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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

虐げられた後に溺愛されていた妻ですが、旦那様が記憶喪失になりました

作者: 水流花

 私はアンナ。フォースター伯爵家の前妻の娘。

 生まれてから嫁に出されるまでの18年間、伯爵家で虐待に遭い続けた不幸な貴族の子供。


 私を産み落とすと母は亡くなり、父は後妻をすぐに娶った。義母の生んだ弟が伯爵家を継ぐことになり、妹は蝶よ花よと育てられ、これ以上なくはっきりと私はいらない者として存在していた。

 どうやら私の産みの親は、妾であった義母に相当酷くあたっていたらしい。「何度も死んで来いと罵倒されたのよ!私は!」そんなことを言っていた。義母としてはやられたことを似た顔の娘に返しているだけだったようだ。


 母の生家はすでに没落していた。助けを求める先もなく、最低限の世話があるだけの日々。ろくな教育も受けられず、日ごと呼び出され折檻されていれば、体はやせ細り、傷だらけの、人の声に怯えるみじめな人間が出来上がる。


 そんなある日『政略結婚』で嫁がされた。

 お顔に傷のある醜い若き伯爵に、お金で売られるような婚姻だった。サイズの合わない妹のお古のドレスを着せられ、メイド一人を連れて馬車に揺られ遠い伯爵領に着く間に、人の噂を耳にした。


『伯爵様には淫婦と噂の悪女が嫁いでくるんだって』


 庶民にまで出回る噂話がいかほどのものか分からなかったが、噂の出どころは、なるほど所かまわず男を漁ってる妹のことか、と理解する。悪事の噂を私に押し付けていたのだ。


 伯爵家に着いてからは、執事も侍女もメイドも下働きも、皆一度は私の姿を見て固まった。

 考えていることが手に取るように分かった。『痩せすぎ。骨しかない。髪手入れされてない。傷がある。手が荒れてる。ドレスぶかぶか。胸が小さい。噂の美女ではない』大方こんなところ。


「御迷惑おかけしてすいません……よ、宜しくお願い、いたします……」

「…………誠心誠意お仕え致します」


 旦那様とはその日の夜に一度だけ会ったけれど、私の顔もろくに見ずに「お前の父親が俺にしたことは、脅迫だ。金を与える代わりに寄越してきたのはお前だ。好きに過ごせばいいが、俺がお前に関わることはないと思ってくれ。お前も関わらなくていい」と言って去ってしまった。そして暫く屋敷にも帰らなかった。お顔も良く分からなかった。


 それからは伯爵家で丁寧に世話をしてもらった。入浴も食事も、してもらったこともないお世話をされて恐縮しながらお礼を言い続けていると、みんなが泣きそうになっていた。折檻の痕に優しくクリームを塗ってくれていた侍女に、誰もが優しく接してくれてここは天国のようですね、と言うとついに泣いた。


 ある日旦那様がお怒りになりながら帰ってきた。


「屋敷の者どもを誑し込んでいると聞いた。どういうことだ」


 その時の私は伯爵家が用意してくれたサイズの合うドレスを着ていて、よく食べて多少健康さを取り戻していたから、それなりの貴族の女に見えていたようだ。

 困ってしまって、けれど嫌われないようにと返事を悩んでいると、怒鳴られる。


「その目だ。蔑む目線を隠そうともしない、お前のような女が一番嫌いなんだよ……!」


 忌々しそうにそう言うと、背を向け出て行こうとする。

 慌てて腕を取り、「お、お待ちくださいませ……」と小さな声で引き止めると、射るような目線を向けられる。


「私は、そのようなことは決して……」

「……」

「お話を……聞いて頂ければ……」

「それは演技なのか?」

「え?」

「体を押し付け、弱々しい女のふりをするのは、どういう意図だ?」


 意図?

 訳が分からず旦那様を見上げれば、憎しみの籠っているかのような眼差しを向けられる。


 くそ、と憎々しくそう言いながら私をベッドの上に押し倒し「子供を作れば満足なのか」とドレスを捲し上げてきた。怖かった。強い力で押さえつけられていた。逃げられない。だけど逃げることも出来ない。これは旦那様なのだ。どんなに辛くて悲しくて痛くても受け入れなくてはいけない。だけど私を殺しそうなほどに乱暴に扱うこの人が怖い。気が狂いそうな恐怖が襲う。息が出来なくて涙がこぼれおちたところで、旦那様が固まった。「これは」と呆然と言っている。私の体を見下ろして、そうして私の顔を見た。聞いていないのかしら。使用人はきっとみんな知っている。聞いていないはずないのに。


「なんだこの、体中の痣と傷は……?」


 旦那様が私をまっすぐに見つめたから……この時、旦那様のお顔を私は初めてまともに見た。

 金色の髪に整った顔立ち、それだけなら女好きしそうな優男なのに、額に大きな傷跡がある。ナイフかなにかで切り付けられたのだろうか。この若き伯爵が醜いと呼ばれる所以だ。

 怯えて泣きじゃくる私に、旦那様はただ「すまない」と言ってドレスを直して出て行った。


 その日からまた屋敷の中が変わった。

 旦那様は毎日屋敷に帰ってくる。使用人たちと同様、私に優しくしようと接してくる。誠心誠意謝って、二度と許可なく触れないとまで約束をしてくれた。

 そうして優しく温かな時間だけが過ぎていく。怯えさせられるものも怖いものもない場所で、お腹が満たされ、教育を受けられ、趣味を与えられ、日々満たされる。

 旦那様が私の生家のことを調べて不正を明らかにしてくれていたらしい。実父は処罰され叔父が伯爵家を継ぐことになるという。義母と異母弟妹はどうなるのだろうか。興味もないので特に聞かなかったけれど、旦那様は報いは受ける、と言っていた。


 時間だけが過ぎていく。もう一年経っていた。私にとってはただ心地いいだけの時間。だけど旦那様にとっては違っていた。屋敷のみんなが温かい目で見守ってくれているのを感じていた。


「愛してるアンナ」

「私など……愛される価値もありません……」

「俺に愛を教えてくれたのは、お前だ。お前に愛される価値がないというなら、誰にあるというのだ」

「……」


 私は旦那様の愛の言葉に応えるつもりはなくて。不思議なほどに、自分の中の罪悪感に弱い旦那様は、許可なく私に触れない約束を、死ぬまでだって守ってくれそうだった。

 愛を与えられたこともない私に愛は分からない。それにきっとそれは、無理やりドレスを脱がそうとするような男性から与えられるものではないと思う。

 妻としての義務と言われたら応えただろうけれど。それを言う権利があっても決して言わない旦那様。立場の弱い私は、旦那様の口約束に甘えたまま時を過ごした。愛などというものを求められても気持ちが付いていかない。愛ってなんなのだろう。情は湧いている。だけどよく分からない。心の中に小さく芽生えている何かは、愛なのだろうか。きっとこのまま何年も過ごすのだろう、そう思っていたとき。事件が起きた。






「大変です、奥様!旦那様が事故に遭い、記憶を失くされていると連絡が入りました」






 旦那様の名前は、アンドリュー・バレット。27歳の若き伯爵だ。


「……お前は誰だ?」


 彼は屋敷に連れ帰られ、ベッドの上に寝かされていた。寝起きのようなハスキーな声が響く。

 乱れた金色の髪に、具合が悪いのか潤んだような瞳。首元のボタンがはずされ、汗ばんだ肌が見える。

 社交界で『醜い傷さえ無ければ』そう言われ続けた本当なら美しい男。


「……私がお分かりになりませんの?」


 彼は胡乱な目で私を見つめ、舌打ちしてから、吐き捨てるように言った。


「妻、と言う女か。お前みたいな、お綺麗な貴族の女が俺は一番嫌いなんだ。早く出て行け」


 心がドキリと跳ねる。それはずっと昔に聞いた台詞にそっくりだ。


「…………懐かしすぎです旦那様」

「は?」

「そのやりとりは二年前に終わってます」

「……」

「今はもう、二つ先くらいのステージに辿り着いてます」

「ステージ?」

「最初のステージは今のように旦那様が私を傷つけ、罪悪感で押しつぶされそうになるところです」

「…………」

「次は許し合えるかどうかに一年以上掛けました」

「許し…………」

「今は私たちが愛し合えるのか確認しようとするステージに入ってました」

「…………」


 疑いだけだったはずのアンドリューは私の体を上から下まで眺め回した。私の台詞から何やら考えているようだけど。今の私は旦那様含めた屋敷のみなさんからの愛情をたっぷりと受け、輝くような美貌を取り戻している。


「ふっ……ふふ、ふふふ!」


 お腹を抱え笑い出す私をアンドリューは呆気に取られて見る。


「本当に人生はいろんなことがあるのね。悪いことって出来ないわ!楽しい。生きてて良かった。私も、あなたも……」


 豪快な笑顔を浮かべると品もなくばさりと音を立ててベッドの横に腰かける。

 足を組み、膝に肘を付き手のひらに顎を乗せてから、旦那様をニヤリと見上げる。彼は私の柄の悪い態度にたじろいだ。


「もう、猫を被っているのも疲れましたの。そうですね。私は本当に悪女なのかもしません。ちょうど結婚してからの記憶がないんですってね?私のことをきっと忘れたかったのかも知れませんね」


 楽しくて仕方がなくてそう言うと、不思議な程アンドリューは悪意の籠らない眼差しを私に向けてきた。ただ目を離せずにいるように、表情もなく私を見つめている。


「ゆっくり話をしましょう。お互いにちゃんと知り合って、追い出したかったら出せばいいわ。私は最初から市井で暮らしていくつもりだったのだから」


 今度は怒りの籠らない瞳で、彼は「……話を聞こう」と言った。







 アンドリューが馬車の事故で負ったという傷が治った頃、私は町はずれのさびれた場所にある孤児院に彼を案内した。

 庶民に見える服に着替えて、と言ってもお忍び貴族くらいの服装なのかもしれないけれど、アンドリューは帽子で額の傷を隠している。


「アンナ!!」

「アンナ今までどうしてたんだよ!」

「わー!おねえちゃん!!」


 私の姿を見つけた孤児院の子供たちがワンピースに縋りつくように取り囲んだ。私は笑顔で抱きしめ返してから言った。


「みんなー元気だった?」


 わしわしと頭を撫でると子供たちは喜んだ。


「うん」

「アンナも?」

「いっぱい届いてたよ、アンナからの贈り物」

「おにいちゃんたちも元気?」

「時々帰って来てるよ」

「アンナのこと心配してた」

「そうだよねー、長い間会ってないもんねぇ」


 手を引かれて孤児院の中に連れ込まれそうになり、振り返るとアンドリューが呆気にとられたように私たちを見守っていた。「アンドリュー入るわよ」というと素直に従ってくれる。勝手に呼び捨てにし出しても彼は何も言わなかった。


 部屋の中で子供たちに取り囲まれ、一通り相手をしている間も、アンドリューは黙って私を見つめていた。所在なく立ち尽くす様子にちょっと揶揄ってみたくなって、「あそこのおにいちゃん、すっごくカッコいいのよ」そう子供たちに言うと、子供たちのキラキラと視線が彼に向けられた。


 「何を……」そう小さく呟いた彼はあっという間に子供たちに囲まれ手を引かれて座らせられる。「にいちゃん誰?」「アンナの恋人?」「確かにお顔かっこいい」矢継ぎ早に浴びせられる言葉に返事も出来ないでいるうちに、彼の帽子が子供の体に引っかかって落ちてしまう。


 彼の額から鼻筋に伸びた大きな傷跡が露わになってから、パサリと金色の髪が額に落ちる。

 動揺するように身を引いた彼を追いかけるように子供たちがわっと歓声を上げた。


「かっこいい!」

「すげー!!」

「男の勲章付けてる!」

「めっちゃくちゃかっこいいじゃん」

「アンナすげーいい男ひっかけてるよ」

「おにいちゃんアンナに騙されてない?大丈夫?」

「…………」


 目が点になっているアンドリューが子供たちにもみくちゃにされている間、私はお腹を抱えて笑ってしまった。こんな彼の顔を見たのは初めてではないだろうか。連れて来られて良かった。これが最後になるのだとしても、こんな場所があることを知ってもらえたなら、もう彼に対して後悔も残らない。


「……アンナ、どういうことなんだ?」


 縋るような目線で尋ねられて、私はふふふと笑う。


「八年前までの戦争で、みな家族を亡くしました。あの一方的な略奪の争いの中で、兵士たちが傷だらけになりながら、命がけで守ってくれたことを知らぬ民など居りません。それは戦に出られたアンドリュー様とて同じこと。私たちは、みな、勇気ある戦士たちを平等に英雄のように思い感謝しています」


 ただ本当に英雄というにはあまりにも雑な扱いで子供たちに取り囲まれているけれど……。貴族社会では怖がられている彼の容姿も、庶民の間ではこの程度の扱いなのだと、きっと彼はそんなことも知らずに心を閉ざして生きていたのだろうと思う。


「もちろん私も。尊いと思っても傷跡そのものを恐れたことはありません」

「…………」


 扉が開きシスターが入ってきた。突然の訪問を詫びたけれど、シスターはアンドリューの姿を見つけると私を抱きしめて涙を流して喜んでくれた。何か誤解されているようだけど私はシスターを抱きしめ返して三人で話したい旨を伝える。







 シスターが伯爵家からの資金援助の礼を言うと、アンドリューは少し考えていた。私の願いで執事を通して叶えてもらっていた援助だ。記憶を亡くした今どこまで聞いているだろうか。


「アンナ様が最初にいらしたのは、まだ八歳のころ。やせ衰えた小さな子供でした」


 個室の中で、シスターにはアンドリューに私たちの知り合った経緯を説明してもらえるように頼んだ。


「すぐにも保護してあげたかったけれど……伯爵家のお嬢様だと分かり、私たちには何もしてあげられる力もありませんでした。当時、前任の院長が不正問題で処罰され、残された私たちは食べるものにも困る日々を送っておりました。悪い噂のある孤児院などに援助の手を差し伸べてくれる方などおりませんでした。毎日が生きるか死ぬかの日々でした」


 それは私が屋敷を抜け出して訪れたときのことだ。


「けれどお嬢様は母親の形見を売って、私たちに分けてくださいました。その時から私たちは協力関係になりました。代わりに私たちはお嬢様に逃げ場所としてのこの場所を提供しました。私たちに出来たのは簡単な食事とそして文字を教えてあげることだけ。けれど賢いお嬢様はわずかな蔵書も全て読み、ご自身で学ばれていきました」


 私は立ち上がると別室に続く扉を開けた。そこには思った通り私のメイドが控えていた。


「メリーも証言してくれる?」

「はいお嬢様」

「お前……」


 伯爵家から一人連れて来たメリー。アンドリューは見知った顔を見て驚いている。赤毛を後ろで一つに束ねた私より五つ年上のメイドだ。


「前妻の子供であるお嬢様は、奥様とお子様たちから酷い虐待を受けておりました。昼間は顔も見たくないと離れに閉じ込められ、ろくな食事も与えられず、まともな勉学の機会もありませんでした。夜になると呼び出され酷い折檻を受けておりました。私は田舎に帰ろうかと思ったときに、ふと思い立ってお嬢様に逃げることを提案しましたが、お嬢様は首を振って、逃げないけれど外を見てみたいと言いました。それからは、昼間は孤児院にやって来て、夜は屋敷に戻る日々を続けられていました。明け方からは図書室に籠られ学ばれていたようですが。孤児院へご結婚まで援助していた資金はすべて、お嬢様のお母様の形見の品を売却したものです。奥様は触れるのも嫌だと離れにお嬢様と共に押し込めておりましたから」


 その後メリーは田舎に帰らず私の側にいてくれて、結婚しても付いて来てくれた。私にとってたった一人の家族のような存在がメリーだ。


 アンドリューは呆然とした様子でその話を聞いていたけれど、私に視線を移してきた。話の内容と、貴族然とした私の容姿を見比べているのだろう。

 生まれというのは大したものだ。輝くシルバーブロンドの髪と緑の瞳を持つ私は、伯爵家で磨かれ教育を受けた今それなりに見えてしまっている。


「……そんなわけで、私はほとんど孤児院育ちの子供と変わらないの。貴族子女としての教育なんて……付け焼刃程度にしか受けてないわ。社交なんてなにも出来ないだろうし、作法もほとんど知らないの。私が貴族であるのは本当に血だけ。貴族の妻なんて無理よ。父親のせいとは言え、何も言わず騙して悪かったと思ってるわ」


 私の台詞にシスターが私とアンドリューを交互に見ている。一体何の話をしに来たんだろうと思っているんだろう。

 メリーはなんだかすっきりした顔をしている。いままでずっと気をもんできていたんだろうから当然か。


 アンドリューは黙って私たちの話を聞いていて、そうして「……良く分かった」とだけ静かに言った。

 考え込むようにしているアンドリューに帰りを促し、私はシスターに手紙を渡した「これをあの子たちに渡しておいてくれる?」「ええ、分かりました」


 それは、今はもう孤児院を卒業している、社会で働くようになった仲間たちに向けたお願いの手紙だった。




 先に院の外に出ていたアンドリューは戸惑うように立ち止まっていた。その横に並び笑顔で言う。


「私はね、ここの景色がとても好きだったの」


 生活が困窮していても、それでも子供たちが無邪気に笑っていて、その笑顔を自分にも向けてくれていた。立場が弱く、私も子供たちも道端に咲く小さな花のようなものだったけれど、その姿は力強く輝いている。


「ずっと私を支えてくれていたのは、太陽に照らされているようなこの場所の光景だったのよ」


 アンドリューは私をちらりと見てから「……そうか」と言った。











 しばらくして、アンドリューから話がしたいと言われ、彼の部屋に呼ばれた。机の上に本のようなものが置いてあった。


「俺の日記だ」


 と彼は言った。


「全部書いてある。お前が訪れてからの日々は特に詳細に。まるで忘れないように、忘れても思い出せるように、間違いのない俺の字で、信じられないような情熱を込めた文章で日々が綴られている。読んでもいい」

「いいわよ別に、興味ないもの」


 そういうと彼は少しだけ傷付いた顔をした。視線を落とし、眉根を寄せると低い声で言った。


「ならば要約すると……俺は相当にお前を愛していたようだ」

「……」


 ふむ、と目前の彼を観察する。心なしか顔が赤い。

 受け入れがたい事実が書いてあった、って表情なのかしら?


「疑ってはいない……思い出せないだけだ」

「愛ってなんなのかしらねぇ」


 愛だの恋だの。そんな気持ちを抱ける隙もないような人生だったのだ。……最近までは。


「知らん……思い出すことが出来ない」

「そうなの?ほかに愛してきた人いたでしょう?愛人もいたんじゃない?」

「……そんな印象を持たれていたのか俺は。この日記を読む限り愛人はいないし、愛した女もいない」

「……意外ね」

「……」


 結婚だけ私として、愛人と別宅で暮らすくらいのことを考えて政略結婚に臨んだのかと思っていたけれど。


「……正直に言うと、女にうんざりしていた」

「うんざり」

「女遊びは十六には終わっていた」

「早すぎるわよ……」

「そこで出兵したからな」


 なるほど、戦争に駆り出されるまでは遊ぶ余裕があったということか。


「少なくとも、俺の好みは、この日記に書かれているような、大人しくて守ってあげたいような女ではない……はずなのだが。それでも愛したのだから、よっぽど惹かれたのだろう」

「なにそれ」


 って、聞いてて笑ってしまった。大人しくて守ってあげたい女!


「いないわよ、そんなひと!勘違いね」


 カラカラと笑うと、アンドリューは何とも言えない表情で私を見た。


「愛していたんだとしても、それは本当の私じゃないのよ。あの人は私の本性を何にも知らなかったから。そこに書かれている愛する人間は存在しないわよ」


 きっと小動物のように怯えた庇護欲をさそう女性がお好みだったのだろうと思う。

 アンドリューは額を抑えて、深いため息を吐いた。


「そのようだな。まぁ、そこは気にしていないが」

「どういう意味?」

「気にしていないし、気にしなくていいと言ってる」

「え?許してくれるの?」

「許すも何も、理解が及ばなかったのは俺の方だろうが」


 え、そうなのかしら?アンドリューに反省するような点あったかしら?


「最初は本当に脅えていたのもあって……騙すつもりはなくても言い出すことも出来なくなっちゃったのよ。悪かったと思ってるわ……」


 この世に存在しない人間を好きにさせてしまったようなものだ。愛をささやかれるあの日々にはさすがに罪悪感を覚えた。

 一年もそんな日々を続けていれば、自分がされたことは簡単には忘れないけれど、お互い様な気持ちが芽生えてくる。本性を隠したままでいるのは、残酷なことを彼にしているのだろうと。


「ちょうどね、嫁入りの少し前にね、町で暴漢に襲われて。大事には至らなかったけれど、体を暴かれそうになって、とても怖い思いをしていたの。そこに来て無理に抱こうとした貴方の態度があったから……私許せなかったのよ」


 冷静に考えれば、妻なのだから夫の彼にその権利はあったのだけど。

 心情的には全然別だ。あの時、私は悲しくて悔しくて心に消えない傷を負わされたような気持ちになった。


 人生でずっと受け続けた理不尽な暴力。体中が痛くて苦しいのにまだ苦しめられる。心の中で膨れ上がり続けた怒りが、あの瞬間に、きっと爆発したのだ。


 傷付けられるばかり、抗う能力を持たない自分、救いの手の伸ばされない社会。全てをきっと恨んだのだ。


 でもそれは……自分勝手な思いなのだとも分かっていた。

 今ではもう、実父たちには報いはされている。本来怒りを向けるべき相手がいなくなってしまった。それでも腹の中から消えない、どす黒い感情を持て余していた。そこにアンドリューの存在がちょうどよくはまり込んでしまった。傷付けた意識があり、罪悪感を抱いてくれて、優しく手を差し伸べてくれようとした彼に……どこかで復讐のような気持ちを持っていた……そんな気もする。

 私の中に確かにあったほの暗い感情は、間違いなく歪んだものだったのだろう。


「……すまなかった」


 彼が深々と頭を下げる。低い声で絞り出されるその言葉を、私はもう何回聞いたか分からない。


「……もういいの。二年、謝ってくれたのよ。それに謝るほどのことはしてないのに。私も騙していたから。あなたから二年も、後継者を作る機会を奪ったのよ。とんだ嫌がらせよね。ごめんなさい。許されないのは私の方よ」


 たぶん二年もこんな生活を続けてしまったのは、私の方に理由があるのだろう。


 安全が約束された場所で謝られ続ければ、おのずと、自分の心と向き合う時間になった。

 あのとき、傷だらけの心を抱えた私は、ほんの少し優しくされたくらいでは、心の痛みを飲み込んで許すことなど出来なかった。

 けれど、もう誰も悪くはないのに、心の中から消えない、人生でずっと抱え続けた怒りのような想い。

 それを誰にぶつけるのでもなく、少しずつ自分で受け止め続けた。泣きながら苦しみながら、それでも自分に向き合う日々を私に与えてくれて、屋敷の人たちは見守ってくれていた。


 二年で、私は間違いなく変わった。

 今はもう、過去に……昔のように囚われていない。思い出しても胸がチクリと痛むくらいにまで辛さは減って来ている。

 怯えさせるものがなくなると次第に楽に息が出来るようになっていき、すると不思議なことに、素直な気持ちで目の前のアンドリューを見ることが出来ていった。

 街中で普通に出会っていたら、この屈折した男とは、貴族ではなければ孤児院出身のアンナには、気が合う友人になれたかもしれないと思った。それほど、この人の孤独を湛えた瞳には、自分に似た何かを感じた。見透かされるような、共感出来るような、一緒に孤独に沈みこみそうな深い青色。


 この世界で一番に繋がりがある人間に思えるほどの、情が生まれていた。

 屈折した心の傷を少しでも癒すことが出来ればと思うほどには。


「そんなことは気にしなくていい。アンナに非はない」

「……」

「お前は俺の生い立ちをどれほど知ってるんだ?」

「……なにも」

「なにも?」

「特に聞いてないわ」


 するとアンドリューは目を瞠って叫んだ。


「……くそ、馬鹿は俺か!」


 突然の大声にびくりと体を震わせると彼がとっさに謝る。


「すまない、アンナに言ったんじゃないんだ」

「そ、そうね」

「……俺の話も聞いてもらえるのか?」

「アンドリューの?ええ」

「アンナが教えてくれたように、同じように聞いてもらいたい。それで見限られるのだとしても、何も分かり合えずに離縁などしたくない。出来るなら育った場所に連れて行きたいと思う」

「連れて行く?」

「俺の生まれた……故郷へ。本来ならアンナが足を踏み入れることもない場所へ」


 彼はまっすぐに私を見つめて言った。








 故郷とはどこなのだろうかと思っていたら、そこは隣の国の……歓楽街であった。

 アンドリューに連れられてきた私は、さすがに呆気に取られて馬車の中から街並みを見下ろしている。そうして驚くことに、国を出るとアンドリューの態度が豹変した。


 ちょっとこぎれいな庶民の服装に着替え、帽子を取った。顔を露わにさせ、ボサボサと髪を乱し、口調まで変わった。鼻歌まで歌い出したアンドリューを不気味に思っていると、私の視線を受けたアンドリューが言った。


「俺にとっての母国語は、本当は隣国の言葉だ」

「え?」

「血縁は、伯爵家にあるが、育ったのが隣国だ。普段はお綺麗な帝国語で話すようにしてるが、心の中ではずっと隣国語で考えてる。口汚ねぇ言葉でな」

「……」

「十六まで育ったんだよ。それ以来初めて帰るんだ。いい思い出があるってわけでもねぇけどな」


 呆気に取られてぽかんとしていると、アンドリューがニヤリと笑った。ずいぶんと生き生きとした表情をしている。


「戦時中は帝国語でもこの口調だったが。そのせいか、この口調を出すと理性が飛びやすい。だから普段は気を付けてる。これが俺の本性だ。呆れたもんだろ?」

「……」


 アンドリュー・バレット伯爵は、いつも綺麗な帝国語を話していた。

 そういえば……ずいぶんと無口であった。余計な雑談をせず、物事を簡潔に話すとは思っていた。


「ほんとに?」

「ほんとほんと」


 ハハハ、と豪快に笑って彼は馬車の中足を組みなおす。


「息苦しいな、帝国にいるのは。抜け出したいと思っても、でももう逃げる場所なんてねぇんだけどな。爵位を継いだのは、どんな理由があっても俺の意思だし、領地の運営もなんだかんだやりがいがある」


 まぁ、聞けよ、とアンドリューは話し出した。


「俺の母は、前伯爵に囲われていた娼婦なんだよ。父に捨てられた後、この国の娼館の一角に住まわせてもらっていた。俺は十六の年に記憶も残っていない父に無理やり伯爵家に連れ戻された。ふざけんなって抵抗したけど、拘束されて無理やりだったな。そしてそのまま徴兵された。父は伯爵家から兵士として差し出す生贄が欲しかっただけだ。戦争が終わったら覚えてろと思っていたのに……皮肉なことだよな。戦時中に、父と兄弟たちは流行り病で全員死んだ。あんなに恨んだ伯爵家をこの俺が継ぐことになった。この国の制度は馬鹿なのかと思ったよ。俺に貴族の真似事など出来るわけがない。だけどな、結局、もともと領地を回していた執事長たちが協力してくれて、戦時中の仲間たちにも手を借りた。彼らには頭が上がらない。結果として、貴族社会ではだいぶ疎まれているが、伯爵様つーのになっちまった。領地のためには尽力は出来ているようだ……たぶんな」


 そんな話は初めて聞いた。酷く屈折した男だとは思っていたけれど。


「知らなかったわ……」

「お貴族様たちはみんな知ってる話だぜ。アンナは社交もしたことねぇつーなら、なんも知らねぇよな」


 アンドリューは視線を伏せ、そうして言った。


「悪かったな。思い出さなくても分かるぜ。俺は、きっとアンナは当然知ってると思っていたんだろ。母が娼婦の妾の子として、散々な扱いを受けて来たから、俺がお貴族様に関わりたくねぇように、妻も俺に関わりたくないだろうと思っていたんだろうな。アンナは何も悪くないが、社交の場で酷いことばかりがあって、俺はずっと荒れていたからな」


 馬車が停まり、アンドリューに促されて降りると、そこは娼館の前だった。

 分かってはいたけれど、本当にアンドリューは育った場所に私などを連れて来たのか。本来貴族の妻を連れてくるような場所じゃないことくらい分かる。

 今までとは違う、粗野な態度を取るアンドリューが隣にいると、その事実を生々しく感じる。 


 ひっそりと、煌びやかなその館の一室に通されると、年配の女将と呼ばれる女性が現れた。


「あらら、上客かと思えば、ぼっちゃんじゃないの。今更何しに来たんだい?客にならないなら用はないんだよ」


 そう言いながらも、表情は柔らかく楽し気だ。


「なんねぇよ。礼は十分尽くしているだろうが」

「私が欲しいのは上客だよ」

「こんな危なっかしいところに客送れねぇつーの」


 ふふふ、ハハハと乾いた笑いをし合う二人を見守っていると、女将は私に視線をぶつけた。


「奥さんをこんなところに連れてくるなんて本当に頭おかしいんじゃないのか?」

「反論出来ないが……悪いが、ちょっと、俺がここで生まれ育ったことを証明して欲しいんだ」

「証明って、なんだい、大げさな言い回しして。それにそんなことに意味があるのかい?」

「あるある。俺の一生が掛かってるかもしんねぇ」

「一生?」


 呆れた顔の女将が言う。


「おいで」


 そう言うと屋敷の裏庭を抜けた奥の建物の一角に連れて行ってくれた。倉庫のような場所で、箱から何かを取り出した女将は私に見せてくれた。


「こいつの母親はねぇ、絵が上手かったんだよ」


 その一枚の絵には、アンドリューの面影のある少年が描かれていた。隣には彼に似ている容姿の女性も描かれている。娼館で描かれていたとは思えない。まるで貴族のような服装を着ている親子が立派な椅子に座っている肖像画だった。


 ……あまりに綺麗な絵に、どんな気持ちでこの絵を描かれたのだろうかと思いを馳せる。


「この絵を描いてすぐに亡くなって、ぼっちゃんも出て行ったな」

「え?なんだこれは。残っていたのか……」


 絵を手に取って見つめるアンドリューの瞳からは感情が窺えない。

 女将は手を振り、言った。


「これでもう証明になるだろ。用がないなら、早くお帰り。こんなところに長居すんじゃないよ全く。箱ごと持っていきな。ここに置いておく必要ないだろ」

「ああ……ずっと、世話になったな。ばばあ、感謝している」

「ばばあってまた言ったら闇に葬るからな」


 彼は箱の中に綺麗に絵をしまい込むと胸に抱え、そうして言った。


「アンナ歩いて街を出てもいいか?大丈夫、慣れた町だから守るから」

「え?」

「馬車を先に行かす。ちょっと歩いて案内したいだけだ」

「ええ、構わないけど……」





 

 夜が近づいてきている夕方の歓楽街は賑わいを見せ始めていた。

 私はアンドリューに深く帽子を被らされる。「アンナは綺麗過ぎるから」と言って。


「お。綺麗なねーちゃん、遊びにいかない?」


 それでも道すがら男から声を掛けられる。アンドリューがひと睨みすると去っていくけれど。


「すまねぇ、思ったより治安悪いな」

「肩か手を取ってくれない?」

「え?」

「寄り添っていたら声を掛けられないでしょ」


 アンドリューは急に立ち止まって、何度か瞬きをして私を見つめた。

 そうしてすぐに駆け寄ってくると片手を差し出して来た。


「嫌なら断ってくれていいんだが、手ぇ繋いでいいか?」

「いいわよ……」


 そうして……二年、触れ合うこともなかったのに、あっさりと手を繋いでしまった。

 けれど、本当はもうずっと前に、心の壁は取り払われていたのだ。彼が記憶を無くさなくても。お互いの話をしなくても。


「あそこで育ちながら、娼館の出入りの商人のところで下働きとして働いていた。商人にとって娼婦たちはいい客だからな、買い物の仲介役として役立ってたらしい。顔バレさせるのもあれだから寄らないけど、あそこ」


 そう言って彼が指したのは、歓楽街の出口の近くにある大きな建物だった。


「十六年育ったのはこんな街だ。わざわざ連れて来てこんなところでわりぃが、アンナが伝えてくれたように、俺だって、血だけの貴族なんだと伝えたかった。しかも半分のな」


 そうしてアンドリューは私の手を引いたまま丘の上に向かった。見晴らしのいいところに出ると、夜景の歓楽街を見下ろした。


「俺は辛い時にここから街を見下ろしてたんだよ。汚らしい街なのに、でも、遠目には綺麗だろ」


 穏やかに、だけど悲し気にアンドリューはそんなことを言う。


「貴族社会にはない自由はあったけど、辛いことはここにいた方が多かったかもしれない。尊厳など踏みにじられる行為がまかり通っていた。貴族嫌いはもうここに住んでいた時から始まっていたな。権力で弱いものを踏みつけ……時には殺すことさえ厭わない。子供の頃は泣きながらここに上って、自分の苦しみがちっぽけなものだと思えるまで夜景を見つめた」


 金色の髪が風に揺れる。その眼差しの中に、彼の心の傷が見え隠れする。


「ここにいたときだって自分のこと嫌いだったつーのに、国に戻されてからは自分が自分であったと思えたこともなかったな。思っていることも言えない世界に放り込まれて、きっと最愛の人が出来たって、俺はなんも言えねぇ、駄目なやつのままだったんだろうな」


 アンドリューは街に向けていた視線を私に移して、まっすぐに見つめて言った。


「アンナは俺を騙していない。けど、俺の方がアンナを騙してた。何も伝えずに、愛してるってささやくって気持ち悪い男だよな」


 私は彼の言葉を聞いていて、ずっとずっと不思議だった。


「ねぇどうして?そんな風にあけすけに話してくれるの?」

「は?」

「本当に覚えてないの?」

「まったく思いだせねぇなぁ……思い出したいとは思ってるが」

「ならなんで……あなたにとって私は訳の分からない書類上の妻なだけでしょう?」

「そりゃ……」


 アンドリューは口を開きかけ、苦し気に顔を歪めた。


「理由はあるが……俺が言えた義理のあることじゃねぇな」

「気にしないで。話して」

「……いや、なんだよ」

「もういいのよ、もう、わだかまりはないのよ。とっくに消えてる。……そうだと思うの。たぶん」

「なんだそりゃ」


 アンドリューは愉快そうに笑った。


「楽しいんだよなぁ、アンナと居ると。記憶無くして、アンナが良い笑顔向けて来たとき、なんで好みの女が目の前にいるんだ?って思った。目が奪われて、よく考えたら妻で、日記が出てきたらめちゃくちゃ愛が綴られてて、生きててこんなに楽しいことあったか?と言うくらい面白いことになってた」

「あなた楽しんでたの……?」

「わりぃな、育ちが悪いんだよ」


 声を出して笑ってから、だがなぁ、とアンドリューが続ける。


「言ってなかったが、離婚の準備も進んでたよ。慰謝料も、譲渡する土地まで用意されてた」

「え……」

「それは渡す気があるので帰ったら説明するが、記憶を失う前の俺は、妻を手放そうとしてたってことは分かる。それに日記を読んだ限り、離婚秒読みに入ってたと思う」

「え、知らないわよ。聞いてない」

「俺のことだから言わんだろ。あ、言っておくが気持ちが離れてってわけじゃないぞ。あの日記の愛は重い。拒絶されるのが怖くてどうせ俺自分のこと話せんかったんだろうし。それくらいなら自由にさせてあげなきゃって、思いつめてたんじゃねぇのかな」

「……」


 気持ちが沈む。そんな状況になっていたのだって知らなかった。


「出て行きたかったらいつでも行っても構わない。住む場所もこの先の生活も保障する。覚えてねぇが傷付けたことも、俺ならやることが分かってるから、悪いと思ってる。その上で出て行って欲しくないと心から思う。話してて楽しいのも、一緒に居て楽なのも、愛せるのも……アンナだけだ。そんな人はきっとこの先だってもう現れない」


 だから考えておいてよ、そう言って、アンドリューは返事を待たずに帰りを促した。








 結局、どこまでもとことん似たもの同志だったのだ。

 生い立ちも、生まれ持った血も、傷つきやすく臆病なところも。

 そうして、終わらせるやり方も。


 私たちは屋敷に戻ると、お互いの切り札にしていたものを見せ合った。


「俺が用意していたのは、慰謝料の他には、アンナの母親の、没落した家名のかつて所有してた別荘だ。町もほど近く、海が見える綺麗な場所でのんびり暮らしていけるなら、と用意していた。まぁ孤児院のことを知った今は行かねぇだろうと思うが。もうアンナの名義にしてあるから好きにしていい」

「お母様の別荘!?」

「下見に行ったらしいが、いい場所だったと書かれていたな」


 いつの間に下見までしていたのだろう。あの人は何も言わなかったのに。


「私からはこの手紙を。孤児院出身の仲間たちに調べさせたの。あなたの事故の原因。図られてたでしょう?あなたが向かっていた隣の領地での商談を邪魔したかったようね?詳しく書いてあるわ」

「おいおい……。いや、調べてはいたが。途中から追えなかったんだよ。なんだそりゃ……」

「優秀な人材が今では多く社会の中に潜り込んでるから、良かったら紹介するわよ」

「ありがてぇが怖いんだが……」


 アンドリューは私の表情を恐々と窺うようにして言う。


「置き土産みたいなことすんじゃねぇよ」

「それはあなたもじゃないの」


 不機嫌な表情でお互い見つめ合って、そうして、いつしかどちらともなく笑ってしまう。


「なぁアンナ、少しでも楽しいなら、残れよ」


 アンドリューは穏やかな笑みを浮かべて言う。


「誰かと一緒に居て、明るい未来を思い描けるような気持ちになれたのは、初めてなんだよ」

「……」

「ろくでもない生涯送るんだと思ってた。未来もきっと悲惨なことが続くんだろうって。漠然とそう思ってたんだよ。なのに、楽しくて、アンナが楽しそうだと余計嬉しくて、二人でいいものを作り出して生きていけるんじゃねぇかって、そんな未来が思い描けちまったんだよ。臭い台詞だが、未来がまるで輝いて思い浮かべられたんだ。この俺がだぜ。そんな風に思えるのは、一緒に生きて欲しいと思うアンナだけだ。なぁ俺と一緒に、アンナも明るい太陽の日差し下で生きていけると思うんなら、ここに居ろよ」


 どうしてこの人は、決定権が私にあるような言い方をするのだろうと、ずっと不思議だった。

 私の実父に脅されての政略結婚。私や彼の意思ですらない。言うほど悪いことなど何もしていない。私の生活の保障などする必要なんて本当はなくて。


 なのに、傷付くことを誰よりも知っているこの人は、傷付けたことの罪悪感を抱え続けてくれた。彼自身屈折して歪んではいたけれど、その大きな優しさは、十分に私を救ってくれた。


 かつて孤児院での幸せな情景が私の心を支えてくれていたように、今はこの場所で過ごした時間が私にとっての支えになっている。

 明るく優しい、光指す場所がここなのだ。


「私もう、あなたと二年もかけたくないの」

「おう」

「『愛し合えるのか確認しようとするステージに入ってました』」

「ん?」

「あなたが記憶を失ってはじめて会った日に言った台詞」

「そんなのあったな」

「私これを告白のつもりで言っていたのよ。気が付いてなかったけれど」


 私の台詞に考えるようにしてからアンドリューは瞳を揺らした。

 ガタリ、と音を立てて立ち上がると、向かいのソファに腰かける私の元に歩いてくる。


 頬に触れるように手をかざし、私の目をまっすぐに見つめて言った。


「触れていいのか?」

「ええ。もう聞かなくていいわ」


 アンドリューはそっと指先で頬を撫でる。


「記憶を失う前の俺じゃねぇぞ」

「そうね。私もね」

「アンナは変わらない。沼の底に落ちるような、孤独な表情に惹かれた。その理由が分かっただけだ」

「私の台詞を取らないでよ。同じよ」

「そうか……」


 近づいてくる彼の顔を感じて、ゆっくりと私は目を閉じた。








 初夜からやり直そうとしたその日のこと。

 長い髪をベッドの上に広げて横たわった私を見下ろしたアンドリューが突然頭を抱えて苦しみだした。


「あ……あ、俺は?俺は!?」


 両手で頭を掻きむしり、それから思い出したように、はっと私を見つめて、苦しむように顔を顰めた。そうして怯えるように後ずさった。


「なんだこれは……アンナ?俺はまた?」

「……」


 ほんの少し前までただ甘いムードだったのに、罪悪感いっぱいの顔で私を見つめるアンドリュー。

 もしかしなくてもこれは……。


「旦那様、今日は何日ですか?」

「は?……五月十日だ」

「……」


 それは紛れもなく、記憶を失われる前の旦那様の最後の時間。


 なんて言ったらいいのかしら、と考える。

 ほんの数か月のアンドリューと過ごした時間の記憶はどこに行ってしまったんだろう。また戻ってくるのかしら。でも、もうそんなこと些細なことなのかしら。


 目の前の彼を見ると、こんな状況だから仕方がないのかもしれないけれど、彼の顔には確かに恐れと怯えの感情が浮かんでいる。

 ずっと彼は、私相手にこんなにも怖がっていたのだ。

 粗野なアンドリューをひた隠しにして、だけど私を好きになってくれて、傷付けたことを後悔してくれて、そして何より幸せを願ってくれた。


「あははは!」


 豪快に笑うと、アンドリューは困惑した表情を浮かべた。


「本当に人生はいろんなことがあるのね。楽しいわ。アンドリュー。私の最愛の人」


 呆然とするアンドリューに近づき、そっと両手で彼の頬を挟み込むと、彼はビクリと体を揺らした。触れ合うことに、彼は驚いていた。


「何を……」

「あのね、どうやらあなた、数か月分の記憶がなくなってるみたいなの」

「記憶?」

「色んなことがあって、つまりね、私たちは」


 なんて言おう。


「もう、四つ目くらいのステージに辿り着いてるのよ」

「ステージ?」

「最初のステージは旦那様が私を傷つけ、罪悪感で押しつぶされそうになるところ」

「…………」

「次は許し合えるかどうかに一年以上掛けました」

「ああ…………」

「そして私たちが愛し合えるのか確認しようとするステージに入って、お互いの生まれを伝え合いました」

「…………」

「最後は……何度記憶を失っても、私はあなたを愛しているってところ」


 愛してるわ、そういってキスをしようと顔を近づけても、彼は逃げなかった。

 大丈夫かしら、そんな気持ちもあったけれど。もう一秒だって時間を掛けたくなかった。

 だから私はそのままそっと顔を近づけた。








 しばらくして私と数か月過ごしたアンドリューの記憶も戻ってきた。

 初夜のやり直しの日に思ったことを教えてくれた。


「なんで好みの女が目の前にいるんだ?って思った。目が奪われて、よく考えたら妻でって……何度繰り返しても同じこと思ってさ。俺アンナが好き過ぎるよな」

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[良い点] えぇーー、めっちゃめーっちゃ好き! 素のヒーローもツボですが、素を出すことを恐れつつ日記に!!!想いを細やかに綴るヒーローを想像すると、愛しくてたまらない気持ちになります。 虐げられたヒ…
[良い点] アンナの笑いは、えっ誰この人??? えっ? 知らない人がいる!! と振り落とされそうになりました レス不要です ただの補足 読み進めたら納得しました
[良い点] アンナが笑い出したところで振り落とされそうになったけれど、最後まで読んで他人を信じない二人がお互いを信頼できそうだと手繰りあっていく様子が何とも言えず よかった…(話が、というより、似た…
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