第五話「首輪と、真夜中の祈り」
「苦しかったらすぐ外すからね。大丈夫? クロちゃん、首輪、嫌じゃない?」
ウィルの助言を受けて大急ぎで用意したそれをクロの首につけながら、マリスは心配そうに何度も声をかけた。
無駄吠えをしない賢いクロは、拾った日から一度も吠えたことはなく、首輪を付けられた今もとくに反応は無い。
犬の飼育などという贅沢ができる身ではなかったから、マリスはあまり詳しくは無いのだが、そういう犬種なのかクロの首はつるりとしてやわらかい。
だからマリスは購入した首輪の内側にふんわりとした質感の布を内張りする工夫をしたけれど、首輪自体はなめし革と金属の金具でできている。
ケガがようやく治ったばかりのクロの肌が、また擦りむけたりして傷ついてはいけないと、彼女は心配していた。
しかし、クロの方はといえば、自分の首輪よりもマリスの首にかかった新しい金属製のタグが気になるらしい。
首輪とお揃いの色の革紐で吊るされたそのタグは、クロの首輪に付いているタグと連動する魔術がかけられたもので、魔力を込めて触れればタグを通じて音声が伝わるようになっている。
つまりは迷い犬対策用の魔道具だ。
この首輪があれば、もしクロが外に出て迷子になった時、気付いた人がこのタグを通じてマリスに連絡をくれたら、すぐにでも迎えに行くことができる。
ウィルの実家で飼育されていた猟犬に付けられていたという、位置探索機能付きの首輪はさすがに高価すぎて用意してやれないけれど、これくらいならばどうにかマリスでも手の届くお値段だったのだ。
ボンクラ御曹司に目を付けられたせいで、まともな縁談を望めなくなった身である。
マリスはもう結婚は諦めて、この先ずっとクロを大事に飼っていく未来も良いかもしれないと思いつつあった。
孤児院への仕送りは続けたいから、それほど贅沢はさせてやれないけれど、あたたかい部屋と毎日の食事くらいはちゃんと与えてあげられる程度の財力もある。
だからこの首輪には、まだぼんやりとしたものではあったけれど、そんな決意もあった。
そうしてマリスは、嫌がらないどころか、おとなしく顎を上げて首を差し出しすらしたクロに注意深く首輪を付けてやりながら「迷子防止の機能も付いた首輪」であることを説明していたが、聞いているのかいないのか、クロはマリスの胸元で揺れるタグをじいっと見つめるばかりだ。
ケガが治るのを待って、長すぎる黒い毛並みを整えたことでようやく見えるようになった金まじりの琥珀色の目に、部屋の明かりをはじいてぴかぴか光る銀色のタグが映る。
「これ、そんなに気になるの?」
チャリ、と音を立てて揺れるタグを手にしてクロの目の前に持って行ってやると、彼はふんふんと匂いを嗅いで、鼻先でタグをくるりと裏返した。
そのタグは表に“クロ”、裏には“マリス・ラーク”とそれぞれの名前が彫り込まれている。
クロは裏側の“マリス・ラーク”の文字を見つけると、何を思ったかぺろりと舐めて、顔をしかめた。
不味かったらしい。
「なにしてるの、クロちゃん。こんなの美味しくないよ。食べ物じゃないんだから」
クロの珍しくもおかしな行動に、思わずマリスがほがらかな笑い声をあげる。
「ああ、笑ってごめん。そうだよね、お腹空いてるんだよね。今、ご飯用意するから、ちょっと待っててね」
そして、クロが目を丸くして笑うマリスを見つめていたことにまるで気付かず、ぽかんとしたままの彼からさっさと離れてキッチンに立つ。
その後ろで、クロはかすかに震える指先で自分の首輪に付いたタグに触れながら、彼女の背中を見た。
金まじりの琥珀の目が、焦がれるように、ただ、マリスを見つめていた。
◆×◆×◆×◆×◆
腕の中の大きな体がぐぅっと沈み込むように強張った。
深夜、その感覚でおぼろげに目を覚ましたマリスは、慣れた手つきで彼女の犬を撫でてやった。
「だいじょうぶ、クロちゃん。だいじょうぶだよ……。もう、だいじょうぶ」
寝ぼけた声でささやきながら、意識の無い犬の流す涙で寝間着の胸元が濡れてゆくのを感じる。
ケガをした時のことを夢に見ているのか、クロはたまに眠りながら泣くのだ。
相手が人であれば精神干渉系の魔術でその夢に入り込み、問題に対処する特殊な治療師も存在するが、マリスにはさすがに本でしか知らないその治療はできないし、何よりクロは犬だ。
彼女にできることは、よしよしと撫でてやりながら、ひたすらに「だいじょうぶ」と声をかけ続けてやることだけだった。
眠ったまま、意識の無いクロに対してその方法が有効であるのかどうかは、専門家ではないマリスには分からない。
けれど他にできることもなく、犬も泣くんだなぁと思いながら、今夜も彼女はただ祈っている。
――――――あなたに安らぎのなかで眠ることができる日が訪れますように。
強張った体から少しずつ力が抜け、呼吸がすうっと穏やかなものに戻るまで、マリスは祈りとともにささやき続けた。
「だいじょうぶだよ、クロちゃん」
何が大丈夫なのか、本当に大丈夫なのか、彼女にも分からないまま。
その自覚も無いままに。