番外中編「ゼレクとマリスの生活、たまに辺境発展記」5
数日後、モルカ購入の話がまとまると、エイリクは彼が働く商家に寄って報告してから、東国の商人と王都で会って買い付けてくることになった。
国中の、あるいは国外からも様々な物が集まる王都への好奇心につられて、ルーシャもそれに同行すると言い出したのは予想外だったが、話し合いを続けるうちにすっかり仲良くなったエイリクが「必ず無事に連れ帰るから」と約束して、結局二人でモルカ購入に行くことが決まる。
「ルーシャからいろいろ聞いた。なんか、いらんこと言ってすまんかったな。これからも頑張ってくれ、若奥様」
二人の出立の日、古書市で久しぶりに再会した時と同じように、息子クレスタを抱いて侍女を連れ見送りに来たマリスは、なぜか神妙な顔をしたエイリクにそう言われた。
しかしいったい何を謝られ、何に対する励ましをもらったのか。
まさかゼレクが余計なことを言ったせいで、何か気付かれたのだろうかと、ちょっと心配な気持ちになりながらも、マリスは「それじゃあ行ってきます」と手を振って遠ざかる二人の背を「気を付けてね」と見守った。
エイリクは旅慣れているようだし、ルーシャには護身用の魔道具を渡して、見た目でバレない身に付け方や使い方をしっかりと仕込んだから、きっと大丈夫だろうと信じて。
そうして二人が出かけると、辺境都市ではモルカ飼育の準備として、馬のための牧場と厩舎と、馬主の家の改築作業が始まった。
モルカ飼育を引き受けてくれた牧童の青年とその妻も加わり、彼らの住まいとなる予定の空き家の改築が進められてゆく。
どんな設備が必要か、出立前にエイリクとルーシャが大工と話し合っていたこともあり、差し入れを持ったマリスが息子を連れて見に行くたび、順調に仕上がってゆく家と畜舎を見ることができた。
「まあ、すごい草ですねぇ」
畜舎のすぐ隣にある、木の柵で囲われた牧草地に生い茂る草むらに、付き添いの侍女が顔をしかめて言う。
実家が農家である彼女は、領民の中でも多数派であるこの草を嫌うものの一人だ。
「若奥様の言葉を疑うわけではないんですけれど、本当にこの草を食べてくれる動物がいるのかしら。だって、ヤギだって嫌がるんですよ?」
農家の人々は彼女と同じように、口を揃えてこう言う。
彼らのヤギに対する信頼が垣間見える一言だなぁ、と思いながら、マリスが答えた。
「そうね。ルーシャさんとエイリクの話では、たぶん大丈夫じゃないか、というのが予想ではあるけれど。実際に連れてきて食べさせてみないと、分からないわね。
まあ、お義父さまのご許可もいただいて、もう飼ってみることが決まったのだから、あとは試してみるしかないわ。うまくいくことを祈りましょう」
それから一月半後、十二頭のモルカを連れたエイリクとルーシャが、思いがけない大所帯の隊商を率いて辺境都市に戻った。
なんでも王都に滞在している間、モルカを購入するための交渉や飼育法を聞き出す取引の間によく市場で迷子になったルーシャが、そのたびに「これは若奥様が喜びそうな魔道具ですね」「あ、この本探してる人知ってます。あ、こっちの系統も、向こうに持って行ったら大喜びしそうな人がいますよ」などと見かけた品について商人たちに話していたため、じゃあ一度行ってみるかと同行を申し出てきた彼らを連れてきたのだという。
人慣れしないルーシャだが、自分の専門分野や研究仲間の話については別であるらしい。
普通の雑談というものがまるでできないのに、動物や植物の話や、学者街で親しい人々がどんな研究をしているか、という話になると一転して目を輝かせて早口に語りだす彼女に、思いがけず引き込まれてしまったと、ついてきた商人たちが笑って言った。
そうして大所帯となった隊商は辺境都市に到着すると、モルカを連れた者たちが改築されたばかりの畜舎へ向かい、商人たちが雑多な品揃えになってきた古書市へ向かい。
しかしその中に一人だけ、ふらりとその群れからはぐれて領主館へと足を向けた男がいたことに、気付く者はいなかった。
「アスター……! おぬし、もしや本当にアスターか?! 生きておったのか!!」
辺境伯オルズベル・サウザーミストは、あまりの驚愕にその濃緑の目を大きく見開いた。
執事から告げられた予定に無い来客の名の懐かしさに、すぐに会うことを決めたものの、おそらく彼の名を使えばオルズベルに会えることを知る別の誰かであろうと、半ば諦めていたのだ。
「生きていたのかとは、ずいぶんなお言葉ですね。乳兄弟の久しぶりの帰郷なんですから、できればお手柔らかにお頼み申しますよ、サウザーミスト伯」
あまりの驚きにオルズベルが腰を浮かせた一方で、テーブルの向かいに座った来客、白髪に青い目の男がその反応を予想していたのか、やや申し訳なさそうな苦笑を浮かべている。
そして彼らの傍では、彼を案内してきた執事が、出迎えた時に見た、いかにも薄汚れた旅人が、外套とその下に着込んでいたぼろを脱いだとたん仕立ての良い衣装に身を包んだ紳士となってソファに座るのを、まるで奇術でも見るような心地でお茶の用意をしながら眺めていた。
しかし常には彼を傍に置くオルズベルが、お茶を出すと下がるようにと指示したため、執事は一礼して部屋を出てゆく。
静かになった部屋で、カップにそそがれたばかりのお茶が香りのよいゆげをたちのぼらせるのを見るともなしに眺めてから、懐かしい顔に視線を戻したオルズベルが口を開いた。
「……やれやれ。おぬしが王都で消えてから、もう何十年経ったと思っておるんじゃ。まさか生きてこの地で再会できようとは夢にも思わなんだというに、アスター、ふてぶてしい顔をしよって。所作や言葉遣いの変わりぶりには驚くばかりだというのに、その図太さばかりは、まるで変わらんようだのぉ」
「それが私の唯一の取り柄だと言われてまいりましたので。しまいには皆様、ここまできたらお前はそれを誇っていいと、認めてくださいましたよ」
「それは認めておるのではなく、みな諦めてしまったのであろうよ。まったく、その言葉を言わせた時のおぬしの顔が見えるようじゃ。ここまでどうやって生きてきたのかは知らんが、周りの者にそうとう手を焼かせてきたことじゃろうなぁ」
苦笑まじりにそんな会話を交わす。
オルズベルは懐かしい相手との他愛無いそんなやり取りに、目を細めた。
アスター・スコットはオルズベルの乳兄弟であり、かつてオルズベルが彼を連れて成人の挨拶のために王都へ赴いた際、「俺はもうあんな辺境には戻らない!」と言って出奔してしまうという事件を起こしていた。
そしてそれから今まで、ずっと行方知れずのままだったのだ。
もちろん、オルズベルもその時は健在だった先代辺境伯である彼の父も、手を尽くして方々を探したのだが、どうしてかアスターはいっこうに見つからず、彼らとていつまでも王都に滞在しているわけにもいかないため、仕方なくアスター不在のまま領地へ戻った。
その後は王都に住んでいる縁戚の者に捜索を引き継いでもらい、もし見つかったらすぐに連絡してもらえるように頼んでいたのだが、彼の所在はいっこうに分からなかった。
「それで、アスター。おぬしの顔が久しぶりに見られたことは嬉しいが、今までどこにいて、何をしておった? そして今、帰ってきたことには何か、理由があるのかの?」
「ええ、色々と」
オルズベルからの当然の質問に、アスターが頷いた。
乳兄弟としてともに暮らしていた頃は「暴れ馬」と呼ばれていたほどのやんちゃ坊主だった彼の変貌ぶりに、内心まだ落ち着かないものを感じながら、オルズベルは彼の話に耳を傾ける。
「じつは私は、あなた方の元から出奔した後、あちこちで働こうとしたのですがどこもうまくいかず、金も食べ物も尽きて行き倒れていたところを宰相閣下に拾われたのです」
思いがけない名が出てきて、オルズベルはまた驚くが、口は挟まず先を促す。
アスターが語ったところによると、当時はまだ宰相カイウス・セレストルも子供で、行き倒れた人間の面倒をみられるほどの力はなかったため、母親の父、つまりはカイウスにとって外祖父に当たる侯爵家の当主を頼ったという。
たまたまお忍びで街へ降りていたカイウスは、オルズベルが成人の挨拶をする際、アスターもそれに随行して王城へ来ていたのを覚えていて助けたことから、むろんすぐにサウザーミスト伯へ連絡しようとしたのだが、「それだけはやめろ」と止めたアスターに、何か事情があるのだろうと察して従僕に侯爵家へ運ぶよう命じたのだ。
そんな流れで侯爵家の世話になることになったアスターは、色々あってそのまま侯爵家で執事としての訓練を受けることになったらしい。
この時の訓練係となった侯爵家の当時の執事が、それはもう厳しい人物であったそうだが、暴れ馬のやんちゃ坊主だったアスターは、おかげでどうにか執事の仕事ができるようになり、やがて臣籍降下して一貴族となったカイウスの邸宅で執事として仕えることになる。
そうして長く仕えたカイウスが先年亡くなり、後継ぎのいない主人の身辺整理に一年以上がかかったものの、とにかく最後の仕事を終えて故郷へ戻ってきた、という訳だった。
「今さらどの面下げて、とは思ったのですが、どうせ死ぬなら故郷が良いと、この歳になってとみに考えるようになりましてね。
あちこちの家から執事か、あるいは家令として迎えるから来ないかというお話はあったのですが、すべてお断りして、ルーシャさんの隊商に紛れこませていただいたのです。何度断っても熱心にお誘いくださる方が多くて困っておりましたので、こちらに向かう隊商があると聞いた時は天の助けと思いましたよ」
それに元気の良い若者が多くて、なかなか楽しい旅でした、と青い目を輝かせてにこやかにアスターは語ったが、彼の主人は前宰相である。
そんな人物を主として長く仕えてきたアスターを引き抜こうとしたのは、おそらく次の世代で権力を持たんと欲した貴族たちだろう。
つまりはそんな権力闘争から逃れるのに、思いがけず大所帯となったルーシャたちの隊商を利用してその中へ潜りこみ、王都から姿をくらませたのだ。
前宰相の邸宅で執事として働いた、長い年月の中で築いていたであろう人脈に頼れば、もっと他の安楽な選択肢を取ることもできただろうに。
すべてを断ち切って己の望みを優先させるその潔さが、かつて己の元を出奔した時の暴れ馬のごとき気性の激しい少年を、時を超えて鮮明に思い出させた。
「まったく。おぬしは今も昔もやることが変わらんのぉ」
呆れたように首を振ったオルズベルに、ははっ、と笑ってアスターが答えた。
「まあ、いいではありませんか。おかげであなたの元にも、良い次期辺境伯が迎えられたでしょう?」
「……やはり、おぬしが関わっておったか。とくには何の縁もない辺境領主のもとに、急に宰相閣下、……いや、前宰相閣下じゃな。ともかく、彼の方がおいでになった時は、腰が抜けるかと思ったぞ」
オルズベルからの責めるような目に、まぁまぁ、となだめる声は変わらず悪びれない。
「私を拾ったことをサウザーミスト伯に伝えられなかったせいで、その後も何かとこちらのことを閣下が気にされていたのは事実ですが」
戦争でオルズベルの遠縁の子らが亡くなったのは誰が意図したことでもなかったものの、その後の彼の後継者探しが難航したのは、不適切な人物が候補に上がると水面下で宰相が手を回してその話を潰していたせいもある、というのが「気にする」の意味だったが、この話は内密のものであるのでおくびにも出さず。
アスターはすらすらと話を続ける。
「それはそれとして、閣下があなたを見込んでいたのも確かなことなんですよ。なにしろ私のような暴れ馬に基礎的な学問を教え込み、一時的にではあれど王城でも通じる行儀作法を仕込んだのが、同年の乳兄弟で次期辺境伯であるあなただったと知った時は、閣下もたいそう驚いていらっしゃいましたから」
「ああ……、あれは大変じゃったのぉ……。おぬしは一時もじっとしておられぬので、わしもどうすればよいのかと、家庭教師と一緒に頭を抱えて必死で教育法を考えて……。一時はもう無理かとも思ったものじゃが、しかし乳兄弟が将来、路頭に迷うことがあってはと考えると、そうたやすく諦められもせず……」
当時の苦労を思い出したのか、ぼやきながら遠い目になったオルズベルが、しばらくぼんやりと中空を眺めた後、はっとして身を起こした。
「もしや、ゼレクどのの養子先にわしが選ばれたのは、そのせいかッ?!」
アスターは答えなかったが、にっこりと微笑んだ。
おそらくそれだけが理由ではなく、各地の貴族たちの権力勢力図や、他の要素についても考慮した上での判断であろうが、かつてオルズベルがアスターにほどこした教育の成果も確実にその結論へ至る一因となったであろうことは、間違いなさそうである。
オルズベルは脱力したようにソファへ沈み込み、しばらく何も言わなかった。
そしてその後、急に笑い出す。
「ふっ、くくっ……、あっはっはっはっはっ! なんとまぁ、奇妙な縁であろうなぁ! どこにいるのであれ、無事であってくれればそれで良いと思っていたおぬしが、まさかこのような縁を運んでくれるなどとは考えもせなんだわ!
向こうに逝った後でしか分からぬであろうと思っておったことが、こうも早くに知れるとも思わなんだが。まったく、世の中というのはおかしなことが起こるものよなぁ」
快活に笑うオルズベルに、それまで密かに緊張していたアスターの、仕立ての良い衣装の下に隠された体のこわばりがそっとほぐれて消えていった。
何十年ぶりか、再会した乳兄弟たちは笑みを交わす。
白ひげの好々爺にしか見えないしっかり者の辺境伯と、髪の色は抜けようとも青い目の奥にはいまだ暴れ馬の気性を残す元執事が、つかの間、少年に戻ったかのように、無邪気に。
「なあ、アスター」
口元に笑みを残したまま、オルズベルが言った。
「終の棲家をどこにするにせよ、決まるまで少しは時間がかかるじゃろう。それまではここに住んではどうじゃ? いや、おぬしがどう言おうが、この件はもう決まりじゃな。うむ。いいか、アスター、これから今までどうしてきたのか、たっぷり話してもらうからの。まさか昔話があれで終わりとは言わんじゃろう? なにせわしが聞いておらん話は、何十年分もあるんじゃからのぅ」
「そう言われましても。さて、私の話など、あまり面白いものはございませんよ。それよりサウザーミスト伯が教育中の、次期様の話など聞きとうございますな」
それで次代を託す予定で息子として迎え入れた男の教育の進み具合を思い出してしまい、勘弁してくれ、と思わず情けない顔になったオルズベルに、今度はアスターが声をあげて笑った。