪は長らく揃えるだけで、切っていないので腰元まで届きそうですらある。彼女の信じられない程軽い身体の重みを、賄うために生えているのではないかと思うくらいに長い。
常に冷めた無愛想な表情も相まって、黙っていると精巧な人形のようでもある。
「ああ、頑張れファンは待ってるぞ」
「それだけかよ畜生め」
頬を膨らませて捨て台詞を吐くと、再び少女は大皿へ手を伸ばす。今度もまたイカだ。口をもぐもぐさせながらハルは満足そうに笑みを浮かべる。初対面の人間相手なら破壊力抜群のコンボだが、伊達にかれこれ十年以上一緒に居ない、さして気にせず食事を続ける。今度は赤身の握りを掴んで口に運んだ。
「ネタが無いって見つけるの含めて仕事だろう。イカばっか食べるなよ」
大皿の僕から見て最奥、イカの握りが並んでいた位置はポッカリと皿の底を晒している。ハルが只ひたすらイカの握りだけを食べる。
「言えばそうだがねえ……。別にお前はイカ食べないんだから良いだろう。それにそう言うお前こそ赤身ばかり食べているじゃないか」
「僕は良いんだ他のネタも食べているから。そもそもそれを言えば、ハルだって赤身は嫌いだから食べないだろうが」
「あーはいはい悪うございました、葉一と違って偏食ですからね、そんなに色んな物を食べるのが偉いなら中央にいつまでも居座っている雲丹を片付けてもらえるかな」
「――うぐっ……」
大皿中央に位置するフリゲート艦――もとい雲丹の軍艦を見て、カエルの潰れたような声をあげる。好きも嫌いも一致することが少ない僕らだが、雲丹だけは唯一食べられた物ではないと同時に頷くものだ。
大皿のイカが並ぶ北端と、赤身が並ぶ南端、その二つの国土を挟む海を哨戒する大型の巡洋艦がさしずめ雲丹だ。大皿を平らげる上での最大の敵だ。
「あー正直、赤身とイカだけの大皿とかあれば良いのになー」
赤軍と白軍、もとい赤身とイカだけが並ぶ大皿を思い浮かべて、少しだけ良いなと思いかけたが、小学生が唐揚げだけを詰めた弁当を夢想するのと同ベクトルの思考だ。好きな物も食べ続ければ人間飽きてしまうものだ。――例外として、ハルはその限りでは無いようだが……。
「それこそ店に食べに行った方が速いんじゃないか?」
「ばっか、寿司食うのに何で外に出なきゃなんないんだよ」
ハルは心底嫌そうな顔で答えた。彼女は酷く出不精で、余程のきっかけが無いと外には出ない。理由を聞けば外気に触れると嫌悪感で湿疹が出るなどと、苦虫を何匹噛み潰したか解らない程顔をしかめた。
またこれは冗談なのだろうが、「小説家を目指したのは極力外との関わりを少なくするためだ」とも言っていた。「本」と「ゲーム」という、引きこもり気質の人間に与えてはいけない三種の神器の内の二つを手に入れてしまってからは、益々悪化している。ちなみに三種の神器の三つ目は「安定した固定収入」だ。
「日に当たんないと身体に悪いぞ、ほらメラニンだかタンニンだかが働かなくなるってよ」
「セロトニンだろ、あれは体内で作る精神安定剤みたいなもんだから、私みたいにストレスから遠い位置に身を置けば必要ないんだよ」
なんだそれはと僕は肩を落とした。「戦わないのでストレスには負けません」みたいな理論である。外を歩けば誰もがストレスと戦うための工夫をしてるというのに、ハルはストレスと戦わないために全力を費やしている。
みんながHPととVLTにステータスを全振りしているのに対して、ハルはAGIとDEXに全振りをしているようなものだ。「当たらなければどうという事はない」理論である。しかしそれは裏に返せば当たれば致命傷という事でもある。
「それだと、打たれ強くなんないぞハル」
「葉一もあれか、RPGでボス戦で負けたら、近くの草原でザコ敵狩ってレベル上げてから挑むタイプか。知らないなら教えてやるけどな、世の中には低レベルクリアに達成感を覚える人間も少なくないんだよ。敵より強くなるより、現時点の能力でどうするか考えるのが好きな人間が居るんだ」
それはレベル上げより面倒でストレスが溜まる気もするのだがどうなのだろうか。僕が目を細めて首をかしげていると、ハルは「はあ」と小さく溜め息を付いて、その息の後に後に言葉を続けた。
「レベル上げも楽しいってのはわかるんだよ、自分がやってる事がまどろっこしくて、端から見ればこっちの方がストレス溜まるように見える事も解る。だけど私ら当人からしたら苦痛なんかでは無いのさ。要はストレスに負けなきゃ勝ちなんだ」
湯気がのぼる湯のみの中を覗き込みながら、暖々とハルは答えた。逃げるのが下手なら耐える方法を身につけて、耐えられないなら逃げる方法を身につければ良い。僕はどちらかと言えばどっちでもなくて、逃げたり逃げなかったりする。
「確かにその通りだけど、普通の人間にはそんな事は出来ないよ」
少なくとも現在、単位取得に追われているような大学生には、やろうと思っても出来るような事じゃない。隣の芝だと解っていても、時々羨ましく思ってしまう事もある。確固とした自分を持っているハルが少しだけ妬ましいのだ。
「――違う違うそうじゃない!」
ハルがふと思い出したように立ち上がり大声を上げる。心に秘めた薄暗い気持ちを悟られまいと、窓から外をぼうっと眺めていた僕は、少しだけビクリと肩を震わせてから目線を身体の前方――ハルへと戻した。
「ネタだよ、小説のネタ。何か無いのかよ葉一ー、何のためにお前を雇ってると思っているんだ。私は小言ロボットを雇ったつもりはないぞ」
雲丹だけが残った大皿を脇にどけると、ハルはぐっと身を乗り出した。額と額が触れ合いそうな程近い、ゼロ距離。お互いの心まで覗けてしまいそうな距離で、心臓の高鳴りと吐息の温度を感じた。
ハルは友人でもあるが、同時に僕の雇い主でもある。助手――アシスタント、と言っても実際の小説家の助手がどのような事をするのかは知らない。そもそも小説家の助手という存在があるのかどうかが既に疑問だが、僕はそういう名目で雇われていた。
小説家助手――と字面を見るとやけに知的に見えるが、その実している事といえば「炊事」「洗濯」「掃除」「整理」「整頓」「買い出し」合わせて六つ、要するに僕は家政婦もとい家政夫、紛らわしくないように言えばハウスキーパーである。
僕が此処でバイトを始めたのは、丁度一年ほど前の事だった。ハルがこの仕事場を借り始めたばかりの時の事だ。僕が通う大学から近い位置にあり、尚且つ出不精のハルが資料と称して買い集めた小説やら専門書、果ては漫画にゲームなどが玩具箱のように詰められたこの仕事場は、居心地が良くて入り浸っていた。
家では夏場でも節制政策のせいで冷房はめったに付けないのだが、ここでは本に最適な環境を作るために一年中、空調で気温と湿度を一定に保っている。一体いくら程の費用がかかるのか僕には想像できない。
ともかく僕は昼と夜となくこの仕事場に入り浸り、勉強ではなくセガサターンやらプレイステーションやらスーパーファミコンやらに精を出していた。上がるのはゲームキャラのレベルで、暗記できるのは攻略手順だけ、要するに暗愚であった。
ともかく引っ切り無しに新製品や新作が出る時代、僕のような貧乏学生は指を加えながら見ているしか無い状況だった。流石に我慢するのも限界になり、何か時給の良いアルバイトを探そうと、ハルの目を盗み求人に目を通していた時の事だ。
「なんだ葉一、金に困ってるのか?」
ハルは後ろからのしかかるように覗きこんで言った。正直言った所、彼女にはこの様子を見られたくなかった。何を隠そう彼女はそれなりに世に名の売れた(ジャンルが零細なのもあるが)小説家であり、年齢から考えると大金を持っている。
値の張るパソコンを持っている。ゲームのハードは揃い踏みだ。古本屋を巡ってやっと見つけるようなレアな古書を揃えている。僕のような趣味を持っていれば、喉から手どころか全身を出すほど渇望して止まない物を全て揃えている。
おまけにハルは基本骨格から捻ね曲がっているので、僕がアルバイトをする理由を知れば大笑いするか、自分の持っている物を自慢するかのどちらかだと思ったからだ。僕は覚悟を決めて、求人広告を伏せると向き直る。
「ああそうだよ、貧乏学生はアルバイトの一つや二つこなさないと、欲しいものすら買えないんだよ。売れっ子小説家と違ってね」
「バイトを始めたら忙しくなるな?」
刺を含めた言い方で反撃を覚悟していたのだが、帰ってきたのは予想外な返事だった。
「ん? まあそうだな、此処にも前程は入り浸らないよ」
その返事に対して僕は首を傾げながら答える。流石に入り浸りすぎるのも悪いと思っていたし、仕事の邪魔をしてはいけないと思い始めた頃だったので、ハルもその方が仕事に集中出来ると思っての事だ。
「――なら良いバイトを紹介するぞ」
少しツンと上がった鼻先を僕の頭上に向けて、口を尖らせながらハルは言う。
「――なんと!」
孤鷲拳ではなく、驚きの声である。ハルがそんな事を言い出したことに対してもだが、ハルに紹介できる知り合いが居たという事に対してである。このひきこもりにそんな知り合いができる機会が在ったことにも、その機会を活かせた事にも驚きだ。
「聞いて驚くといい」
「――おお!」
「――なんと」
暗鐘拳でもない。
「いや……早く言ってくれよ」
やけに長く溜めるので僕はハルを急かす。どれだけ長いかと言えば96のラルフのタメ技と他のキャラのタメ技位の差がある。するとハルは一度咳払いしてから、上を見ていた顔を下ろして僕を見た。口は相変わらず尖っている。
「……此処で働けよ、そうすれば毎日来れるだろう?」
それだけ言うと再びハルは目を逸らした。その様子がやけにいじらしかったのを、僕ははっきりと覚えている。それだけ言うと仕事机に向かい、その日は口も利かなかった。僕もその話難い雰囲気に臆して、サボるつもりだった講義を口実に仕事場を出た。
翌日、少し気まずさを覚えながら事務所に行くと、僕が来ると使っているデスクの上に置かれた契約書と、いつも通りのハルが迎え入れてくれた。
以上が此処で働くことになった顛末なわけだが、後で理由を聞けば「対戦ゲームの相手が向こうから暇をぶら下げて来るのは便利だから」だそうだ。それが真意か否かは知らないが僕にとっては願ってもない話だった。
最初は何か仕事はないかと聞いたが、「掃除でもしておいてくれ」としか言われず、何もしてもいないのに安くない給料を渡されると、友情を金で売りつけている気分になるので、ハルの身の回りの世話を自分から名乗り出た。
――閑話休題。
ハルが僕にネタをせがむのは、僕が優秀なアイデアマンだから――などではなく、単に僕の体質に端を発する。眉唾だが僕は奇妙な事件に巻き込まれやすいのだ。奇妙な事件というとどんな物かといえば所謂怪談やら、都市伝説の類だ。
噂に過ぎない物や、実在も不確かな物に僕は昔から、頻繁に――それも期間で言えば年に数度ほど遭遇していた。無害なものなら良いがそれこそ寺社で祓わねばならないといった事も少なくなかった。
そしてハルが大学に居た頃、一度だけ僕の体質の所為で事件に巻き込んでしまった事があるのだが、その時に彼女には自ら自分の所為なのだと明かした。彼女がオカルト小説家なんて職を目指すと言ったのも丁度その後で、その時の出来事が行動の理由の多くを占めているのだろう。もし僕と出会っていなければ彼女も別の道を歩んでいたと思うと、恨まれているのではないかと思ってしまう。
そのせいで彼女の書いた小説を書店で見つけても、未だ読めずじまいだった。
「そんなしょっちゅう巻き込まれてたら身体が保たない」
今までに二度ほど死にかけた事もある。それ以外だって気が気ではなかった。痛い思いはしたくないし、逃げまわるのも疲れた。体質改善なんてのがテレビでは叫ばれてるが、是非とも僕の体質改善法も教えてほしい。
「別に巻き込まれろなんて言って無い。大学に通ってるんだ、頭の軽い学生諸君は噂話が大好きだろう。そっから集めてきてくれよ」
ハルはやけに「学生諸君」のフレーズに刺を込めて言う。大学に通っていた時も、講義中に騒いでいる輩に対して「カナカナ五月蝿いヒグラシだ」と毒を吐いていた。おそらくヒグラシとその日暮らしをかけているのだろうが、ハルは彼らの青春という言葉に対しては、人一倍敏感に反応して隣の僕に毒を吐いた。
まあ僕とて彼らが毎日毎晩、飲み会やらコンパを企画しているのを見ると何処から金が出ているのかと疑問に思ったり、そんな金があるなら有意義に使えと思ってしまうので、ハル寄りのニュートラルポジションに属していたりする。
彼らの青春を咎める気は起きないが、僕らにとっての青春というのは、一日中冷房の効いた部屋でゲームやコミックの2Dや小説の活字の海に、甘い倦怠感と共に溶けこむ時間の事を指すのだ。それは僕らの人生の起動時に刻まれてしまった定位置で、戻すには無理してスティックを倒し続ける他にない。
「自慢じゃないが僕だって、大学に知り合いなんてロクに居ない。毎日此処に入り浸っているんだからそれぐらい解るだろう」
「んだよつかえないなー葉一……行き詰まって悩んでも仕方ないし、ロマサガ3のタイムアタックでもやろうよ。私が先攻、葉一が後攻」
ハルは頭を掻くと、仕事場から敷居を跨いで隣の部屋――元は寝室だったが、ハルが布団で寝ないのでほぼ娯楽部屋になっている――に行きSFCを引っ張り出す。それから畳に座りポンポンと隣を叩いて、僕を手招く。
ハルはやけにスクウェアソフトにご執心で、発売から三年しか経っていないのに、二桁を優に超える回数をプレイしている。そのせいか最速攻略法編み出し今では三時間を切る勢いである。ゲーム雑誌の企画でセレクトボタン無しプレイをしている人間が居ると知った時は心底悔しそうであった
「いや、ロマサガ3は正直お腹一杯かな。まだやってないからFFⅦやりたいんだけど」
「FFⅦはやめようぜ、私があんま好きくない。FFⅥから妙にメカメカしくなったと思ったらアレだからな、このままいけばクリスタルなんて無くなるんじゃないか。そもそもそろそろ幻想を終わらせたらどうなんだ?」
「SF色なら初代から強かったじゃないか、『リプレイ』とかのループ物。『恋はデジャブ』とか『七回死んだ男』とか『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』みたいな構造で書かれてるしさ、元々SFやりたかったんじゃないかと思うけど」
ロマサガ3のカートリッジを手に握ったまま、ぐぬぬとハルは唸る。そもそもSFとファンタジーは同じカテゴリーだから、分けて考えるのが馬鹿馬鹿しい。超常現象も超化学も人知に負えない点では一緒だ。外面塗装の好き嫌いはあるだろうけど、会社が腐ったと言うには早い気がするのだ。
かくゆう僕はスクウェアソフトなら『ルドラの秘宝』や『ガンハザード』、あとは『パラサイト・イブ』などが好きだ。パラサイト・イブに関しては原作も含めて、とても楽しませてもらった。グラフィックの綺麗さにも随分驚かされた。
「むぅ……じゃあ間取ってブシドーブレードやろう。私はブラック・ロータスな」
ブシドーブレードと言えば今をときめく対戦格闘ゲームである。コンビニでのみ売っている作品だったので、発売日にハルに言われて買いにいったのだが、中身はいい意味でも悪い意味でも斬新だった。見切り発車と言ったところか。
「どこが間を取ってなんだよ……格ゲーならヴァンパイアやろうよ。ビリオンフリッカー覚えたからさ前よか相手になると思うよ」
「ほほう、私に挑戦するのか。良いだろう私のサスカッチの錆にしてくれよう」
あの雪男のどこに錆に出来る要素があるだろうか。僕とハルはプレイステイションとコントローラーを引っ張りだし、電源ボタンを押して起動音に胸を弾ませる。聞き慣れたBGMと見慣れたグラフィック、手慣れた手付きでキャラを選択すると「FIGHT」の声が僕らの対戦のスタートを合図する。
2
午後一時ごろにスタートした対戦だったが、気付けばもう六時を回っている。対戦結果から言えば白星は両手の指で数えられる程だ。今はもう完全グロッキーになりながらもキャラ選択と、両の手が覚えた操作を繰り返す。
対戦中にくだらない会話を繰り返していたせいか、口の中はすっかり乾いて粘度の高くなった唾が絡む。頭の奥のほうが少し痺れるような疲れを感じて、僕は大きく欠伸をしながら伸びをした。
「そろそろ休憩しないか?」
事実上の降参宣言。ハルはその言葉を聞くと時計を一度見て、ゲームの電源ボタンに手を伸ばす。対戦ゲームの「キリ」の付け方というのは、何勝とか何敗とか何時間とかではなく、決めるのは一方の敗北宣言である。
「もうこんな時間か――」
ハルも隣で伸びをして、それから少しだけ寂しげな表情で呟いた。それから休止を待っていたように、間に滑りこむように――ぐぅ、と小さく音が鳴る。慎ましく、いじらしく、可愛らしい腹の虫の主張だ。
「――動いてなくても腹は減るんだな……」
その虫の飼い主であるハルは、下腹部を抑えつつ言った。トイレ以外には休憩を入れず、飲み物も軽食も無しでひたすらボタンを擦っていたせいか、心なしか僕の腹も空腹を訴えている。本当に非生産的だけど、それ故に楽しい。
「確かにな……どうするか、冷蔵庫空だったと思うけど」
「宅ピザでも頼むか、確か広告あったろ」
ハルはゴソゴソと電話の側を漁り始めると、赤さが目立つ冊子を見つけると、ニヤリと微笑んだ。宅ピザとはまったくけしからん、甘美な響きである。和食党の僕だったが、宅ピザは毎日でも食べたいと思う魅力があった。アレには人を駄目にしていく、薬品か何かが盛られているのではないかと思うぐらいだ。
「飲み物買ってくるけど何が良い?」
僕は薄手のパーカーを羽織ると、受話器を取ったハルに声をかける。
彼女は逡巡した後――
「――アンバサ」
と簡潔に答えた。アンバサとか最近この辺で見た覚えが無いんだが、スコールとかカルピスソーダ買ってきたら怒りそうだな。ハルは妥協を知らない性格なので、こういう時は困ったりする。商店街の酒屋まで覗いてみるか。
「はいよー行ってくる」
玄関まで小走りで駆けて行くと、真新しいナイキAIRMAX95を履く。ミーハーな方では無いのだが、このスニーカーだけは欲しくて仕方なかった。ゲームの四、五本は買える額だったがそれでも衝動的に買わずにいれなかった。
若干重い事務所のドアのノブに手をかけて、ゆっくりと回す。重い手応えの後にガタンと音を立てて開く。外気が顔を撫でるが、信じられないほど暑い。冷房が効いた部屋に居ただけに余計に温度差を感じて気味が悪い。
外は丁度、夕暮れが紺碧に染まり始める頃で、涼しくなっても良い時間だと思う。
――戻ろうかな、なんて心を折られつつも僕は意を決して外に出る。パーカーの袖をまくりため息を付きながら、歩き出せば直ぐに汗が吹き始める。それが体温を下げる行為だと解っていてもこう蒸し暑いと気化熱もへったくれもない。
悲しきかなヒートアイランド、此処数年は例年以上という単語しかニュースで聞いてない気がする。この夏の最高気温を何度か更新した街の交差点ではゆらゆらと揺らめく陽炎が、行き交う人間達を嗤っていた。
この街――比良坂は此処数年の都市開発で、成長期のようにめきめきと姿を変えて今では駅前を中心にビルが立ち並ぶようになった。近々ショッピングモールの建設を計画しているという話も聞く。これについては商店街から反対が出ているというが、確かにそんな物が出来てしまえば客足も一気に遠のくだろう。
ビル群を抜けて商店街の方へ抜ける。ところどころ塗装が剥げて、錆びたゲートが僕を迎え入れてくれる。この時間帯の寂寞感と相まって、どこか物悲しい。アーケード街のタイルを白線渡りの要領で、白い所だけを歩いて行く。罰ゲームはそうだな、落ちたら明日は講義に全部出よう。
そんなバカなルールを自分に付けつつ、無事に酒屋――武蔵酒店に着いた。これで明日の講義は出なくて済むなんて事を考えながら、店内を覗けば不機嫌そうに店番をする男の姿があった。武蔵幸二、武蔵酒店の跡取り息子にして高校までの同級生である。
高校を出てからは家を継いで、その竹を割ったような性格から近隣の人からは好かれているようだ。僕以外でまともにハルと話せる、数少ない人間の一人でもある。普段は豪胆に笑う明るい人柄なのだが、その彼が今は覇気ない顔で僕を見ていた。
「ユキ、元気そうだな……?」
「よせやい、気味が悪いわ」
僕が探るように話しかけると、ユキは口を力なく開きながら答えた。
「何かあったのか?」
「何も無いんだよ」
問に対して間も髪も入れないユキ、何もないというのはどういう事だろうか。
「悪いことなのか?」
「良い訳無いだろう、こうしていても客が来ねえ」
それはご愁傷様だと憐れむような表情で僕は頷く。それから辺りを左右に二度ずつ程、見回してからユキに向けて問いかけた。
「アンバサってあるか?」
「ああ、あるよ。ついでに言えば、カルピスソーダも、スコールも、スマックもある。奥のショーケースにあるから自分で持って来い」
それは売上の分散的に無駄があるのではないかと思う。仕入れはユキの親父さんがやっている筈だから、彼に言っても仕方ないのだが。そもそもスマックって何だよ初めて聞いたぞ。僕は店の奥へ進むと、棚を流し見てアンバサと、自分の分のコーラを取る。
清涼飲料水の王様といえば、やはりコカ・コーラだろう。元は臓器不調、神経衰弱、無気力症の患者への薬として作られたらしいが、何にせよこの飲料を発明した、ジョン・ペンバートンには感謝である。
レジに向かう途中、洋酒の棚を見て逡巡する。この店の店主の親父さん――武蔵幸一郎は無類の酒好きで、そこらの酒屋では売っていないような銘柄がザラに置かれている。ズブロッカやら、スピリタスやら、ペルツォフカやら、果てはインフェルノ・ペッパー・ウォッカなんてゲテ物まである。
少しばかり今日は飲みたい気分でもあったのだが、ハルが酒に滅法弱くて、そのくせ飲みたがるのでやめておくことにした。二本だけ携えていくと、不機嫌そうにユキはレジを打つ。財布から百円玉を三枚手渡すと、雑な手付きで十円玉が三枚帰ってくる。
今度からは酒や飲み物類は此処で買うことにしよう。用も済ませた所で背を向けると、ユキが僕を呼び止める。
「――なあ葉の字。黄色いレインコートの噂知ってるか?」
「……? いや、聞いたこと無いが?」
都市伝説の類だろうか。僕は身体をユキに向き直し、説明を求める。するとユキは頬杖を付きながら、欠伸混じりに語り始めた。
「俺も近所の人から聞いただけなんだがな、何でも雨の日は出るらしい」
「……出るって何がだよ?」
若干嫌な予感がしてきたが、聞かない事にはどうしようも無いので、続きを催促する。案外ハルの頼みは直ぐに済んでしまうかもしれない。
「黄色いレインコートの悪魔――って巷じゃ呼ばれてるんだがな、雨の日の夜にソイツは現れるんだ、黄色いボロボロのレインコートを着込んで人を襲うらしい」
「それは……」
やはり聞かなければ良かったかもしれない。僕が渋い顔をしていると、心配無用だと言った具合にユキが応えた。
「大丈夫だレインコートの悪魔が現れるのは、浮気をした男の所だけだってよ。その点お前は足立に一途だし、問題無いだろう」
「誰が一途だよ、僕はそんなんじゃない」
若干の照れ臭さを交えつつ、ぶっきらぼうに僕は返事をする。僕がハルと一緒に居るのはそう言った感情からではなくて――なくて? なくて、どうなんだ? 純粋な友情からの感情なのか、それとも同情からなのか、自分の気持ちだというのに良くわからない。
「あの捻曲がった足立の相手を毎日、かれこれ十数年も続けてるんだ。そういうのを一途と呼ばずして何を一途と呼ぶんだ。それにうちの姉貴も言ってたぜ、同年代の男女の友情なんてものは、愛情を歪ませた物でしか無いってさ」
「愛情云々は知らないけどさ、ハルは曲がっちゃいないよ。誰よりも真っ直ぐ過ぎて、僕らみたいに自分を曲げる事を覚えた人間には、屈折しているように見えるだけでさ。悪いやつじゃないんだ不器用なだけで……」
ハルは感情表現が酷く下手くそなだけで、その感情は装飾のない純粋な物だ。だから曲がっているのが当然のこの世の中では生きていけないレッドデータブック入りの生き物だ。だからこそイエローラインの僕は彼女に惹かれる。
「そうやって解ってやれるまで一緒に居れるのが、もう既に一途だっての。俺にゃ到底無理だぜ、足立は嫌いじゃねえが、長時間相手するのは無理さ」
それを素直に口に出来るのは、ユキの性格故だと思う。
「二人じゃなくて一人と一人だと思えば気楽だよ、必要以上に――というか必要とされる以上に関わらないのがハルと上手くやるコツ」
ハルはガードが固いから相手から動いた時以外に攻め込めば、手痛いカウンターを食らって一発KOされる。そう北風と太陽の、北風みたいに攻めるのではなく、受け入れて相手からアクションさせるのだ。
「それって二人で居る意味あるのか」
「あるんだよ本当に一人ぼっちよりも、マシだと思えるって言うかね。じゃあユキ、また今度酒でも買いに来るからその時はよろしく」
思った以上に進んでいる時計の針を見て、浮き足立つように武蔵酒店を出ようとする。あまり長話をして遅くなると、戻った時にハルにどやされるからだ。それを見てユキは困ったものだとばかりに肩をすくめる。
「おう、美味いの見繕っとくから、金落としていけよ」
おどけるユキ。時刻は丁度六時半、街頭の狭い灯りが薄暗がりを作り出す。
3
「ただいま……っと」
すっかり自分の家気分で、ベルも鳴らさずに室内へ入っていく。出て行くときとは逆に冷房で冷やされた空気が肌を打ち、なんとも心地が良い。靴を脱いで室内に上がり込み、脱いだ靴を外向きに揃えて置く。
中へゆっくりと入って行くと、ハルは娯楽部屋で座椅子にもたれながらゲームをプレイしていた。僕が入ってきたのに気付くと彼女は首だけをこちらに向ける。
「おう、おかえりー」
「ほれアンバサあったぞ」
「ああ、悪いテーブルの上置いといてくれ」
ハルは文字通り顎で小テーブルを指して言った。テーブルの上にはタバスコの瓶、もう準備は万端と言ったところだろう。テレビ画面を見れば、ハルの操るナジームの妙に綺麗なローキックとパンチが鬼子母神陽子を追い詰めている。
「エアガイツかよ……」
ホントにハルはスクウェアソフトが好きらしい。ちなみに僕は会社贔屓はあまりしない方だが、アトラスには非常に頑張って欲しいと思う。この会社は色がはっきりしていて、ブレが少ないからだ。
「ピザ来るまであと十分ぐらいあるから、ちょっとばかし相手しろよ」
「良いのか僕の猪場のホーミングボディプレスが火を吹くぜ」
ハルから差し出されたコントローラーを、意気揚々と握った僕だったが、結果はあえなく二戦二敗負け越しで休止となった。どうやったら年に数冊も長編小説を書き上げながら、これだけ複数のゲームをやり込めるのか不思議だ。
届いたピザ――ピザーラライト、イタリアンバジル、モントレーの三種合わせて、締めて諭吉が一人分。有無を言わさず全額をハルが支払い、僕はそれに対し頭が上がらない思いをしつつも甘えた。
見慣れた白地に赤のロゴの描かれた箱の蓋をあけると臭いが一気に立ち上る。見ているだけで胃の辺りが熱くなる、そんな光景である。
「ピーザ、ピーザ、モッツァレラー」
ハルは嬉しそうに調子外れの歌を歌う。ピザを前にして笑顔を浮かべる様子はとても可愛らしい。何時もの何かに対して怒っているような顔のハルと、今のハルどっちが表でどっちが裏なのだろう。
狭い鋭角の扇型に切り分けられたピザ、僕はその一切れに手を伸ばす。すると親との別れを惜しむ子供のように、チーズは糸を引いた。それを残酷にも手首の動きを駆使して断つと、口元へと運びぱくりと一口。
サクリとクリスピー生地が軽い音を立てて、チーズを筆頭する具材が相まり、口の中が幸福感で溢れかえる。そうしてひと心地ついたら、買ってきたコーラをゴクリと一口飲む。するともうジャンクな世界の仲間入りである。
「――うみゃー!」
正面から声が上がる。僕同様アンバサを飲んだハルが、何故か名古屋弁で感嘆の声を上げたのだ。
「――あ、ハル。そう言えばユキの店で飲み物買ったんだけど、変な噂を聞いたよ。なんでも黄色いレインコートの悪魔だってさ」
二口目を口に運びかけて、僕は手を止めるとハルに報告をする。
ハルはそれを聞くと、ピザを咀嚼するのを止めて、それから体全体を静止させた。暫く動かないままとなった彼女は、再び動き出すと僕の方を見て、目を大きく見開く。どうやら噂はハルの琴線に乗ったらしい。
「黄色いレインコートで間違いないのか?」
「ああ、ユキはそう言っていたよ?」
僕は記憶を再度確認した上で、半疑問形ながらに答える。するとハルは顎に指を当てて、もしやと考え込んだ。その表情にはピザを前にした時の緩みは無く、至って真剣そのものな、仕事をする時の表情だ。
「で、その黄色いレインコートの悪魔ってやつはどんな噂なんだ?」
ピザの残った切れ端を、そのまま口に放り込んでハルは僕に尋ねる。
「何でもね、雨の日に――それも浮気した男の所に現れるんだってさ。まあ、もう大体察せるだろうけど、その男に襲いかかるんだとさ」
僕もハルにつられて、駆け足をするように二口、三口と続けていく。既に二切れ目に入った彼女を追いかけるように、僕もふた切れ目に。今度はイタリアンバジルをいただく事にする。それから三切れ目に入るまでの間、僕とハルは無言のままで、先に沈黙を破ったのはハルの方だった。
「雨の日……この夕立の多い時期にご苦労な事だ。しかしまあ、そんな条件じゃあ葉一を釣り餌にも出来なそうだな」
「釣り餌ってそんな事させるつもりだったのかよ…というかハル、要するに今回は単なる殺人鬼だろう? 首を突っ込んで殺されました、なんてのは考えたくもないぞ」
そんな冗談かどうか解らない事を言ってため息をつくハルに、僕はブンブンと左右に首を振って否定の意志を露わにする。
「単なる殺人鬼――なら良いんだけどな」
ハルは僕の後に、少し暗い笑みを浮かべて呟いた。その表情と声音に少しだけ嫌な予感を抱きつつも僕は、コーラを煽る。
「どういう事だハル?」
「まだ確証は無いから、分かったら言うよ。でも安心しろ葉一――」
僕の疑問の答えをハルははぐらかして、それから自信満々の表情で僕を見つめる。その黒瑪瑙の瞳は飲み込まれそうな程深い黒だった。僕はその色に思わず息を飲んで沈黙した。
「――お前は死なない、私が守るから……ってな?」
「そりゃあ、心強いな」
ハルも見てたのか、てっきりあの手の物は嫌いそうだと思ってたのに。まあハルのこ事だから、片っ端から目を通しているという線もあるだろうが。僕は軽く返事を返すと数えて四切れ目を口に運ぶ。食べども食べども飽きない物である。
「まっ、それは後にしてKOFやろうぜ96。私はテリー使うからな」
まだピザも残っているというのに、ハルは手を拭くとプレステのディスクを引っ張りだして早くしろと僕を急かす。
「また格ゲーかよ、他にないの?」
「えーじゃあ風雲黙示録にする?」
「どのみち格ゲーじゃねえか……KOFで良いよ風雲はやった事無いし」
ぶつくさ言いながらも、僕はハルの隣に座った。豪血寺一族とかGOFとかは無いのだろうか、言えば在りそうな気もするのだけれど。まあそれはまた今度の機会として、今はこちらに専念しよう。
「さあ何を使うんだ葉一は?」
「庵かな、屑風はあり?」
「そりゃあ、ありありでしょ?」
ハルは敵に不足なしとばかりに笑う。僕が選んだキャラには決まれば勝ちの永久コンボがあるのだが、それを知っていてハルはそのコンボパーツの技を使っても良いと言った。この手のコンボを良しとしない人間も居るが、僕は迷わずに使う。何故なら永久コンボとはいえ、ハルならばそのループに入る事をさせない事を難なくやってのけるだろうからだ。出し惜しみして勝てる相手じゃない。
「即死で二ラウンド取られても無くなよ」
「出来るものならやってみろ」
僕らの選択したキャラは睨み合い「FIGHT」の文字が表示されると共に一気に距離を詰めた。再び娯楽部屋の中にコントロ―ラーのボタンをこする音がこだまする。ヒット音を響かせながら、白熱する対決の直ぐ横で、僕のコーラとハルのアンバサは、静かにシュワシュワという音を立てていた。
4
結果は解りきった事ではあるが、惨敗である。一ラウンドは安定して取れたが、後に続かずマッチで見れば全敗といった具合だ。小足からのコンボで力の間欠泉を当てられKOされてしまう。
「だめだなー葉一は、庵は屑風のコンボ無くたって強キャラなんだぜ? むしろ鬼焼きの性能を生かして立ち回るプレイングをするべきだよ。刀は抜くって思わせたらそれだけで勝ちなのさ」
ハルはコントローラーを置くと、僕に向けて自慢げに腕組みをする。そうは言ってもにわか仕込みでは、そういくつもコンボパターンなんて覚えられないのが現実だ。むしろアレだけの種類のゲームで複数キャラを使いこなすハルの方がおかしい。
すっかり炭酸の抜けたコーラを飲みながらしびれた頭を覚まさせる。時刻はもう十時過ぎ、外からは雨音が響いている。
「にしたってハルは強いよな、いつ仕事してるんだ?」
僕は全くもって失礼な疑問を投げかけた。
「失礼な葉一が帰った後、深夜にやってるぞ」
じゃあいつ寝ているんだよ。なんて、聞き返せばそれこそ「寝ないでやってる」なんて言い出しそうだ。
「ご苦労な事だ。昼まで寝てたのに僕はもう眠いよ」
僕は欠伸混じりに答える。
「なあに、起きたまま寝れば良いのさ」
「ハルが言うと本気でやってそうだ……」
起きたまま見る夢というのはどういう物なのだろう。
「今日は泊まっていくのか?」
ハルは目線はテレビに向けたまま言う。徹夜でゲーム大会というのは僕らの間ではザラにある事で、そのまま力尽きてダウンという流れも多い。男女二人で夜を共にと言うといかがわしいが、僕とハルでは何が起きるという事もなかった。
「いいや、流石に姉貴にどやされるし帰る。傘借りて行って良いだろ?」
「駄目って言ったらどうするんだ?」
「ハルは使わないだろう、と切り返してみる」
「五月蝿い、コンビニに行く時には使うわ」
コンビニに行くって言っても、このビルの斜向かいじゃないか。
「はいはい、じゃあまた明日」
「あいよー、明日はウメハラぐらい強くなってるかもな」
「ウメハラは別格だよ、少なくとも僕程度は完封出来なきゃ」
ウメハラというのは格闘ゲーマーの中ではわりと有名なプレイヤーで、約三百連勝なんてのをやってのけて、尚且つそれを切ったのが閉店時間という逸話を残している。そんな人間が僕らより六つも下というのだから信じられない。
僕はすっかり冷めたピザを齧りながら、ハルの事務所を出て行く。玄関で見送るハルの表情がやけにしおらしかったのが印象的だった。
カラオケの時間終わり際に歌いたい曲が見つかった時のような、打ち上げ花火が終わってしまう瞬間のような、そんな寂しさが見え隠れする表情だった。
ドアを開けて外に出ると、冷め切らない夏の熱気と雨の湿り気が混じった外気が吹き込んでくる。外はすっかり暗くなっているが、駅前は灯りが多く、空から落ちてくる雨粒達を照らす。
昼間はあれほど五月蝿かった蝉も、雨の所為なのかすっかり鳴くのを止めていた。駅前通りを行き交う人々は大事そうに鞄を抱え、皆揃って傘の下に顔を隠しながら歩いている。走り去る車のヘッドライトが普段より眩しく感じる。
先ほどまでの格ゲーの対戦を思い浮かべながら夜の街を歩く。そんな他愛ない事を思い浮かべるのは、できるだけ考えたくない事があったからだ。
――雨の日に黄色いレインコートの悪魔が現れる。
噂に過ぎないと思っていても、どうにも気になってしまうものだ。ホラー小説を読んだ後に背後が気になるのと同じ原理で、いけないと思っていても頭の隅の方にチラつくのだ。
こんな時にウォークマンでもあれば良いのだが、後回しにしている間に買うタイミングを逃して、結局の所買っていない。MDが良いという話を聞くのでもしかしたら、そちらの方を一個飛ばしで買うかもしれない。
しかし、どんどん小さくなって、ゆくゆくは親指大ぐらいになってしまうのでは無いだろうか。そうなるとディスクを入れる所も無い気もするが、案外ディスク要らずというのもありそうだ。
そんな事を考えながら歩いていると、灯りの多い駅前から暗い団地前に入る。商店街も今の時間では殆ど閉まっているし、どこもかしこも灯りが消えて閑散としている。街灯はところどころスポットライトのように照らしていた。それにより、返ってそれ以外の部分の暗さを浮き立てて不気味だ。