32.ガゼルの苦悩
ガゼルは、宿屋の片隅で、槍の手入れをしながら、ファブレムとフィーアの様子を静かに観察していた。
ファブレムは、一度フィーアの命を救うために「番の秘儀」を使って以来、一切の理性を手放したように、彼女を溺愛している。
市場での貝細工の買い占め騒動も、王としての独占欲が爆発した結果だった。
(あのバカ王め……マリアを『恋人』などと呼んで、その実、魔力の全てを注ぎ込んでいる。あの男の魔力は、マリアの魔力を完全に安定させた)
ガゼルは、ファブレムの魔力がフィーアにもたらす圧倒的な安寧を肌で感じていた。それは、彼の魔力では決して与えられない、魂の根源に作用する力だった。
ガゼル自身マリア(フィーア)に一目惚れし、彼女の「番」になりたいと本能的に願っていた。しかし、獣人の世界において、「番」は、魂の共鳴という抗えない運命によって決まる。
ファブレムとフィーアの間に流れる濃密な魔力の繋がりは、ガゼルに、自分が既にその運命から外れていることを、残酷なまでに突きつけていた。
ガゼルの心は、激しい切なさに満ちていた。
(俺の方が先に、彼女の孤独と力を見つけた。俺の方が先に、彼女を仲間として迎え入れた。だが……)
彼は、フィーアがファブレムの傍にいる時に見せる、微かな安堵の表情を知っていた。あの表情は、「マリア」としての孤独な仮面が外れた、一人の女性の素顔だった。
ガゼルは、フィーアの幸福を願っていた。だからこそ、命を救い、安寧を与えているファブレムを排除することは、できなかった。
「ちっ……」
ガゼルは、手に持った槍を握りしめた。彼は、フィーアへの恋情を、「仲間としての誓い」という、別の形に変えて昇華させることを選んだ。
(番にはなれなくとも、俺は最強の仲間でいられる。彼女の旅路を、誰よりも近くで守り抜く。その権利だけは、誰にも渡さない)
そのとき、ノックスが静かにガゼルの隣に歩み寄ってきた。ノックスもまた、王への忠誠とフィーアへの敬愛が入り混じった複雑な感情を抱いている。
「殿下。陛下は、マリア様を王妃として連れ帰るおつもりでしょう。我々の旅は、ここで終わりになるのでしょうか」
ノックスの問いは、ガゼルの心に突き刺さった。
「終わりにはさせない。彼女の旅は、世界の調和を取り戻すことだ。ファブレムは、今は愛でしか頭がいっぱいではない。俺たちが、彼女の意志を尊重し、最後まで連れて行く」
ガゼルは、ノックスの肩を力強く叩いた。
「ノックス。俺たちの忠誠は、フィーアの使命のために使う。王族の思惑など、どうでもいい」
ガゼルは、恋情を使命に変え、フィーアの「守り手」としての決意を新たにした。彼の瞳の奥には、静かで強い炎が宿っていた。
(マリア。俺は、お前が本当に笑えるようになるまで、絶対に離れない)




