匠と誠二の、始まりの物語②
「キャプテン。――キャプテン」
「え……あ、うん。何?」
珍しく監督が用事で出かけるとのことで、今日の練習はほとんど自主トレに近いミニゲームと決まったのはつい一時間前。
レベル別に割りふった紅白戦をしっかりある種のテストとして観戦していたはずなのに、どうも意識がそれていたらしい。
躊躇いがちにかけられた声は、一年のもの。
そういえば二軍の中でも近々一軍の控えへあがれるんじゃないかと思っていた FWのものとはいえ、あまり身近にある声じゃない。
それとキャプテンとそう呼ばれたのも、とっさに気づかなかった原因だろう。
なんだかんだ言っても、やはりキャプテンは渋沢先輩だと今でも無意識のうちに考えているところがある。
「Aグループの紅白戦、終わりました。これが結果です」
「ありがとう。第三グループを始めてくれる?」
「はい。あ、間下先輩が三軍のミニゲームを始めてもいいか聞いてこいってことなんですけど……」
「……ああ、うん。そうだね。あと……十五分もすればこっちが終わるから、そっちに行くよ。まだグループ分け……」
そこまで言ったところで聞き慣れた高らかなホイッスルに、葛西が思わずグラウンドに目を戻せば、ちょうど藤澤がゴールを決めたところだった。
口々に叫ばれる言葉を聞けば、どうやら三人振り切ってのゴールらしい。
味方からも敵からもぐちゃぐちゃにされながら、それでもいつもと同じ笑顔で藤澤は笑っていた。
「……キャプテン?」
そんなに遠い目をしていただろうか。
自覚はなかったが、この頃、藤澤に関することについてはあまり取り繕えている自信がない。
だから内心少し焦りながら話を元に戻すが、しかし彼はあまりおかしいとは思わなかったようだ。
「やっぱすごいですよね、藤澤先輩。七月の終わりにはイタリアに行かれるなんて、冬賀でも初だって聞きました!」
「……そうだね。確かに初めてのことらしいよ」
ただ本音とは逆方向に思われたらしい。説明もそこそこに、彼は笑う。
無理もない。藤澤はこのサッカー部のエースで、誰の目から見ても頼れる、自慢の選手だろう。
後輩にしてみればそれこそ尊敬してもたりないくらいの、先輩。
それは藤澤が自然体だからできることなのだけれども、先輩ぶった演説も偉そうなところもなく、わけ隔てなくまるで友人のように接してくる藤澤は、特に人気も高い。
「藤澤先輩、向こうからスカウトされたって本当ですか?」
「ナショナル選抜の試合で向こうチームと当たったときにされたみたいだから、よくは知らないけど」
「それにしてもすごいですよね。俺、藤澤先輩が目標なんです。あんな FWになりたくて、冬賀受けたんです!」
「……そう」
だから、彼のような後輩は少なくない。
でもそれをいつもどおりに聞くことが、今は辛かった。
「じゃあ間下に伝えておいて。それから三軍のみんなにもウォームアップ始めるように指示してくれる?」
「はい」
駆けていくその姿を見送って、それから葛西はひとつため息をついた。
なんだかぐちゃぐちゃしているこの状況は、日に日にひどくなっているような気がする。
「かーさいっ!」
どんっと背中に衝撃を受ければ、その当の本人がそ知らぬ顔で抱きついていた。
よくやられることだ。それこそこんなことは一年の、それも初対面のときからやられた。
「なあっ!見てた?さっきの!めちゃくちゃ綺麗にきまったんだぜ」
「……」
「ちょっと久々で嬉しかったかも。なんていうか、楽しい?」
「……そりゃよかったな。試合終わったんだろ。結果は?」
とっさに、乱暴に振りほどきたい衝動を、葛西は必死で押さえ込む。
「3-1で俺のほうの勝ち」
「じゃあ休憩入って。次は……二軍と三軍だな。少し長めに見たいから十五分の前半後半戦でやるのがいいか……」
「……葛西、怒ってる?」
「誰が?」
今は部活中だ。そして自分はキャプテンだ。
そう言い聞かせてなかったら、きっと反射的に振り払っていたその手が、少し困ったように空をかき、そしてぽんぽんと葛西の頭をなでた。
「藤っ……」
「ちょっと疲れてる?俺、ちゃんとやるから少し休んでてもいいよ」
くるりと振り向かされれば、いつもの、本当にいつもと変わらない目でこっちを見ていて。
「副キャプテンに任せなさい。ちゃんと選手のレベルチェックもしとくし」
そんな風にあっけなく言うのだ。
その原因が誰だと思っている!と場所も考えず叫びたくなって、でもやっぱりできなかった。
常識にとらわれてばかりの自分だということは葛西が一番よく知っている。
「……別に大丈夫。疲れてなんかいないし、お前に任せておいたらどうなるかわかんないし」
「あ、ひっでー。俺だってやるときはやるんだぞ!」
「そんな年に一回、あるかないかのことなんか当てにできません。――二軍、集合!」
それ以上何か言われるのが嫌で、そのまま二軍を呼び集める。
そうしたらやっと藤澤は離れてくれた。重みが、熱を持った腕がいなくなる。
――いなく、なる。
「……葛西?」
本当に無意識だった。けれど藤澤の声に、すぐさま我に返る。
離れていく腕を不意につかんでしまった己の右手を叱咤して、藤澤の声には気づかない振りをした。
「Cグループはビプスをつけて!十五分ずつの前半後半戦でいくから、ある程度の作戦を立てること。他はBコートに集合。三軍と試合をする」
指示に声を上げてしまえば、もう何の声もしない。
藤澤が黙ってじっとこちらを見ていることは知っていたけれど、とてもじゃないが今は振り向けなかった。
離れていく体温に、とっさに縋るように腕をつかんでしまったなんて、認めたく、ない。
「おい藤澤――」
やがてそんな声が聞こえて。
そうしてやっと水飲み場へ向かっていく気配に、葛西はまたひとつため息をついた。