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ファイの目覚め ―出会いと旅立ち―

 レーン村で母オリーティアの最期を看取ったファイは、孤独で宛てのない旅に出た。その途中でムガルの戦士に襲われ、傷を負ったファイはナユ村の親子に匿われたが、執拗なムガルの手はナユの村まで及んだ。自分のためにナユの村人が犠牲になり、また匿ってくれた娘が捕らわれ、初めて怒りを覚えるファイ。その怒りのままにムガルの刺客たちを殲滅し村人を助けたが、彼らの視線は冷たく、失意の中でファイは村を後にした。ただひとつ、村の老婆にガーノという地に住まう者を訪ねろとの啓示を受けて。

 突然降り始めた雨を木陰でやり過ごし、ファイは再び馬を駆り進み始めた。ナユの村を出て3日が過ぎた。道中、敵の襲撃など特筆するべきことはなかったが、ファイ自身に逡巡があった。ナユのパナオ婆に示されてガーノに向かっているが、果たして彼女の言うジトーなる人物に出会っていいのだろうか、という考えが、次第にファイの心を支配し始めていた。今の自分に関わった者たちは何かしらの被害を被っている気がしてならない。ある意味、疫病神ではないか、と思えてきたのだった。ナユの村の人々が相当数、犠牲になった発端は自分のせいではないか。そう思うと、度々ファイは道程で立ち止った。突然止まるので、馬がびっくりして鼻息を鳴らす。どうすればいいのか、と急かす様に首を振っていななく。それに気づいて、ファイはまた進み始める。そんな事を繰り返していると、歩みは遅々として進まない。だが、今のファイに目的はない。このまま空虚な心を抱えたままどこへともなくふらつく気にもなれない。ファイはあまり前向きになりきれないが、行くしかない、と心に決めた。


 とぼとぼと歩く馬の足音をしばらく聞いていたが、やがて前方に大きな影を感じて顔を上げた。見るからに峻険な山々が連なる絶景と言える場所。ガーノだ。しばらく前から旅人の足が途絶え、人家もなく人の気配自体が感じられない。あまり気にしていなかったが、その理由を今になって考え起こした。ここは人外の住まう土地なのだ。人が踏み入れていい所ではないかもしれない。だが、このガーノの奥にかのジトーなる老人が住んでいるらしい。あまり行きたい場所ではなさそうだが、行くしか道はない。ファイは馬を降りた。馬の脚ではこれ以上歩いてはいけない。ファイは来た道に向けて、馬の尻を叩いた。馬は一目散に来た道を戻っていった。走り去っていく馬を見送り、ファイは振り返った。人が登らないためか、山道らしきものはない。麓をかすめる街道しか人為的なものは見当たらない。だが人外とは言え、知恵のある種族は住みついている。そこを訪ねればジトーの住処を聞き出すことができるかもしれない。ファイは意を決して山へ踏み込んでいった。幾日かかるかわからない。一応、道すがら食料を買い込んでおいた。途中で食料が尽きたら、狩りをするしかあるまい。オリーティアとの旅の最中に稀に狩りをしたことがある。彼女がこういった人外の住まう秘境に行くことを望んだ時に、物資が乏しくなることがあった。それでも彼女はそんなことは苦痛にも感じずに、積極的に人外のいろんな種族と交流した。彼らは人ではないだけで、狩りも火も使い調理もする。文化や宗教も人間以上に大切にしており、種族によっては人間以上に規律がある。もちろん粗野な者たちもいるし、奪うだけの者たちもいる。煙が立っていればおそらく集落があるだろう。それを目指して行くのが効率が良い。ファイはなんとなく住めそうな場所に目途をつけながら、山中を進んでいった。


 半日たった夕暮れ時、山中を彷徨っていると、遠目に煙が立ち上るのが見えた。あれはおそらく人外の集落だろう。種族はゴブリン族かオーク族か。リザード族かもしれないが、こんな山中に住むかはわからない。集落に近づいていると、不意に気配を感じた。ファイは立ち止る。囲まれている。5名ほどだ。

「争う気はない。道を尋ねたい。」

ファイは呼び掛けたが、返事がない。言葉がわからないのだろうか。もう一度、同じことを繰り返した。すると、何かが飛んできた。ファイはそれを避けた。後ろの木に刺さったそれは見たこともない暗器だ。立て続けに飛んできて、躱していく。どうやら話し合いが通じる相手ではないようだ。ファイは仕方なく逃げることにした。来た道とは反対へ逃げていく。しばらく攻撃が続いたが、ほどなく収まった。集落に近寄る者を追い払ったということらしい。とりあえず場所を覚えておいた。もし万一この先に何も見つからないようなら、引き返して力づくでも情報を得ねばならない。だが、なるべくならそうしたくない。母も関係を紡ごうとした人外の種族と争いたくなかった。もうすぐ日が落ちる。その前に次の集落を探し当てたい。ファイは歩を進めた。


 日の光が山々に隠れて、ほのかに空を夕陽が染める。木々の間は闇が支配し始めていた。そろそろ野宿の支度を始めようと思った矢先、白く立ち上る煙が見えた。おそらく集落がある。ただ、もし先程と同じように襲われたら、闇が深くなり自分の場所がわからなくなってしまう。少し悩んだが、思い切って尋ねることに決めた。慎重に煙に近づいていく。まだ誰の気配も感じない。さらに近づいていくと、やはり何者かが現れた。

「とまれ。何者か。」

声が響いた。暗闇ではっきりと姿は見えないが人間ではなさそうだ。

「人を探している。道を尋ねたいのだが。」

「お前は人間か。」

「そうだ。オレ一人だ。」

すると、その影は自ら火を灯した。松明を掲げてその光でファイの姿を確認しようとした。ファイはじっとその様子を窺った。明かりで見える姿はゴブリン族だと思われた。肢体は人間に近いが、牙があり、耳が尖っている。肌の色も緑に近い。だが、人間に近く理性的だと聞いたことがある。衣服は申し訳程度に身に着けている。

「誰を探している。」

「人間だ。ジトーという名だ。ガーノの山腹にいると聞いた。」

「お前はその者の知り合いか。」

「いや、オレは会ったことはないが、彼の知り合いから会いに行けと言われた。」

すると、そのゴブリンは手を挙げた。おそらく遠巻きにこちらの様子を見ているものがあったのだろう。引き上げていく気配が感じられた。

「彼の客人なら遇しないわけにはいかない。もう陽も暮れた。我らの村へ来い。」

思わぬ申し出を受けて、ファイは素直についていくことにした。人外の里に招かれるのは初めてではない。彼らは純朴なので、引き込んでおいて追いはぎをするようなマネは多分しないだろう。オリーティアとの旅でもそんな目には会ったことはない。むしろ人間の方がそういう面では恐ろしい。


 ギフと名乗ったゴブリンに導かれた集落は山腹を切り拓いて広がっていた。ナユの村よりひと回り小さい。30人ほど村だ。木で組まれた、お世辞にも頑丈とは言えない簡単な家が立ち並んでいる。村に立ち入ったファイを村民たちはジロジロと物珍し気に眺めてくる。警戒されている様子はない。人間に慣れているような感じもある。

 集落の中でもひときわ大きな家に案内された。中に入ると、灯がともった一間の空間に5人の男女のゴブリンがいた。おそらく家族だろう。床には木の皮が敷き詰められていて、その上に所々に布が敷いてある。なかなか快適な場所だ。

「ここは私の家だ。私はこの村の村長だ。」

そう言ってギフはファイにくつろぐように勧めた。ファイは遠慮なく座った。ギフから家族を紹介された。ギフの両親とギフの妻、男の子と女の子の子どもたちだ。まるで人間と変わりない。子どもたちはファイを恐れることもなく近寄ってきた。ファイは先程から感じた疑問をぶつけた。

「どうしてこの村の者たちは人間を恐れないんだ。」

ギフは子どもたちをあやしながら笑った。

「人間とはたまに取引をする。我らが狩りをした獲物や山菜などと、この布や人間の作る作物などだ。」

それを聞いて納得した。ここにある物は人間の世界にある物とあまり変わらない。

「人間との取引のために人間の言葉をしゃべるのだ。しゃべれる者はあまりいないが。」

「もしかしたらジトーと取引をするのか。」

「そうだ。彼が仲介をしてくれる。ここだけではなく、他の種族でも世話になっている者は多い。」

ジトーという老人の人と為りがなんとなくわかってきた。そうなると早く会いたくなってくる。

「彼はどこにいるんだ。それを聞きたい。」 

気がせくファイを制して、ギフは夕食を用意してくれた。焼いた肉や野菜が並んだ。味付けも悪くない。家族と一緒に食事を取りながら、ギフはファイの問いに少しずつ答えた。やがて夜が更け、ファイはその家で寝床を得た。出会う者たちの優しさにファイは心から感謝した。


 翌朝、日が昇って間もなく、ファイはギフの村を立った。ジトーの住処はもう2つ山を越えなければならないらしい。だいたいの場所、目印を教えてもらった。ギフが道案内を申し出たが断った。そこまでしてもらう義理もない。食料も少しくれた。体力も回復した。こんなに穏やかに寝られたのは久しぶりな気がした。力強く道なき道を歩きながら、またいつかギフたちに会いにいこうと思った。

 ひとつ目の山を越えるときにオーク族と思われる種族に遭遇した。顔が豚に近い。言葉は通じるが好意的ではなかった。すぐに立ち去ることを要求され、交流することなく歩を進めた。

 2つ目の山との合間で夜を迎えた。火を起こし微睡んでいると、何やら気配を感じた。数人、いや数体の何かに包囲されている。じっと待っていると、突然、襲ってきた。火に照らされて閃く武器は曲剣だった。素早くさけると、空気を切り裂く音がして、再び避ける。後ろの木に矢が付き立った。ファイは体勢を立て直し、また様子を窺う。やがて火の明かりに照らされた者が姿をぼんやり浮かび上がらせた。トカゲの姿をしているが、二足歩行だ。リザードマンに違いない。狩りを主体とし、奪うことを生業にしていると聞く。話し合うのは難しいだろう。ファイは火を踏んで消した。再び曲剣と思しき武器が飛んできた。それを避けて、振るった相手を突き飛ばした。そのままの勢いで走っていく。後ろから追いかけてくる音がする。普通の人間ならこの山間部でリザードマンから逃げることはほぼ不可能だろう。だが、ファイの素早さは尋常ではない。あっという間に狩人たちの追跡音が聞こえなくなった。しばらく走って追手を撒いた後、また火を起こして野宿した。


 野宿には慣れている。母と幾度となく木々の幹や平原で眠ったものだ。木に寄りかかり木々の隙間から見える夜空を眺めた。こうしていると、母との旅が思い出された。ファイが幼い頃には、よく眠れるように唄を歌ってくれた。オリーティアの唄声は深い安心感を与えてくれる。その優しい母の唄声を思い出しながら、ファイは眠りについた。

 翌朝早くファイは動き始めた。もうひとつ山を越えれば、ジトーの住む場所があるらしい。山を越える最中にも野犬の群れに遭遇したり、敵対的なゴブリンの集団に出会って逃げたり、一筋縄ではいかなかった。それでもなんとか山を越えた頃には日が天頂を越えた。


 慎重に山を尾根伝いに進んでいると、遠目にひと際大きな木が見える。ギフに教わった目印だ。それを見つけるとファイに俄然と力が湧いてきた。さらに近づいていくと、薄っすら煙が棚引いているのが見える。きっとあの麓にかの老人の住処があるに違いない。自然と足の進みが速くなる。それでも夕刻過ぎまでかかり、なんとか煙の元まで辿り着いた。さすがのファイもかなり草臥れていた。さほど大きくはない山小屋がある。屋根の煙突から煙が風になびいている。石組みの壁と木でできた頑丈そうな建物だ。人の手の技を感じられる。意を決してファイはドアを叩いた。しばらく待ったが、返事がない。もう一度叩く。そもそも人の気配がない。窓から中を覗くが暗がりでよく見えない。ドアの前で困惑していると、不意に背後に気配を感じて背筋が凍った。慌てて振り向くと、粗末な布でできた服を着た老人が立っていた。

「何かようか、お前さん」

ファイは絶句したままその老人を眺めた。未だかつて気づかないまま背後にここまで接近を許したことはない。パナオと同じくらい年老いていたが眼光鋭く、身体は大きくないし細見だが頑強で、まるで歴戦の戦士を思わせる。見た目は質素で、布を身体に巻き付けたような、いわゆる世俗を離れた仙人のような風貌だった。白髪でひげ面の老人はぽりぽりと顔を掻いた。

「何しに来たのかと来ておるんだが。」

我に返ったファイは、自分の名を名乗り、パナオ婆のことを話した。老人はまた顔を掻いた。

「あの婆さん。やっかいなヤツじゃのう。」

ジトーは溜息をついて悪態をつき、じっとファイを眺めた。ファイは柄にもなく緊張した。突然、老人は何かを見つけたように目を見張った。まるで信じられない物を見た時の驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻したように目を伏せ、ファイに中に入るように促した。ファイは一連の出来事に少し唖然としたが、この得体のしれない老人に困惑しながらも、とりあえず促されるまま家に入った。


 山奥の秘境に夜の闇が舞い降りた頃、ファイはジトーと夕食を取りながら、ここまで来たいきさつを詳細に話し始めた。オリーティアの死を聞いた時、老人は深くため息をついた。

「お前がまだ物心もつかぬ頃、わしはお前の母に会ったことがある。」

「母に?あなたが?」

「そうじゃ。まだ山に籠る前だったが、ラミーユに招かれたお前の母とあれこれと話をした。」

白髪の老人は懐かしそうに目を細めた。ファイは驚きを隠せなかった。

「何を話したんですか。」

「いろいろとな。あの娘とお前のその後のこととか・・・」

宙空を眺めながら、思い出す様に老人は言った。どうやら母はこの老人に何事か相談したらしい。益々、この老人の正体がわからなくなった。

「あなたはこんな山奥で何をしているんですか?」

あまりに率直な質問に老人は声を立てて笑った。何が可笑しいのかファイにはわからない。

「いろいろじゃ。人が煩わしくてな。いろんな事を考えたり、星を見たり、物思いに耽るにはここはいい所だ。」

老人が天井の方へ指を差す。吊られてファイも見上げると、屋根の一角に星空がよく見える天窓があった。この老人は星読みもするらしい。その日はそれ以上話すこともなく、二人は床に着いた。遠く野犬の遠吠えが聞こえた。


 ジトーは眠ることなく、じっと天窓から星を見ていた。その目先を隣で眠るファイに転じ、静かに息をつく。彼はあらゆる学問に精通し、魔法も会得し、剣の腕も屈指のものであった。若い頃は諸国を歩き見聞を広げ、このラミーユで召し上げられた。だが幾星霜の年月が経ち、人と関わることが煩わしくなり、山に籠りこの世界の真理を探究するようになった。星読みはその一環だった。

 20年ほど前、ジトーは占星術で予言を得た。闇が復活して、光が降臨するというものだ。当初は意味がわからず困惑したが、それが神の啓示だとしばらく後に気づいた。よもやその光が自分の元へ訪れるとは夢にも思わなかった。その日、初めてファイを見た時、ジトーはファイの中に光を感じた。その瞬間、20年前の予言が突然、脳裏に蘇ったのだ。ファイがパナオに出会い、この地に導かれたのは、神のご意志かもしれないと感じていた。だが、まだ光は弱い。今からいろいろなことを身につけなければいけない。その先鞭を自らがつけることになるらしい。ジトーはそのことに身震いしつつも、覚悟を決めねばならなかった。


 翌朝、ファイが目を覚ますと、老人はもう家の中にはいなかった。扉を開け外に出ると、まだひんやりと朝の空気が冷たい。どこかに出かけたようだ。ファイは背伸びをして、晴れた空を見上げた。小鳥がさかんに新しい日を迎えさえずっている。

 ファイには得体の知れないあの老人が自分に何をもたらすことになるのか想像ができなかった。パナオに言われて宛もなくやって来たが、ただの迷惑ではなかったかと思っていた。

 そんなことを考えながら、ぼんやりガーノの急峻な山並みを眺めていると、ジトーが何やら袋を下げて戻ってきた。

「さあ朝飯にしようか。」

そう声を掛け、ファイを家の中へ誘った。袋の中には下処理をされた獣の肉や山菜など、山で採れた食材が入っていた。おそらく人外の種族との取引で手に入れたものだろう。簡単な野菜入りの肉汁をつくり、ファイに勧めた。ファイは黙ってそれを味わった。

「ところで、お前さんに師はいるのか。」

老人の問いは唐突だった。

「いや、そんなものはいません。小さな時に旅の途中で出会った戦士に剣の手ほどきを受けたことはあるが、それくらいです。」

「そうか。では師を持つがいい。差し当たってはワシだな。」

いきなり意外な言葉を受けてファイは面食らった。

「なんのためにそんなものを。」

ファイの言葉にジトーは渋い顔をした。

「そりゃ心外じゃな。お前さんよりもずっとワシの方が物事を知っとるぞ。剣だって教えてやれるぞ。たぶん。」

出会ったときに気配を感じなかった時のことをファイは思い出した。

「理由はある。これから起こるこの世界の禍のことじゃ。」

ジトーは抽象的だが、星読みで得た予言についてファイに語って聞かせた。だが、ファイにはいまいちよくわからない。

「それがオレとなんの関係が。」

「その予言の光というのはお前だよ。たぶん。」

判然としない答えにファイはちょっと顔を顰めた。

「そうと決まったわけではないんですよね。」

「たしかにそうだが、お前さんの可能性が高いな。ワシの経験から言うと。」

ここで年輪の差を盾にジトーが強気に出た。またファイが顔を顰める。

「しかし、今更オレに学ぶことなんてあるんですか。」

その問いにはジトーは胸を張って大きく頷いた。

「もちろんじゃとも。お前の知らないことなど、この世界にはまだたくさんある。剣にしてもそうじゃ。お前さんの剣は我流じゃ。型がない。」

さすがに得意の剣のことを指摘されてファイは目を剥いた。

「オレが弱いとでも?」

「そうではない。今でも十分強いことは知っておる。だが、想定外の局面になった時に、我流の脆さが出る。経験の引き出しの差じゃ。」

ジトーは鋭くファイを見据えた。

「型とは経験せずとも会得できる技とも言える。その数の多さが最後には勝敗を分ける。」

そう言われるとファイにも思い当たる節がある。窮地の場面でも己の閃きと反応の良さと持ち前の速さで切り抜けてきた。経験があればそうなる前に対処できたかもしれない。

だが、今度はファイがジトーをしっかり見据えた。

「あなたはオレに昨日初めて会った。母を知っていたかもしれないが、オレのことはほとんど知らないはずだ。なのに会っていきなり教えを乞えと言う。なぜ見ず知らずのオレを弟子にしようと?」

すると、ジトーは白い髭を撫でた。

「お前がここに来る途中、人外の種族に幾度も会ったはずだ。この山深いガーノには人間以外の種族が多くいるからな。あやつらには人間が嫌いな者もおるし、縄張りがあるから襲ってきた者もおったはずだ。だが、お前さんは一度も手を出さなかった。そうだろう?」

ファイが驚きの表情を見せると、白髪の老人はニヤリと笑った。

「お前の腕なら力づくでねじ伏せられたはずじゃ。それをしなかったのは、お前さんがこのガーノでは余所者だと弁えていたからじゃ。それが理由じゃ。」

今までの行動を見透かされたような気分がして、ファイは三度、顔を顰めた。

 そんなファイを見て、ジトーは内心、喜んでいた。戦わずに逃げることを選んだこの金髪の若者の中に、母オリーティアの面影を見た。あの優しい娘の息子はやはり心優しい青年に育ったのだと。

「理由はわかりましたが、一体何を教わればいいんだ。」

未だに納得できないファイが呟くと、ジトーは口の端に笑みを浮かべながら髭を撫でた。

「お前は目がいいらしいな。だが、目の良さに頼りすぎている。」

この老人はたった昨日からの半日足らずで、どこまで見通しているのか。

 ファイは敵と対峙した時、相手の動きをかなり詳細に把握することができる。それは時間が緩やかになる感覚と言ってもいい。そのくせ自分はそれに対応できる速さを保持している。つまりファイに補足されたものはファイには当たらないのだ。どんなに近くから突き出された剣でも、ほぼ密着した形で繰り出された技もファイに通じることはない。それはすべてファイの手の上にあるからだ。

 ジトーは立ち上がり、ファイに立つように促すと、布でファイに目隠しをした。これでは何も見えない。ただ戦えないことはない。

「では行くぞ。」

ジトーが宣告し、ファイが構えた途端、首筋に冷たい金属の感覚があった。ジトーがファイの首に剣を突き付けていたのだ。ファイの背筋にぞくりと冷たいものが走った。

「わかったか。」

老人がファイの目隠しを外した。ファイは唖然とした顔でジトーを見た。たとえ油断があったとはいえ、簡単に首に剣を当てられたのは初めてだ。

「お前は今日から外ではこの目隠しをして過ごすのじゃ。」

そう言って、ジトーはファイに外したばかりの目隠しを渡した。目隠しばかりではない。ファイにはこれから身体のすべての感覚を使って暮らしていくという修行を課した。

並の者なら10年は必要かもしれないが、若いながらも数々の試練を乗り越えてきたこの青年なら1年足らずで習得できるだろうとジトーは考えた。剣の腕があっと言う間に上がったように、ファイには特殊な能力が備わっている。ジトーはその能力に賭けてみることにした。


 黒曜石を敷き詰められた王の間は、禍々しく闇に浸り、火の明かりさえも吸い込まれそうな漆黒の空間に、突然怒号が木霊した。

「バズがやられただと!」

見るも無残にボロボロの態で戻り、首を垂れたダリルの報告を受け、漆黒のマントに身を包んだ屈強な体躯をした男が吠えた。

 そこは御前会議の最中だった。宰相や文官が立ち並ぶ中、5人の明らかに異色の漆黒のマントの者たちが存在感を露わにしていた。

彼らはムガリスと呼ばれる、ムガルが誇る5大将軍だった。それぞれが腕の立つ戦士や魔導士であり、ムガルの恐怖の象徴でもある。

漆黒のマントにそぐわぬ茶髪の男が軽口を叩いた。

「だからやめとけって言ったのに。ドングラージュの浅知恵が。」

名を呼ばれた燃えるように赤い髪の戦士がすかさず噛みついた。

「うるさいぞラング。バズがこうも簡単にやられると誰が思うんだ。」

すると、一番の年長者と思しき豪奢な金髪の戦士が鋭い視線を二人に投げた。

「黙れ二人とも。王の御前だぞ。」

彼らの居る間の数段上には玉座があり、王が鎮座している。ムガリスもかくやという巨躯の王は同じくわずかに深い紫を帯びたマントを揺らして手をかざした。その場の者が皆平服した。

「よい、ガナーシェ。」

王が呼び掛けると、ガナーシェと呼ばれた金髪の戦士は、首を垂れたまま、はっと張りのある返事を返した。深い皺の刻まれた白髪頭の宰相が前に進み出た。

「問題はあやつをどうするか。懐柔もダメ、戦うにも犠牲が大きいとなると。」

そこへ漆黒のマントの男、黒髪のムガリスの一人が声を上げた。

「オレが出向こうか。」

だが、宰相は静かに首を横に振った。

「お前たちが出向けば、ことが大きくなる。ファイ一人の問題だけでは留まらなくなろう。今は休戦中の国とも、下手をすれば交戦になるやもしれん。」

それを聞いたムガリスの男は薄ら笑いを浮かべた。

「大丈夫だ。そこまで下手はせん。首を取ろうとも思わん。どれだけの者かをちょっと見てくるだけだ。」

そこにガナーシェも頷いて口を開いた。

「たしかにファイとやらの力量を直接見た者は我らの中にはおりません。今は戦争も膠着状態です。どうかこの任務を認めてくださいませんか。」

王に対して首を垂れるガナーシェに王は再び手をかざした。

「私はお前たちを信頼している。お前に任せる。」

王の下知にムガリスは揃って片膝をついて最敬礼した。

「しかし、危険ではありますまいか、相手はあのファイですぞ。」

文官の一人が懸念を口に上らせたが、黒髪の将軍は後ろをギロッと睨んだ。

「オレがやられるとでも言いたいのか。」

あまりの威圧に文官を口元をもごもごさせて後ずさった。黒髪の男は密かに口の端に笑みを浮かべた。


 ガーノのジトーの家を訪れた翌日からファイの修行の日々が始まった。基本的に山を降りる時以外は目隠しで極力行動することになった。始めてする生活にファイは戸惑ったが、冷静になればなんとか動ける。自分がいかに目の良さに依存しているかを思い知った。大切なのは感じること。身体中の感覚で周囲のすべてを感じることを会得していかなければならない。

 ジトーはファイの知らない世界を次々とファイの前に広げてみせた。この世界の成り立ち、生きる物たち、この世界を作る法則、魔法の初歩的知識、はたまた礼儀作法や市井のルールなど、大局から細事まで多岐に及んだ。幼い頃からファイはオリーティアと旅をしていたので、同じ年代の人と比べれば世の中を知っていると言えたが、ジトーにすればあまりに視野が狭い。もしファイに神の使命があるなら、それでは心許ない。できるだけジトーの持つ知識をファイに叩き込んでいった。

 ファイは日々の暮らしの中で、ジトーの懐の深さを心底感じた。これまで母との旅でいろんな経験をして、敵と言える存在もなく、これ以上学ぶこともないと信じ込んでいたが、それは全くの無知だった。数日前の彼は母を失い、道しるべを失って途方に暮れた。半ば頑なになっていた所もあったかもしれない。ジトーとの出会いで凝り固まった心が解放される清々しい気分を知らぬ間に感じていた。

「世界には多くの国がある。お前はどれだけオリーティアと巡ったか覚えとるか。」

ジトーの問いにファイは口を歪める。幼すぎて訪れても覚えていない国も多くあったからだ。

「んー、たぶん20は行ったと思うんですが。」

しどろもどろのファイにジトーはフンと鼻を鳴らした。

「ワシが聞いた話だとそんなものではなかったが、お前が小さな頃に行った国は覚えておらんじゃろうのう。」

皮肉を言いながらジトーがなめし皮の地図を広げて見せた。ファイはまた口をひん曲げた

「ここがこのラミーユだな。その隣がいつも戦争をしているムガル。さらにこのガーノよりも高い山々に囲まれた国が風の国ファリス。風の神ゼリウスを奉じている。」

ジトーは次々と国の説明をしていった。ファイもその地図に釘付けになった。もっと簡単な地図は見たことがあるが、ここまで詳細なものは初めて見た。まるで遥か上空から実際の形をそのまま写したような精巧さだ。さらにジトーが詳細な説明を付け加えていく。まるで国々を渡り歩いている気分になれる。一通りジトーは地図にある国に関して話し終えた。

「もちろん世界はこれだけではない。ワシが話したことがすべてでもない。世界にはもっと大小幾多の国々があり、争い、認め合い、それぞれが暮らしている。今度は自らの足でその国々を巡り、知見を広める必要がある。」

それから、ファイがその旅に出る目的について話し始めた。まずはこの世界に迫る危機について語る必要があった。

「この世界、この空間というか、学者の間では次元と言う名前もあるが、それをアスラトス界という。」

「アスラトス界?!」

いきなりファイは混乱した。何を言ってるのかわからない。

「そうじゃ。この名前は人間が付けた俗称で、国とかそんなものを取っ払った、今あるこの世界全体のことだ。ただ神にはその名は通用しない。」

「誰がその名前を付けたんですか。」

「この世界を誰よりも探究した人間がかつておった。1000年以上も前の話だが。その者が今から話す世界の姿を追求し、ひとつの形にした。もちろんすべてではあり得ないが。その者の名がアスラトス。」

始めて聞く話にファイの興味は尽きない。

「彼は何を探究したんですか。」

「様々なことじゃが、この世界の創生やこの世界を司るもの、根源や法則、それから神々の存在。」

「神と言いますが、神はいるんですか?」

その問いにジトーは腕組みして少し上を向いて考える素振りを見せた。

「いると言えばいる。この世界を司る存在だ。」

ジトーは立ち上がり、他の皮の巻物を持ってきて広げた。そこにはまた見たこともない印と文字が刻まれていた。

「神とは人間が付けた俗称だが、確かに存在する。このアスラトス界にはいないが、強く力が影響している。」

そう言ってジトーは印を指し示した。

「神々は数多く存在するが、根源としての神がいる。いわゆる、火、水、風、土、光の5大神だ。これも人間がただ俗称でいっておるだけだが、だいたい合っている。」

その図には5つの印が記されていた。それぞれが5大神に対応している。

「この印は神が下知されたものだ。呼び名は人間が身近なものに例えてそう呼んでいるだけで、本質はもっと深い所にあるが、今の人智では測り知れん。」

「あなたはそれを今も探究しているんですか。」

ジトーはニヤリと微笑してやんわりと頷いた。始めてファイはこの老人のやろうとしていることを理解した気がした。

「だが、この世界は予定調和だけではない。」

途端にジトーの声に深刻さが増した。ファイも口元が引き締まる。

「それが脅威。」

「そうじゃ。神々に抗う者じゃ。判然とはしないが想像を絶する大きな闇が迫っておる。神々は使途を下してそれを阻止すると言われるが、どんな形かはわからん。」

ジトーが鋭い眼差しでファイを見た。

「初めてお前に会った時、お前の中に光が見えた。」

「師が夢で見たというあの光だと。」

だが老人は静かに首を振った。

「それはわからん。ただお前が何か特別なものを持ってここに来たことは間違いなかろう。」

するとファイは苦笑いした。

「信じられませんね。そんなものを今まで感じたこともないし。」

ファイが至極最もなことを言うと、ジトーも腕組みをした。

「たしかにな。ワシもよくわからん。だが、お前を鍛えることにしたのは、その光を見たからだ。」

そう言われるとファイも笑い事ではなくなってくる。ジトーには無償でファイを修行する義理などない。

「お前が神の使途なのか本当のところはわからん。ただ、もしその使命を帯びているなら、どの神の使途かを知る必要がある。他にも神の使途がいるなら会わねばならん。もし使途でないとしても、その使命を伝える役目を果たさねばならん。いずれにしてもお前は旅立たねばならんのじゃ。」

 ジトーが静かに告げた言葉に、ファイは思わず背筋が伸びた。

これまで目的もなく行くあてもなかったファイに明確な目的ができた。正直なところ、自分が使途かどうかに然したる興味はなかったが、行くべき道を示されたことに軽い興奮を覚えた。ファイは老人にその道を歩むことを同意した。


 ファイがジトーの元で修行している間、ジトーに頼まれて人里に下りることが何度もあった。あまり人ごみを好まないファイは気が進まない時もあったが、山暮らしが長いと、たまに人に触れ合うと楽しくならないこともない。

 ジトーに頼まれる要件は、人外の種族との取引で得た山の幸や、ジトーが煎じた薬、道具やアクセサリーなどを卸したり、買い物をしたりと多岐に及んだ。ジトーは人に頼まれて、かなり器用に様々なものを作っていた。

 その日もジトーに頼まれて、ファイは止む無く朝から山を降りて街に出かけた。深いフードを被って顔を隠し、あちこちの店に出向いて売買のやり取りをした。日が傾きかけた頃、ひと段落ついて帰途に着こうとした時、通りがかった広場に人だかりができていた。ちょっと興味を駆られたファイは人の隙間から中を覗いた。男数人と若い娘が対峙しているのが見えた。もっとよく見ようと人の輪に交じり様子を眺めた。

 娘より頭2つは大きい男たちは娘に掴みかかるが、若い娘は軽々とそれを躱す。まるで宙に浮かぶような身軽さだ。ファイはその動きに感心した。人間にしては軽やかすぎる。だが、それがいつまで続けられるかはわからない。娘は手出しする様子もなく、このままでは捕まるかもしれない。ファイは万が一にも正体がわからないように身を隠し、厄介事を避けようとしていたが、そうも言っていられなくなった。

 素早く人の輪から出ると娘の前に立ち、殴りかかる男の腕をファイは掴んだ。すると、輪の反対側から同じく踊り出てきた者があった。男の足を引っかけて転ばせる。ファイとその男は素早く目配せして、若い娘を庇う様に男たちを迎え撃ち、あっさり退けてしまった。

 娘を襲った男たちは覚えてろ、と月並みな捨てセリフを吐いて逃げていった。ファイと助太刀に入った男は互いに握手をした。ファイはその男の身のこなしにも密かに感心していた。これまで出会った戦士の中でも、これほどの動きをする者はあまりいなかった気がする。

 突然助けられた若い娘はきょとんとして、二人を見たが、やがて笑顔になった。

「助けてくれてありがとう。」

明るい声で元気に礼を言った。二人より少し背が低く、珍しい緑色の髪をしていた。少しウェーブのかかった肩上までの髪が揺れる様が印象的だ。

「何があったのかは知らないが、男たちに美しい女性が襲われてるなら、助けるのは当然ですよ。」

助太刀の男は栗色の前髪を少し掻き上げながら言った。顔の整った優男だ。しなやかな肢体だが、切れ長の目に秘めた強さを感じさせる。人慣れしているようだ。

ファイは声を掛けることなく、目で挨拶して立ち去ろうとすると、娘がファイの腕を掴んだ。

「待って待って。もし良かったら、お礼にお酒をごちそうしたいわ。」

良かったら、と言いながら、娘の腕はしっかりファイの腕を捉えていた。ファイは戸惑った。

「悪いが先を急いでるんだが。」

と言いながらもファイが娘の細腕を振りほどけずにいると、

「まあまあいいじゃないか。オレもあなたにちょっと興味がある。ここはごちそうになろうよ。」

助太刀の男が馴れ馴れしく絡んできた。腕を掴んでいる娘もにこにこしている。ファイは断ることもできずに、そのまま近くの酒場に連れていかれた。


 「カンパーイ!」

3人は杯をカチ合わせた。酒を飲むのはファイにとってレーンのグロードの家で口にして以来だ。なんとなくあの夜のことが思い出された。ミリーは元気にしているだろうか。ファイの心が疼いた。

「私はエリス!旅をしてるの。」

唐突にエリスは叫んだ。ファイはびっくりした。もう一人の男が楽し気に声を掛けた。

「女の子一人で旅はすごいなあ。なんであいつらに絡まれたの?」

「ちょっと広場で休んでたら、酒飲もうとかなんとか言われて、断ったらああなったんだよ。」

「それにしてはかなり怒ってたみたいだけどなー。」

男が怪訝そうに酒を飲みながら言うと、エリスはふふ、とほくそ笑んだ。

「もっとカッコイイお兄さんなら良いけど、おっさんはヤダって言ったら、怒ったみたい。」

あっけらかんと言って、エリスも酒を旨そうに飲んだ。天真爛漫という言葉にぴったりだが、あの身のこなしは普通ではない。ファイは横目でエリスを見た。

「オレはミラーだ。この国で傭兵をやってる。ムガルと戦争してるからな。」

ミラーと名乗った男は簡単に自己紹介した。ファイは少し違和感を感じた。確かにラミーユはムガルと長年交戦状態だが、今は休戦している。ラミーユが傭兵を募っているという話も聞いたことがなかった。

「ねえねえ、お兄さんは?」

縋るようにエリスがファイに聞いてきた。ファイは頭をぽりぽりと掻いた。

「オレはファイだ。」

名乗った時、ミラーの視線が一瞬鋭くなるのを感じた。だがファイは気づかぬふりをして酒を口にした。

「ファイさん。カッコイイ名前ね。何してる人?」

エリスの口調が耳慣れず、戸惑いながらも山に住んで山仕事をしていると答えた。エリスは興味深そうにファイをまじまじと見つめた。

 それからエリスはどんどん酒を重ねていった。飲むたびに饒舌になっていく。それを見てミラーも笑いながら上機嫌に酒を飲んだ。ファイはあまりそういう雰囲気に慣れていない。

人混みが苦手なファイはしばらく二人に付き合った後、そろそろ帰ると言って席を立った。

するとエリスは酔った勢いでファイにしがみついた。ファイが慌ててエリスの身体を支えると、エリスはにっこり笑った。

「今日は助けてくれてありがとう。また会いましょうね。」

エリスの屈託ない笑顔はミリーを思い出させた。自然にファイは右手でエリスの頭を撫でた。エリスははっとした表情の後、ファイの腕に頬を寄せた。

ミラーも手を挙げて、またな、と声を掛けてきた。ファイも手を挙げて応じた。そうしてファイはやっと店を出ることができた。

 だが、あの二人がまた会おうと言った言葉がひっかかっていた。ファイの居所も知らないのに、会えるわけがない。ファイはもう会うこともないと思っていた。不思議なヤツらだな、と思いながらも悪い気はしなかった。久々に楽しい気分になり足取りも軽くファイはガーノの山に帰っていった。

 

 数日後、昼前ごろにファイがジトーの家から出ると、人影に気づいた。この山奥で人に出会うことがないので、一瞬驚いたがよく見ると見覚えがある。にこにこ笑っている。

「会いに来ちゃった。」

それはエリスだった。相変わらず屈託のない笑顔だ。ファイは後をつけられたと感じて警戒したが、当のエリスはそんなファイを尻目にすたすたとジトーの家の中へ入った。中にはジトーが鎮座していたが、突然入ってきた若い娘を見て、一瞬驚き、おおっと感嘆の声を上げた。

 エリスは人差し指を口元に挙げて片目を瞑って見せた。それに応じるようにジトーはにっこり微笑んだ。

慌ててファイが家に入ると、エリスはジトーの向かいに座っており、すっかりその場に馴染んでいた。

「この子は師の知り合いですか?」

「いや、初めて会うな。」

「私も初めて来たよ。いい所ね。落ち着いちゃうな。」

とか言いながら、エリスは脚を伸ばした。細く若々しい脚を見て、ファイにはジトーの鼻の下が伸びているような気がした。

「一緒に昼飯食うか。」

ジトーが楽しそうに問うと、エリスは嬉しそうに手を叩いた。

「食べたい食べたい!」

すっかり意気投合したような二人と一緒に、ファイは昼食を取った。エリスはよく喋り、ジトーはよく笑った。ファイにもいろいろと尋ねてきた。ファイは不審がりながらも次第に妹がやってきた気分になり、答えるようになっていた。

 エリスはそのままジトーの家に泊まってしまった。ジトーはまったく警戒の色を見せず、むしろ喜んでいるようにしか見えない。ファイは軽い混乱を覚えた。

 翌日、エリスは帰っていった。また来るねという言葉と笑顔を残して。ファイは疑問符だらけのまま彼女を見送った。

 その数日後、またエリスはやってきた。その後も度々彼女はやってきて、ファイに構って欲しがった。不思議なのは、ジトーはすっかり彼女を受け入れていることだった。結局エリスはファイがジトーの元を旅立つまでずっと通い続けた。


 ジトーの家で過ごした日々のある日、ファイはまた街に出かけることになった。ジトーに使いを頼まれたからだが、丁度その時にエリスはやってきた。話を聞きつけたエリスは目をキラキラさせた。

「私も一緒に行く!」

まるでお姫様の決定事項のような言い草でファイについてきた。エリスのお出かけ気分にファイは内心頭を抱えていた。

 ジトーは街の薬剤師から頼まれて山の薬草を集めたり、山の木々を使って様々な道具を作っている。それらの品物を収めるためにファイは店を訪ね歩く。エリスはファイから離れて出店を覗いたり、雑貨屋や香水などを見たりして楽しんでいた。

 一通り用事が済んだファイは身軽になった。帰ろうと思ったが、エリスのことが気に掛かった。黙って帰るとまたなにやら文句を言われかねない。表通りを見回したが姿が見当たらない。勝手について来たのだから放っておいてもいいのだが、そうもできない。ため息を付いてしばらく足を巡らせた。

 かなり街中を探したがエリスは見当たらない。道行く者にエリスの容貌を伝えて聞いて回ったが、見た者はいなかった。彼女の緑色の髪はかなり目立つはずだった。ファイは頭を掻いた。

 もしかしたら、街の外に出たのか、ひょっとしたら帰ったのかもしれない。どこに泊まっているのか知らないが、彼女にも宿はあるだろう。

一応探したし、義理は果たしたと考えてジトーの元に帰ろうとガーノへ向かいかけた時、誰かの声が聞こえた。

「街の外で若い娘が連れ去られてるぞ。」

それはエリスのことだとファイは直感した。急いで声の主にどこで見たかを聞いて、街の外へ向かった。それを見送った声の主は密かに笑みを浮かべていた。


 街の外の街道に出ると、すぐに悲鳴が聞こえた。エリスの声に違いない。ファイが駆けつけると、エリスが見知らぬ大男に捕まっている。喚きながらもがいているが、大男は余裕の笑みでエリスを離さない。この前、エリスにあしらわれた男たちとはわけが違う。わきだつような黒髪の不気味な男だった。

「その子を離せ。」

ファイが近づきながら言うと、黒髪の男は片腕でエリスをガッチリ捕まえたまま、口端に笑みを浮かべた。

「奪い返してみろ。」

当然のような返答を受けて、ファイはため息を付いた。仕方なく言われた通りにすることにした。あっと言う間に間合いを詰めると、大男の腕を掴んだ。

さすがに大男は驚いたように仰け反ってエリスを放した。だが、その巨体に似合わない素早さで間合いを取ると、すかさずファイに向かって拳を放ってきた。

ファイがそれを躱すと、さらに鋭い拳がファイを襲ってきた。どうやら武器を使う気はないらしい。ファイは幾度か男の攻撃を躱すと、手刀を男の首筋に叩き込もうとした。

だが、黒髪の男はかろうじて身を捩って身体で受け止めた。自分の攻撃を躱したことに驚いたファイは少し間を取った。相手の男に余裕は感じなかったが、一連の動きからこれまで戦った相手の中でもかなりの強者に違いないと思った。

「お前はファイだな。」

大男が口を開いた。思わずファイに戦慄が走った。明らかに目的はファイ自身だった。

「お前は誰だ。」

ファイが問うと、黒髪の大男は腕組みをした。

「ムガルのローダン。」

その名を聞いた途端、ファイの目が吊り上がった。

「お前たちの使者にオレが伝えた言葉を聞かなかったわけではないだろうな。」

怒気を孕んだ言葉を吐きながら詰め寄ると、ローダンは左手の平を突き出した。

「今はお前と戦う気はない。」

ファイは怪訝な表情をして立ち止った。

「お前がどんなヤツか見に来ただけだ。我らはまだお前を諦めたわけじゃない。この国との闘いに勝たねばならんからな。敵国に長居はできん。お前の強さはよくわかった。素手ではお前に勝てそうにない。また会おう。」

そう言い残して、ローダンは立ち去った。ファイはエリスを置いて追いかけることはしなかった。すると、ローダンと同時に数名の影が去っていくのがわかった。おそらくローダンの配下の隠密だろう。ずっとこちらの様子を窺っていたらしい。どうやら街でエリスが捕まっていることを知らせたのも影の仕業だったようだ。

 街道に漂っていた緊張感がすっと消えた。さわさわと木々の揺れる音だけが辺りを包んだ。へたり込んでいるエリスを助け起こそうとファイが近づくと、エリスが突然、わんわん泣き出した。

「こわかったああ~。」

エリスはファイにしがみ付いてきた。

「ごめんなさいい~。何もできなかったよ、怖くて何もできなかったあ。」

泣きじゃくるエリスの頭を撫でてやりながらファイは彼女を宥めた。それと同時に去ったローダンのことを考えた。

ファイは攻撃を躱されたことがほとんどない。初見で躱されたのは初めてだった。厄介な相手だ、と改めて思った。


 ジトーの元での修行は 昼日中はほとんど目を隠したまま、頭の中で描くイメージだけで動いた。そうしているうちに、そのイメージは明確化し、色のない像を結ぶまでに発展した。

 目を隠したままの剣の修練でも最初はジトーの鋭い攻撃を防ぐのに精いっぱいだったが、最後の頃には相手の像がありありと浮かび、しかもゆっくり見えるようになった。さらには、見るとか聞くなどの5感だけでなく、ファイは精神とも言われる第六感までも操れるようになってきた。初めてここに来た時より明らかに成長した感覚を持っていた。

 それと同時にファイは不思議な力を身に宿すようになっていた。自分の周りの空気の流れを意識的に変えられるようになっていたのだ。

 その力に気づくきっかけになったのは、何気ない日常の朝だった。朝食を取ろうとした時に、ジトーの家に入り込んできた1匹の羽虫がファイに飛んできた。ファイは避けることもなく座したままだったが、その虫はファイに近づくと何かに弾かれた様に突然向きを変えて飛んで行った。その瞬間をジトーは見ていた。

「躱すな。」

そう叫ぶと手に持っていた木のスプーンを唐突にファイへ投げた。ファイは身動きひとつ取らなかったが、ファイに当たる手前でスプーンは弾かれるように他のどこかへ飛んで行った。

「何事ですか。」

ファイが驚きの表情を見せたので、ジトーはニヤリと笑い、ファイに今見た経緯を伝えた。

 それから幾つか実験をしてみると、どうやらファイの身体の周囲に空気の流れがあり、それを微力ながら動かすことができるらしいことがわかった。この力にはジトーも驚いた。最初は魔法かとも思ったが、ファイにそんなものは教えていない。自然と身に着いたものに違いなかった。

 ある時は、ガーノの山で火事が起こり、ジトーと懇意にしている人外の部族が巻き込まれた。二人は救援に向かった。辺りは煙に包まれ、逃げ遅れた者もいた。ジトーは水の魔法を駆使して山火事を抑えていったが、助けることができない。

 その時ファイが果敢に煙の中に走りこんでいった。ジトーは危険だと思ったが、ファイの周囲の煙が逆巻くのを見て、制止するのを止めた。やがてファイは逃げ遅れたゴブリンを幾人か連れて戻ってきた。彼らの仲間は救ってくれたファイにひどく感謝をした。それからは事あるごとにファイにあれこれと山の幸をくれるようになった。ファイは困惑したものだ。

 ファイの起こす風は、今はまだそれほど強い力ではないが、鍛えればもっと強くなるかもしれない。この力の発現を見た時、ジトーは確信した。ファイは風の神の使いであることを。

 だがもうひとつ、ファイが風の神の使途だと思えたことがある。エリスの存在だった。初めてエリスがジトーの前に現れた時、ひと目で見抜いた。あれは人間ではない。あの者はきっと・・・。


 やがてファイがジトーの元へ訪れて1年が経とうとしていた。ジトーはファイに伝えるべきことを全て伝えたと感じていた。ファイはこのガーノの山で、自らの感覚すべてを駆使して生きていくことを学んだ。今のファイにはこれ以上伝える時間はない。

 ジトーはある夜に、ファイに酒を進めた。ファイがジトーの元へ来て、ジトーの家で酒を飲むのは初めてだった。

「この山で採れた果実で作った地酒じゃ。」

ファイは何も言わずに酒の入った杯を取った。二人は杯で乾杯した。

「お前がここに来てもう1年になるかな。」

ジトーは旨そうに酒を飲んで言った。ファイも頷いた。

「早いですね。師にはいろいろ教わりました。」

ファイは感慨深そうに酒の入った杯を眺めた。地酒は予想以上に味わい深く、ほどよい苦みが身に染みた。

「今のお前にワシが教える事はもうない。」

ジトーが静かに、だがはっきりと言った。それは修行の終焉を意味していた。それと同時にファイの旅立ちを意味してもいた。ファイはゆっくり頷いた。

「お前がここで求道者を目指すというなら、まだ伝えることはあろう。だが、お前はそういう存在ではないことをワシは確信しておる。」

ちょっと伏し目がちにジトーは言った。

「これまでの師の教えに感謝してます。オレはここで成長することができました。」

ファイは心からその言葉を吐いた。ジトーは満足げに笑顔を見せてうんうんと頷いた。

「いつ旅立つかはお前の自由だが、ワシが見たこの世界への脅威は待ってはくれんじゃろう。出立は早いほうが良いかもしれんな。」

少し寂しさの交じったような声でジトーは言った。

「オレはどこに向かえばいいでしょうか。」

するとジトーはまた皮の地図を持ってきてテーブルに広げた。

「我々のいる国はこのファミーユだが、この国は光の国と言われておる。つまり光の神ファネアを奉じる国だ。無論、神の使途もいるが、今この国にはいない。」

「いない?」

「そうじゃ。あやつは世界の脅威に関係なくこのアスラトス界に存在する。だが、放蕩もので碌にラミーユにいたこともない。いずれ会うこともあろうが今は会えん。」

地図を見ながらファイは腕組した。

「ではどこに行けば?」

「ここじゃ。」

ジトーが指さしたのは、フェリス国だった。ラミーユの隣、ムガルのさらに山脈を挟んだ反対側にある国だ。

「フェリスですか。」

「そうだ。風の神ゼリウスを奉じる国じゃ。ここでお前を見ている間、お前がどの神の使途かを考えていたが、お前が身に着けた、その不思議な力はおそらく風の神の力が顕在したもの。」

そう言われてファイは得心した。自分が使途だという自覚は未だにこれっぽっちもないが、もしそんなことがあるとすれば、風の力を操れる風の神の使途かもしれない。

「風の神を奉じる国には風の神の使途にまつわるものが多くあると聞く。お前の力になってくれる者も少なからずいるだろう。」

ファイは力強く頷いた。初めて今、ファイの旅に道しるべができた。行こう。フェリスへ。ファイの中に得も言えぬ力が湧いてくるのを感じていた。


 ついにファイが旅立つ時が訪れた。ある程度の食料と水、これまでジトーの元で働いた分の対価を旅の用意として携えた。

 ジトーは家の戸口に立ったファイの肩に手をやった。

「これからはお前次第じゃ。だが、お前の母も最初は一人で小さな楽器だけを携えて旅に出た。お前にできぬことはない。」

ファイは頷いた。少しだけジトーを独りにしていくのは心残りだったが、多分この老人は大丈夫だろうと思い直した。

「あなたはオレに新たな知恵や知識、力を与えてくれた。オレはここでの暮らしを決して忘れません。」

老人は愉快そうに笑顔で頷いた。またここに戻ってくることを堅く約束して、ファイはジトーの元を出発しようと外に出た時、エリスがにこにこと屈託ない笑顔でそこに立っていた。

「旅に出るの?」

エリスはまるで待っていたかのようにファイに語りかけた。

「そうなんだ。エリスにも世話になったな。」

そう言ってファイはエリスの頭を撫でた。エリスは尚もにこにこと笑っている。ちょっと不穏な空気を察して、思わずファイは手を引っ込めた。

「私も一緒に行くね。」

予想外と言うか、予感していたというか、複雑な思いを感じて、ファイは口をへの字に曲げた。エリスがファイの腕に取り付いてきて、ファイは咄嗟に振りほどこうとしたが、エリスは放さなかった。

「ダメだ。遊びに行くんじゃないんだぞ。」

「いいじゃん。私が居たほうがきっといいよ。」

なにをワケのわからんことを、と思いながら、なんとかエリスを振り払おうと不毛な争いをしていると、ジトーがその光景を見て笑い出した。またファイは口を曲げた。

「笑いごとではないですよ。」

すると老人は白い髭を撫でながらファイに言った。

「よいではないか。一緒に連れて行ってあげなさい。」

無責任とも思える言葉にファイは反論しようとしたが、ジトーはそれを制した。

「きっとお前の役に立つじゃろう。」

これこそ予想外だった。師の吐いた言葉とは思えず少し茫然と老人を見たが、じろっと腕に纏わりつく娘を見た。

「師がそう言うなら仕方ない。足手まといになるようなら、置いていくぞ。」

少し冷たい語調で言ったつもりだったが、エリスはやったー、と叫びながらぴょんぴょん飛び上がった。ファイは頭を抱えた。

そうしてファイはジトーの元を旅立った。姿が見えなくなるまで、ジトーは見送ってくれた。ガーノの山々は今や故郷にも感じる。またここに戻ってこよう、とファイは心に誓った。


 ガーノの山を降りて、二人はとりあえずラミーユの城下町に向かうことにした。そこから大きな街道がフェリス方面に続いている。エリスは鼻歌交じりでついてくる。あまりの緊張感のなさにファイは旅の前途が違う意味で不安になった。

 ラミーユの城下に来ると、街の活気はひとしおだ。ジトーの使いで出向いていた街はそれほど大きくはなかったが、やはり城下町の規模はラミーユの中心地だけあって人の数も建物の数も大きさも段違いだった。ファイもなかなかこれほど大きな街に来ることはない。オリーティアとの旅でも経験はなかった。エリスは立ち並んだ店先の商品に目移りしているようだった。

 物見遊山の心地で歩いていた二人の前にふと何者かが立ち塞がった。先に気づいたエリスはその者を指さした。

「あー、あんたは。」

ファイもその男に気づいて驚いた。それは先日、エリスを一緒に助けて酒を飲み交わしたヤツ。たしかミラーと言った。

「やあ、お嬢さん。ファイさんもまた会ったね。」

相変わらず軽口を叩きそうな人懐っこい笑顔を見せている。ただあの時より、身なりが良い。以前は身軽そうな軽装だったが、今はまるで城兵のような正装だ。

「ミラーだな。まだこの街にいたのか。」

「そうなんだよね。ちょっと離れられないというか。」

と言いながらぽりぽりと頭を掻いた。何か言いたそうだが、なんだか言いにくそうにも見える。ファイとエリスは顔を見合わせた。

「あのさ。お二人をご案内したい所があるんだよね。」

「どこだ?」

不審気に問うファイに半笑いのミラーは両手を挙げて、まあまあと宥めた。

「そんな怪しい所じゃないから大丈夫だよ。」

明らかに怪しい返事だった。ファイは腕組みしてミラーを睨んだ。逆にエリスは興味津々でファイの腕を取った。

「ねえ、行ってみましょうよお。多分大丈夫だよ。」

「そうそう。大丈夫大丈夫。」

ミラーはエリスに合わせて調子良く誘ってきた。今度はファイが頭を掻いた。仕方なくミラーに付いていくことにした。


 3人が街の中を歩いて抜けると、だんだんラミーユ城が大きく見えてきた。

「おい、城に行くのか。」

「いいからいいから。」

ファイの怪訝な問いにミラーの返答は軽い。しばらく歩くと市街地が終わり、城を巡る堀に出る。跳ね橋を先頭のミラーはさっさと歩いていく。城門に差し掛かったが、城門兵は3人の姿を見ても何も反応しない。まるで見えてないかのようだ。さらに城の中庭を抜けていよいよ城の中に入ろうという時も、衛兵はまったくたじろぎもせず、通過できた。ミラーがちょっと手を挙げたくらいだ。

「どこに連れていくつもりだ。」

「もう少しだからまあ付いてきてよ。」

ファイはあまり城に来ていい思いをした覚えがない。母と一緒にいろんな国の城に招かれたが、たいがい母を守るのに必死か、戦わされるか、体のいい見世物扱いだった。

 そんなファイの気持ちを知ってか知らずか、ミラーの返答は相変わらず適当だった。

城兵や文官や城仕えの者や外来者など、様々な者たちとすれ違うが、皆一様にこの奇妙な3人をじろじろと観察していった。ファイにとっては居心地が悪い。エリスはずっと笑顔で面白がっている。どうやら不安とは無縁といった様子だった。

 ミラーは不思議と城の中を迷わず進んでいく。まるで勝手知ったる場所のようだ。やがてある一室の扉を開けた。広くも狭くもない応接室といった部屋だった。豪奢なソファとテーブルが設えられている。

「ちょっとここで待っててくれないかな。」

そう言って立ち去ろうとするミラーにファイが近づいた。

「お前は何者だ。」

少し緊張感を漂わせた口調でファイが問い詰めたが、ミラーは振り返って、笑みを口端に上らせた。

「大丈夫。今にわかるよ。」

そう言い残して彼は部屋を去った。エリスは豪華な調度品や家具を見てはしゃいでいる。ファイは仕方なくソファに腰かけた。

 すぐに城仕えの女性が飲み物や果物、手の込んだお菓子を運んできた。これにはエリスが大喜びした。早速口に運んでご満悦になった。

「すごいよ、このお菓子。さすがにお城は違うねえ。」

エリスは思わぬ役得にほくほく顔だ。ファイは一切手をつけることなく、窓から見える城下町の風情を見ていた。

 ここからフェリスまで5日ほどの道程だ。こんなところで足止めを食いたくないが、もし自分をファイと知って何かを企んでいるなら、突破せねばならない。エリスがいるが、なんとかなるだろう。彼女も身のこなしはかなりのものだから、戦いの場で足手まといにはならないだろう。

 あれこれと思案を巡らせていると、やがて部屋の扉が開いて、城仕えの者が入ってきた。

「お待たせいたしました。どうぞこちらへ。」

ファイは立ち上がって部屋を出ると、エリスも口を大きく頬張ったままついて来た。窓の続く回廊を歩いていく。徐々に城兵が増え、物々しさが増してくる。やがて両脇に兵が守る大きな扉の前に着いた。兵が扉を大きく開く。

「中にお進みくださいませ。」

城仕えの者は腰を折って首を垂れて言った。口元を引き締めて、ファイは中へ入った。


 大きな空間に左側の縦長の窓々から光が差し込み明るく照らしている。天井は高く見上げるようだ。豪奢な金色の絨毯が真っすぐに伸びている。両脇には白い鎧を身にまとい、金色のマントを羽織った戦士が数名並んでいる。こちらをじっと注目しているが、その中に見知った顔があった。ファイをここまで連れてきたミラーだ。うっすら笑顔を浮かべている。嵌められた、とファイは思った。

 さらに絨毯の先には段差が数段あり、その上には玉座があった。もちろんそこに座す者がいる。

同じ白の鎧を身に纏い、金色をベースにした豪奢な刺繍のマントを身に着け、肘掛にすがりこちらを見ている。明らかにこの国の王だった。ここは王の謁見の間だ。

 一番玉座の近くに立っている白亜の戦士が前に進み出てファイの目前に立った。

「あなたがファイか。」

おそらくこの戦士団のリーダーと思われる30歳前後のその男は、居丈高ではないが威厳に満ちた落ち着いた声で問うてきた。

「そうだ。」

「まずは断りもなくここまでお連れしたことをお詫びする。」

そう言ってリーダーと思しき男は軽く頭を下げた。それから柔和な笑顔を見せた。

「私の名はエンパイオ。我が王を守護する戦士たち、ファネリオを束ねる者だ。」

その名を聞いた途端、押し黙っていたエリスが目を丸くして、えーっと声を挙げた。ファイも目を見張った。

 ファネリオはこのファミーユが誇る6名の言わば将軍の称号だ。光の神ファネアの祝福を受けた白亜の鎧に身に包んだ屈強の戦士たち。一人で千の軍隊に匹敵すると言われる戦いのスペシャリストだ。それが6人みな揃っている。

 ファイはミラーに視線を投げた。まさかこの男がファネリオとは。只者ではないと感じてはいたが。ファイは内心舌を打った。ミラーはファイの所在を調べて近づいてきたのだ。先程のエリスの驚きようから彼女はグルではないようだ。むしろ利用されたと言っていい。

「我々の目的は・・」

エンパイオが言いかけた時、王が突然、玉座から立ち上がり、そのまま壇上から降り始めた。素早くエンパイオは隊列まで下がり、白亜の戦士たちは片膝を折って控えた。

王は警戒することもなくファイに近づいてきた。ファイもこの王のことは母から聞いて知っていた。いや母の知己とも言える存在だった。

 光の英雄王ボーダッシュ=オーラ。ファイより頭2つ大きな体躯の持ち主で、隙のない振る舞いや眼光は周りのファネリオにも劣らぬほどの屈強さを物語っている。

「オリーティアの子はそなたか。」

壮年期に入った王は重厚な声でファイに問いかけた。はい、とファイは素直に答えた。

「そうか。」

そう呟いて王はがっしりとファイの肩に手を置いた。

「母上のことは残念であった。」

憂いを秘めた瞳で漏らした王の言葉に、ファイは思わず胸が詰まった。

ボーダッシュは光差す窓に目をやり、何かを思い出す様に言葉を絞り出した。

「そなたの母上には何度かここまで足を運んで頂いたことがある。あの方の唄をみなが喜ぶのでな。城下でも唄を披露して頂いた。わしは未だかつてあの方ほど純粋な人を見たことがない。惜しい方を失った。」

はい、とファイも声を落とした。ここに招かれた時、ファイはまだ幼く記憶がない。ただ一緒に訪れたことはあると母に聞いていた。

 王は懐かしそうに厳めしい目を細めてファイを見た。

「あの幼子がこんな立派な戦士になるとはな。」

そう言った後、王はふと何かを思い出したように虚空を少し見上げた。

「そう言えばそなたの父は・・・」と言いかけて王は首を振った。「いや、余計な詮索はすまい。」

ファイははっと王を見上げた。

「オレの父を知っていますか。」

だが王は再び首を振った。

「いや、知っているわけではない。オリーティアともその話はしなかった。そっとしておくほうがよい。」

妙なはぐらされ方をして、ファイを首をかしげた。

「ところでファイよ。そんな思い出話のためにそなたを招いたわけではない。その腕を見込んでのことだ。」

その言葉を聞いた途端にファイの眼光は鋭くなった。

「オレは母のため以外には剣を振るうことはない。」

ファイはきっぱりと宣告した。それと同時に周りに佇むファネリオから剣気が漂い始めた。エリスは怖ろしいのかファイに近寄って不安げにマントを掴んだ。

 だが、オーラ王が手を翳してファネリオを制した。剣気は何もなかったのように消え失せた。それから改めてファイを見やった。

「お前はムガルの使者を追い払ったようだな。」

ファイは驚いた。ムガルのローダンと対峙したあの場に、他の者の気配は感じられなかった。だが知っている。どうやらファイを監視しているのはムガルだけではないようだ。

「そなたの言うこともわかる。どうやら母親同様に野心とかそういうものから縁遠い人間のようだな。」

王はそう言ってファイに理解を示した。ファイは内心ほっと息をついた。もし無理強いされるなら力づくで突破せねばならない。そうなればファミーユをも敵に回すことになる。母と所縁のあるこの国とそうなりたくはなかった。

「わかった。できれば我らとともに戦って欲しいと思ったが、それは諦めよう。ただし、条件がある。」

ファイは王の目を鋭く見返した。この流れはいつものことだ。

「ここに控えるファネリオと力比べをしてもらいたい。そなたの力のほどが見たい。」

まるで予想していたかのようにファイは6名のファネリオを見回した。それから軽く息をついた。

「それで開放してくださるなら受けましょう。」

王はその答えに大きく頷いた。その瞬間に王の間に張り詰めていた緊張感が弛緩していくのがエリスにも感じられた。


 王とファネリオに引き連れられて、ファイとエリスは王の間から中庭の修練の場に移動していく。すれ違う者たちが首を垂れながら、その集団の行く先を見守る。

 修練の場に着いた時には王やファネリオの他にも、多数の城の者たちが遠巻きに、あるいは窓辺からその様子を固唾を飲んでみていた。修練場には木製の様々な武器が並んでいた。ファネリオのリーダー、エンパイオがファイにそこから好きに武器を選ぶように言った。ファイは一振りの木製の剣を手に取った。ファネリオの面々はみな軽装に着替えている。エンパイオだけがマント姿のままだ。どうやら戦う気はないらしい。

 ファイも麻のマントを脱いでエリスに手渡した。エリスは不安そうに大丈夫かと問いかけたが、ファイは心配ない、と答えた。

「私はシュバインと申す。お相手します。」

王や他のファネリオ以下大勢の見物人が見守る中、二人は対峙した。シュバインは中団に構える。ファイは片手に剣を下げたまま構えることもしない。

 シュバインの剣気をファイは敏感に感じ取る。紺の髪を風になびかせる青年の攻撃的な瞳から強烈にプレッシャーを感じる。今まで戦った相手とはわけが違う。

 様子を見ることもなく、いきなりシュバインが切り込んできた。鋭い打撃がファイを襲う。ファイはそれをすれすれで躱して、切り上げるように剣を振るった。それをシュバインは間一髪で躱す。ファイの攻撃を避ける者は今までもいなかった。あのムガルのローダンくらいかもしれない。ただ、ファイにはかなり余裕があった。

 フッと息をついて再びシュバインが踏み込んできた。一瞬で幾筋もの突きを放ったが、ファイはなんなく躱して見せる。最後の渾身の突きをファイは前進しながら避けると、シュバインの肩口を打った。シュバインは呻いて思わず膝をついた。

 周囲の者たちにはシュバインにファイが近づいた途端にシュバインが蹲ったようにしか見えなかった。王やファネリオ以外には。

「なんと速い剣だ。」

オーラ王は初めて見たファイの剣さばきに驚きを隠せなかった。シュバインはよろけながら立ち上がり、降参の意を示した。

「やったあ。」

思わずエリスは口走って喜んだが、不穏な空気を感じて周りを見回すと黙り込んだ。

 すると待ちきれないように、新たな剣士が前に進み出た。

「次はオレだ。ラムザだ。ファイ殿、勝負!」

言うが早いか、早速ファイに向かって構える。燃えるような赤い髪の青年はやる気満々と言った笑みを浮かべている。ファイはふんと鼻で息をついて、先程と同じく剣を下げたまま対峙した。

 だがラムザは一向にやってこない。シュバインとの戦いを見て慎重になっているのは明らかだった。どうやらファイの攻撃を待っている節がある。

「来ないならいくぞ。」

ファイは宣して脚を踏み出した。一気に風のように間合いに入って一撃を見舞った。だがラムザはなんとか剣で受けて見せた。素早くファイが下がると、ここぞとばかりにラムザが前に出た。

強烈な打ち下ろしをファイが避ける。さらに無数の剣撃が一度にファイを襲った。間合いは完璧だった。どの一撃も達人でさえ躱すことは難しいはずだった。

 だがラムザには手応えがない。傍から見ると、まるでファイの身体をラムザの剣が擦り抜けているように思えた。ファイは何事もなかったように再びラムザに対峙した。ラムザは驚愕で目を見張ったが、やがて口の端に笑みを浮かべた。あの攻撃を躱されたら成す術もない。

 今度はラムザが打って出た。受けに回ると負けしかないと悟った。上段と見せかけての薙ぎ払いだった。ファイの身体に届くと思った瞬間、手首を強打されて剣を弾かれた。顔を顰めるラムザの喉元にファイの剣が突き出された。

「そこまでだ。」

エンパイオが声を上げた。ファイは剣を下げてラムザに目礼した。シュバインやラムザの動きにファイは内心、感心していた。まだ余裕があったとは言え、これほどの剣撃を受けたのは初めてだった。

オーラ王がファイに近づいて声を満足げに笑いながら声を掛けた。

「そなたの剣技を初めて間近で見たが、ミラーから聞いた以上のものだな。おそらくここに居並ぶファネリオでもそなたには勝てまい。少なくとも修練ではな。」

その言葉に名だたる6名のファネリオが皆、同意したように頷いた。ただその眼光に失望の色はない。むしろ好敵手に出会えた喜びに満ちた野心的な目をしていた。

「そなたの腕を眠らせておくのはもったいない。この国でその腕を役立てようとは思わぬか。」

もう一度、英雄王はファイを誘ったが、ファイは静かに首を振った。

「折角のお誘いですが、オレはフェリスに行かなければいけません。風の神の意志を確かめるために。」

王は目を見張った。ファネリオも皆色めき立った。今までとはまるで違うものを初めて見たかのように。

「そう言えばそなたはジトーの元で暮らしていたそうだな。」

目を細めて王が言った。ファイは訝し気に王を見たが、オーラ王は声を上げて笑った。

「ジトーは我が師。それからこのファネリオたちの師の一人でもある。」

それにはファイの方が驚いた。只者ではないと思っていたが、まさかそこまでの人物とは思いもしなかった。喰えない爺だと内心苦笑した。

「師の元に戻ることがあればまた立ち寄ってくれまいか。」

王の進言にファイは快く同意した。

 それから応接の間に場所を変え、お互いの情報を交換し合った。

ムガルとラミーユの戦争のことも聞いた。隣り合った国同士で長く戦乱が続いていること。ムガルが領土拡大に着手していること。ムガルにはファネリオのような抜きん出たムガリスと呼ばれる将軍が5名いることを聞いた。

 ファイがローダンと名乗る男と対峙したことを話すと、ファネリオたちの表情が引き締まった。

「一見、無手に見える恐ろしい闘技を使う者です。かつてファネリオの一人がヤツに打ち取られました。気をつけられたがよい。」

エンパイオの言葉にファイは頷いた。確かに腕は立つようだった。厄介な相手には違いなかった。


 ファイとエリスは礼を言ってラミーユの城から旅立った。

城門をくぐるファイの後ろ姿を窓から眺めながら、エンパイオは王に耳打ちした。

「あの者が風の・・?レヴァンナ殿と一緒ですか?」

オーラ王は穏やかな視線をファイに投げながら答えた。

「オリーティアとかの者の息子であれば、あるいはな。」

それから王は窓から離れた。美しい歌姫の忘れ形見に輝かしい前途が訪れることを願いながら。

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