心臓やぶりの坂
ずいぶんと久しぶりの新作投稿です。
読んでいただけると嬉しいです。
その高校は小高い丘の上にあって、春になると桜並木の中を登校できる、というのが売りだった。
制服も可愛いし、学力も丁度よいし、家から適度な距離にあったので、下見もせずにその高校を志望校にした。
ところが、だ。
通ってみると、「小高い丘」は急な斜面だった。
歩いて登るのも一苦労なんだけど、私は自転車登校を選んだ。
家からバスに乗ると、バス停までの距離が微妙だったし、何といっても、帰りが圧倒的に楽だからだ。
そしてそのために私は、往路の苦行を味わうに至っている。
「運動……エネルギーは……K=1/2mv……」
何事かをぶつぶつとつぶやきながら、目の前でママチャリを漕ぐのは、私の腐れ縁。
甚平という輩だ。
どれぐらい腐れ縁って、小学校の中学年で隣の席になって以来、中学、高校と同じ学校に通うことになったくらい。
家はそこそこ近い。なんといっても、小学校が同じ学区だったのだから、遠いはずがない。
そして、こいつも自転車通学だったから、同じ通学路で、同じような時間に出て、途中で鉢合わせる、という図式が出来上がっている。
目の前のこいつは理系、私は文系。共通しているのは、どちらも運動には程遠い生活。そのおかげで、この坂をすいすいと上っていく他の自転車をしり目に、私と甚平はいつだって息を切らしながら一緒にゴールを迎えていた。
「おかしい……もう三年目なのに、何で坂を上りきる体力がつかないんだ……」
ぜーはー言いながら校門を入ってすぐの駐輪所に愛車を入れる甚平。
「……バカなの? そんなの……決まってるでしょ……普段は欠片も動かないからよ」
こちらも死にそうに息を切らしながら、駐輪場にちょっとおしゃれなシティサイクルを停めた。
「はっ? ……本読みながら……ゴロゴロしてるお前に、……言われたかねぇわ」
「こっち……こそ。眼鏡光らせて……夜中に望遠鏡覗いている変態に……言われたくないね」
「ばっ! 天体望遠鏡覗いてるのはロマンだ! 変態じゃない! ……う、酸素が……」
「その……望遠鏡の角度がいやに浅いって……おばさんが言ってた……もん。足、痛い……」
いつも通り、頻繁に息継ぎしながら売り言葉に買い言葉を連ねていると、予鈴が鳴った。
きしむ体に鞭打って、懸命に立ち上がる。
「あ、恭子……くそっ、待てって……」
「ふふ……今日は私のほうが……回復が早かったみたい……げほっ。先に行くっう……」
生まれたてのゾンビのように、私たちはそれぞれの教室に散った。
根っからの理系な甚平は理系進学クラス。恐らく前世からの文系を背負った私は文系進学クラス。
クラスは違うし、部活も違う。私たちが会うのは、朝のほんの十数分だけ。
そんな風に春を過ごし、夏を過ごし、塾の夏期講習の合間に学校の講習にも通い、受験生たる私はいつの間にか最後の秋を迎えていた。
今日も今日とて、甚平の背中を見ながら、懸命にペダルをこぐ。
「ってかさ……別に…………学祭の日に、こんな、汗だくにならなく……てもよくない?」
「じゃぁ、……おまえは歩いてこいよ」
「なんでこんな、ムキになってるのよ……」
広葉樹が落とす葉っぱに車輪がとられそうになりながらも、よたよたと上がる。
「一番上まで行けば、運動エネルギーがいっぱいになるんだよ……」
「本当、理系バカ。だから……なんだってのよ?」
「どんな……もんに……だって…………。何かが必要なんだよ。運動エネルギーの保存の法則っつって……」
「ありおりはべり……いまそかり……」
「あ? なんだって?」
「香炉方の雪は……御簾を上げなきゃ、見られないって言ってんのよ!」
訳のわからないことを言う甚平に、もっと訳のわからないことを言って返し、その日は久しぶりに、私が先に頂上に着いた。
ひーひーいいながら心臓破りの坂を登ってくる甚平を、私は自転車に寄りかかりながら眺める。
少し息を整えて、色づいた葉っぱの向こうにいる甚平を、ただただ見守る。
もうすぐ、雪が降る。
そうしたら、私も甚平もバス通学になり、本数が多い通学バスでは、一緒になることもめったにないはずだ。
今までが、そうだったから……。
三年生の、最後の冬。
広葉樹が葉っぱを落としきる前に、雪が降り出す。
こんな風に、汗だくになって坂を登るのは、あと何回くらいあるんだろう?
心臓やぶりの坂。
高校に入学して、初めての自転車通学。
私は本当にドキドキしていた。
心臓が破れて、飛び出そうだと思った。
三年間、ずっと同じように登ってきたけど、一度だって、心臓が凪いだことはない。
何度も何度も思った。
バス通にしようか。
自転車通学だけど、坂は歩いて登ったっていい。
そのたびに、目の前を一生懸命ペダルをこぐ姿がよぎるから。
「……恭子。おまえ……何だって今日に限ってそんなに早いんだよ……せっかく…………」
情けなく眼鏡をずりさげながら、甚平が頂上にたどり着く。
いつも通り、朝から疲れ切った顔をしてる。黒板の前に立ち、よくわからない数式を操るエリートには全然見えなかった。
「だって……」
言葉を継ごうとして、失敗する。
気の利いた言葉も、気の利いた動作も、何も出てこない。
「だって……急いでるから……」
「おい、待てって、恭子?」
私はそのままきびすを返して、校舎に駆け入った。
心にかかった御簾を上げてくれる、気の利いた女房はいない。
私はいろいろヘタレのまま、一人でこのモヤモヤを抱えるしかなかった。
学祭期間中は、それ以降、甚平と登校時間が重なることはなく、一人で自転車を押しながら坂を上がる。
ゆっくりと歩く道は、何だかいつもの道とは全然違って、何もかもがスローモーだった。
クラスメイトに声を掛けられたり、車の先生に追い抜かれたり。
奇妙に間延びしていて、何だか、学校に向かっているのに、学校から遠ざかっているような心持ちになる。
鏡の国のアリスのように。
近づこうとするほど遠ざかる。
遠ざかろうとするほど近づく。
三年間は間もなく終わろうとしているのに、ゴールはとても遠くて、手を伸ばしても届きそうにない。
私は何をしてきたんだろう。
うぅん。何もしていなかったんだ。
ずっと、誰かが、何かが、御簾を上げてくれるのを待っていた。
でも、私は中宮定子じゃないし、周りに清少納言がいてくれるわけでもない。
目の前にあるのは、とても現実的な心臓やぶりの坂で、香炉峰などでは断じてない。
ここは平安時代ではないし、枕草子の世界でもないのだから。
週末に雪の予報が出て、私は心を決めた。
自分で見たいものを見るために、自分自身で御簾をあげる、と。
学祭が終わり、臨時休校が過ぎ、いつもの日常が戻ってくる。
私はその日、いつもよりもかなり早くに家を出た。
風が冷たく頬を刺す。手袋とマフラーを装備しても、空気に混ざる氷は情け容赦なく体を冷やしていく。
それでも、わっせわっせと自転車を漕いでいると、体の芯がぽかぽかと温まり、気分は前向きになってきた。
ちょうど坂道の下で、甚平と鉢合わせる。
正直、いつもよりかなり早い時間だったので驚いた。
「あ、う、おは……よう?」
「なんだよ、恭子……こんな時間に……」
甚平が睨み付けるようにこっちを見てくる。
私は怯みそうになる足を叱咤して、一歩前に出る。
「挨拶しただけなのに、なんでそんな、因縁ふっかけられなきゃならないのよ」
強気に出ると、甚平がぐっと後ずさった。
「だ! おま、いつもより三十分は早いんだぞ? 驚くだろが!」
「それはこっちの台詞でしょ? 甚平こそ、どうしたのさ」
問いかけると、甚平は難しい顔をして、鼻の頭にちょこんと乗っかっているメガネをくいっと押し上げた。そうすると、本当に賢そうに見えるから不思議だ。
結構、バカなのに。
「いろいろと動き出すには、まずそのためのエネルギーを蓄えなきゃいけなくて、だな」
「物理? なんか宿題でもあったの?」
お互いに自転車をわきに止めたまま。
いぶかしく思って問いかけると、甚平は吐く息で曇った眼鏡の向こうで、わかりやすく視線をさまよわせた。
「宿題……と言えば宿題だ。結構……前から……。そっちこそ、なんでこんなに早いんだよ? 調子狂うだろ」
「……私は……」
坂の上に建つ校舎を仰ぎ見る。
真っすぐな坂道の上の見慣れた校舎。あと、数か月で私はここから卒業する。
「私は、自分の手で御簾をあげようと思って……」
「は? ミス?」
問いかける甚平を置いて、私は勢いよく自転車にまたがった。
もうすぐ、ここは登校する生徒でいっぱいになる。
その前に。
頂上へ。
「先に行く! 頂上で待つ!」
私はそんな捨て台詞を残して、勢いよくペダルを漕ぎだした。
「バッカ! 待てってば! 俺だってなぁ!」
何やら騒いでいる甚平をよそに、私は三年生最後の自転車登校になるかもしれないこの一瞬に、全力を注ぐ。
……と格好いいことを脳裏に描いたけど、いつも通り、坂道の三分の二を過ぎたあたりで、私の自転車は急速にスピードを落とした。所詮、文系女子の一般的な脚力、そして持久力。主人公的セリフを放り投げたって、体力が増強されるわけじゃない。
私は、ぜーぜーと息をしながら、何とか立ち漕ぎをして自転車を前に進める。
「恰好……いいこと……言ってたわりには……いつも通りじゃないか!」
いつの間にか横には甚平がいて、私と同じようにママチャリを立ち漕ぎしている。
眼鏡は片方だけが曇っていて、すごく見づらそうだ。
なのに、なぜか奴の顔は少し不満と……。
「まだ……諦めて…………ないし! 先に……頂上で……待つし!」
少しでも突き放そうと足を動かすけど、息が上がって辛い。
もう、いいかな。歩いていこうかな。
酸欠で、頭がくらくらする。太ももの裏が、ぴくぴく痙攣しているのも感じる。
やめっちゃおうかな。誰にも、何も言ってないし。
今なら、甚平だって気づくはずがない……。何も気づかない、いつも通りの朝に戻して……。
ダメダメ、あともう少し。
自分で決めたんでしょ?
今日が最後かもしれない。
この光景を、目に焼き付けるって。
そして……。
歯を食いしばって目の前をもう一度見ると、見慣れた甚平の後ろ姿があった。
「うぉぉぉぉぉ!」
恥ずかしげもなく叫びながら、坂道を駆け上がっていく。
いつも、すぐ前にいた甚平。
時々、疲れた、歩こう、なんて泣き言を言いながら、時々にやってして、私を待つためにスピードを緩めてくれたこと、知ってたよ。
私がこけたときは、何故か甚平のほうが真っ赤になって、私の血まみれの膝小僧に真新しいハンカチをあててくれた。
甚平の自転車のチェーンが外れて、私も一緒になってあーだこーだと口をはさんで、結局二人して遅刻したんだよね。
そんな背中が、どんどん離れていく。
枯葉の向こう、手の届かない明日に向かって。
「やだ!」
遠ざかる後ろ姿に、私は思わず叫んでいた。
「置いてかないで! 一緒にいてよ!」
え? といった風に甚平が振り返る。
私は自分自身で、一歩踏み出すと決めていた。
本当は、甚平よりも先に頂上に行って、登ってくる彼の姿を正面から見ていたかった。
壊れるかもしれないこの想いを、思い出で残しておくために、じっと見ていたかった。
そう、私が見ていたかったのも、覚えておきたいのも、こんな、手の届かない後ろ姿じゃない。
「好きだから!」
精いっぱい叫んだ。
次の瞬間。
見事枯葉の山に突っ込んだ甚平は、自転車と一緒にクラッシュ。
午前中を、保健室で過ごすことになった。
いやほんと、ごめん。
昼休みに保健室を訪れ、誰もいないそこで深々と頭を下げる。
「なんていうか……あんなことになるとは思わなくって。
痛い?」
私が上目遣いに甚平を覗き見ると、眼鏡のフレームが曲がり、ほほに擦り傷を作った甚平は、むっと押し黙っていた。
「痛いよね? ……本当にごめんなさい」
沈黙がつらくて、言葉を続けると、不意に、甚平が咳ばらいをした。
「俺……、いや、恭子……その……あれは……」
「あぁ……うん。忘れて?」
言って、なんだかとってもすっきりしていた私は、何とか笑顔を浮かべることに成功した。
固まる甚平を見ながら、あの言葉はやっぱり、重かったか……と反省する。
自分でも思ってもみない展開で告白しちゃったけど、甚平にとっては青天の霹靂、むしろ迷惑だったんだろう。
その証拠に、事故ったあと、保健室に行くまでの間も、甚平は何もしゃべらず、ずっと難しい顔をしたままだった。
おかげで、中休みにでも様子を見に来ようと思っていた勇気はしぼみ、それでも、私が悪いことは確かだから、せめて謝罪だけでもって昼休みに会いに来てみたのだ。
「忘れろって、どれをだ?」
甚平が腕組みしながら、私をにらんでくる。
うわぁ、すっごい怒ってるよ。
私は首をすくめた。
「その……一緒にいてって言ったの……」
「そのあと、もう一つ、言ってただろう? ……それも忘れろっていうのか?」
ドクン、と心臓が鳴る。
胸を蹴破って出てくるんじゃないかと思うほど、心臓が痛いほどに暴れまくる。
うなずこうとして、できない。
口をパクパクしてみたけど、声が出ない。
私は泣きたくなって、口をつぐんだ。
あの一言は、とてもとても頑張った一言だったから。
忘れたくなかった。
忘れてほしくなかった。
仏頂面の甚平を所在なく見つめていると、不意に、右腕が動いて、私の首に巻き付いた。
「え?」
ぎゅっと甚平の胸に閉じ込められる。
「え?」
恐る恐る甚平を見上げると、いつもは小憎らしいほどすました顔が、今日はゆでだこのように真っ赤になっていた。
まるで、今ちょうど、心臓やぶりの坂を登り終えたように……。
「ずっと……なかなか言い出せなくて…………だから、頂上にたどり着いたらエネルギーがたまってるし、その勢いで……言おうか、と……」
「え? 甚平、なに言い出したの? エネルギーって、運動エネルギーがどうのこうのってやつ?」
「だから!」
イラついた甚平は、乱暴に自分の眼鏡をはずし(勢い良すぎて曲がっていたつるが片方ぶっ飛んだ)、私の両肩をつかんだ。
ベッドの上で、いつの間にか甚平の膝の上にいる。
一体なにがどうして、こうなった?
クエスチョンマークを浮かべる私に、甚平はすごく真剣な顔でこういった。
「運動エネルギー保存の法則があって……」
「あ、うん……聞いたことある……ような?」
「難しいこと言ってもわかんないだろうし、その……いろいろちょっと意図的にゆがめている部分もあるから、厳密にはそうじゃないんだけど」
「……何言いたいか、全然わからない」
「………………お前の好きってエネルギーがさ、俺にぶつかって、俺の中で保たれている感じ」
「………………………………つまり?」
「ここが保健室じゃなくて、俺の部屋のベッドの上だったら、かなりやばかったな、と」
「……………………………………だから?」
「………………………………………………好きです。付き合ってください。そんで、お互い、大学生になったら正式にイチャイチャさせてください」
いつの間にか、甚平は私を抱きしめ、私の首元に額をこすりつけるようにしながら、囁くようにちっさな声でそんなことを言った。
すぐそばにある甚平の心臓も、私に負けず劣らずドキドキしている。
心臓やぶりの坂の名は、伊達ではない。
私たちはじっと見つめあい、ぷぷっと笑いを漏らして……。
それから、そっと吐息を交換した。