最強の戦士の旅立ち
少し湿り気のある風が、ファイの頬をなぶった。
ぼさぼさに乱れた金色の髪が風に弄られ踊らされるのを気にしつつ、彼は墓前に数本の花を供えた。
それは彼の母が生前に好きだった水色のケナの花。二人で旅をしていた時、母は道端でその可憐な花を見つけると、自身の髪に差したりファイの胸元に付けたりして喜んでいた。この花を見ると、ファイの胸にはいつも母オリーティアとの思い出が甦った。
オリーティアの墓は、今年20歳になるファイの、高くも低くもない青年らしい背丈の脇くらいまである。他の墓に比べるとやや大きいが、飾り気のない素朴さが母らしいと感じる。
ひとしきり母に別れの言葉を囁いたファイは、おもむろに立ち上がり母の墓を後にした。空は晴れ渡り、雲が微かに点在している。まるでファイの新たな旅立ちを明るく照らしてくれている気分になる。大きく深呼吸をすると、ファイは母との旅の思い出にふけりながら歩き始めた。麻色の無地のマントで身を包み、同じく無地のズタ袋を背負っている。やや童顔で腰には母の唯一の形見ともいえる、剣を携えていた。
ファイには目指すべき場所はなかった。どこへともなく続く森の傍の街道をただあてもなく歩いた。もしあるとすれば、母と訪れた場所を巡ることぐらいだろうか。
レーンの村人たちは母の最期を看取り、墓まで拵えてくれた。そんな人たちとの別れはファイにとっても惜しまれた。ただ自分がこの村に居続けることはできない。ここに留まれとレーンの村長に言われたが、母を無償で匿い、世話してくれた人たちを危険な目にさらすわけにはいかない、という思いがあった。
レーンを離れ、森の畔の街道を歩いていたファイは、案の定、何者かの気配を森の中に感じた。それも一人や二人ではない。そのままやり過ごすこともできそうにないと感じたファイは立ち止まった。
「俺に何かようか。」
森の中の影にファイが呼びかけると、それに呼応したように複数の影が姿を現した。黒皮のマントに身を包んだ6人の男がファイをゆっくり取り囲んでいく。明らかに剣を隠し持っている。腕に覚えのある戦士たちだとファイの目には映った。その中の一人がファイの前に進み出た。
「私の名はダルム。お前のことはよく知っている。お前の腕が欲しい。」
男の言葉は唐突だった。おそらくこの戦士隊の隊長だろう。他の者に比べて、目の強さが一段と険しい。
ファイは小さく溜息をついた。
「お断りだ。俺は誰のためにも剣を振るわない。」
するとダルムと名乗った男の片方の口角がわずかに上がった。
「ではなぜまだ剣を持っている。」
ピクリとファイの眉毛が動いた。唇が少し引き締まる。
「お前は剣を捨てられないのだ。口ではそう言いながら。」
「違う。これは母の形見だ。」
少しムキになったファイの言葉を無視するように、ダルムはマントを広げて左の肩当を出した。野獣を模した紋章が陽光に怪しく煌めく。
「我々はムガルの国から来た。お前を我々の仲間にするためだ。知っての通り、我が国は隣国と交戦状態にある。屈強の者は一人でも欲しい。特にお前のようなやつはな。好待遇で迎えるぞ、女も望み放題だ。どうだ、我が国に・・・」
聴き終える前にファイはもう一度溜息をついた。ダルムの視線が一層険しくなった。
「二度言わせるのか?断ると言ったはずだ。」
ファイを取り囲む周りの戦士たちが一斉にマントを翻して剣に手をかけた。
「お前の強さは知っている。仲間に引き入れることができれば、かなり戦を有利にできる。だが、お前を他の国に取られれば、我々は脅かされる。だから、お前は仲間にするか、殺すしかないのだ。」
ダルムはそう言い、剣を抜き放った。それに続くように他の男たちも剣を抜いた。
ファイは苦笑した。今まで幾度となく同じセリフを聞いた。母さん。ファイは心の中で呟いた。俺は何をやってるんだろう。それから息を吸った。
「それだけの人数で、俺とやるのか?」
ダルムは剣を両手で構えた。
「引くことはできん。手ぶらでは帰れない。」
ファイは三度小さく溜息をついた。それを合図のように、戦士たちは一斉にファイに躍りかかってきた。
森の中からバサバサと鳥たちが飛び立つ音が聞こえた。
淡い風景がファイを包んでいた。どこかで見たことのある記憶。見上げると隣には母のオリーティアがいて、ファイの小さな手を引いている。旅の最中だろうか。彼はその手のぬくもりを心地よく感じながら、母に微笑んだ。母はとても優しい微笑みをファイに返してくれた。
ふと気づくと、ファイの反対の手には剣があった。剣は血に塗れていた。オリーティアの表情がみるみる曇っていく。ごめん、母さん。でも、仕方ないんだ。許して、母さん。オレだって剣を振るいたいと思わない。できれば静かに暮らしたい。でも、どうしようもないんだ。ごめんね。母さん、ごめん。懇願するファイにオリーティアは困り顔のまま、優しく微笑んでくれた。生きなさい、ファイ。生きて。私の分までしっかり生きていって。母の温かい手がそっとファイの頬に触れた。ファイは涙を流して母に微笑んだ。
ガタガタと揺れる振動にファイはふと目を覚ました。頬が涙で濡れているのを感じた。どうやら夢を見ていたらしい。それを拭おうと腕を上げた途端に胸に鋭い痛みが走った。顔を歪ませ薄っすらと目を開けると、何か移動するものの上に横たわっているのがわかった。周囲の風景がファイの前方に流れ去っていく。荷台に乗せられ運ばれているようだ。痛む胸を見ると包帯が巻いてある。身体を起こそうとしたが、痛みでままならない。動くことを諦めたファイは、仰向けのままくっきり晴れ渡った青空を眺めながら、何が起こったのか思い出そうとした。
あの時、皮のマントを纏った男たちは一斉に襲ってきた。ダルムを始めとした戦士たちはそれぞれに腕が立つのがわかる。それを気配で感じる。おそらく戦場でならした剣だ。だからこそ、ファイの懐柔、もしくは抹殺に送り込まれたに違いない。連携の取れた動きから繰り出される鋭い尖刃が次々とファイを襲った。
ただ、ファイの前では児戯に等しい。ファイは軽々と6人の剣を躱し始めた。剣を抜くまでもない。一人の剣を躱し殴りつけた。もう一人は剣を避ける時に足を引っかけて転ばせた。必要最低限の動きで剣先をかわし、ささやかな反撃を繰り出した。相手の戦意を喪失させるつもりだった。徐々に戦士たちの息が乱れてくる。ダルムが肩で息をしながらファイを指差した。
「きさま、なぜ剣を抜かん。我らを愚弄するつもりか。」
「戦う気がないだけだ。」
ダルムはそれを聞くと血相を変えて吠えながら切りかかってきた。またファイはそれを躱す。
そんなことを繰り返すうちに、ファイの中で虚しさが募ってきた。何をしているのだろうか、俺は。いい加減うんざりしてきた彼は仕方なく剣を抜いた。
ダルムたちはそれを見ると、慄いたように少し後退った。それでも気合もろとも向かってくる。
剣を躱し際、ファイはその首筋を打った。打たれた戦士は地面に突っ伏して動かなくなった。一人、また一人と打ち倒していく。あっという間に5人を打ち据えて、残るはダルム一人になった。
ファイ一人にまるで子供のようにあしらわれている状況に、ダルムは驚愕と焦りの入り混じった表情を露わにした。
「気を失っているだけだ。こいつらを連れて帰れ。もう二度と現れるな。」
ファイは言い放って剣を収めた。くるりと背を向けて去ろうとしたが、ダルムは構わず突っ込んできた。再びファイの中で虚しさが沸き上がった。背後から突き出された切っ先を軽くいなして、ダルムの首筋を素手で打ち据えようと身構えた瞬間、ダルムが振り向き様に剣を横に薙いだ。普段ならなんなく躱せる剣が、ファイの胸を切り裂いた。それと同時にファイの手刀がダルムの首を打った。ダルムはもんどり打って倒れ、動かなくなった。
一瞬何が起こったのか理解できなかった。ファイは咄嗟に胸を押さえたが、血が次から次から流れ出る。とにかくその場から離れようと、ふらふらと覚束ない足取りで歩いたが、やがて意識が朦朧とし始め、気が遠くなった。
ぼんやりそこまで思い出して、取り敢えずまだ死んでないことがわかったが、なぜ今この状況になっているのかわからなかった。もしかしたら、あの男たちの国、ムガルに連れ去られているのか、とも考えたが、そういった殺気だった雰囲気は感じられない。のんびりとした牧歌的な気配さえ感じる。動けない今、考えても仕方ないと思い直し、このまま身を任せてみることに決めて、ファイは再び目を閉じた。
再びファイが目を覚ました時、彼はベッドの上にいた。はっとして上体を起こそうとしたが、痛みで起き上がることはできなかった。その時、額におかれていたタオルがずり落ちた。おそらく誰かが施してくれたものだろう。力が抜けて、とりあえず周囲の様子を見回した。部屋はベッドと机しかなく、質素でそれほど広くない。部屋の片隅の明かりだけがぼうっと灯っている。窓が一つあり、外はすでに闇に沈んでいた。
どのくらい眠っていたんだろうか、と考えていると、部屋の扉が開いた。入ってきたのは、たらいを抱えた少女だった。ファイより5つか6つ若いだろうか。栗色の髪を後ろで編んで、愛らしい印象を覚えた。半袖の服にスカート姿の少女はファイのそばまで来て、ファイに手を伸ばしかけ、不意にファイと目が合った。少女はビクッと驚いて手を引っ込めたが、まじまじとファイの顔を覗き込んで、微笑んだ。
「気が付いたのね。よかった。」
幼いのに、まるで母のような落ち着きでファイに声をかけたきた。額から落ちたタオルを拾うと、机に置いたたらいの水にタオルを浸して絞り、またファイの額に乗せた。ファイは大人しくなすがままになっていた。
「君が助けてくれたのか。」
ファイが口を開くと、少女はまた微笑んだ。
「見つけたのは私。包帯を巻いて荷台に乗せて運んだのはお父さん。ひどい出血だったけど、たぶん大丈夫だと思う。」
臆することなくそう話した少女はたらいを持って部屋を出ると、間もなく父親を連れて戻ってきた。頑強そうな大きな体躯とたっぷりとした髭を蓄えているのが印象的だった。身体を起こそうとするファイをその父親は軽く制して、少女とともに椅子に腰かけた。
「意識が戻ってよかった。道端に傷を負って倒れていたのを運んだんだ。」
穏やかな低い声で父親は言った。ファイは礼を言い、自らの名を名乗った。その名を聞いた父親の眉がピクリと動くのをファイは見逃さなかった。
「私はグロード、こいつはミリーだ。」
父親のグロードが名乗ると、少女のミリーもちょこんと頭を下げた。
「まだ起きるのは無理だろう。傷が治るには10日はかかる。それまでここでゆっくり養生するといい。」
「申し訳ない。ところでここはどこだ。」
「ナユの村だ。」
ナユはレーンの村より馬車でも半日はかかる場所だ。あの戦いの場所から遠く離れることができたのはファイにとって幸運だった。ファイは再び礼を言った。ゆっくり休むようにとグロードは声を掛け、ミリーとともに部屋を出た。
ファイは改めて胸の傷の具合を確かめてみる。おそらく治癒の魔法が施されている、と思えた。そうでなければ、10日で動けるようになるわけがない。それほどにダリムの剣筋は鋭かった。それから、あのグロードと名乗った父親はファイの名を知っていたようだった。その上で養生を勧めるのは彼の人の好さだと思えたが、10日と区切りをつけたのは、それまでに身体を治して出ていくことを促してもいる。ファイは頭を巡らした後に、少しの間この地に身を潜めることにした。
「やはりあれはファイか。」
そう呟いた老女は深紫のフードを被り、同じ色の上着を羽織っていた。机の上には光源のない光が瞬いている。魔法の灯りだった。その老女が施しているものだ。
そこは他の家よりも少し広い敷地にある家の中で、その村を治める長老ラニウの屋敷だった。
「そうだ、パナオばば。傷ついて眠っている。」
グロードが苦し気に言った。他に7人の男たちが険しい表情でグロードを見ている。その中で一番年老いた男がグロードの前に立った。顔に深い皺が刻まれた長老のラニウだった。
「助けて連れてきてしまったものは仕方ない。今更出ていけといえば、後々恨みを買うとも限らぬ。」
ラニウが落ち着いた声で話した。
「そうだ。10日で出ていくだろう。」
グロードが答えると、男たちの間に動揺が走った。
「10日?そんなに長く、あの男はここにいるのか。」
「もっと早く出ていけばいいじゃないか。」
口々に反論が上がったが、魔法使いの老婆パナオが制した。
「これ以上、あの傷の回復を早めるのは無理だ。手練れの付けた傷じゃ。10日か、まあ見守ってやるしかないじゃろう。」
老婆はふえへっへっへと不気味な声を上げて笑った。ファイの傷を手当したのはこの老婆だった。ラニウがひとつ咳払いをして続けた。
「聞いた通り、ファイは村の客としてもてなせ。だが、ファイがいることを口外してはならん。よいな。」
そう釘を差すと、男たちは皆頷いた。
グロードが家に戻ると、少女が出迎えた。ミリーが街道でファイを見つけた時、グロードには悪い予感が過った。そのまま構わず通り過ぎることも考えたが、ミリーがいち早く馬車を降りてファイに駆け寄ったため、無視するわけにもいかず、ここまで連れてきてしまった。ただ、ミリーを責める気はなかった。ミリーはとても優しく育ってくれた。まるで、ミリーが幼い頃に亡くなってしまった母親そっくりの優しさだ。人を疑うことを知らない。そんなミリーの心根をグロードは愛していた。
グロードはミリーの頭を優しくなでた。
「きっと大丈夫さ。」
そう呟いて、ミリーを寝床に促した。村の外では薄気味悪い鳥の鳴き声が響いていた。
薄暗い森の中に、無数の黒い影が蠢いていた。それは黒皮のマントを羽織った男たちの集団だった。馬を率いて、何かから隠れるように密集しているようでもあった。そこへ、同じく皮のマントの6人の男たちが合流した。ファイを仕留めそこなった者たちである。集団の中央に、唯一の天幕が張られており、男たちはそこへ重苦しい足取りで入っていった。天幕の中には明らかに異質の存在感を誇る、漆黒の甲冑に身を包んだ大柄の男が一人、丸太に腰かけていた。眉間に皺を寄せていかつい顔から鋭い眼光を、6名の男たちに向けた。
「バズ様、申し訳ありません。」
ファイを襲った男たちのリーダー、ダルムが首を垂れて陳謝した。その男たちの首筋に打ち付けられた痣を見て、バズと呼ばれた男は低く唸った。
「ダルム、お前ほどのヤツでもそのザマか。まるで相手にされていないな。」
バズがにやりと笑うと、ダルムは面目なさ気に肩を落とした。それから顔を上げた。
「ただ、手傷を負わせることはできました。そう遠くへは動けないはずです。」
それを聞くとバズはかっと目を見開き立ち上がった。
「そうか、それは朗報だな。ヤツを追うことにするか。」
バズはダルムたちを労い下がらせた。それから、皮のマントを身に着けていない、身軽そうな男たちを数名呼び集め、何事か指示を与えた。男たちは各々頷くと、たちまち天幕から森の中へ散っていった。
ファイの身体は日を追うごとに回復していった。ミリーも親身に看病して、二人はすっかり仲良くなった。ファイには妹がいない。もし兄弟や姉妹がいたら、こんな感じだろうか、とミリーと接しながらファイは感じていた。
グロードはミリーとファイが仲睦まじくすることに危機感があったが、兄弟のいない彼女に一時的にでも兄ができたようで、少し微笑ましくもあった。あの子にせめて母や兄弟がいたら、と今まで思わないわけでもなかった。
やがてファイは立って歩けるようになると、家の外にも出られるようになった。ミリーと一緒に食料の買い物をしたり、家の簡単な手伝いをすることもあった。彼を見る村人たちの表情は一様に柔らかくはあったが、その奥にある刺すような視線をファイは敏感に感じ取っていた。
グロードが行商に出かけると、いつもはミリーが付き添っていたが、ファイが来てからは付いて行かなくなった。ミリーはファイのそばを離れなくなり、いろんな旅先の話をファイにねだった。そんなミリーをファイは本当の妹のように思い始めていた。
ファイがナユの村に来て間もなく10日が経とうとする頃、グロードはミリーが眠りについた夜更けに、ファイと酒を酌み交わした。ファイは久しぶりに酒を口にした。今までは、そんな安らぐ気分に到底なれなかったからだ。グロードは余程の酒好きなようで、地元で作られる果実酒を大きな杯であおり始めた。彼には酔いでもしなければ切り出せない話があった。
3杯ほど酒を飲み干すと、グロードはふうっと息をついた。
「お前がこの村に来て、そろそろ10日になるな。傷の具合はどうだ。」
ファイは自らの胸をさすった。それほど厚くはないが、母を守るために鍛え上げた、引き締まった胸にはまだ包帯が巻かれていたが、傷はほぼ表面的なものだけになっていた。
「完全に治ったわけではないが、動けるようにはなった。たぶんもう大丈夫だと思う。」
「そうか」
それから再び沈黙が訪れ、グロードは酒を杯に注いだ。
「もうすぐここを出ていこうと思う。」
ファイが酒を飲んだのちに言った。グロードは返事をしなかった。彼がここを出ていくのは、村人の総意だった。だが、ファイが出ていけば、ミリーは悲しむだろう。グロードにしても、せっかくこの家に馴染んできた彼がいなくなると、一抹の寂しさを感じざるを得なかった。
「お前がその気なら、この村にずっといられるように、なんとか長老たちに掛け合ってみてもいい。」
ファイの目を見ずに、グロードは呟くように言った。
ファイは意外そうに俯く彼を見た。思わぬ優しい言葉を掛けてもらえて、ファイは嬉しくなった。ただ、ファイは首を横に振った。
「ありがたいが、それはできない。俺がここに留まれば、あなたたちに迷惑がかかる。あなたもミリーも巻き込みたくない。」
グロードに向けて、ファイは苦笑して見せた。
「お前は一体何をしてきたと言うんだ。」
「あなたは俺の名を知っていたんだろう?初めて俺が名乗った時にそう感じた。」
そう問い返されて、グロードは押し黙った。ぐいっと酒をあおり、重たい口を開いた。
「俺も数年前までは剣を持って戦場を駆けていた。傭兵だった。報酬欲しさにいろんな戦場で戦った。今はもう見る影もないがな。」
そう言って、ちらっとミリーの眠る部屋の方を見た。
「その最中に女房と一緒になり、あいつが産まれたが、そんな生業だから苦労を掛けて、女房は身体を悪くして逝っちまった。」
グロードはまた杯に口をつけて、ふうっと一息ついた。
「だから俺は剣を捨てた。もっと早くそうすべきだったがな。ミリーを守ることが、死んだ女房との最期の約束だった。」
それから、グロードは鋭い眼差しでファイを見た。
「剣を振るっていた頃、お前の噂をよく聞いていた。戦場で会わなくて良かったよ。」
グロードもファイもお互いにふっと口元に微笑を浮かべた。
ファイの名は剣を持つ者にとって、畏怖の存在として世界中に知れ渡っていた。誰も敵う者のない最強の戦士。ある国では裏社会で懸賞金の対象にさえなっていた。ファイに勝つことができれば、一夜にして名を上げることができる。その噂や逸話は形を変え、世界に轟いていた。
グロードは酒をぐっと飲み干し、どんと杯を置いた。
「お前は、もっと恐ろしいやつかと思っていた。粗暴で、無慈悲なやつかと。だが、お前はまるで逆だ。ミリーを見ていればわかる。お前はとてもいいやつだ。人から恨みを買うような人間じゃない。」
ファイは再び苦笑した。酒を注いでもらい、飲んだ。少し酔いが回り始めたようだった。
「俺は、母を守るために剣を学んだ。」
「お前の母と言えば、オリーティアか、あの歌唄い。」
グロードの問いにファイは頷いた。
ファイの母、オリーティアは吟遊詩人だった。吟遊詩人であり、ささやかな魔法の使い手だった。ファイが物心ついた頃から、ずっと母と二人で諸国を旅していた。
オリーティアはファイと同じ、金色の長い髪をした美しい女性だった。行く旅先ごとにその容姿を称賛され、それはファイの自慢でもあった。だがそれ以上に誇らしいのは、彼女がとても優しいことだった。どんなに褒められても決して奢ることなく、諸国を渡り歩きながら町や村で物語を曲に乗せて語り、歌を歌い続けた。ファイはいつも店や屋敷の片隅にいて、彼女の声を心地よく聴いていた。
やがて彼女の歌の評判は国や土地の支配者にも届くようになり、宮廷詩人として招かれたり、その美しさに魅せられた者は、自らの妻として望んだり、妾にしようと目論むものもいた。しかし、彼女はそれらの誘いをすべて固辞した。あくまで市井の中で人々とともに生きることを願っていた。
権力者たちはそんな彼女の意思も構わず、彼女を我が物にしようと画策し、追手を差し向けたが、オリーティアは旅の中で身に着けた魔法を駆使してなんとか追手をかわした。旅先で知り合った人たちや、彼女を慕う人たちに助けられたりしながら、ファイと二人、旅をつづけた。
ファイも自分を連れて逃げる彼女を助けたいと思い、幼いながらも剣を持ち、腕を磨いた。旅先で出会った戦士に手ほどきを受けながら剣の技を身に着けていると、みるみる上達していき、12歳になる頃には、大人にも負けることはなくなっていた。
しかし、オリーティアは彼が剣を振るうことを快く思っていなかった。ファイの剣のおかげで窮地を脱したこともあったが、追手に対峙してファイが剣を持つと、それを邪魔したことも一度や二度ではなかった。だからファイは極力母の前では剣を見せないようにした。
そんなオリーティアが病を得て、レーンの村で臥せったのは1年前だった。レーン村の人々はとてもよくしてくれた。親身になって世話をしてくれたが、オリーティアはひと月前にこの世から去った。近隣からも彼女の病状を気にして集まった人々は、その悲報に涙を流して、葬儀を営んでくれた。あまり派手なことが好きではなかった彼女は、最後まで自分を看取ってくれたレーンの人々に感謝し、できるならばこのレーンに埋めて欲しいと願った。王族に連なる人間も集まっていて、彼女を盛大に称えたい、との意見もあったが、レーンの村長は彼女の遺志を尊重して、その墓を作った。レーンの小さな墓地の中に、彼女の墓もひっそりとある。市井の中で生きて死んでいった彼女らしい墓石だった。
ファイは酒を飲みながら何かを思い出すように遠いを目をしていた。
「母を守るために、母を連れ去ろうとする敵と戦った。何度も何度も。俺の腕が知れるようになると、母を人質に取られ、戦場に立たされたこともある。城に招かれた時はその国の王に命じられ、武闘大会に参加させられたこともあった。だけど、俺が負けたことは一度もない。戦場で傷を負ったこともない。負けたら母がどうなるかわからないから。」
すると、グロードはにやりと笑った。
「でも傷を負って倒れていたな。」
ファイも連られて笑った。
「ああ、だから少し驚いている。たぶん、母がもういないからだろう。」
杯に酒を満たして、グロードはファイを見た。
「あの剣もただの剣じゃないな。」
「え?」
「お前が寝ている間に、悪いが少し見せてもらった。あんな剣は見たことがない。」
グロードが鋭い視線で告げると、ファイはふっと笑みを漏らした。
その剣はザラという国を訪れた時、その国随一との誉れ高い名工リュートよりオリーティアに贈られたものだった。ザラは鍛冶工芸で栄える国で、オリーティアがある酒場で歌っているところにたまたま居合わせたリュートが、彼女の歌声を称え、なんとかその気持ちを形にしたいと考えた。しかし、彼は剣の鍛冶しかできないため、彼女がこの国に滞在している間に、他のすべての仕事をなげうって完成させたのが、その剣だった。リュートはオリーティアの剣と名付けた。オリーティアは自らの剣を冠したものが人を傷つけることになるのを恐れ嫌悪したが、あまりにリュートが彼女を慕うので、仕方なくオリーティアはそれを受け取った。捨てることもできずどうしてよいものか思案している母の姿を見て、ファイは自分が貰い受けることを申し出た。剣を振るわないことを条件に、オリーティアはお守り替わりに、ファイにそれを譲った。母の窮地に至ってはその剣を振るったが、どんなに打ち合っても刃こぼれ一つしない。剣としての重量も軽く、扱いやすかった。おそらくリュートはオリーティアが扱うことを想定して作ったのに違いなかった。素材が普通の剣のような鉄ではない。恐ろしく強くしなやかで、何か見たこともないものだ。ファイはその剣を愛用していた。母を思い出す数少ない遺品の一つだった。
グロードは剣の由来を聞いて深く感じ入ったように嘆息した。戦士として生きていた時、どれだけ名工リュートの作り上げた剣に憧れたことだろうか。その剣が期せずしてそこにあるのだ。
「その剣を活かして生きていこうとは思わんのか。」
再びファイの首が横に振られた。
「剣は母を守るため、ただそれだけのために身に着けたものだ。剣を未だに持っているのは、あれが母のたった一つの形見のようなもんだからだ。お守りみたいなものさ。だから、もう剣を振るう気はない。母以外のために剣を握る気になれない。それに・・・」
寂しげな笑みをファイはグロードに向けた。
「俺は戦うのが好きじゃないんだ。」
そう言ってファイは酒を流し込んだ。
グロードは、そうか、と返事をすることしかできなかった。若くして業を背負い込んだ、この不運な青年に同情を禁じえなかった。このままファイが旅を続けたとして、安住の地など見つけることができるのだろうか。そう考えると、何かしてやれることはないかと考えるが、何もできない自分に思い至って、グロードは共に酒を重ねることしかできなかった。
まだ陽が昇りたての少し冷えた空気が立ち込める朝。鳥たちが新しい日を迎えて、しきりにさえずっているのが聞こえる。テーブルの上では、吞みすぎてそのまま眠り込んだグロードが高いびきを上げている。ファイは剣を携え、麻色のマントを纏い、ズタ袋を背負った。ミリーの部屋のドアを開けて、そっと彼女の顔を覗いた。あどけない顔で口を半開きにして眠り込んでいる。ファイは少し微笑んで、ミリーの髪を軽く撫でると、静かに部屋を出た。まだ眠りこけているグロードに小さく礼を囁き、彼は家の扉を開けた。一度だけ、10日余り世話になった家を振り返り、ファイは歩き出した。
村には動いている者は何もいない。と思われたが、不意にファイの前に一人の老婆が歩み寄ってきた。魔法使いの老女パナオだった。
「村を出ていくのかい。」
しゃがれ声でパナオが言った。ファイは今初めて出会った老婆の雰囲気から魔法の使い手だと感じた。もしかしたら、ファイの傷を癒してくれた人物かもしれない、と思った。
「ああ、世話になったな。」
パナオはファイが出てきたグロードの家の方を見た。
「あの子らには別れを言ったのかい。」
するとファイは静かに首を振った。老婆は頷いた。そのまま立ち去ろうとするファイにパナオが最後に声を掛けた。
「どこかに行くあてがあるのかい。」
立ち止ったファイは苦笑してまた首を振った。
「それなら、ここより3日ほど歩いたところにガーノという土地がある。そこに偏屈じじいが住んで居る。ジトーという名じゃが、お前の力になってくれよう。」
「その人は、ばあさんのいい人かい。」
ファイの軽口にパナオがふえへっへっへ、と不気味に笑った。
「お前が冗談を言うとは思わなんだよ。わしの腐れ縁の単なる知り合いじゃ。」
ファイもふっと口元に笑みを浮かべて、老婆に礼を言い立ち去った。
誰かがしきりと自分を揺さぶるのを感じて、グロードは目を覚ました。薄っすら目を開くと、ミリーが必死な表情で父を起こそうとしていた。グロードはあくびをして、身体を伸ばした。
「あん?どうした。」
「お兄ちゃんがいないの。どこにもいないんだよ。」
はっと思い立ったグロードはファイにあてがっていた部屋に行き扉を開けた。たしかにファイの荷物がなくなっていた。
「どこに行ったのかな。」
ミリーは父にすがりついて不安そうに言った。グロードは自分にしがみつく娘の頭を撫でてやった。
「あいつはここを出て行ったんだ。」
「どうして、どうして出ていかなきゃいけないの?」
父の言葉に半ば抗議するようにミリーは問いかけた。グロードは穏やかに再び娘の髪を撫でた。
「ミリーや、村の人たちのために出て行ったんだ。あいつはずっと同じ場所にはいられないんだよ。」
もうファイに会えないことを察したのか、ミリーは父の服を握りしめながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。グロードはしゃがんで、娘をしっかり抱きしめてやった。ごめん。ごめんな。ミリーに対してなのか、ファイに言ったのかわからない謝罪の言葉を、グロードは小さく囁いた。
唐突に外から何かを切り裂くような女の悲鳴が聞こえた。馬のけたたましい蹄も響いてきた。ただごとではないと感じたグロードは急いで外に出た。何十名もの皮のマントに身を包んだ男たちが、馬を駆り、剣を振り回して村を蹂躙している。村の自警団が馬に乗り応戦し始めた。だが、あまりに数が違いすぎる。村人たちは逃げ惑い、運の悪い者は来襲者に打ち倒され、跳ね飛ばされていた。
やがて村人たちは襲来者を遠巻きに見るように敵と対峙した。皮のマントの男たちの中心に、黒い甲冑を身に着けた、一際大きな男がいた。沸き立つような黒髪の大男の姿にグロードは戦慄を覚えた。彼がかつて戦場に立った時に見たことがある、忘れようのない姿だった。ムガルのバズ=ガグーロ。双頭刃を持つ長柄の槍とも剣とも似つかぬ武器を戦場で振り回し、一人で戦線を瓦解させる様はまるで悪魔のようだった。
「ファイはどこにいる!ファイをだせ!」
バズの地面に轟くような叫び声にグロードは愕然とした。村人は誰もファイの存在を口外していないはずだ。とすれば、歩けるようになったファイが村の中を歩いているのを、この男たちの密偵にでも見られたのか。
失態を感じたグロードがその男の元へ駆け寄ろうとしたが、それより早く長老のラニウが向かった。
「ファイはおらん。もうこの村を出て行った。」
するとバズは不気味な笑みをいかつい顔面に浮かべた。
「やはりここにいたのか。いつ出て行った。」
「今朝がたじゃ。今追えばおいつくじゃろう。」
グロードは長老の言葉に唖然とした。出て行ったことを知っていたのも意外だが、まさか彼を売るような言葉を発するとは。だが、長老の立場上、村を優先するのは仕方ないとも思えた。
ところがバズは予想外の行動に出た。長柄の刃先を振りかざして長老の前に突き付けた。
「いや、オレたちは追わん。お前らがファイを連れてこい。まだ追いつけるんだろ。」
だがラニウは臆することなく毅然と答えた。
「お前たちのような無礼者の言うことに従うわけにはいかん。」
その言葉が終わるが早いか、バズは刃先を一閃させた。ラニウの首があっけなく地面に転がった。グロードの息が一瞬詰まった。遠巻きで観ていた人々や家の中から悲鳴が上がった。自警団の男たちは逆上し、一斉にバズに襲い掛かったが、その前にダルム率いる黒皮のマントの男たちが馬を巡らし立ちふさがった。幾筋か打ち合いが続き、自警団の男たちもあえなく長老と同じく無残な骸をさらした。
バズは血の滴る刃先を下げたまま振り返り、グロードを見つけた。
「よし、じゃあ、お前だ。お前がファイを連れて来い。」
グロードはあきれたように高笑いをした。
「誰がお前らの言うことなど聞くか!」
だが、バズは口元に薄気味悪い笑みを浮かべていた。グロードが怪しんでいると、再び村に悲鳴が上がり始めた。村の家々から女子供が連れ出されていた。
「いやあ、お父さん、お父さん!」
グロードが背後から聞こえた声に振り向くと、皮のマントの男に捕まったミリーだった。焦りの色を隠せないグロードに今度はバズが高笑いを始めた。
「ほう。お前の娘か。それではこちらの言うことも聞いてもらえそうだな。」
グロードはあまりの屈辱に歯噛みした。そこへパナオがふらっと近づいてきた。
「今は大人しく言うことを聞くしかあるまいよ。我々ではこやつらには歯が立たん。ファイなら朝早く、旅立ったよ。おそらくガーノに向かっておるじゃろう。西の街道を歩いていった。馬に乗れば間に合うじゃろうて。」
そう言って老婆は西の街道を指差した。バズは刃を一振りして血糊を払った。
「今日、日暮れまでにファイを連れて来い。連れてこなければ、人質を殺していく。一人ずつ殺して、最後はお前の娘だ。さあ、早く行け!」
そう言い捨てて、バズは馬を巡らした。グロードはパナオに後を託して、自らの馬を駆り、村から飛び出して行った。
陽が天頂を少し過ぎた頃、ファイは街道を旅していた。彼に行くあてはなかったが、ナユの老婆が教えてくれたガーノに行くのもいいか、と考えていた。ガーノは初めて行く土地だが、噂では峻険な山々に囲まれた秘境だと聞いたことがある。そこには人外の生き物も生息しているらしい。
この世界は平野部の大半が人間によって治められていたが、森や山など人間が住むのに不向きな場所には人間とは違う種族が住んでいた。オリーティアとファイは旅を続けていた頃、人間だけではなく、様々な種族の国や町にも行き交流した。オリーティアの歌声は種族を超えて愛されていた。むしろ人間以上に人外の種族に好まれ、手厚くもてなされた。
そんな記憶を思い出しながら、ファイは歩いていた。ガーノに住む人外の種族はファイのことは知らないだろう。だから都合がよい。ファイ自身、母との旅のお蔭か、人外の種族に苦手意識はない。心は通じ合うものだと、オリーティアが教えてくれたから。
あの老婆はガーノまで3日ほどだといった。急ぐ旅ではないし、一人なら気が楽だ。路銀もしばらくは大丈夫だし、のんびりいこうと思っていた。
心残りがあるとすれば、あの親娘のことだった。村のためとは言え、何も言わずに出てきてしまった。ミリーは今頃泣いているだろうか。あれほどそばにいて、仲良くしていたのだが申し訳ないことをした。夕べの会話で察してくれたグロードがなんとか宥めてくれればよいが。この先、生きていれば、また出会うこともあるだろう。その時はミリーが怒って笑顔を見せてくれないかもしれないな。それは仕方ないか。
とりとめもないことを思いながら、陽の光をまぶしく感じ、ファイは少し休もうと街道の店を探した。
その時、静かな街道に馬の蹄の音が響いてきた。とても慌ただしく聞こえてくる。ファイは何事かと振り返ると、だんだん近づいてくる馬上の人間がグロードだとわかった。まさか自分を追ってきたのか、と驚いて待っていると、鼻息荒い馬を宥めながら、グロードはファイの眼前で止まった。
「ファイ!一緒に来てくれ!」
グロードは叫んだ。ファイは訝し気に彼を見た。彼の険しい表情が尋常ではない。
「どうした、何があった。」
「村が襲われた!お前を探しているやつらだ。ミリーや他の者たちが人質になっている!」
グロードの言葉にファイは戦慄を覚えた。恐れたことが現実になったのだ。愕然としたファイの中に沸き上がるものがあった。
「乗せてくれ!」
ファイが叫び、グロードは頷くと素早く後ろにファイは飛び乗った。
ファイたちの馬が村に着いた頃には、陽が傾き始め、夕暮れがせまっている気配が感じられた。
村に着くや、ファイは馬から飛び降りた。村のあちらこちらに、戦いの壮絶さを物語る血だまりが散見できる。村人の遺体も横たわっている。村の広場の中央付近には、首と胴が離れた老人の無残な身体が転がっていた。ファイにも見覚えがある。それはこの村の長老だった。ファイはそれらの骸たちに心の中で詫びた。
だが、グロードが馬上で語ったような、黒皮のマントの集団はどこにもいなかった。もしかしたら、罠でも張られているかと警戒したが、それどころか、人の気配さえ感じられない。グロードも馬から降りたが、あまりの静けさに戸惑う様子を見せた。
「どうなってる、なぜいないんだ。」
苛立ちを隠すことなくグロードは吐き捨てた。ミリーの身が案じられるのだろう。
するとパナオが二人の元へ近寄ってきた。ファイとグロードは老婆へ駆け寄った。
「どうなっている、やつらはどこへ行った。」
焦りを感じているグロードを宥めるようにパナオは落ち着くように手をかざした。
「あいつらはここにはいない。レブの山に行ったよ。あそこに立て籠もる気だ。」
そう言って老婆は彼方を指差した。赤く染まりかけた空の麓に小高い山がある。
「あそこには、かつてこのあたりを脅かした野盗どもの根城がある。あそこなら100人以上の輩でもいられるじゃろう。難儀な場所じゃ。そこに、ファイ、お前ひとりで来いと言い置いて行ったよ。」
低い声でパナオは告げた。ファイは再びその山を見た。夕暮れの空に薄暗く聳え立っている。
「あそこか・・・」
ファイは呟いた。一足早くその場を離れたグロードが馬を駆り、戻ってきた。
「行こう、ファイ。俺も行く。」
ファイは頷き馬に飛び乗ると、そのままレブ山に向かっていった。
時間とともに急速に光を失っていく森の中の道を、ファイとグロードを乗せた馬は疾駆した。やがて森が切れると、レブの山を見通せる広い草原に出た。陽は遠く山裾に隠れ始めている。篝火が山の麓から中腹にまで点在しているのが見える。かなりの大部隊だ。
ファイはいち早く馬から降りると、馬上のグロードを見上げた。
「ここからは俺一人で行く。」
驚きの表情を見せるグロードにファイは軽く手を上げると、散歩でも行くみたいにふらりと去っていった。
ファイの中で、言い知れぬ感情が渦巻いていた。その事にファイ自身が戸惑っていた。グロードと離れたのは、今の自分では、もしかしたら彼さえ傷つけかねないと思ったからだ。この激情。自分のせいで、村人の多くを死なせてしまった。長老も殺された。足を進めながら、この感情が怒りだと気づくのに時間がかかった。
ファイは怒ったことがあまりなかった。オリーティアの人柄が、彼からその感情を奪っていたのかもしれない。あるのは穏やかさ、良くも悪くもオリーティア譲りの優しさだった。たとえ自分が罠に嵌まっても、母を人質に取られ、戦いを無理強いされようとも、自分以外の者が無事ならどうということもなかった。幾らでも危機を乗り越えられる自信があったからだ。
だが、自分のことが原因で、ここまで自分に関わったものが傷ついたことはなかった。その状況でファイははっきり自覚した。これが怒りだ。俺は怒っている。沸々と己の血が煮えたぎっていくのがわかった。
「うお、」
ファイの口から声が漏れ始め、やがて大きくなっていった。歩く速度が徐々に早くなり、足早になり、やがて疾走し始めた。
「ウオオオオオオオオッ!!」
ファイは風の一部と化し、豪風となって敵のアジトへ迫っていった。
レブの山はさほど大きな山ではないが、かつてこの一帯を震え上がらせていた山賊の棲み処で、討伐隊と度々死闘を繰り返し、さながら要塞の様相を呈していた。石垣が築かれ、洞窟を穿ち、敵を迎え撃つための周到な備えがあった。山の随所に篝火が炊かれ、バズ率いる100名近いムガルの部隊が、ファイが来るのを今や遅しと待ち構えていた。
アジトの入り口にいる兵士の一人が、夕闇が迫った薄暗い草原の中に動くものを見つけた。何者かと目を凝らすと、それは草むらの中を一直線にこちらに向かって来る。それも尋常ではない速さだった。獣かと思ったが、明らかに剣を持っていた。瞬間的に脅威を感じた兵士が声を上げようとした。
「敵・・・」
すべてを発する間もなく、その兵士の首が飛んだ。不意の闖入者にその場にいた10名ほどの兵士たちは混乱し、何かを成す前に、次々と首を飛ばされていった。
瞬く間にその場にいた敵兵を切り伏せたファイは一息ついた。篝火の光に閃いた剣先には血糊が一滴もついていなかった。入り口の奥は広い洞窟になっている。ファイは迷うことなく進んでいった。
洞窟の奥から異変に気付いた兵士が続々と集まってくる。
「敵襲!敵襲だー!」
次々に兵士たちが連呼していく。あちらこちらの穴から兵士が蟻のように湧き出てきた。だが、ファイはまるで意に介さなかった。一斉に襲い掛かってくる相手に、速度を緩めることなく、躊躇もなく立ち向かっていった。
すっかり辺りが暗くなり、ただレブの山に無数にある篝火が不気味に浮かび上がっていた。
グロードは取り残されたあとも帰ることもなく、その場にいた。ミリーの事が案じられて帰ることなどできそうにない。だがファイ一人だけが呼び出されたために一緒に行けずに苦しんでいた。
ただよくよく冷静に考えると、たった一人で乗り込んで行くのは今更ながら無謀に思えた。ナユの自警団が多勢に無勢とは言え、無残にやられた相手だ。自警団のものたちだって日頃の鍛錬を怠っていなかった。それに恐らく奥にはあのバズが待ち構えている。いくらファイと言えど、やられてしまうかもしれない。しかも奴らはミリーやナユの人々を人質に立てこもっている。どう考えてもファイに不利だ。
グロードは自分の気持ちにも折り合いをつけて助けに行くことに決めた。ごくりと唾を飲み込み、馬をそこらの木に繋ぐと、そろりそろりとアジトに近づいて行った。篝火が煌々と燃えているが、入り口付近には動くものの影が見えない。それでもゆっくり入り口付近に到達した。そこでグロードは目を見張った。
敵の兵士たちが倒されている。しかもすべて首を切られていた。首と胴が離れたものも、そうでないものもいる。だが、他の傷は一つもついていない。ただ首だけが切られている。そんな敵の遺体が10数体転がっている。
グロードは少し身震いを覚えながらも、勇気を振り起し、注意深く洞窟の奥に進んだ。彼が奥に進めば進むほど、敵の骸の数が増えていった。すべて首を切られている。しかもただ一刀で刎ねられていた。動くものはなにもない。ただ篝火だけが惨状を照らし出している。20、30、40・・・途中から彼は骸を数えるのをやめた。彼の歩く速度も次第に早くなっていく。どこまで行っても、動くものは何もいなかった。壁には矢やナイフ等が突き刺さっていた。敵はあらゆる手段を講じて抵抗したようだ。だが、その抵抗も奏功したようには見えなかった。
奥に進みながら、グロードはファイをそら恐ろしく感じ始めていた。噂には聞いていたが、その凄まじさは彼の予想を完全に超えていた。一人の人間の力には限界があるはずだ。どんな手練れだろうと、複数の、しかも腕の立つ相手を打ち倒すのは難しい。グロードは戦場でそれを知っている。だが、ファイは敵など無きがごとくに通り過ぎている。ファイが付け狙われる理由を改めて思い知った。
だが、いかにファイが強いとはいえ、目の前で人質を取られた状況では難しいだろう、ミリーの身も心配でならない。やはり自分の手助けが必要だ。とても凄腕とは思えない、金髪のまだ若さの残る青年の顔が思い浮かんだ。グロードは意を決して足を速めた。
無数の矢が空気を切り裂いた。ふらりと右に左に身をかわして、それらをよけたファイは、慌てて次の矢をつがえている相手に一気に詰め寄ると、次々に首を薙いだ。その凄まじい戦いぶりを見た兵士たちは、まるで現世で悪魔に出会ったような悲鳴を上げ、我先に奥へ逃げていった。
ファイの激情はまだ収まっていない。全身の毛が逆立っているのがわかる。怒りが彼の血に乗って全身へ駆け巡る。おそらくこの感情は、敵を殲滅しなければ静まることはないだろう、とファイは自覚した。
無人になった洞窟の奥に階段があり、上がっていくと開けた場所に出た。山深い森の中に広い砦が築かれている。両脇に篝火がずらりと並べて炊かれ、奥には敵の兵士たちの影が見える。
ファイがその影に向けて足を踏み出した途端、一斉に頭上から無数の矢が降ってきた。それでも彼は収めた剣を抜くこともなく、矢をかわした。傍で見ている者からすれば、まるでファイの身体を矢がすり抜けているように見えたはずだ。
その場にいた兵士たちは皆、動揺したようにどよめいた。地面に突き刺さった矢を踏み越えて、何事もなかったようにファイは進んでいった。周囲の兵士たちはあまりのファイの凄まじさに手出しすることもできず、ただ茫然と彼の姿を見送るだけだった。
砦の奥には人質の村人たち10数名と、それを取り囲む兵士たちがいた。人質の中にはミリーの姿もあった。それを見て、ファイはひとまず、ほっと息を嘆じた。相当な数の兵士をファイが切り倒してしまったからか、それとも恐れをなして逃げ出したか、100名近いと聞かされた敵の数が20数名ほどに減っていた。
「止まれ!」
敵の兵士たちの中でも、一際大きな黒い甲冑の男が叫んだ。ファイは言われるまま立ち止まった。一部の兵士たちが身に着けている黒皮のマントには見覚えがあった。レーンを出て間もなくファイを襲ってきた男たちのものと同じだ。それに大きな黒い甲冑は、馬上でクロードに教えられた男のものだ。
「お前たちはムガルのものか。バズとはお前か。」
ファイの呼びかけに、黒い甲冑の男が前に進み出た。言われたように、大きな長柄の武器を携えている。
「そうだ。おれがバズだ。我々はムガルからお前を連れ帰るために来た。」
バズは自らの力を誇示するように、双刃の長い得物を頭上でくるくると回して見せた。それから、その刃先をファイに向けた。
ファイは首を少し傾げた。
「あの村の長を斬ったのはお前か?」
ファイが静かに訪ねると、バズはニヤリと大きな笑みを浮かべた。
「ああ、あの爺父か。まったく手応えがなかったわ。まるで紙切れのようだったな。」
ファイを挑発するような口振りだった。さすがのファイも怒りが頂点に達した。頭より先に足が走りはじめていた。取り巻きの兵たちは一瞬慄きを見せて後ずさった。
だが、バズは臆する様子もなく刃先を捕らわれのミリーの喉元に向けた。ハッとしてファイは足を止めた。バズが余裕の笑みを浮かべる。日頃には見せることのない鋭い眼光をファイは敵兵たちに投げた。金色の髪が一陣の風に弄られなびいた。
「しかし、派手に暴れてくれたものだな。我らの部隊の大半がお前ひとりに壊滅されてしまった。話し合おうという気はないらしい。」
それを聞いたファイは口元を軽く曲げて嘲笑した。
「村人を惨殺しておいてよく言う。彼らは俺となんの関係もなかった。」
「我らと一緒に来い、ファイ。そうすればこれ以上、誰も死ななくてすむ。これまでの所業も不問に付そう。将軍にも劣らぬ待遇で迎えるぞ。どうだ。名誉も富も思いのままだ。」
自分に投げかけられる言葉をファイはじっと聞いていたが表情も変えずに答えた。
「俺はそんなものに興味はない。誰のためにも剣を持たん。金も名誉も、俺には無縁のものだ。」
「強がりを言うな。お前のような齢で何も欲しくないわけがない。欲しいものを言え。」
ファイの答えを遮るようにバズが言った。少し間があって、ファイは口を開いた。
「お前たちの命」
聞いた途端、バズの眉根がぴくりと動いた。
「俺は殺された長老や村人たちから遣わされた、冥府への使者だ。お前たちはやりすぎた。誰も殺さなければ、俺も殺しはしなかっただろう。もう逃げられない。」
再びファイの足が進み始めた。兵士たちが慄いてじりじり後退りする。バズは微動だにせずファイを見据えていた。
「貴様、この状況がわからんのか。この娘たちが死んでもいいのか。」
漆黒の男の詰問にファイは怒りを露にしたまま答えた。
「やれるものならやってみればいい。」
躊躇いもなくファイは近づいていく。バズは低く唸った。
「うおおっ」
突然奥で声が上がり、人質を捕えていた兵士の一人が倒れた。一瞬、全員の意識がそちらへ向いた刹那、ファイは風のように一気に間合いを詰めた。バズの刃を牽制して、人質を捕まえていた兵士たちに隠し持っていたナイフを投げつけた。ここまで来る途中に敵の放ったナイフを数本忍ばせておいたものだ。数名の兵士の腕に刺さり、呻き声が上がり、敵兵たちに動揺が広がった。その隙にファイは剣を抜き放ち、その残像が見える間もなく次々と兵たちを斬り伏せていった。あまりの早業にさしものバズも後退せざるを得なかった。
「きゃあああ!」
人質に囚われていた女性たちから悲鳴が上がり、村人たちに一気に動揺が広がった。
「落ち着けえ!もう大丈夫だ!」
混乱する村人たちに一喝するものがあった。グロードだ。最初の奇襲を成功させてファイに斬りこむ隙を作ったのは彼だった。ファイに集中する敵兵の影から回り込んで、じっと戦況を見つめていたのだ。ファイは一瞬でそれを察し叫んだ。
「グロード、彼らを頼む!」
「おうよ!まかせろ!」
「みんな落ち着いて!」
続いてミリーも父の存在に勢いを得て、率先して村人たちを導き始めた。
ファイは素早く人質となった村人たちを見回し息を吐いた。村人の中で傷ついた者はいないようだ。だが、村人の逃げようとする先に黒い甲冑の男が立ちはだかった。バズは長柄の大きな武器を振り回して叫んだ。
「ファイ、俺と勝負しろ!俺はもとよりこやつらなどどうでもよい。お前を連れ帰ることができぬなら、ここで骸にしてやるわ。お前を斬れば俺の名も上がるというものよ。」
バズはにたりと大きく不気味な笑みを満面に浮かべた。戦士にはそれしか興味がないとでも言うように。
ファイはふっと溜息を吐くと、剣を一振りした。
「そんな目的で長老たちを斬ったのか。」
「そうだ。俺はお前を斬るために来たのだ。逃がしはせんぞ。」
言うが早いか、巨大な武器には似つかわぬ速さで刃がファイを襲った。ファイはするっとそれを避けた。続けざまに柄の反対の刃が襲ってきた。それもファイはひらりと躱した。たしかにあの黒皮のマントの男たちを従えるだけあるな、とファイは感じた。最初に襲ってきたあのリーダー格の男も手練れだったが、バズは桁外れに早くて攻撃が重く、しかも双刃の得物は隙がない。もしあの攻撃を剣で受けても跳ね飛ばされるだろう。だが、ファイにはそんなつもりは最初からなかった。
バズが再び大きな笑みを浮かべさらに攻撃を繰り出してきた。あれほどの長くて重そうな武器を縦横無尽に間断なく振り回せるとは並の膂力ではない。おそろしく強靭な体幹と体力も必要だ。ファイは苛烈な攻撃を躱しながら、バズを観察していた。周囲は両者のあまりに凄まじい戦いに手も出せずに遠巻きに眺めていた。
ファイが一旦距離を取ると、バズは長柄の武器を構え直した。二人は再び対峙した。
「どうした、来んのか。逃げてばかりでは俺は倒せんぞ。」
攻撃をして来ないことに気を良くしたのか、バズの声には威厳が満ちていた。明らかにファイを見くびっている。たしかに、年若く金髪で大きいとは言い難い体躯のファイはこれまでも侮られることが多かった。
ただ、そういった者たちは決まって大きな後悔の念を抱くことになるのだが。
「ではこちらからも行かせてもらおうか。」
ファイは剣をだらりと下げて、敢えて宣言した。警告のつもりだった。だが、バズは高笑いを始めた。
「ワハハハハハ!どこからでもこい!」
その声に応えるように、ファイがふらりとバズに向かって進み始めた。迎え討つようにバズが長柄の片方の刃を引いて構えた。
唐突にファイは速度を上げバズに向かっていった。バズの鋭い刃がファイのいる場所を凪いだ。たが、その刃先は虚しく空を切った。ファイとバズがすれ違った。ファイの纏うマントがふわっと揺らめいた。傍から見ていた者、少なくともグロードとミリーからはただそれだけのことにしか見えなかった。
ファイは立ち止まり剣を再びダラリと下げた。そこにはもはや戦いの気配は無かった。バズは得物を振り下ろした体勢のまま動かない。ファイがバズに向かってゆっくりと振り向いた。その時グロードたちは目を見張った。
バズの頭が動いたように見えたが、次の瞬間、ゆっくりと身体から離れたのだ。驚愕するグロードたちの前で、バズの身体は血を吹き出しながら崩れ落ちるように地面に倒れた。戦場とは思えないほどの静寂がグロードたちを包んだ。ただ篝火の木が爆ぜる音だけが響いた。誰も呻き声さえ出せずにその様子を凝視していた。
かつて戦場を駆け巡ったグロードにさえ見えなかった。ファイはいつバズの首を刈ったのか。おそらくバズ本人でさえ、いつ自分が斬られたのかわかっていないだろう。グロードの足元から震えが襲ってきた。ファイを怒らせると、誰しもこうなるのだ。誰にも避けることはできない。グロードは初めて、ファイの恐ろしさを知った。
ファイは首を巡らせて、何事かを探すと、いきなり敵兵に向かって疾駆した。明らかにムガルの兵たちから戦意は失せていた。だが狼狽する兵たちの中から、剣を抜き放ち迎え討つものがあった。戦士団のリーダー、ダリムだ。鋭い突きをファイに見舞ったが、ファイは難なくそれを避けると、ダリムの剣を叩き落とした。ダリムは諦めたように、その場にうずくまった。
苦悶するダリムへファイは剣を彼の喉元へ突き付けると、ダリムが苦々し気にファイを見上げた。
「国へ帰ったら伝えるがいい。もし、また同じように、俺のために俺以外の者を襲ったり、殺したりすれば、今度はお前たちの国を亡ぼす。」
ダリムは一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに嘲りの笑みを浮かべた。
「やれるものならやってみろ」
ファイはふっと溜息をついた。
「試してみるか?お前の国はオレを敵に回すことになる。王の首が飛ぶことになるぞ。それをお前が決めてしまっていいのか?」
すると再びダリムは歯ぎしりしてファイを睨み返した。ファイが剣を引くとダリムは手練れらしく素早く身を翻して、残り少ない兵たちに撤退の号令をかけた。一度ファイに振り返ったが何も言うことなく、馬を駆り、兵を率いて、瞬く間にかつての要塞を後にした。
「ミリー!」
娘の名を叫びながら、グロードがへたり込んだミリーへ駆け寄り抱き寄せた。ミリーは茫然としていたが、やがて安心感からか大声で泣き始めた。
ファイはその様子を見て、心から安堵の溜息をついた。グロードがいつの間にここまで来たのかわからなかったが、上手く敵の注意を逸らせてくれたために、村人たちに危害が及ぶことなく、敵を殲滅できた。もちろん彼がいなくてもミリーたちを助ける自信はあったが。
ファイが娘を抱きしめるグロードに近寄ると、グロードはファイを見上げた。
「おかげでミリーが助かった。」
彼の言葉にファイは頷いた。やがて泣き止んだミリーがファイに気付き、顔を上げたミリーと目が合った。だが、彼女がファイを見つめる瞳には今までとは違う、少し怯えの色が感じられた。彼女には、自分の戦う姿を見せたくはなかったが、間近で彼の剣技を見てしまったのだから、それは仕方のないことだった。ミリーの髪を軽く撫でて、微かに笑って見せると、その場を離れた。
ファイはグロードと協力して、未だに動揺が残る村人たちを落ち着かせて、何とか惨憺たる有様となったレブの山を下りて、夜の闇の中、帰路に着いた。その間、ミリーはずっと父の背中にしがみついて、一度もファイの方には振り向かなかった。
ファイやグロードたち村人がナユの村に到着すると、待っていた村の人たちは駆け寄り、人質に取られた家族と無事を喜びあった。一方で、ムガルの兵に家族を殺されたものたちは、家族の死を悲しんだ。ファイにとってその光景は居たたまれないものだった。
ただ立ち尽くしているファイに、村人の女性が駆け寄ってきた。
「夫を返せ!」
ファイとそれほど変わらない年若い女性は、ファイに非難めいた声を上げた。
「あなたのせいで、私の夫は死んだ。あなたのせいで!」
感情気味に叫ぶ女性に、慌てて別の女性が駆け寄り宥めると、怯えたような目でファイを見ながら一緒に立ち去った。ファイは唇を噛んだ。遠巻きにファイを見つめる村人の目があった。怯えるような目、睨みつける目、哀しみの目。その中には好意的なものはひとつもなかった。
その様子を見ていたグロードがファイへ寄っていき、ファイの肩に手を置いた。
「気にするな。少し感情的になっているだけだ。助けられて感謝しているものもいる。」
労わるようにグロードが声を掛けたが、ファイは苦笑を返しただけだった。
その二人の元へ老婆が、村人の男二人を引き連れてやってきた。老婆は深いフードから鋭い眼差しをファイに向けた。
「自分を追ってきた者たちの仕業とはいえ、レブの山まで行って、村人たちを助けてくれたことに感謝しておる。」
パナオはそう言うと、後ろに控える男の一人から手に乗るほどの袋を受け取って、ファイに示して見せた。
「これはその礼じゃ。受け取ってくれ。」
明らかにそれは金だった。手に取るまでもなく中身を悟ったファイは受け取ることを拒否したが、老婆はそんな彼の仕草を気にすることなく続けた。
「これを持って、今すぐこの村を去るのじゃ。」
「おい、おばば、そんな急に。」
堪らず抗議の声を上げたグロードを老婆は制した。
「ここにおればおるほど、お前にとってよくない事態になる。お前を売ろうとする者も現れるかもしれん。一刻も早くこの村を出たほうがいい。」
そう言って、老婆は袋をファイの手の平に乗せた。ファイはそれを握りしめた。彼は老婆に向かって静かに頷くと、グロードを見た。
「いろいろ世話になった。」
今度はファイがグロードの肩に手をやった。グロードは複雑な表情を浮かべたが、元気でな、と一言返した。
ファイが乗ってきた馬に近づいていくと、遠巻きの村人の中から、少女が一人駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
それはミリーだった。彼がどこかへ去っていく気配を察したのか、哀し気な顔をして、ファイを見上げた。
「お兄ちゃん、ありがとう。助けてくれてありがとう。」
ミリーはぽろぽろ涙を流しながら、それをしきりに拭った。ファイはミリーの頭を優しく撫でた。
「お父さんと、仲良くな。」
ファイの言葉にミリーは頷いて、笑顔を作ってくれた。ファイも彼女に微笑んだ。それから身を翻してファイは馬に乗り上げた。片手を上げて、グロードやミリー、老婆に挨拶すると、夜の闇の中へ馬を走らせた。
見送るミリーの元へグロードが寄り添い、ミリーは父にしがみついた。
「お兄ちゃんはどこに行くの。」
ミリーはまだ涙目のまま父を見上げた。グロードは娘を抱き寄せた。
「わからん。だが、きっとあるさ。あいつの心が休まる場所が、きっとみつかる。」
グロードは言葉だけではなく、そう信じていた。ファイは孤独ではない。少なくとも、自分たちが彼のことを想っている。いつかまた彼が窮地に陥った時に、躊躇うことなく手を差し伸べることを心に誓った。
ファイを乗せた馬は、暗闇の街道を疾駆した。特に急ぐわけでもない。ただ、風を突っ切って馳せることをファイが望んだ。胸が痛かった。ナユの村の女性に言われた言葉が、ファイを苛んでいた。今の自分に存在価値があるのか。そんな事が胸の内に渦巻いていた。母がいなくなり、道標を失い、途方に暮れていた。村人のためとは言え、敵の兵士の多くの命を母の名を持った剣で奪ったことは、母も快く思わないだろう。
ただ、ナユの老婆に予言のように示された場所がある。ガーノだ。そこに行くしかない。ファイはもう少しあの老婆と話をしたいと思ったが、叶わなくなった今は老婆の教えてくれた老人に会いにいくのが賢明だと感じられた。
一刻も早く、その場所に辿り着きたい。ファイは道なき道を手繰るように、闇の中に続く道をただ一人駆け抜けていった。