婚約破棄された公爵令嬢は、隣国皇太子に「俺の前では泣け」と命じられる――私を虐げた王家は、六十二家に見限られました
王太子が私との婚約を破棄したその夜、六十二の下級貴族家が王家への忠誠を取り下げた。
私が彼らへ反乱を命じたわけではない。
私はただ、床に膝をついた小姓の手から、割れた硝子を取り除いただけだった。
◇
「申し訳ございません、殿下。すぐに拭きますので、どうかお許しを……」
十五歳ほどの小姓は、白い手袋を赤く染めながら、王太子エドワード殿下の靴を拭こうとしていた。
今夜は、セレディア王国と隣国ヴァルハイト帝国の通商協定を祝う晩餐会だった。国王夫妻や国内の有力貴族だけでなく、帝国からはディートハルト皇太子殿下と使節団が列席している。
その大広間で、小姓は葡萄酒のグラスを落とした。
けれど、彼が足を滑らせたのではない。私の兄オスカーが、通りかかった少年の前へ靴先を出したのだ。
「下がれ。宴のあとで処分を決める」
エドワード殿下は、少年の傷よりも濡れた靴を気にしていた。
私は小姓の隣へしゃがみ、硝子片の残った手へハンカチを当てた。
「強く握ってください。傷が深いので、すぐに侍医のところへ行きましょう」
「レティシア!」
兄の声が大広間へ響いた。
「殿下がお話しになっている最中だ。使用人など放っておけ」
「この者に責任はありません」
私は立ち上がり、兄を見た。
「兄上が、わざと足をお出しになりました」
音楽が止まった。
父は厳しい目で私をにらみ、母は扇の陰から、帰宅後の罰を予告する視線を向けている。
幼い頃から何度も見てきた顔だった。
家族の不正を指摘すれば、私は祈祷室へ閉じ込められた。兄の暴力を止めれば、食事を抜かれた。妹フローラが領民の救済費で宝石を買ったことを会計官へ知らせたときには、三日間、水しか与えられなかった。
それでも、目の前で傷つけられている人を見捨てることだけはできなかった。
「相変わらずだな、レティシア」
エドワード殿下が、心底うんざりしたように息を吐く。
「家族の体面より、名もない使用人を選ぶ。君は自分が、どちら側の人間なのかも理解できないらしい」
「正しい側でございます」
「それが問題だと言っている」
殿下の隣では、妹のフローラが淡い桃色のドレスをまとい、困ったように瞳を伏せていた。
「お姉様は、何でも正しいか間違っているかだけで決めてしまうのです。家族にも、殿下にも、それぞれ事情がございますのに……」
そう言いながら、フローラはエドワード殿下の腕に胸を押し付けている。
二人が私に隠れて会うようになってから、すでに一年になっていた。
妹だけではない。女官、伯爵令嬢、隣国から招かれた歌姫。殿下の寵愛を受けたと噂された女性は、私が知るだけでも七人いた。
それでも王家は、私へ王太子妃教育を受け続けるよう命じた。男の浮気を受け入れる寛容さも、未来の王妃に必要な資質なのだという。
「レティシア・ローゼンベルク」
エドワード殿下は大広間の中央へ進み、私を指さした。
「君は王家への忠誠を欠き、下級貴族を扇動し、家族を侮辱した。今日をもって、君との婚約を破棄する」
驚きはなかった。
「婚約解消については、承知いたしました」
答えると、殿下は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
私が泣きすがると考えていたのだろう。
「ただし、こちらの同意書には署名できません」
「何だと?」
「わたくしが王家への反逆を企て、妹を虐げ、虚偽の告発によって兄の軍務就任を妨害したと記されております。婚約解消には同意いたしますが、行っていない罪を認めるつもりはございません」
エドワード殿下の顔から余裕が消えた。
「君が集めた下級貴族たちは、王家へ税の減免を要求したではないか」
「北部の洪水被害が続く中、前年と同額を納めれば、領民が冬を越せないと訴えただけです」
「フローラの首飾りを、人前で取り上げた」
「救済費で購入された品でしたので、会計院へ返却いたしました」
「兄の軍務就任を妨害した」
「兄上が厩務員を鞭で打ち、右手を使えなくした事実を証言しました」
「貴様はいつもそうだ!」
兄が大股で近づき、手を振り上げる。
しかし、私は身を守らなかった。
兄の腕を避ければ、帰宅後、父から二倍の罰を受ける。長い年月をかけ、抵抗しないほうが早く終わると体へ教え込まれていたのだ。
けれど、その手が私へ届くことはなかった。
黒い手袋に包まれた大きな手が、兄の手首を途中でつかんでいた。
「次にこの女へ触れれば、その腕を折る」
低い声が、大広間へ落ちた。
ディートハルト・ヴァルハイト帝国皇太子殿下は、兄の手を払いのけ、私と家族の間へ立った。
漆黒の礼装に銀の刺繍。私より頭一つ以上高い体が、兄や父の姿を完全に遮っている。
「これはローゼンベルク家の問題です」
父が立ち上がった。
「娘の教育について、外国の皇太子殿下に口を挟まれる筋合いはございません」
「教育?」
ディートハルト殿下の鋭い眼光が、父を射殺さんばかりに貫く。
「大勢の前で殴ることを、セレディアでは教育と呼ぶのか?」
「レティシアには幼い頃から、家族への忠誠が欠けておりました。厳しく教えなければ、公爵家の一員として――」
「忠誠とは、不正を見ても黙ることではない」
声を荒らげたわけではない。
それでも、父は次の言葉を失った。
「ディートハルト殿下」
エドワード殿下は、不快そうな態度を隠そうともせず眉を寄せ間に入ってきた。
「これは我が国の婚姻問題です。お見苦しいところをお見せしたことは謝罪しますが、部外者にはお控えいただきたい」
「では、国家間の話をしよう」
ディートハルト殿下は、帝国使節が抱える協定書へ視線を向けた。
「ヴァルハイト帝国は、明日の通商協定へ署名しない」
大広間の空気が凍った。
「なぜです!」
そこで初めて、国王陛下が玉座から身を乗り出した。
「条件はすでに合意したはずだ。帝国は南港の使用権を得て、我が国は穀物と鉄を――」
「協定へ応じたのは、レティシア嬢が物資配分の監査を担当し、王家や公爵家による横流しを防ぐ仕組みを作ると約束したからです」
エドワード殿下が、私を見た。
「彼女は書類を運んだだけだ。交渉は王太子府が行った」
「お前は三度の会議のうち、一度しか出席していない」
ディートハルト殿下は淡々と答えた。
「しかも途中で、歌姫の公演へ出かけた。覚えていないのか?」
大広間の片隅から、押し殺したような笑いが漏れる。
「洪水後の輸送路を組み直し、下級貴族の倉庫を中継地に選び、帝国商人と国境村の代表を同じ会議へ座らせたのはレティシア嬢だ。彼女がいない制度へ、帝国の物資は預けられない」
「一人の女のために、国家間の協定を捨てると?」
「違う。信用できる者がいなくなったから、署名しないだけだ」
誰かが、私の仕事を見ていた。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
家族も王家も、私がしてきたことを余計な口出しと呼んだ。使用人や下級貴族を助けるたび、公爵令嬢らしくないと笑われた。
認められたいと思って行ったことではない。
それでも、初めて自分の歩いてきた道を見つけてもらえた気がした。
「レティシア」
ディートハルト殿下は、私の名を呼んだ。
「この国へ残りたいか?」
残りたいとは思わない。
けれど、私一人が逃げれば、使用人たちが罰を受ける。陳情書へ名を連ねた下級貴族も、反逆者として捕らえられるかもしれない。
「わたくしが去れば、巻き添えになる方々がいます」
ディートハルト殿下の口元が、わずかに緩んだ。
「やはり最初に、自分以外の心配をするのだな」
「殿下?」
「お前付きの侍女と執事は、すでに帝国使節館で保護している。兄がお前へ手を上げた時点で、近衛を公爵邸へ向かわせた」
父の顔色が変わった。
まさに使用人を人質にするつもりだったのだろう。
「下級貴族については、私たち自身が話します」
人々の後方から、年老いたハルトマン男爵が進み出た。
北部の洪水で領地の橋を失い、私へ救援を求めた人物だった。
「レティシア様は、我々へ王家に逆らえとは一度もおっしゃいませんでした。冬を越せる方法を一緒に探しましょうと、それだけをおっしゃった」
続いて、若い子爵が立った。
「救済金をローゼンベルク公爵家が別荘の改修へ流そうとした際、止めてくださったのはレティシア様です」
一人、また一人と、広間の端にいた下級貴族たちが前へ出る。
最後にハルトマン男爵が、一枚の書面を掲げた。
「先ほど、六十二家の連署による宣言書を王国議会へ提出いたしました」
「宣言書だと?」
国王の声が裏返った。
「正当な陳情を反逆と呼び、救済金の横領を告発した女性を罪人とする王家へ、これ以上、前払いの税も私兵も提供できません。独立した調査が行われるまで、王家への忠誠を停止いたします」
「それは反乱だ!」
エドワード殿下が叫んだ。
「いいえ」
ハルトマン男爵は、静かに首を横に振った。
「我々は、殿下の命令で立ったのではありません。レティシア様が、一度も我々を自分のために使おうとなさらなかったからこそ、自分の意思で立ったのです」
ディートハルト殿下が、私へ手を差し出した。
「もう一度、尋ねる。私と来るか?」
皇太子妃にするとも、幸福にするとも言わなかった。
私の人生を決めるのではなく、選択肢だけを渡してくれた。
「はい」
私は、その手へ自分の手を重ねた。
「ヴァルハイト帝国へ、連れていってください」
「承知した」
殿下の指が、逃がさないように私の手を包んだ。
「今後、お前へ手を上げる者は、家族であろうと王族であろうと、私の敵だ」
◇
大広間を出る前に、母が私を呼び止めた。
「待ちなさい、レティシア。公爵家を捨てるのであれば、家から与えた衣装も装身具も、すべて置いていきなさい」
首飾りは、十五歳の誕生日に父から与えられたものだった。
その夜、兄の不正を指摘したため、私は祝いの席から追い出された。贈り物を身につけるよう命じられただけで、自分のものだと思ったことはない。
留め具へ手をかけると、ディートハルト殿下が止めた。
「返す必要はない」
「ですが、公爵家の財産だと……」
「婚約解消同意書には、公爵家がレティシアへ与えた衣装と装身具について、返還を求めないと記されていた」
父が息をのんだ。
「それとも公爵は、自分で用意した書面の内容も読んでいないのか?」
ディートハルト殿下は自分の外套を外し、私の肩へかけた。
重く、温かな外套だった。帝国皇太子の銀紋が、胸元で輝いている。
「今後、必要なものは私が与える」
「殿下からいただく理由がございません」
「では貸す。返済方法は、一生かけて考えろ」
思わず笑うと、殿下は私の顔を見つめ、目を細めた。
「その笑顔も、今日はもう使うな」
「笑ってはいけないのですか?」
「違う。無理に笑うなと言っている」
私は痛いときほど笑う。
兄は私が泣かないことを嫌った。母は、私を完全には屈服させられないと苛立った。妹は、可愛げがないと笑った。
笑顔だけは、誰にも奪わせたくなかった。
「歩けるか?」
「はい。問題ございません」
二歩進んだところで、足から力が抜けた。
倒れる前に、ディートハルト殿下の腕が私の腰を支え、そのまま体が抱き上げられる。
「歩けます」
「知っている」
「大勢が見ています」
「見せておけ」
殿下は、呆然とする王族や家族の前を、私を抱いたまま歩き出した。
「お前が、一人で何もかも背負う必要はないと、全員に教える」
私は生まれて初めて、誰かに守られながら大広間を出たのだった。
◇
帝国使節館で侍医の診察を受けると、右の肋骨には二度折れた痕があり、左肩には古い火傷、背中には鞭傷が残っていることが分かった。食事を抜かれることが多かったため、年齢や体格に比べて、ひどく栄養が足りていないとも告げられた。
それを一緒に聞いていたディートハルト殿下は、すぐには何も言わなかった。
窓辺へ歩き、黒い手袋をはめた拳を強く握る。
「誰がやったかは、今は聞かない」
「殿下?」
「聞けば、今すぐ戻って全員を殺したくなる」
冗談には聞こえなかった。
「殺してはいけません」
「わかっている。だから聞かない」
殿下は寝台のそばへ戻り、私を見下ろした。
「ただし、今後、誰かがお前へ手を上げたら、隠さず私に言え」
「告げ口をするようで、気が進みません」
「告げ口ではない」
彼は、包帯の巻かれた私の手へ触れないよう、寝台の縁へ指を置いた。
「私へ、守る機会を与えろと言っている」
翌朝、帝国へ向かう馬車には、温かなスープや焼きたてのパン、果物が用意されていた。
「全部食べろとは言っていない。食べたいものを選べ」
「残せば無駄になります」
「余ったものは近衛の昼食になる。お前が遠慮して腹を空かせるより、よほどましだ」
私が小さなパンとスープを選ぶまで、殿下は自分の食事へ手をつけなかった。
「なぜ、わたくしを助けてくださったのですか?」
国境へ近づいた頃、私は尋ねた。
「三年前の洪水を覚えているか?」
帝国との国境を流れる大河が氾濫した年、父は食料が足りなくなるとして、帝国側から避難してきた人々を橋の向こうへ追い返そうとした。
私は父の命令に逆らい、公爵家の穀物庫を開いた。領民も、帝国の商人も、国境警備兵も区別せず、必要な分を配った。
その罰として、冬の祈祷室へ五日間閉じ込められた。
「帝国の警備隊を率いていたのが、私だ」
「殿下が?」
「身分を伏せて被害状況を見に行っていた。泥だらけのお前が、自分の外套を子供へ渡し、最後まで食料を配っていたところも見た」
私は、ほとんど覚えていなかった。
「翌日も、お前は来た。歩くたびに顔をしかめ、左手を動かせない状態でな」
祈祷室へ閉じ込められる前、兄に杖で打たれたのだ。
「お前が他の男の婚約者でなければ、あの日に帝国へ連れ帰っていた」
「それほど前から……」
「惚れた女が、他の男の婚約者だった。それだけだ」
あまりに平然と言われ、スープを持つ手が止まった。
「惚れた、とは……」
「聞こえなかったか?」
「聞こえました」
「なら、何度も言わせるな。私も多少は緊張している」
帝国の狼と呼ばれる皇太子も、緊張することがあるらしい。
「ですが、わたくしは皇太子妃には向きません」
「知っている」
「そこは少し、否定してくださってもよいのでは?」
「お前は、見逃したほうが利益になる不正でも、見つければ口にする。味方を増やすために悪人と手を組むこともできない。政治家としては、ひどく危なっかしい」
「やはり、向いておりませんね」
「ああ。だが、人が命を預ける相手としては、これ以上ない」
ディートハルト殿下は、真っ直ぐに私を見た。
「政治は私がやる。お前は、私が見落とした人間を見つけろ。私が誰かを踏みつけそうになったら、遠慮なく止めろ」
「殿下のご命令にも反対しますよ」
「望むところだ」
◇
帝国へ到着すると、私は皇宮東側の小さな離宮へ案内された。
施しを受けることへ抵抗すると、ディートハルト殿下は皇太子府救恤院の特別顧問任命書を差し出した。
「国境救済と陳情制度について、お前の知識を借りたい。報酬は規定どおり支給する。離宮の使用料も、そこから差し引けばいい」
「仕事まで用意してくださったのですか?」
「用意したのではない。必要だから雇う」
助けることが、私を縛ることにならないように。
自分の収入と立場を持ち、いつか殿下の庇護がなくても生きられるように。
彼は、そこまで考えてくれていた。
救恤院では、身分を問わず陳情を受ける日を設けた。
兵士の未亡人、給金を取り上げられた侍女、税を払えず土地を失いそうな小領主。私は一人ずつ話を聞き、救える方法を探した。
すべてを助けようとして、ディートハルト殿下に止められたこともある。
「一人を救うために、次の十人を見捨てる制度へするな」
「目の前で泣いている方へ、諦めろと申し上げるのですか?」
「違う。明日も同じように助けられる仕組みを作れと言っている」
悔しかったが、殿下の言葉は正しかった。
「やはり、わたくしは政治家には向きません」
会議後にこぼすと、殿下は私の頭へ手を置いた。
「だから私がいる」
「子供ではございません」
「知っている。子供なら、これほど執着しない」
そんな言葉を平然と残し、殿下は何事もなかったように書類へ戻った。
ずるい方だと思った。
帝国へ来て二か月が過ぎた夜、雷の音で目を覚ました。
夢の中で、私は実家の祈祷室にいた。
扉の向こうから母の声が聞こえる。
『謝りなさい。正しいかどうかは関係ありません。家族に恥をかかせたことを謝るのです』
兄の杖が床を打つ音。
妹の笑い声。
父が、翌日まで食事を与えるなと命じる声。
目を覚ましても、息がうまく吸えなかった。
扉が二度、静かに叩かれる。
「レティシア。起きているか?」
嵐で皇宮へ戻れず、離宮へ泊まっていたディートハルト殿下の声だった。
「大丈夫です」
いつものように答えた。
「入るぞ」
「大丈夫ですから――」
「お前の大丈夫は信用しないと言った」
扉を開けた殿下は、私の顔を見ると、すぐに寝台のそばへ来た。それでも、いきなり触れることはしなかった。
「夢を見たのか?」
「少し、昔のことを」
「そうか」
それ以上は尋ねず、近くの椅子へ座り、私の呼吸が落ち着くのを待ってくれた。
「殿下は、お戻りになってください。このような姿をお見せするものではありません」
「なぜだ」
「わたくしは、いつも明るく、誰に対しても公平でいなければ」
「誰が決めた?」
答えられなかった。
「お前が笑うことを、私は止めない。お前の笑顔が好きだ」
ディートハルト殿下は、静かな声で続けた。
「だが、笑っている間は傷ついていないと、誰が決めた。私の前でまで、泣くことを我慢するな」
目の奥が熱くなった。
泣けば負けると思っていた。
家族の前で涙を見せれば、もっと泣かせようとされた。エドワード殿下の前で苦しそうな顔をすれば、王太子妃には忍耐が必要だと笑われた。
だから、どれほど痛くても笑った。
「泣き方が、分かりません」
「なら、覚えればいい」
「泣けば、殿下を困らせます」
「困らせろ」
彼は少し身を乗り出した。
「私の前では泣け。怒れ。嫌なことは嫌だと言え。お前が感情を見せた程度で離れるなら、最初から隣にいる資格はない」
涙が一滴、頬を伝った。
止めようとすると、次の涙が落ちた。
「触れてもいいか?」
私はうなずいた。
強い腕が、私の背へ回る。
逃げられないよう閉じ込めるのではない。私が離れたくなれば、いつでも離れられる程度の力で包んでくれていた。
「全部話せるか、分かりません」
「一生かければいい」
私は、殿下の胸元へ顔を伏せた。
自分のために泣いたのは、おそらく初めてだった。
その頃、セレディア王国では、通商協定が白紙となった影響で穀物と鉄の価格が上がっていた。
王太子府とローゼンベルク公爵家は、自分たちの失敗を認めなかった。
不足した国庫を補うために増税を命じ、晩餐会で私を支持した下級貴族たちを、反逆の疑いで拘束しようとした。北部へ送られる予定だった救済穀物まで、王都の倉庫へ取り上げたという。
その命令へ、最初に従わなかったのはハルトマン男爵だった。
六十二家の下級貴族は王都を離れ、北部の都市へ集まった。そこへ商人組合、地方軍、下級官吏、都市の代表が加わり、暫定評議会が作られた。
彼らから帝国へ届いたのは、援軍の要請ではなかった。
セレディア王家の統治権を認めず、ヴァルハイト帝国の保護下へ入りたいという連署状だった。
「わたくしのために、国を捨てるのでしょうか」
文書を読んだ私は、手の震えを抑えられなかった。
「違う」
ディートハルト殿下は、すぐに否定した。
「お前の件は、最後の証明になっただけだ。救済金を奪い、正当な陳情を反逆と呼び、証言者を捕らえようとする王家には、もはや民を治める資格がないと、彼ら自身が決めた」
「帝国軍が入れば、戦争になります」
「侵略するつもりはない」
殿下は連署状を机へ置いた。
「評議会は、帝国軍に王家から民を守る盾になってほしいと求めている。地方軍の大半は、すでに王家の命令を拒んでいる」
「それでも、血が流れるかもしれません」
「ならば、流さない条件を決めろ」
私は顔を上げた。
「わたくしが、ですか?」
「お前は政治家に向かないが、何を守るべきかは知っている」
私は長い時間をかけ、帝国が介入する条件を考えた。
武器を置いた一般兵と官吏は赦免すること。略奪を禁じ、救済物資を軍より先に入れること。王族や上級貴族も公開裁判へかけること。旧王国の行政へ、下級貴族だけでなく商人や都市の代表を参加させること。
ディートハルト殿下は、一つも削らなかった。
「私が同行する必要はございますか?」
「ない」
彼は断言した。
「お前が戻りたくないなら、帝国に残れ。お前を旗印として利用するつもりはない」
「それでも、証言しなければならないことがございます」
「怖いか?」
「はい」
「なら、私の隣にいろ」
◇
帝国軍が国境を越えた日、戦闘は起きなかった。
地方軍は武器を置き、町の門は内側から開かれた。王都の兵士たちも、飢えた民へ剣を向けることを拒んだ。
王家を守るために集まったのは、王宮の近衛と、利益を失う上級貴族の私兵だけだった。
それも帝国軍が王都を包囲すると、半日を待たずに降伏した。
王宮の大広間には、かつての晩餐会と同じ顔が並んでいた。
国王夫妻。
元婚約者エドワード。
父と母、兄オスカー、妹フローラ。
ただし、今度は誰も玉座に座っていない。
「レティシア!」
エドワードは私を見るなり叫んだ。
「帝国を引き入れ、祖国を売ったのか!」
「いいえ」
私が答えるより先に、ハルトマン男爵が前へ出た。
「レティシア様は、我々へ反乱を命じたことなど、一度もございません」
「ならば、なぜだ!」
「だからこそです」
男爵は、六十二家と各都市の印が並ぶ連署状を掲げた。
「ご自分の利益のために我々を使おうとせず、困窮した民を見れば、身分を問わず手を差し伸べられた。あの方が命じなかったからこそ、我々は自分の意思で立ちました」
「下級貴族ごときが、王家を選ぶというのか!」
国王の叫びに、ディートハルト殿下が冷たい視線を向けた。
「勘違いするな。帝国がお前たちの国を滅ぼしたのではない」
「何だと?」
「民も軍も官吏も、お前たちを王族と認めなくなった時点で、この国はすでに終わっていた」
父が私をにらんだ。
「お前のせいで、ローゼンベルク家まで破滅したのだぞ」
「わたくしのせいではありません」
以前なら、声が震えていただろう。
「救済金を横領したのも、使用人へ暴力を振るったのも、帳簿を書き換えたのも、皆様ご自身です」
「家族へ恥をかかせて、平気なのですか!」
母の言葉に、私は静かに答えた。
「家族であることは、罪を隠す理由にはなりません」
フローラが涙を流した。
「お姉様が証言しなければ、わたくしは王太子妃になれたのよ。お父様も、お兄様も、こんなことには……」
「わたくしは、あなたから何も奪っておりません」
「帝国皇太子殿下まで奪ったじゃない!」
「私は最初から、お前のものではない」
ディートハルト殿下の声が、大広間へ落ちた。
「それに、レティシアは私を奪っていない。私が三年前から、この女を欲しがっていた」
このような場で言うことではないと思ったが、家族の顔から血の気が引いたので、何も言わずにおいた。
王族とローゼンベルク公爵家の不正を示す帳簿、使用人の証言、救済金の流れが、一つずつ読み上げられた。
私は復讐を求めなかった。
ただ、自分が見てきたことを、自分の言葉で話した。
セレディア王国は、その年の冬を迎える前に消滅した。
けれど、そこに暮らしていた人々まで消えたわけではない。
旧王国領は、自治権を持つセレディア州として、ヴァルハイト帝国へ編入された。暫定評議会を母体とする地方議会が作られ、救済費の公開監査、身分を問わない陳情制度、使用人への暴力を禁じる法が定められた。
私は総督への就任を求められたが、断った。
「一つの国を背負えるほど、わたくしは有能ではございません」
そう答えると、ディートハルト殿下は珍しく強くうなずいた。
「正しい判断だ。お前は目の前の一人を救うため、国庫を空にしかねない」
「そこまでではございません」
「昨日も、孤児院を三つ増やそうとした」
「必要でした」
「だから政治は私に任せろ」
セレディア州の統治は、現地の議会と帝国から派遣された官僚が担うことになった。
エドワードは王位継承権も王族籍も失い、北部の救済倉庫で、毎日の配給量を数える仕事へ送られた。以前は書類一枚も読まず、必要な物資を宴会費へ回していた男が、今では一袋の不足についても説明を求められている。
父は爵位と領地を没収され、救済金横領と私への監禁、使用人への暴力を黙認した罪で収監された。兄も厩務員への傷害と帳簿改ざんによって爵位継承権を失い、刑務作業に従事している。
母とフローラが身につけていた宝飾品は、被害を受けた領民への補償のため売却された。二人は使用人のいない小さな邸宅で、自分たちの食事も衣服も自ら整えて暮らしているという。
ディートハルト殿下は、処分が軽すぎると不満そうだった。
「わたくしは、もう十分です」
「私は十分ではない」
「皆様は法に従って裁かれました」
「分かっている。だから法の範囲で不満を言っている」
◇
セレディアの一件が終わっても、ディートハルト殿下はすぐに求婚しなかった。
私は救恤院の報酬だけで暮らせるようになり、離宮の使用料も自分で支払い、殿下の庇護がなくても帝国で生きていける立場を得た。
その日を待っていたのだと、春になって知った。
「レティシア」
救恤院の庭で、ディートハルト殿下は私の前へ立った。
「私の妃になれ」
「命令でしょうか?」
「願いだ」
いつも自信に満ち、望むものを自分の手でつかみ取る人が、私の返事だけは奪わずに待っている。
「お前を助けた恩で縛るつもりはない。皇太子の地位で断れなくする気もない。今のお前は、私を選ばなくても生きていける」
殿下は私の手を取った。
「そのうえで、私を選べ」
「一つ、お願いがございます」
「言え」
「殿下の前では泣けと命じるのでしたら、笑うことも許してください」
彼は一瞬だけ目を見開いた。
「当たり前だ」
「以前は、負けないために笑っておりました。でも今は、嬉しいから笑えます」
「ああ」
「怒ることも、泣くこともございます」
「全部、私が受け取る」
私は、彼の手を握り返した。
「では、わたくしをあなたの妃にしてください」
ディートハルト殿下は、しばらく私を見つめたあと、堪えきれないように笑った。
「ようやく言ったな」
「お待たせいたしました」
「三年と半年待った。今夜から一生分甘やかす」
「今夜からですか?」
「遅すぎるくらいだ」
彼は私を抱き寄せる前に、きちんと許可を求めた。
私がうなずくと、力強い腕が背へ回る。
◇
婚礼の後も、私は救恤院で働き続けている。
夕刻になると、ディートハルト様は会議の途中でも迎えに来る。
「今日は終わりだ」
「まだ陳情書が三件ございます」
「明日読め」
「一件は、橋の修理費についてです」
「橋は今夜逃げない」
「もう一件は、兵士の未払い給金です」
「担当官を呼べ。私が処理する」
「最後は、夫が妻を甘やかしすぎているという訴えです」
ディートハルト様が眉を上げた。
「誰からの訴えだ?」
「わたくしです」
彼は一瞬黙り、それから私を抱き上げた。
「では、却下する」
「歩けます」
「知っている。今日は私が運びたい」
周囲の職員たちが笑いをこらえている。
「皆様が見ていますよ」
「見せておけ。皇太子妃は、一人で何でも背負う必要がないとな」
彼は約束どおり、今も私を甘やかし続けている。
一生分を取り戻すには、まだ足りないそうだ。
私はもう十分だと思っているけれど、これだけは、何度申し上げても聞き入れてもらえない。
セレディアの野に新しい春が芽吹いた頃、私の内にも、まだディートハルト様と私だけが知る小さな鼓動が、静かに息づき始めていた。
気づけば、あの祈祷室は、もう夢に現れなくなっていた。




