第八話「ラークの犬」
『マリス』
重低音の、男の声だった。
青年軍人と室長の攻撃魔術が複数同時展開されて空中で幾つもの衝突が起き、マリスが魔力供給している魔道具が崩壊の予兆である耳障りな異音を発し、部屋の外でも騒ぎを聞きつけた人々が集まりつつあるという大騒動の場であっても、強制的にそこにいる全員の耳にその声は通った。
耳にしたとたん、その主たる彼に注意を向けざるをえない強制力を持つ、それはおそろしいほどの独特な威圧感をそなえた声だった。
『マリス。何か、あったか』
最初に反応したのは青年軍人だ。
大きく目を見開き、「なんで」と小さくつぶやいてから、声の出所を探すようにせわしなく視線をめぐらせる。
彼が攻撃魔術を放つのをやめたので、室長がすかさず拘束の魔道具を起動させたが、それに捕縛されて床に転がっても気付いた様子すらなく叫ぶ。
「師団長! ウィンザーコート師団長! どこですか?! どこにいらっしゃるんですか! ご無事なんですか?!」
しかし男の声は、彼には応じなかった。
もう一度。
『マリス』
ただその名を呼ぶ。
彼にはその名にしか関心が無いのだと、はっきりわかったのは次の瞬間だ。
「……く、ろ?」
胸元に揺れる銀色のタグから響いてくる男の声に気付いたマリスが、かすかに、うめくような小さな声で応じ、ゲホッと咳き込みながら倒れた。
カハッ、と苦しげに吐いた中に血が混じっているのに、真っ先に気付いたウィルが叫ぶ。
「ラーク、手を離せ! 死ぬぞ!」
その言葉が終わらないうちに、ドンッと場が揺れる。
衝撃でその場にいた全員が作業台や荷物ごと壁際まで吹っ飛ばされ、あちこちに積み上げられていた修理要請タグ付きの壊れた魔道具の山が崩壊して床に散乱したが、唯一、マリスのいる場所だけが例外だった。
そうしてこの部屋の中でただ一人、何の衝撃も受けず倒れ伏したままのマリスの隣に、いつの間にか背の高い男が立っている。
硬質な光沢のある癖毛の黒髪は、短すぎず長すぎないよううまく切られて鬣のように精悍な顔立ちを縁どり、金まじりの琥珀色をした切れ長の目は辺りを睥睨するように一瞥すると、差し迫った危険はないと判断したのか、すぐに足元にうずくまるマリスに集中した。
長袖の白いシャツと紺のズボンという簡素な部屋着姿は場違いで浮いていたが、しかし彼は軽く手を振っただけでクモの巣でも払うようにたやすくマリスを覆う魔術の壁を消し去り、彼女の細い指をそっと引き離してから、暴走しかけていた魔道具をこともなげに踏み潰す。
部屋着姿の彼は裸足だったが、その大きな足は踏みつぶされながら小爆発を起こした魔道具に傷付けられた様子もなく、周囲にいた魔術師たちを慄然とさせた。
マリスに魔力供給を強制させていた魔術と、それを妨害するものを締め出す防壁は、これほどたやすく消せるものではなかった。
それに、暴走の果てに内部崩壊して爆発を起こした魔道具を素足で踏み潰すなど、普通の人間に可能な所業ではないし、それで傷一つ負わないなど常軌を逸している。
あまりにも、強さの次元が違い過ぎた。
この、男は……
「ウィンザーコート師団長!」
場違いに明るい声が響いて、その名を知らしめる。
捕縛されて床に転がったまま、青年軍人が嬉しげに叫んだ。
「ご無事だったのですね!」
その声に答えることなく、それどころか一切の注意を払うことさえなく。
ゼレク・ウィンザーコートは、壊れ物を扱うような慎重さで魔力を消耗しすぎて動けないでいるマリスを抱きあげ、荒い呼吸に震える口の端についた血を武骨な指でそっとぬぐった。
いったい何が起きているのか、その場の誰にも理解することはできなかった、が。
彼らは一つだけ、気が付いた。
いや、“それ”のあまりにも強烈な存在感に、嫌でも気付かざるをえなかったのだ。
「ウィンザーコート師団長の、あれ……。もしかして、首輪……?」
ぽつりと誰かがつぶやいた声は、思いのほか大きく響く。
場の混乱が、さらに増したのは言うまでもない。
そして、その中でも“マリス・ラークの犬”について以前から知っていたこの二人は、とくに。
「まさか……、ラークの、犬……?」
青ざめた顔で室長ブライス・エルダーレンがつぶやき。
「あの迷い犬対策用のタグ付き首輪……、もしかして、俺のせい……?」
マリスの犬について、善意の助言をしただけだった同期のウィル・コールジットの顔は、青を通り越して紙のように白く。
あまりの事態に、二人は生まれてはじめて、立ったまま気絶した。
が、それどころではない周囲は誰もそれに気付かず、しばらくしてバターン! と二人が派手に倒れたことで騒ぎになったのだが、その時はもう、転移魔術によってゼレクがマリスを連れ去った後だった。