番外中編「ゼレクとマリスの生活、たまに辺境発展記」4
静まりかえった小さな天幕の中、ひくっ、とエイリクの喉が鳴るかすかな音が聞こえた気がした。
そして、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直している彼の隣で、なぜかルーシャと侍女が瞳を輝かせている。
いったいこれはどういう状況? と、ついていけないマリスを抱きあげているゼレクが、ふいに口を開いた。
「クロは、マリス専用の俺の呼び名だ。俺はそれが、気に入っている。……意味は、分かるな?」
エイリクはこくこく頷いて答えた。
声が出ないらしく、彼は必死な顔で何度も頷いていた。
今のエイリクは、おそらく自分が何の返事をしているのかもよく分かっていないだろうが、服従の意思表示としては十分だ。
そしてその近くでは、またもや意味不明ながら、楽しげな顔のルーシャと侍女が小声で「きゃ~!」とはしゃいでいる。
おかしい。
侍女はもともとノリがいい明るい性格だから放っておくとしても、ルーシャはいつもとちょっと性格が違っているように見えるのだが、いったいどうしたことか。
そして昔馴染みの青年と女性陣との、この激しい落差はいったい何なのだろうかと、マリスはますます疑問を深めた。
加えて、自分に理解できないところで事態が進行しているというのは、なんだかのけものにされているようで、面白くない。
指先でゼレクの服をつまみ、クンッと引っ張って彼の注意を引くと、「どうした?」と、先とはまるで違う口調で応じてこちらを見下ろす。
その金まじりの琥珀の目がいつもと変わらず真っすぐにマリスだけを映すので、彼女は出鼻をくじかれそうになりながらも、釘を刺した。
「彼をあまり怖がらせないで。一緒にいられた時間はそんなに長くなかったけど、でも、私の弟みたいなものなの」
「……その弟は、お前が俺を「クロ」と呼ぶのが気になるようだが」
うっ、と詰まったマリスに、琥珀にまじる金色をきらめかせながら、わずかに目を細めたゼレクからの笑みを含んだ追撃が放たれる。
「俺はいいんだぞ? 「ゼレク」と呼んでくれても」
マリスだけが意味を理解できるその言葉に、あっという間に頬を赤くした彼女はますます何も言えなくなり、しまいにはうつむいて、ぼそりと言った。
「……帰りましょう、旦那様」
それはマリスの降伏の合図である。
ゼレクは喉の奥でくつくつと笑って、「了解した」と応じた。
ゼレクの視線が外れたとたん、魂が抜けたような顔でへたりこみそうになってしまったエイリクと、まともに次の話し合いの約束をすることもできないままマリスは天幕の外へ連れ出されることになった。
彼と一緒に天幕に残ったルーシャが、何かしら元気づけてくれることを祈るほかない。
先ほどまで外にいたジェドは、ゼレクが一度領主館へ戻ることを告げて別行動をすることにしたのか、姿が見えなくなっていた。
そしてサウザーミスト夫妻のことをよく心得た侍女が、彼らの息子であるクレスタを大事に腕に抱いて、数歩後ろをついてゆく。
マリスはすぐ近くの侍女や街の人々に聞こえないように、まだ赤みの引かない頬を片手で隠すように押さえながら、小声で夫に抗議した。
「もう! クロちゃん!」
「大丈夫だ。あの程度では誰にも何も分からない。俺が狭量な男だと思われただけだ」
「そう、それなら事実だから訂正する必要は無いね! でも、元はといえばこんな変なことになるのはクロちゃんのせいでしょう! もうこの呼び方は変えようって、結婚した時に私はちゃんと言ったのに……!」
「ああ、そうだな。……俺の、せいだ」
小声で会話をしたい様子のマリスを高く抱きあげ、その口元の近くに顔を寄せていたゼレクが、そう言いながらうっそりと獰猛な笑みを浮かべる。
その表情を間近で見てしまったマリスの、真っ赤だった顔は一転、さあっと血の気が引いて青くなった。
ゼレクがこの独特の笑みを見せた後は大変なことになるのだと、マリスの過去の経験が告げている。
なにしろそれでまず思い出すのが、マリスが彼を人前で「ゼレク」と呼べなくなった夜のことだ。
まさか、いまだに言葉を使うのに不器用で、発言が端的過ぎて誤解されがちな彼が、自分の名前を使ってそんなことをしでかすなんて、いったい誰が思いつくだろう。
躾け方を間違えた、あるいは育て方を間違えた、いや、しかしそんなふうに育つような教育はしてないし、でもそもそもの話として、私は彼の母親じゃない――――――!
愛犬だと思っていた黒髪の大型犬に、逆におかしな躾けをされるはめになった飼い主は、遠い目をして混乱気味に思う。
まあ、マリスとゼレクは人間の夫婦でもあるわけだから、それはゼレクの成長を示している……、のかも、しれなかったが……
とにかく、回避だ。
訪れることが分かっている危険は、回避の努力をするべきだ。
「……旦那様、ちょっと下ろしてくださいます?」
「まだ用事があったのか?」
「ええ、ハイ、今ちょっと買い物をする予定だったのを思い出したものですから。あなたは先に帰っていてくださる?」
口調からして不審すぎるマリスが目を泳がせながら言うのに、思わずゼレクが小さく笑ったが、それどころではない彼女は気付かない。
「また睡眠薬を作る気か? 俺にその手のものは効かないと、もうさんざん試して諦めただろう?」
「魔術師があの程度の回数で諦めるなんて、あるわけないでしょう! 魔術師のしつこさを、侮っちゃいけないのよ!」
彼がからかうように言うと、マリスの何かに火をつけたらしい。
彼女は今までの挙動不審ぶりを忘れたように、それどころかいつもの猫すらかぶり忘れ、力強く言う。
「今まではちょっと休憩してただけだから! みてなさい、今に、絶対! クロちゃんでもイチコロで眠っちゃう、無害で強力なのを作ってみせるから!」
いつも息をするくらい自然にかぶる猫をうっかり忘れるほど怒っているのに、“無害で”と付けるあたりがマリスである。
きっと無意識なのだろうそれに、ますます笑みを深めたゼレクが言った。
「分かった。なら、薬草店だな」
一人で行きます! あなたはクレスタと帰っていて! あといいかげん下ろして! と主張するマリスの声には答えず、彼は二人を微笑ましげに見守る領民達の間を通り抜けて、ゆったりとした足取りで目的地を変えた。