森の奥に野生
両親は交通事故で死んで、その親戚まわりもみんなしてガンだのエイズだの糖尿病だので死んじまっていたので、一族唯一の生き残りの僕は五歳にして天涯孤独というやつになってしまった。
なんとなく施設に入れられたものの、そこになじめなかった僕はすぐにそこを脱出して森に一人で生きていくことにした(らしい)。(らしい)というのはそのあたりの記憶が白色粘土のように曖昧なままだからで、その次に覚えてる記憶は暗闇の中で強烈なレーザービームみたいな光に照らされたときだ。
それはエプロンドレスを着たユミコさんが森で野生化して暮らしていた僕を見つけた光であり、同時に僕を動物化の暗黒面から文明社会の白灯のもとへ――それが良きにしろ悪きにしろ――引きずり出した「奇跡の光」だった。
そうして僕を見つけたユミコさんはすぐさま警察に通報、地元の男たち総出の山狩りが始まりマスコミが騒ぎたて、僕は「現代に生きるオオカミ少女」として大々的に宣伝されて有名人になる――ようなことは全然なく、ユミコさんは脳ミソの半分をファンタジックな世界に置き忘れているような人間だったので、次の日に干し肉を使って僕をひっとらえて家に連れ帰った。
あとでユミコさんにどうして自分の家に連れ帰ったのかと聞くと「オオカミ少女を育てたタリバン先生に憧れていた」とのことだった。
確かヘレン・ケラーに井戸端でバシャバシャ手にかかるもの=ウォーターだと教えたのはサリバン先生だったはずで、タリバンというのはビンラディンとかそのあたりの名称だったはずだし、ヘレン・ケラーは三重苦であってオオカミ少女ではなかったのでユミコさんは色々間違っていたのだけれど、そのときの僕にそんなことが分かろうはずもない。
ユミコさんの家に初めて入ったときのことを僕は今でも鮮明に――幼いときのトラウマとか痛みだとか、そんなレヴェルで――覚えている。
そこはアパートの一室だった。ピンク色の絨毯、ピンク色のカーテン、ピンク色のクマのぬいぐるみが並んだ部屋。
その中に雑然とカップ麺の食べあとや生理用品や片目の取れた人形たちがざわめいていた。部屋の中はゴミなのか必要な物なのか分からない「何か」で足の踏み場もなく、ファンシーさと日常生活の入り混じった一種エキゾチックな雰囲気が漂っていた。
特に部屋の臭いに反応した僕は入ることを拒んだが、ぐりぐりと背中を蹴られ、異世界へと足を踏み入れることになった。続いて入ってきた彼女はファブリーズをいたるところに撒き散らし、僕に向かってため息を吐いた。
「汚いわねえ。泥だらけじゃないの」
それからいつの間にいれたのか分からない紅茶を飲みながら、
「ここが今からあなたの家よ。どろんこぼうや」と言った。
風呂場に連れて行かれ、シャワーで全身を洗われるのはまるで拷問だった。水に慣れてない僕は暴れに暴れたので、ユミコさんは仕方なく僕の両手両足をガムテープで縛り、口をふさいだ。何もできなくなった僕を見て、こころなしかユミコさんは楽しそうだった。
それから全身くまなくゴボウを洗っていくような作業が終わり、ユミコさんは呟いた。
「あれ、あんた女の子なの?」
僕は身体的には女性だった。
ユミコさんはベルばらが好きだったし、自分は女だというのに――あるいは女だからなのか――どうやら女の子が嫌いらしかったので、僕は男の子として育てられることになった。スカートは許されなかったし、基本的に半ズボンで過ごした。一人称は「僕」に固定。いい迷惑だ。ベルばらは今でも好きだけど。
ユミコさんは優しくて、厳しかった。モンスーン気候の自然のようにきまぐれだった。だから僕は虐待された子犬がそうするように、いつだってユミコさんの顔色を伺っていた。
理不尽に叩かれる。
「これをすると叩かれるのか」
「これをしても怒るのか」
「仕方ない、そういうもんさ」
「これは別の誰かが叩かれてるんだ」
「錆びついた鉄で出来た牢の奥に閉じ込められているあいつが殴られているんだ」
そう思うようになっていった。
「あいつ」というのは野生の頃の僕だ。まだ「僕」なんて名前もついていない。裸で、口を開いて歯茎まで剥き出して、ガンガンと牢に肩をぶつけて痛々しいアザが残るほどの獣。時々そいつはユミコさんに殴られた。一瞬おとなしくなるけど、やっぱりダメだ。所詮畜生で獣。そいつが殴られるために牢を引きずり出されるとき、僕はそいつの代わりに牢屋に入る。
そこからもう一人の僕が叩かれるのを眺める。
それは僕じゃない。僕であって僕じゃない。だから僕は痛くなかった。痛くないけどアザは残る。僕は牢の奥で膝を抱えて座り、どうしてあいつはいつもユミコさんに歯向かうのか考えていた。
慣れるわけでもなく、じゃれるわけでもない。叩かれるのが分かっているのにどうして向かっていくのか。
「野生」は、叩かれ調教される度に消え失せていく。消失する自分。「あいつ」は現実を欲しがった。現実に出てこようとした。痛みを感じるほうに現実があるのだ。だからわざと叩かれようとしていた。それは無視されるよりマシで、存在してる確かな証拠だから。
でも、それは徹底的なまでのユミコさんの躾で抹殺されていった。
今じゃ「あいつ」はどこにもいない。
……もう「あいつ」の話はやめよう。
森の奥に消えて、どこにもいないんだから。
言葉と礼儀作法を覚えるまでは部屋から出してもらえず、ユミコさんの作ったこのうえなくまずい料理――それを食べると、しばしば森の中で食べていたものの方が美味しかったんじゃないかと思わずにはいられないもの――ばかりを食べて何ヶ月か暮らした。
その間の僕の世界というのはアパートの一室のことで、全世界を支配する神というものが存在するのなら――それはまさしくユミコさんをおいて他にはなかった。
ユミコさんは不定期にどこかへ出かけ、また唐突にふらりと帰ってきた。僕は玄関先でコツコツという足音を聞くと、一目散に駆け出し、出迎えるのが日課だった。犬みたいに。
日課は少しずつ増えていった。まずはトイレ掃除から。テレビの恐怖番組で、トイレなんて怖いだけの空間だったからテキトーにやっていたら、棚の上から生理用品が落ちてきた。でもそのときの僕には何のことだかわからない。ユミコさんに質問しても答えてくれなかった。
さらに洗濯、料理もこなし、部屋にあった少女マンガだのBLだのたくさんの本を読み始めるようになった頃、また唐突に外出許可が下りた。嬉しかった反面、怖くもあって、外の世界というのは危険だと常日頃教えられていたのですぐには出なかった。
多分、年齢にして十歳くらい。
初めて外に出たのは夕暮れどき、ユミコさんとスーパーにいったときだ。
途中の歩道を行くときは、ユミコさんに「女の子に車道側を歩かせちゃダメよ。そういうことを平気でする男って、世の中にはけっこういるんだから」と言われたので、僕はユミコさんを内側にして外側を歩いた。
今ではユミコさんのように胸も尻も大きな「女性らしい女性」になってしまった僕でもこの癖は残っていて、車道側を歩かないと落ち着かない。だけど世の中には、女性と歩くときはどうしても車道側を歩きたいという男性もいて、そういうとき僕らはどちらが車道側を歩くかで話し合いになったりもする。
料理は全部僕が作ってたから、スーパーで材料を自由に買っていいことになった。今まで冷蔵庫にあるいいかげんな残り物の組み合わせでいいかげんな料理ばかり作っていたのでこれは嬉しかった。
結局以前からテレビで見て黄色いご飯というのが気になっていたパエリアを作ることにして、材料を色々買って帰った。帰り際にユミコさんが「男の子は女の子の荷物を持ってあげるものよね……そうよ、あいつがおかしいんだわ」と独り言をぽろぽろとこぼしていたので、荷物は全部僕が持つことにした。
結局パエリアはサフランが見つからなかったのでただの海鮮炊き込みご飯みたいになってしまった。
それでもユミコさんは「パエリアではないけどうまい」と言ってたくさん食べていた。ユミコさんいわく、僕の料理はどうやらその辺のレストランより美味しいらしかった。味覚と嗅覚が野生の中で鍛えられたのかもしれないと言っていた。
いいや、そんなことはない。僕の味付けは、ユミコさん向けに徹底的にアレンジして分析した理論に基いた結果で、そこに野生の入り込む余地は髪の毛一本ほどもなかった。
その日の夜、僕に初めて生理が来た。生理に関しては、もう知識だけは手に入れていた。月に一度ほぼ確実にくるなんて理不尽だと思ったがどうしようもない。
僕は生理に関してユミコさんに何も言わなかったし、たとえ言ったとしても歓迎はされなかったろうから赤飯は炊かなかった。
そして、そのあたりからだった。ユミコさんはブクブクと太り始めた。日頃よく食べていたし、僕がケーキやクッキーを焼くようになってからは顕著だった。
出会った頃から「母性的」な(そんないかがわしいものが存在すればだけど)わりとぷっくりとした体型ではあったのだけれど、見る見るうちにシルエットが変わってしまった。肉がベッドを多い尽くし、部屋の中にいればどこにいたって視界に肉が入るような状態だ。
ユミコさんは大量のダイエット用品を買いこんだ。色々と試していく日々が続いた。僕はいつもの調子で――とは言ってもクソ忌々しい生理はくるし、胸は大きくなってまるで女の子みたいにブラを着けなきゃならないし、憂鬱なことは山ほどあったけどとにかく――やり過ごした。
ユミコさんは僕の生理だとかブラのことについては何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれないし、見てみぬフリをしていたのかもしれない。
第二次性徴期というのはメタモルフォーゼだ。サナギの中でそれまであった自分の安定した形がグチャグチャに破壊され交じり合い、そしてその後どうなるのかが全くわからない。その内には混沌が秘められていて、不安定を絵に描いたような時期。
もちろんそれはメタモルフォーゼという点ではユミコさんも似たようなものだ。自分の身体が変容していく感覚に自然についていける人間は少ない。
彼女のダイエットは、馬鹿らしいと思う反面、わくわくする気持ちがあった。我が家の一つのイベントみたいな物で、またリバウンドするとわかってはいても盛り上がった。
ユミコさんは元々きまぐれで精神状態が不安定なことの多い人だったけど、太ってからは特にそれが激しくなったようだった。
僕にしてみれば、くだらないことで不安になったり、怒ったりするのはみっともないことだった。たとえ生理やストレスで気分が悪かろうが、僕は誰かにそういった精神状態を悟られるのは嫌だった。第二次性徴期というのは言い訳に過ぎない。僕は女の子ではないのだ。
ある雨の夜、ベッドの上でユミコさんが泣いていた。しゃくりあげる言葉の端々を拾い集めると、太りはじめた原因のことを言っていた。
「ユミコさん……?」
「ひぐっひぐううううう。あいつが、だって私もっダメだったけどっひぐっひぐうううう」
どうやらユミコさんは失恋したらしかった。僕はそういう楽しくなったり苦しくなったりする「恋愛」というものが存在するのは少女マンガで読んで知っていたけど、間近でそうなっている人を見るのは初めてだった。
僕にとってのありとあらゆるアンビバレントな「全て」だったユミコさんがこんなに悲しんでいるのは全てを支える「神」の崩壊というか、信じがたいけど本当のことだった。
目の前で、ユミコさんが大きな身体を震わせて泣いているのだ。大粒の涙をこぼして、全身でただひたすらに。そんな自分を恥ずかしがりながら、それでも止められない自分を恥じるという繰り返しの輪の中に陥って。
僕はしばらく逡巡したのち、ユミコさんの頭を抱き寄せて言った。
「ユミコさんほどの人に釣り合う男じゃなかったってことだよ」
ユミコさんは僕の胸で静かに泣いた。それから、
「あんたは優しい。でも胸があるし、柔らかいね……やっぱり女の子なのか」
と、落胆したように言った。
「今さら、そんなこと言うの」
「出て行きなさい」
最後まで行動がよく分からない人だったけど、そういう人だから仕方ない。
「ユミコさん、僕は行くよ」
「…………」
アパートの一室を外から眺めると、それまでの全てだった僕の世界がやけに小さく見えたのが記憶に残っている。
それから僕は雨の中をずぶぬれで歩いているところを補導され、戸籍やらなんやかやを調べられた。警察の人は親切だったけど、僕の膨らみはじめた胸ばかり見ているので気分が悪かった。
死んだと思っていた僕の一族は、かなり昔に縁を切られた人が一人だけいて、僕はその人からお金がもらえることになった。あしながおじさんというわけだ。おじさんかどうかも果たして不明だけど。知ろうとも思わない。
僕は部屋を用意され、中学校に通った。勉強は全然わからなかったけど、その場のノリでなんとかすることを覚えた。勉強ができなくても平気だった。本が好きだったし、それで十分だと思った。
屋敷に専属のシェフがいたので、その人に料理を習った。料理人になれるように毎日コツコツ作った。その日々は楽しかったのだけれど、いつもユミコさんのことが気にかかっていた。
初めて料理コンテストに出たとき「女はバイオリズムが不安定だから料理人には向かない」と言われて、なんとなく一流の料理人になるのは諦めた。そのくらいで諦めてしまうんだから、僕は多分本気で料理人になろうなんて思ってなかったに違いない。
そもそも自分が人間かどうかも怪しいのに、女とかバイオリズムとかよくわかんねえよ。
僕は調理士として学生食堂で働くようになった。そのまま数十年がたち、僕はおばさんになった。一人称が「僕」のおばさんというのは周囲から奇異の目で見られるけど、仕方ない。ユミコさんと一緒に暮らしていた頃から、僕はだいぶ変わってしまった。それでもユミコさんが残したものは持っている。
今日、とうとうユミコさんが死んだという連絡が入った。調べてもらっていたから、前々から身体が弱っているという話は聞いていた。
お葬式にはあまり行く気がしない。行ったって僕にはどうしようもないし、どんな顔をすればいいのかわからない。ユミコさんに関係するいろんな人に会うことが、なんだかすごく僕にとっての苦しみになりそうな気がする。
僕は窓から覗く夕暮れの空を見ながら、月並みな儀式を行う。
「さよなら、ユミコさん」
結局「恋愛」というのがどういうものか今に至るまで僕は分かってない。それでもあの夜にユミコさんの頭を抱き寄せた僕は彼女のことを愛おしく思っていて、そういう自分とまだ心の中で一緒に住んでいる。
今度は――今度こそ大事にできるといいな。
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