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番外中編「ゼレクとマリスの生活、たまに辺境発展記」完



 モルカの飼育は、マリスたちが見込んだよりも上手く進んだ。

 誰もが持っていた「本当にあの草を食べるのか?」という不安は、買い付けた十二頭が来る途中から道端に生えたものをむしって食べていたことで払拭され、その後も飽きることなくもりもり食べ続ける姿が領民たちの信頼を勝ち取ったのである。


「やったぞ! ついにあの草を食べてくれるやつが来た!」


 大喜びした領民たちの、おもに農家が狂喜し、うちも飼いたいという希望者が殺到、エイリクとルーシャは彼らへの対応に追われることになる。


 そうしていつの間にかすっかり二人で一組のように扱われるようになったエイリクとルーシャが、今日も仲良く走り回るのを微笑ましく眺めて、マリスは試験飼育中の十二頭のモルカの様子を見に行った。

 青々と生い茂る草をひたすらにもっもっもっ、と食べ続ける毛むくじゃらのこの獣を、何が良かったのか息子のクレスタがたいそう気に入り、連れて行くと放牧場の木の柵の外からいつまでもじーっと見つめているのだ。


 人に構われることばかりに夢中になるのではなく、この子にも動物に興味を持つ心があったのかと、喜んだマリスはこの家に来る時は必ずクレスタを連れてくることにしたほどだ。


 そうして無心で草を食み続ける獣を息子と一緒に眺めているうちに、マリスはある日ふと気付いた。


「あれ? この子たち、ゲップが臭くない」


 肉の臭み消しに使われる草をおもに食べているせいか、誰が匂いをかいでみても、さほど臭いとは感じられないのだ。

 近くでモルカを見た人は、まず「ああ、あのゲップの臭い」ということから思い出すような動物だと、専門家のルーシャが言っていたのを確かに聞いたはずだが。


「もしかしたらこの草、肉の臭みだけじゃなく、他の悪臭を消す効果もある?」


 そうしてマリスが気付いたことが、学者街で匂いの研究をしていた学者を巻き込んだ、新たな事業の始まりとなった。







「マリスはいろんなことをよく思いつくな。お前のここには何が入っているんだ? 俺と同じものが入っているとは、とても思えない」


 夜、領主館。

 息子を寝かしつけたゼレクは、主寝室に戻ると化粧台の前に座ってブラシで金の髪をといているマリスを見つけ、彼女の後ろに立つと振り向いたその顔にくちびるを寄せた。

 そのくちびるで額に優しく触れる夫が肩に置いた手を取り、マリスは彼の大きく分厚い手のひらに頬を寄せて微笑む。


「私が思いついただけじゃ、あんまり意味はないんだよ。この街にいろんな研究をしている学者さんたちがいるから、彼らがその思いつきに形をくれるの。

 それからね、モルカの飼育も、あの草の匂いの研究も、まだ始まったばかりでうまくいくかどうか分からないけれど。もしもうまくいったら、それは彼らが安全に暮らせて、自由に研究できるようにこの土地を守っているクロちゃんのおかげでもあるって、忘れないでね」


 ゼレクはマリスのその言葉に、ほんのわずかに目を細めた。


 彼女はいつだって彼を認め、それを伝えてくれる。

 息をすることのように当然に、自然に、いつものように。


 けれどそれは決して当然のものではないし、こうして絶え間なく様々な形で愛情を与え続けてくれる存在を得られたことが、奇跡に等しいことだと分かっている。


 髪をといていたブラシを化粧台に置いたマリスを抱きあげ、ゼレクは寝台へと歩いてゆく。

 洗ったまま無造作に拭いただけで湿り気を帯びたゼレクの髪に気付いて、彼が肩にかけたままにしていたタオルを取り、それを押し当てて乾かそうとしながらマリスが訊ねた。


「今日のクレスタはいい子で眠ってくれた?」

「白い毛糸玉を振り回してずっと何か言っていたが、しばらくその声を聞いていたら急に寝た。あれは何をやっていたんだ?」


 日中あまり一緒に過ごせないことを気にしている様子だったゼレクに、息子の寝かしつけを日課にすることを提案したのはマリスだ。

 彼はマリスの言葉に頷いたものの、自分にそんなことができるとは思えない様子だったが、彼女や乳母がクレスタを寝かしつけてやるところを見せてゆっくりと慣らしてゆくと、だんだんとその手順を覚えていった。


 そうしてだいぶ慣れた今では、子供部屋の隣室に控える乳母に助けを求めることも少なくなり、次期領主としての仕事が急に入って間に合わないこともあるものの、それができる時はこうしてなかなか良い父親ぶりを見せてくれるので、とても微笑ましい。


「ああ、それはね、モルカの代わりなの。きっとお父さんにもそれを教えたかったんでしょうね。

 じつは、クレスタはモルカがすごくお気に入りみたいだったから、そのうちヌイグルミを作ってあげようと思って毛糸玉を買ったんだけど、なかなか作れなくて。買ったまま置きっぱなしにしていたらあの子が見つけちゃってね。そうしたらヌイグルミにしなくても、これがモルカだって主張して、それからずっと持ち歩くようになっちゃったの。可愛いでしょう?」


 ゼレクの頭の中では、「毛糸玉を持ち歩く」という行動と「可愛い」という評価が結びつかなかったらしく、彼はよく分からない様子で首を傾けてつぶやいた。


「あれは“可愛い”というのか……」


 マリスを抱いたまま寝台に腰かけたゼレクの、その不可解そうな顔に思わず笑みくずれながら、彼女は夫の癖のあるやや硬質な黒髪を撫でるように拭いてやる。


 彼の生活は、あまりにも長く、赤ん坊などというもろくやわく愛しい存在と無縁だった。

 だからすぐには理解できないのも無理はないと、マリスは承知している。


 けれど今は理解できなくとも、きっといつか分かるようになるだろうという希望は、ずっと持っていた。

 それはゼレクが、何も分からずとも、彼なりにクレスタに寄り添おうとしているからだ。


 もし理解するまでにたくさんの時間がかかったら、その時はきっと、話せるようになったクレスタが父へ教えてくれるだろう。

 あの子はとにかく、人と関わることが大好きで、愛されることから覚えたような子供なのだから。


 それはそれでいいかもしれない、と思いながら、マリスは話を変えた。


「そういえば、アスターさんとはどんな感じ? 彼が一緒に暮らすようになって、お義父さまは前よりとても楽しそうだけれど、最近は彼も書類仕事を手伝うようになったんでしょう? ここへ来る前は執事をしていたそうだけど、領地の管理についても詳しい方なの?」

「詳しいどころか。もう俺に教える側に回っている」


 マリスに髪を拭いてもらいながら、ゼレクはむっつりとした顔で言う。

 そして、賢明にも、ゼレク相手ならばたいていの人がすぐ教える側に回るだろう、とは言わず続きを待つ彼女に、少し疲れた様子でこぼした。


「あいつは苦手だ。時々、俺の考えを見透かしたみたいなことを言うし、先回りして“これから間違うところ”を指摘してくる」


 アスターの方でも(まるで昔の自分を見ているようだ。……これは、なかなかに気恥ずかしい。いや、私はもっとマシだった、と思いたいが)などと葛藤し、それを見抜いているオルズベルに後で「ゼレクどのの方がおぬしより座っていられる時間が長いだけマシじゃぞ」と言われ、返す言葉に詰まるという場面があったのだが。


 そんなことを知りようもないゼレクにとっては、アスターは新たに増えた苦手な教育係の一人だ。

 しかも義父の乳兄弟で、とても仲が良いらしい様子でよく一緒にいるものだから、てきとうにやり過ごしてあとは放っておく、というわけにもいかない。


「先回りして? それはすごいねぇ。きっととても頭の良い人で、前にクロちゃんみたいな人を教えたことがあったりするのかもしれないね」


 そんなことはどうでもいい、とばかりにため息をついたゼレクが前のめりに傾いてきて、マリスの肩にぐりぐりと額を押し付ける。

 その髪を拭き終わっていたマリスは、タオルを横に置いて両腕で彼の頭を抱いて、なぐさめるようによしよしと撫でてやった。


「頑張ってるね、クロちゃん。いい子。とってもいい子」


 おそらくゼレクと同じ年齢の男性にやったなら、「犬扱いか」と馬鹿にされていると思われるかもしれないそれが普通に愛情表現として双方に受け入れられているあたり、この夫婦は相変わらずであったが。

 頭を撫でられて気持ち良さそうに瞼を伏せていたゼレクが、ふと薄くその目を開いた。


 日中はマリス相手でももう少し硬質なところを残しているその目が、今は金と琥珀がいりまじって熱くとろけている。

 それに気付いてかすかに肩を震わせ、波打つ金の髪を揺らしたマリスの鮮やかな緑の目を強い視線だけでその場に捕らえると、ゼレクは誘うように低くささやいた。


「いい子なら、ご褒美をもらってもいいな……?」


 相変わらずでありながら、一方で大きく変わったこともまた、多かった。




 2019年5月1日、番外完結。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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