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54.王の苦悩

アトセプト国との戦いに勝利してから、数週間。

バルザード王国には、平和と祝福の光が戻っていた。

フィーアは正式に王妃として戴冠し、王ファブレム、そして番のガゼルと共に、穏やかな日々を過ごしていた。


けれど――その絶対的な幸福の裏で、ファブレムの胸には静かな痛みがあった。


それは、どんなに甘い時間を共にしても、

フィーアが彼を「ファブレム様」「陛下」と呼び、決して呼び捨てで名前を呼んでくれないことだった。




ある夜。

三日間の熱に浮かされたような初夜の後、ようやく訪れた穏やかな時間。


ファブレムは、フィーアの銀色の髪を指先で梳きながら、静かに囁いた。


「……フィーア。君は、私とガゼルを対等に愛してくれた。君の選択は、私にこの上ない喜びを与えてくれた」



その声音は優しかったが、微かに影を帯びていた。

フィーアは、柔らかく微笑んで答える。


「陛下。ありがとうございます。私は、陛下の隣にいると……心から安らぎます」


ファブレムの瞳が、一瞬だけ曇った。

その呼び方――「陛下」という響きが、まるで見えない壁のように二人を隔てていた。




フィーアは、ガゼルのことを呼び捨てで呼ぶ。

共に旅をし、命を懸けて戦った仲間として、対等な絆があるからだ。


しかしファブレムには、いつも「陛下」「ファブレム様」と敬意の言葉がつく。

王としての威厳を示すその呼称は、美しくも残酷な距離の象徴だった。


ついに、ファブレムは堪えきれずに言った。


「……フィーア。なぜ、私のことを『ファブレム』と呼んでくれない?」


その声には、王ではなく、一人の男の切ない願いが滲んでいた。




フィーアは、驚きと戸惑いの表情で俯いた。

「それは……陛下は、バルザードの王であり、私の命の恩人で……。あまりにも尊い方です。私などが、名前を呼び捨てになど……」





ファブレムは、苦笑に似た息を漏らした。



「だが、ガゼルのことは呼ぶだろう」


「それは……彼は旅の仲間で、戦友でしたから」


その答えに、ファブレムの胸の奥に小さな痛みが走った。

彼がどれほど愛を尽くしても、フィーアの中の“王”という存在が、常に彼を遠ざけている。




ファブレムは、静かにフィーアを抱き寄せた。

その腕の強さには、愛だけでなく、寂しさが滲んでいた。




「フィーア。私は、王として君を愛している。

だが……それ以上に、一人の男として、君を求めている」


その声は、炎のように熱く、同時に震えていた。


「もし、君が本当に私を『番』として愛してくれているのなら――」

彼はフィーアの耳元で、囁くように言った。

「どうか……私の名を呼んでくれ。王としてではなく、君の愛する男として。“ファブレム”と」


フィーアは、息を呑んだ。



その瞬間、ファブレムの孤独な魂の震えが、痛いほど伝わってきた。




――彼は、王である前に、私の番なのだ。


胸の奥で、フィーアは静かに誓う。

次に彼の名を呼ぶとき、自分もまた「王妃」ではなく、「一人の女」として向き合おうと。

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