匠と誠二の、始まりの物語④
――どんなに部屋に戻りたくなくても、どんなに顔を合わせたくなくても、結局ここ以外に行けるところなんてなくて。
「葛西、曲かけていい?」
夕食も入浴も終わって、消灯まであと一時間。
いつも通り宿題を机に広げて、出来るだけ同じ部屋にいるもう一人を意識しないように振る舞って。
けれどこんな風に彼は変わらない。
「……あんまりうるさいのは止めろよ。また周りから怒られても知らないよ」
「わかってるって。ボリュームもちっちゃくしとくから平気平気」
松賀寮は学生寮のわりには設備が行き届いている。
特に三年になってからは相変わらず二人一部屋とはいえ、簡単なストレッチもできるくらい広い部屋を割り当てられる。
ベッドも二段ベッドではなくちゃんと別々で、机もクローゼットもドアから見て、全部左右対称的に置かれていて。
だから後ろさえ振り向かなければ、藤澤の姿を見なくて済む。
そのためだけに今は机に向かっているようなものだった。
ほどなくして曲が流れる。
藤澤にしては珍しく、男性ボーカルのバラードだった。誰かは知らない。
ただ、それは日本語ではなかった。訝しむ間もなく、藤澤が笑って話しかけてくる。
「結構いいと思わない?これイタリアで今人気の歌手なんだって」
「……そう」
引き抜かれたイタリアのそのチームメイトとは、すでに顔なじみだと聞いた。
もちろん藤澤からではない。ナショナル選抜の何人かから聞いた話だ。
藤澤は何処に行っても何をしていても大抵は葛西の名前を出す。
だから何時だったか試合を見に行った時に、紹介される前から自分を知っていた彼らと仲もよくなって、それ以来何かと付き合いがあった。
『葛西、お前……』
『え?』
はっきりと教えてくれたのはその日も三人一緒にいたナショナル選抜のチームメイト、若菜、真田、そして門野の三人だった。
いつもと同じように他愛のない話をしていた時、突然出た話題が藤澤に降ってわいたスカウトについてだった。
強張ったのは、話を振った若菜で。
『――知らねえのか?』
『……え……?』
『だから、藤澤がイタリアに――』
ゆうと、と止めたのは真田だった。門野が少し躊躇って、けれどそのまま教えてくれた。
藤澤がスカウトされたことも。それを受けた場合、出発がもうすぐそこだということも。
それに……藤澤が悩んでいることも。
そして藤澤がイタリア側からのスカウトを正式に受けたことでさえ、話は藤澤からではなく彼らから聞いた。
それなのにCDを色々送ってくれたんだと藤澤は言う。
……その送ってくれた相手が誰だかなんて一度も話してくれなかったくせに、葛西は知ってるよね?とでもいわんばかりの口調で。
「イタリア語って結構難しいけど、なんかリズムとか面白い感じ。英語より好きかも、俺」
「そう」
「音楽で聞いてれば耳が慣れるっていうのホントかな?これで覚えろってメッセージ付きだったんだけどさ」
「さあ」
広げた数学の教科書もノートも、何一つ役に立たない。
握りしめたシャーペンが、ほんの少し鈍い音を立てた。
ひとしきり話して気が済んだのか、それ以上、藤澤は声をかけてこなかった。
それに内心ほっとしながら、けれど何かが苛々してくる。
後ろで机に向かっているだろう彼がどんな気持ちでいるのかはしらないが、葛西はぐちゃぐちゃだった。
認めたくなかったけれど。
間下と話した後、しばらく葛西は部室から動けなかった。
結局日誌もろくに書けず、日も沈んでしまったので渋々寮へ戻った。
その時に思った。
会いたくない。何もしたくない。何も話したくない。何も考えたくないと。
それは藤澤と顔を合わせるのが嫌だったからだ。
会えば今日のあの、自分でもよくわからない行動について何か言われることは目に見えていたし、間下の追い打ちのような言葉が更に傷を抉っていた。
もう本気でこれ以上何も考えたくなかった。
――惨め、だからだ。
なのにまた、藤澤は変わらなかった。
ある日突然自分を『葛西』と呼び出したそのときとまるで同じように、何か言われるんじゃないかとびくびくしていた自分を前にただ『おかえり。遅かったじゃん』としか言わなかった。
――まただ。
また、わからない。
何も言わない藤澤は彼の一挙一動にどこかびくびくしている自分に気づきもしないで、それならこっちだって普通に振る舞ってやると努力している自分に、こんな風に声をかける。
そして些細なその内容にいくつもの知らされていない事実を突きつけて、そうして一人満足するのだ。
……なんなのだろう、自分は。
友達だと思っていたのに。親友だと、思っていたのに。
スカウトされたことも、行くと決めたことも話してもらえなかった。
噂のように他人から聞かされたその内容に驚いて、なのにどうしても直接自分から聞けなかったのは彼が突然、『葛西』と自分を呼んだから。
意地だった。
自分からなんて絶対聞いてやるかと思った。腹がたった。
でも藤澤は何一つ気にしてはくれない。
こんなにぐちゃぐちゃになって、自分でもわけのわからない行動を取るようになり出して、それでも彼は何も聞いてはこない。
変わった呼び名も、話してくれないその理由も、こんなに自分一人が動揺してうろたえていることも、藤澤は何一つ気にしちゃくれない。
――もしかして……自分たちは友達でさえ、なかったのか。
「……っ……」
ふと思い浮かんだ考えに泣くなんて、絶対しない。けれどこみ上げそうになる何かに、声を挙げそうになる。
それを必死で堪えて、堪えて、葛西は立ち上がった。
とにかく今は部屋を出よう。消灯まででもいい。どこかで時間を潰して――。
しかし。
「……やっとこっち見た」
立ち上がってドアに向かいかけた葛西を止めたのは、椅子の背に腕をかけ、まっすぐと葛西を見つめる藤澤だった。
机に向かっているとしか思っていなかったのに、藤澤はずっとずっと葛西を見ていたのか。
「やっと俺のほう、見た」
「――っ何言ってんだよ、お前っ!」
かっと血が頭にのぼる。衝動に任せて殴りかかる自分を止められなかった。
何を……こいつは何を言っているのだ!
「お前がなんでそんなこと言えるんだよっ!?なにやってんだよ……っお前なんか!」
叩かれるその手を藤澤は止めなかった。殴るたびに手がじんじんと痺れる。
遠慮も何もあったもんじゃないのだからそれは当たり前で、でも一度始まってしまったそれを止められなかった。どうしても。
「話さないのだって、何にも言わないのだってお前じゃんかっ!やっと見ただってっ?いい加減にしろよ、お前っ!そんなに俺を振り回して楽しいか!?」
「――そんなのそっちだってそうじゃんか!」
不意に藤澤は叫び返した。
叩いてくる葛西の両手をあっさりと捕まえて、椅子から立ち上がって。
そのまま突き飛ばされた。
「俺の台詞じゃん、それは!」
「――」
あまりのことに声も出ない。
突き飛ばされた先にあったのはベッドで、だから怪我などはしなかったけれど。
我に返るには十分な衝撃だった。
藤澤は今まで一度も見たことのない様な顔で、そこにいた。
起きあがろうとした葛西を止めて、そのまま胸ぐらを掴んで。
今までにないほど近くで見た藤澤は、葛西の知る藤澤とは全く違う顔だった。
「なんにも聞いてくれなかった!わかってる?ねえ、わかってる?何にも……何にも聞こうとしなかったんだよ、匠は」
――匠。
「どれくらい待ったと思う?いつ聞いてくれるのかって俺、ずっと待ってた。スカウトのことだって、俺がそれを受けたことだって。――匠のこと匠って呼ばなくなったことだって。何にも聞いてくれなかったのはそっちじゃんか……っ」
縋るような、叩きつけるような声で。
「俺のこと、何にも気にしてくれなかったのは匠じゃんか……っ!」
……そして、泣き出しそうな声で。
「匠、匠、俺はそんなにどうでもいい相手?何処に行こうが、何をしてようが関係ない?俺は匠にとってそんなどうでもいい存在?」
「ばっ……馬鹿かお前はっ?それはこっちのセリフだ!何処に行くのも何するのも、別に俺に話さなくったっていいってことなんだろ!?友達でも何でもないからあんな……」
「だってしょうがないじゃん!」
――何が!と叫び返そうとして、出来なかった。
藤澤の目に圧されて、叫び返せなかった。
見たことない目。見たことのない……顔。
「――匠。俺はね、お前が好きなんだよ」
絞りだすように紡がれた言葉に、葛西は息を呑んだ。
「友達じゃない。友達なんかじゃなくて……」
「――」
「女の子を好きなのと同じように。……俺は匠が好きだよ」
だから、言えなかったんだと藤澤は呟いた。